ボール置き埸

私が興味を持ったことに関して述べるブログです。基本的に自分の考えをまとめ、記録することが目的です。長文の記事ばかりになると思います。もし批判等あればコメントをお願いします。※ルッキズム関連の記事について、今は少し考え方が変わっているので、昔の私の考え方だったというように思ってください。

シェリー・ケーガンの種差別批判批判とシンガーのリプライ論文の要約

 

 本記事は

Kagan, S. (2016). What’s Wrong with Speciesism? (Society of Applied Philosophy Annual Lecture 2015). Journal of Applied Philosophy, 33(1), 1–21. https://doi.org/10.1111/japp.12164

Singer, P. (2016). Why Speciesism is Wrong: A Response to Kagan. Journal of Applied Philosophy, 33(1), 31–35. https://doi.org/10.1111/japp.12165

の二つの論文の要約と、それに対しての私の簡単なコメントを述べる記事である。(著作権周辺がよくわからないので、まずいようでしたら教えてください。)

 記事中で引用する際は原文と私の訳を載せるが、誤訳の可能性があるので、心配な場合は原文を読んでほしい。

What’s Wrong with Speciesism?(種差別の何が悪いのか) by S. Kegan

1. Singer’s Attack on Speciesism(シンガーの種差別への攻撃)

1.1.

 ケーガンの本節での目的は、シンガーの種差別批判は説得力を持たないということ、つまり、人間を動物より大切にすることが実際には単なる偏見ではないことの説明を試みることである。

 ここで注意したいのは、ケーガンは、私たちの動物に対する扱いは不当であると考えている点である。以下引用する。

But let me say at the outset that despite my philosophical change of heart, I still think our treatment of animals is unjustified. So I offer these remarks with some misgivings. I am worried about misleading you. My goal is not to tell you that it is morally ok to treat animals the way we do. Far from it. Nonetheless, I do want to question whether it is indeed mere prejudice — as Singer insists — to count humans more. (Kegan (2016), p.2)

しかし、先に言っておけば、私の心の哲学的変化にもかかわらず、私はいまだに私たちの動物に対する扱いは不当であると考える。それゆえ、私はいくつかの不安を覚えるこれらの主張を提供する。私はあなたを誤解させないか心配である。私の目標は、あなたたちに、私たちがしているような方法で動物を扱うことがOKであると言うことではない。そんなことは断じてない。それにもかかわらず、私は―シンガーが主張するように―人間をより大切にすることが実際に単なる偏見であるかどうかを問題にしたい。

 

1.2.

ケーガンはまず、種差別をいくつかの形態に分ける。

  • 人間のみが大切で、動物は全く大切ではない
  • 人間も動物も大切だが、どんな些細なことでも人間の方がより大切である
  • 人間も動物も大切だが、相互に対応する利益においては人間の方がより大切である

1つ目と2つ目を私たちが受け入れることはないだろうとケーガンは言う。これを説得力のあるものにするために、次のような思考実験を考える。もし私が、何の理由もなく、あるいは単に猫が苦しんで出す音を楽しむために、猫に火をつけるとしよう。1つ目と2つ目の種差別においては、これは何の問題もない。だが、これは私たちにとって受け入れられないだろう、とケーガンは主張する。

 そして最も控えめなバージョンとして、3つ目が考えられる。これは多くの人が持っている見解であるので、ケーガンはこれについて更に検討する。

 種差別(やおそらくほとんどすべての差別)には絶対的なものと相対的なものとある。絶対的なものは、あるグループは別のグループよりも重要であり、これは誰から見てもそうである。例えば、人間が犬より道徳的に重要であるなら、それは私が人間だろうが犬だろうが、そうである。一方で相対的なものは、自身の所属するグループがそうでないグループより自分にとって重要である、というものである。私が人間であるなら犬より人間のほうが重要であるし、私が犬なら人間より犬のほうが重要である。

 

1.3.

 ここから、シンガーの議論の検討に入る。ケーガンによれば、シンガーが種差別を不当だとするのは基本的な道徳原理である「利益に対する平等な配慮の原理」に違反しているからである。ケーガンはこの原理の説明をするが、これはシンガーの『実践の倫理』で詳しく説明されているため、そちらを読むのがいいだろう。簡単にいえば、「同様の利益には等しい配慮をせよ」という原理である。

 

1.4.

さて、ケーガンはシンガーのこの主張が妥当かどうかを検討する。ケーガンは、次のように問うべきだとする。

But that should lead us to ask: what does it take for two interests to be like each other? (Kegan(2016), p.5)

しかし私たちは次のように問うべきである。二つの利益が互いに同様であるためには何が必要なのか?

ケーガンはまず、痛みが何によって引き起こされたのかが道徳的に関係するかを検討する。腐った食べ物を食べることによる腹痛と、アレルギーによる腹痛は、原因が違うが、どちらもほとんど等しい重み付けをしなければならないだろう。それゆえ、これは道徳的に関連性がないとケーガンは主張する。

 次に痛みの強さと持続時間について検討するが、当然のことながら、これらは関連するだろうと述べる。そしてケーガンによれば、シンガーはこれだけだと述べている。つまり「痛みは痛みである」*1と主張しているという。ケーガンによれば、シンガーはこれについて何も議論を提供していない。

 

1.5.

 ケーガンはこれについて「利益に対する平等な配慮の原理」から考えることはできないという。なぜなら、この原理は単に同じような利益を平等に扱えとしか言わないからであって、何が関連している(relevant)利益なのかを示してないからであるという。そこでケーガンは、他の何らかの事実が関連しているかどうかを考察していくために、次のような思考実験を想定する。

Suppose, for example, that you and I are both suffering in jail. We are equally miserable, and for an equally long time. But you are innocent, while I am being justly punished for some horrible crime. Can’t the fact that I deserve to be punished, while you do not, give us reason to think that the pain you are suffering should be given more weight than the pain that I am suffering? (Suppose someone could free one of us. Shouldn’t your suffering count for more than mine?) (Kegan(2016), p.6)

例えば、あなたと私がふたりとも刑務所で苦しんでいることを想定してみよう。私たちは等しく惨めで、等しい時間そうである。しかし、貴方は無実で、一方私はいくつかの恐ろしい犯罪のために正当に罰を受けている。私は罰せられるに値するが、一方であなたはそうではないという事実は、私たちに、あなたの苦しみは私の苦しみの痛みより重み付けされるべきであると考える理由を与えることはできないだろうか? (誰かが私たちの1人を開放できると想定しよう。あなたの苦しみは私のものより重要であるとするべきではないのか?)

この当然の報い(desert)は、痛みの強さや持続時間に影響しないが、道徳的に関連のある違い(morally relevant difference)であると思われるとケーガンは主張する。ここから、強さや持続時間以外にも道徳的に関連する点があるだろうとし、その痛みが人間によるものなのか動物によるものなのかが重要ではないかと示唆する。

 そしてこれこそが、種差別主義者の主張であり、そしてシンガーはこれに対して反論する議論を提供してないという。

 

1.6.

 ケーガンによれば、シンガーは、種差別主義者の犯した根本的な過ちは利益の間に何らかの線を引くことであり、有感であることが重要であると主張しているという。

 ケーガンはここで、それに対して異議を唱える。ケーガンは、植物に水をまくことは、その植物にとって利益であると述べることは正しく完全に意味があるという。それゆえ、シンガーは間違っているとする。シンガーは実際に、先程の議論を補強するために石とマウスで対比させているが植物と比較させてない、とケーガンは言う(のちに明らかになるが、シンガーは議論しているので、これはケーガンの見落としである)。

 またさらにケーガンは、シンガーが有感存在と無感存在の間に線を引くのは、シンガーの直観以外の何物でもなく、シンガーはこの意味で有感主義者であるという。しかしケーガンは、直観だからということで有感主義を否定しようとしない。しかしながら、直観によって線を引くなら、他の直観に訴えて別の場所に線を引いてもいいだろうという。実際、直観以外に正当化の根拠を求めるのは困難であるとケーガンは言う。

 そして、結局のところシンガーの有感主義が単なる偏見ではないなら、種差別も単なる偏見ではなく、よってシンガーの議論は失敗しているという。

 

1.7.

 では性差別や人種差別のアナロジーはどう考えればよいだろうか。ケーガンは、いかなる場合に単なる偏見であるかを検討し、それは経験的証拠が不適切である場合だという。人種差別主義者や性差別主義者は、自身の直観を説得力のあるものにするために経験的証拠に訴えるが、それらはおよそ誤りであり、また誤りであると指摘されてもそれを認めようとしない。そのため、彼らの差別的信念は単なる偏見であるという。

 当然、この見方によれば、人種や性別が道徳的に重要であるという直観は単なる偏見ではないことになることをケーガンは認めるが、既に述べたように彼らの経験的主張は不適切であり、それゆえ彼らを単なる偏見であるとしても公平だろうという。

 

2. What Do We Believe?(私たちは何を信じているのか)

2.1.

 ケーガンの本節での目的は、私たちは種差別主義者ではなく別の立場であることを説明することである。その検討にあたって、次のような思考実験をする。

 スーパーマンやETがひどく苦しんでおり、死にかけであるとしよう。このとき、私たちは「彼らはホモ・サピエンスではないから、あまり重要ではない」と考えるだろうか(スーパーマンホモ・サピエンスではないらしい!)。ケーガンは、このように私たちは考えないだろうという。ゆえに、私たちが線を引いている場所は種ではないと主張する。ではどこに引いているのか。

 

2.2.

 まずケーガンは、我々は人格主義者(personists)であるする。つまり人格(person)であるかどうかが重要であると私たちは思っている、とケーガンは主張する。ここで人格(person)とは、哲学的に標準的な意味での人格、つまり、合理的で、自意識があり、他者のうちの1人であることを自覚している存在であるとする。そして、私たちがスーパーマンやETを気にかけるのは、彼らが人格だからだという。そこでケーガンはまず私たちを、種差別主義者ではなく人格主義者に近似する。

 

2.3.

 ここで検討する人格主義は、人格の利益が、他の人間(human)ではない動物の利益よりも重要である、という立場であるとする。ところで、ケーガンによれば、シンガーは動物を殺すよりも人格を殺すほうが悪いと述べているという。人格は自身を時間的存在だと認識しており、将来への欲求を持っており、それを不満足にさせることは誤りであり、その意味で動物を殺すのとは違う。それゆえシンガーは「死は死である」とはしない。それどころか人格と非人格の境界線は重要であるとしている。シンガーは「痛みは痛みである」とは言うが「死は死である」とは言わないのである。これはシンガーの直観でしかないだろう。では痛みはどうだろうか。ケーガンは、人格と非人格では痛みについても重要な違いがあるという。人格の生の中に痛みが組み込まれることによって、それ自体に道徳的意義が与えられるとする(ケーガンはたとえとして、赤い絵の具が油絵の中に組み込まれることで全体的な性質に依存するのと同様である、と述べている)。

 

2.4.

 ところで、私たちは実際には人格以外にも配慮しているだろう。ケーガンは非人格のパターンを3つに分けている。

  • 非常に幼い赤ん坊(これから人格になる存在)
  • 深刻な認知症などの人間(かつて人格だったがこれから人格になりえない存在)
  • 生まれたときから重度の知的障害を抱えている人間、および動物(過去現在未来のすべてにおいて人格ではない存在)

ケーガンはこのうち3つ目を検討する。ここで一つの例を考える。動物と生まれたときから深刻な知的障害のある人間に対して、大きな痛みを伴いまた死の恐れのある実験をする可能性を考える。私たちは人間にするほうがより悪いと考えるだろう。ケーガンはここで、これを種差別と呼ぶべきだろうかと問う。

 ケーガンによれば、私たちは、その人がホモ・サピエンスであることによって実験を行うことがより悪いと考えているわけではないという。ケーガンによれば、私たちは、重度の知的障害のある(本来は知的な)火星人にも人間と同程度の特別な配慮をするように思われるからである。(筆者(私)は、私たちがそのように思うとは全く思えない)

 ここでケーガンは以降の議論のために、典型的なメンバーが人格であるような種を「人格種 person species」と定義する。

 ケーガンによれば、私たちは種差別主義者なのではなく、種の典型的なメンバーが人格であるような種、すなわち「人格種」のメンバーの利益を重要だと考えているという。ケーガン自身もこの見解に魅力を感じている。ここから、ケーガンはこの立場における人格主義の検討を行う。

 

3. Evaluating Personism (人格主義の評価)

3.1.

 ここで次の思考実験を考えよう。ある化学的治療によって人格になった知性的な犬に対しての配慮を考える。すると犬は人格種ではないから、人格主義は知性的な犬を配慮しないことになるが、これは明らかに容認できないとケーガンはいう。そのためケーガンは人格主義を次の二つのどちらかの条件を満たすならば特別に重要だとすると改変する。

  • あるメンバーが属する種が人格種 person species であるなら、そのメンバーが人格でないとしても、特別に重要だとする
  • あるメンバーが属する種が人格種でないとしても、そのメンバーが人格であるなら、特別に重要だとする

ここで問題となるのは、ある者が人格種のメンバーであることが重要であるのは本当か、つまり前者の条件は本当なのかどうかであるとケーガンは言う。

 (※この段落は、私が誤読をしている可能性が非常に高い。確認してほしい。)そこでケーガンは、障害のある火星犬を考える。実は、犬はもともと火星では人格として生まれてくるが、地球では重力場の影響で人格として生まれず、人格になることもできないことが明らかになったとしよう。このとき犬は人格種であることになり、人格主義は彼らの利益をより重要だとするべきだが、これは不合理であるとケーガンは言う。

Consider the Impaired Martian Dogs objection: Suppose we discover that dogs were originally from another planet — Mars — where they are in fact persons, but that due to the different gravitational field here on Earth (which crucially affects brain develop- ment) dogs born here are not persons, and can no longer become ones. Still, it seems that Earth dogs are members of a person species, so according to personism their interests should count more, which is absurd. (Kegan(2016), p.13)

 

ここで、犬は火星では人格種だが、地球では人格種ではないとすることでこの問題を解決することができる。しかしここでは簡単のため、犬は地球でも人格種であるということが事実だとしよう。

 ケーガン自身はこの場合、犬はより重要であるとするべきである、と考えている。それを補強するために、今度は知的な火星人のケースをケーガンは持ち出す。地球人が知的な火星人(もちろん人格種である)と交流するようになり、彼らが地球にやってくるようになったとしよう。そこで火星人は地球で子どもを持つようになるが、その子どもは重力場の影響で人格ではなく、人格になることができない。このとき、この火星人の子どもに対して重度の知的障害の人間と同程度の配慮をすることは正しいと思われる、とケーガンは主張する。

 ケーガンは次に、人格種の定義の中に含まれている「典型的な typical」が何を意味するのかを検討する。この意味は普通は統計的な意味であるが、これはいくつかの問題を含んでいるとケーガンは言う。例えば人間のほとんどが人格になることがないような永続的な不治の病が世界的に流行したとしよう。するとホモ・サピエンスのほとんどが人格ではなくなるので、統計的な意味では典型的なホモ・サピエンスは人格ではないので、ホモ・サピエンスは人格種ではなくなる。これはもっともらしくないとケーガンは言う。

 そこでケーガンは、「典型的な」の意味を統計ではなく「一般的な generic」とする。こうすることで、ホモ・サピエンスにそのような病が流行したとしてもなお、一般的なメンバーは人格であるので、ホモ・サピエンスは人格種である、となる。(この「一般的な generic」が何を意味しているのか、筆者にはさっぱりわからない)

 

3.2.

(この節の前半では、以降の思考実験をするための必要な条件設定を考えているのだが、文の意味をよくつかめなかったので、各自で確認してほしい。)

 ケーガンはさらに次のような思考実験を考える。ある哲学クラブのメンバー(もちろん哲学クラブというグループは人格種である)が冗談でうさぎをメンバーに加えたとしよう。するとそのうさぎは人格種のメンバーになるため、うさぎがより重要である、ということになる。しかしケーガンによれば、これは正しくないだろうという。その理由として、哲学クラブは人為的で、生物種は自然的だからである。しかしなぜ、自然的なグループでなければならないのか。

 

 

3.3.

 ケーガンによれば、自然的なグループは何らかの個々のメンバーの本質を教えてくれるが、人為的なグループはそうではないからである、という。(あとで述べるが、自然的なグループが重要であることは正しいだろうが、論証としては微妙ではないかと筆者は考える)

 ここでケーガンはさらに、なぜ種に焦点を当てて、属や目ではないのかを検討する。まず種より上位のグループ、例えば属では、属に一般的な特徴はその属に含まれる種にも一般的であり、それゆえ一般的なメンバーが人格であるような種を特定しさえすれば、属のレベルでは既にそれが考慮に入れられているという。それゆえ、属を考える必要はないし、さらに上位グループについてもそうであるので、種を考えるので十分である。

 一方下位グループでは、種のレベルで出現する特徴を考慮に入れることができない可能性があるので、やはり種に焦点を当てる理由がある。(あとで述べるが、この議論は正しくないと筆者は考える)

 では、一般的なメンバーが人格であるような属に含まれる種であるが、その種の一般的なメンバーが人格でない場合、つまり「人格属」であるが「非人格種」であるその種のメンバーは、重度の障害を持つ人格種 person species のメンバーと同程度に重要であるとするべきだろうか。ケーガンは、これは直観的には誤りであり、属は関係なく種が道徳的に関係があるように思われると主張する。動物が何であったかもしれないということを知るのは、属ではなく種であるからである、とケーガンは主張する。(後で述べるが、これは部分的に誤りであると筆者は考える)

 

3.4.

 ケーガンはここで驚きの主張をする。ケーガンは、実は、種への参加自体は道徳的に重要な特徴ではなく、本当に重要なのは様相性質 modal property :個人が何であったかもしれない事実であると主張する。つまり、ケーガンによれば、重要であるのは生物学的事実ではなく、様相という形而上学的事実であるという。これを説得的にするためにケーガンは次のような思考実験を行う。

 無脳症の子を考えてみよう。その子どもは人間 human だが人格 person ではない。しかし人格になりえない、というのは明確ではない。無脳症は環境要因によって生じるものであって、遺伝的なものではなく、それゆえその子が人格でありえたということは可能である。

 ではもし、無脳症が遺伝的なものに起因するとしたらどうだろうか。現在の形而上学の主要な見解は、遺伝的寄与はあなた(があなたであるため)に必要不可欠であるというものである。それゆえ、遺伝的な欠陥がもしなかったならば、という仮定は別の存在を想定することになるので、この場合、無脳症の子は人格になりえるということはありえない。それゆえ、その子は人格でありえたという様相性質を持たないとケーガンはいう。ケーガンによれば、その子は(非遺伝的な要因による)重度の知的障害者と同等に重要ではない。しかし、私たちはこれに同意しないだろうということをケーガンは認める。では私たちはなぜ同意しないのか。それはその子が人間であり私たちの種のメンバーであるからではないだろうか。もちろんケーガンはそれも考えられるとするが、ここで形而上学の主要な見解を退ければ(つまり遺伝的寄与はあなたにとって必要不可欠ではないとすると)、遺伝的要因による無脳症の子は人格でありえたかもしれないという仮定をおくことができると主張する。こうなってくると、何によって人格でありえたという様相性質を持つことになるのかを特定するのは困難であるとケーガンはいう。しかしこうして様々な例を最善を尽くして考え、そうして様相性質を持たない人間を想定できたら、彼らの利益はより重要ではないだろうとケーガンは考える。それゆえ、様相性質はたしかに道徳的に関連しているという見解に引き寄せられ、種の問題では全くなくなる。このような人格主義を、ケーガンは様相人格主義と呼ぶ。

 ケーガンは、この様相人格に似たものとして潜在的な人格の議論を紹介する。潜在的な人格とは、将来的に人格になりうるという性質をもっているような存在であり、これは様相性質とは異なる。ケーガンは、この潜在的な性質と様相性質の包含関係などを考えるのは重要であるとするが、ここでは検討しないと述べる。

 

3.5.

 ケーガンによれば、シンガーは時々、種差別主義者は個人を個人として扱うことの重要性を認識してないと主張しているという。つまり、あるグループのメンバーであるということをもってして、実際にはその人の持ってない性質を考えてしまっているのだという。だが、これは素直に読めば誤りであるとケーガンは言う。種のメンバーであるということも、様相性質を持つということも、シンガーが気にかけているような他の性質と同様に実際に持っている性質であるとケーガンは主張する。

  シンガーが「実質の質 actual qualities」と呼ぶものは、カテゴリー的(断定的)な categorical 性質:知性がある、有感である、人格であるなどを意味しているかもしれないとケーガンは述べる。その場合、シンガーは様相性質もカテゴリー的な性質と同じくらい現実的な性質であることを見逃しているし、仮にシンガーが見逃してないとしても、シンガーは様相性質が個人がどのように扱われるかに無関係であると議論なしに仮定しているとケーガンは主張する。

 こうした議論の上でなお、様相人格主義がもっともらしい立場であるかどうかは明白ではないとケーガンは述べる。ここでもう一度ケーガンは無脳症の子について考えている。一方は環境要因で、他方は遺伝要因だとしよう。つまり、一方は様相性質として人格になりうる性質を持っているが、他方はそうではない。この場合、前者は後者より重要であるとするのは、(ケーガン自身は正しいと考えているが)私たちはこれが正しいと思わないだろうとケーガンは述べる。しかし(ケーガンはここで開き直って)様相人格主義が他の立場より直観と一致しているなら、正しくないからといってこれをすぐに拒絶するということはほとんど示されないという。

 

3.6.

 様相人格主義を評価するのは難しいが、ケーガンはここで彼にとってもっともらしいと思われる主張を列挙する(Kegan(2016), p.19)。

  1. 様相人格 modal personhood は重要である
  2. 実際の人格 personhood も重要である
  3. 実際の人格は様相人格よりも重要である
  4. 人格 person の死は、様相人格 modal person の死よりも、単なる動物の死よりも重要である
  5. 実際の人格の痛みも同様に、より重要である
  6. しかし様相人格は重要であるため、様相人格の死は単なる動物の死よりも重要である
  7. 様相人格の痛みも同様に、より重要である
  8. 単なる動物の痛みと死は、道徳的に些細な事ではない
  9. 高い認知能力を持つ動物の痛みと死は様相人格の痛みと死よりも重要である可能性がある*2
  10. 人格への近さの程度、あるいはその量は、様相人格がより重要であることに関連しているかもしれない
  11. 様相人格が実際の人格から十分な「距離」があるなら、おそらくそのような様相人格の利益は重要であるべきではない

 

3.7.

 ここまでの議論で、シンガーの主張、つまり私たち全員が種差別主義者であり道徳的に容認できないものである、ということは(「種差別」の定義にもよるが)何にせよ間違いであるとケーガンは述べる。

 

3.8.

 ケーガンは、様相人格主義やある種の人格主義が正しいかどうか知らないので、もっと慎重な検討をするまで判断を控えると述べる。

 ケーガンのこの様相に関する考察は、道徳哲学の他の部分でも現れ、一般的に議論されており、そこの議論から様相人格主義が擁護されるかもしれないと述べる。

 

ケーガンの論文の要約は以上である。次にシンガーの論文の要約を行う。

 

 Why Speciesism is Wrong: A response to Kegan(なぜ種差別は悪いのか:ケーガンへの応答) by P. Singer

 ここではケーガンに対する批判・反論のみをまとめる。

  • ケーガンは「痛みは痛みである」という主張が種差別に対する批判の一部であることを見逃している、つまり、議論なしに出したわけではない。
  • ケーガンは人種差別主義者や性差別主義者らが誤った経験的信念に基づいて主張するから単なる偏見であるとしているが、私たちが最も不快に感じるのは、例えば、誤った経験的信念に基づいてアフリカ人の利益を気にかけてなかったということではなく、ただ just アフリカ人の利益を気にかけていなかったことであると考えるのはもっともらしいだろう
  • ケーガンは「利益に対する平等な配慮の原理」を誤解している。彼の言う「関係する利益 relevant interests」と私の「同様の利益 like interests」は異なる。私がここで想定しているのはベンサムやシジウィックのそれである。ケーガンが持ち出す思考実験では、違法であるという理由で一方より他方の利益を重要であるとするのはもっともらしいとケーガンは主張しているが、功利主義的なよく知られた罰に関する理論は、同様の利益には等しい重みを与えるという枠組みの中で当然の報い desert を考慮に入れる理由を説明している。
  • ケーガンは植物に関する議論を私が行ってないと述べているが、これは見落としている。『実践の倫理』で述べているが、簡単に言えば、植物は道徳的に意味のある利益を持たない。
  • ケーガンの、典型的なメンバーが人格であるような種のメンバーはそのメンバーが非人格であっても重要である、というような主張は何年も前に Stanley Benn によって述べられており、『動物の解放』でそれに対して議論している。この見解は新自然法理論の立場に似ている。
  • この見解に対して二つの疑問がある。1つ目に、私たちの背景には本当にこの見解があるのか。2つ目に、これは擁護可能な見解なのか。1つ目については、これは経験的に答えが出るものであるが、私は40年以上にわたって注意を払ってきたが、種差別的な偏見が大きな役割を果たしていると私は考え続けている。2つ目については『実践の倫理』で少し述べているが、より多くの議論を必要とする

 

筆者(私)のコメント

シンガーの論文について

 まず先にシンガーの論文の方に一つだけコメントする。

 ケーガンの「関連のある利益 relevant interests」とシンガーの「同様の利益 like interests」は違うのかもしれないが、その違いが私にはよくわからない。結局のところシンガーが想定している利益はケーガンが言うところの categorical property に関連するもの以外にはなく、ケーガンが想定するようにもっと広い意味での性質に関連するものとして利益を考えるなら、関連のある利益と同様の利益の違いは categorical property に関連しているか否かに帰着する。そしてシンガーが categorical property に関連する利益のみが重要であることの根拠を述べてない以上、ケーガンの批判に対してシンガーはちゃんと答えられてない。(もちろん私は、ケーガンの言うところの categorical property のみが道徳的に(直接)関連している性質であると考える)

 

ケーガンの論文について

  • ケーガンは「人格種 person species」について「典型的な typical」をどのように定義するかを検討した結果、統計に基づくものではなく「一般的な generic」ものであるとしている。しかし、では「一般的な」とは何を意味するのか。ケーガンは例として、ライオンがハゲるような病が流行ってほとんどのライオンがハゲたとしても、なお一般的なライオンには毛があるだろうと述べる。しかしこれは「一般的な」の具体例であって、「一般的な」自体の説明にはなってない。結局「一般的な」の意味をケーガンはきちんと説明してないように思う。
  • ケーガンは、種が考慮すべき適切なグループかどうかの検討をしているが、いくつか誤りであると考える。
  1. ケーガンは人為的なグループではなく自然的なグループを考慮すべきであると述べている。その理由は、自然的なグループであればそのグループのメンバーの本質を教えてくれるからであるとする。しかし私自身は唯名論の立場に近いため(とはいえ勉強不足で、また立場もころころ変わっているのだが)、このような自然的グループを認めたくない。その場合、ケーガンとは前提からして異なることになる。唯名論を仮定しない場合でも、ケーガンのいう本質が何なのかよくわからない。一般的なメンバーが持っている性質のことだろうか。もしそうなら、これは人為的なグループでも一般的なメンバーを想定でき(例えば哲学クラブの一般的なメンバーは人格だろう)、それゆえ人為的なグループでも本質を持つことになってしまうので、ケーガンの議論は妥当ではなくなる。おそらくケーガンはこのような意味で本質を考えてないだろうが、だとすると本質とは一体何なのだろうか。
  2. 種より下位のグループについて、ケーガンは、種より下位では種のレベルで現れる特徴を見落としてしまうから種でなければダメだという。しかし、例えば属について考えたとき、属のレベルで現れる特徴を種のレベルで見落とすことはないといえるだろうか。もし種についての議論と同様の議論が属にも妥当であるなら、いえないだろう。その場合、種のレベルで考えることは属のレベルで現れる特徴を無視してしまうことになり、それゆえ属で考えるべきとなるのではないだろうか。
  3. 動物が何であったかを知るためには、属ではなく種が関係しているとケーガンは考えているようだが、これは部分的に間違いであると考える。ケーガンが後に述べるように、無脳症の子が何であったかを考える上で、遺伝的な要因なのか環境要因なのかで持っている様相性質が変化した。これはつまり、なにであったかという様相性質を特定するためには、その存在者がどのメンバーに属しているかではなく、その存在者自体を検討する必要があるということである。ケーガンは種についての議論の時点では様相性質という概念を提案していなかったが、提案した後から見れば、ケーガンの、動物が何であったかを知るには属ではなく種が関係しているという議論は妥当ではないように考える。
  • ケーガンは様相性質が道徳的に関連している性質であることを説得しようとしているが、私は全く説得的に思わない。やはり私は、ケーガンの言うところの categorical property のみが道徳的に関連していると思う。もちろん直観にすぎないと言われればそのとおりだが、いずれこれらをより明確であると思われる根拠、あるいはクワイン全体論的な観点から論証したいと考えている。

*1:『動物の解放』より、邦訳での該当ページが見つからなかったので、誰か教えてほしい。

*2:ケーガンがここで強調するには、8、9の2点によって、動物の扱いの大部分は虐待であり、道徳的な違反であり、言い訳になりえない。それでも、様相人格のほうが重要であると主張することは可能であるとケーガンは述べる。

哲学的文章に対する自然言語処理についての雑考

 

 ある日、ツイッターの知り合いから、哲学的文章に対して自然言語処理ができるかどうか、できるとしたらどんなことができてどういう風に哲学に貢献できるか、みたいな話をして、なるほどと思い少し調べてみた。しかしそういった試みをしているような論文は見当たらなかった。

何らかのテキストに関する自然言語処理の研究は山のようにあるが、自然言語によって記述された長文と考えると、例えば小説が考えられる。小説に対する自然言語処理の研究も山のようにあるが、主に内容要約、登場人物の抽出、人物関係図の作図などが主流のようである。また小説を書かせるような研究もある。有名どころとしては星新一賞の第一次審査を通った研究がある。

www.fun.ac.jp

そもそも、自然言語処理という研究分野が今まさに盛んな状態で、基礎も応用も発展段階であることを考えると、哲学的文章への応用がまだ少ないことも頷ける。

ここで少し自然言語処理の基礎技術について紹介する。自然言語処理の基礎技術に興味がない方はスクロールして応用、それも興味がなければ3の哲学的文章に対する自然言語処理の考察までスクロールしてほしい。

1 基礎

自然言語処理の基礎技術として考えられるのは次のようなものである。

形態素解析とは、文を形態素という語の単位で区切って、品詞や活用形などを分析する処理のことである。例えば上の文を形態素解析すると次のようになる。*1

形態素 名詞,一般,*,*,*,*,形態素,ケイタイソ,ケイタイソ
解析 名詞,サ変接続,*,*,*,*,解析,カイセキ,カイセ
と 助詞,格助詞,引用,*,*,*,と,ト,ト
は 助詞,係助詞,*,*,*,*,は,ハ,ワ
、 記号,読点,*,*,*,*,、,、,、
ある 連体詞,*,*,*,*,*,ある,アル,アル
文 名詞,一般,*,*,*,*,文,ブン,ブン
を 助詞,格助詞,一般,*,*,*,を,ヲ,ヲ
形態素 名詞,一般,*,*,*,*,形態素,ケイタイソ,ケイタイソ
という 助詞,格助詞,連語,*,*,*,という,トイウ,トユウ
・・・・・・

構文解析とは、文の構造を解析するのだが、構造の表現の仕方はいろいろある。一般的なものとしては例えば句構造表現、依存構造表現(係り受け表現)などである。依存構造表現は例えば次のようになる。

f:id:mtboru:20190203013500p:plain

図1 依存構造表現

意味解析は、文字通り、言葉の意味についての処理だが、これは例えば、語の上位下位関係、同義関係などを調べたりする。例えば「生物」という上位概念の中に「植物」と「動物」という下位概念がある、というような形になっているが、これらの解析をしたり、同義語や言い換え表現の自動取得をしたりする。

文脈解析では例えば照応関係を調べたり、談話構造解析をしたりする。前者は例えば、「太郎は走った。それゆえ彼は疲れた。」というときの「太郎」と「彼」とが同一人物を意味していることを同定する。

形態素解析構文解析は文単体の解析であるのに対し、意味解析と文脈解析は文単体ではなく文章の解析である。現状の自然言語処理の基礎技術でうまくいっているのは前者二つであり、後者二つはあまりうまくいってない。まだまだ発展途上の技術である。

このような基本的な解析ツールを使って、2 応用に示すような応用技術につながる。

 

2 応用

応用技術としては例えば次のようなものがある。

  • 情報抽出
  • 情報検索
  • 翻訳
  • 法令工学

情報抽出は、例えば「A社は2月に新商品を東京で発表する。」という文から、組織の名前や地名などに関連する属性を抽出することである。例えば「A社」を抽出したとしよう。この「A社」には社長の名前、所在地、社員数などのさまざまな属性がある。これらを(ネット上から情報検索するなりして)表にしてまとめるような作業が情報抽出である。

情報検索は、まさにGoogle検索やヤフー検索などで用いられている技術で、例えば検索語と一致する語を含む文章の検索、その語の出現頻度の高い文章の検索などがある。

翻訳は、Google翻訳やエキサイト翻訳などで使われている技術である。一般に機械翻訳と呼ばれる。これらも当然、自然言語処理を多分に使っている。

 

応用の最後の例として、法令工学を紹介する。法令工学とは「法令に情報科学的手法,ソフトウェア工学的手法を適用し,完全で矛盾のない法令の制定,法令が規定する社会基盤情報システムの開発などを計算機で支援するための方法論を研究する.」学問である*2

法令工学では、例えば次のようなアプローチが取られる*3

  1. 法令文を言語解析し、論理・形式表現に書き換える。
  2. 論理・形式表現から、矛盾や不完全なところがないか調べる。
  3. 論理・形式表現をさらに、構造的な表現に書き換える。
  4. これらの作業を通して、法令の改善、あるいは新しく法令を作る。

これらに自然言語処理の基礎技術が欠かせないことは明らかだろう。

 

3 哲学的文章に対する自然言語処理

法令工学のアプローチが最も参考になるように思う。これを参考にすると、哲学的文章に対する自然言語処理ができることとして、次のようなことが考えられる。

  • 文章要約
  • 論理解析
  • 概念(意味)解析
  • 理論設計支援

文章要約は、例えば論文や書籍などの内容要約が考えられる。論文の抄録を自然言語処理によって自動的に記述するような研究は既にいくつかある。概観した論文として次のようなものがある。自動抄録の現在と電子図書館 (<特集>論文抄録 意義と役割)

論理解析は、法令工学のように、文章を論理・形式表現に書き換えて矛盾の検出や可読性の向上などが可能となると思う。具体的には

  • 論理構造の解析
  • 矛盾の検出
  • 不完全性の検出
  • 暗黙の前提の検出
  • 照応関係の同定(「それ」や「前に書いたように」が意味する言葉、文の同定)
  • 論理・形式表現への変換による可読性の向上
  • 他の論証や理論との整合性の検討
  • 用語の定義の適切さ(循環になってないか、不完全ではないか、など)

などが考えられる。

概念解析も基本的には論理解析と同様で、その概念の定義の完全性、無矛盾性や、あるいは他の関連する概念、意味的に近傍の概念との整合性、差異などを検討できると思う。

理論設計支援については、以上のような論理解析、概念解析などを通した支援によって、その理論や概念の適切さや有意義さなどの検証のコストを大幅に削減できるだろう。例えば、機械的に推論ができないような場合、その論証には何らかの欠陥があるか、非常にわかりにくいものになっているか、などがわかるだろう。

これらは哲学的文章に限らず、ほとんどすべての学問にとって有意義だろう。

 

このように書くと夢のような話に見えてくるが、これらの実現にはまだまだ高い壁があると考える。理由は二つある。

一つ目は、今回法令工学を参考にしたが、哲学的文章が法令文のように定型的な表現で記述されていることはまずないからである。法令文の場合、使われている用語の意味を限定することが可能で、構造もおおよそ決まっており、小説やWeb文章などよりも文章の解析が容易である。しかし哲学的文章の場合はそうではない。小説やWeb文章などと同様に、定型的な書き方ではなく、また語の多義性の限定があまりできないなど、解析が難しい。分析哲学の流れをくむような文章でさえ、我々が読む分にはわかりやすいかもしれないが、コンピュータに解析させるのとはまた違うだろうと思う。

二つ目は、こちらの方が重大なのだが、哲学的文章のコーパスがないことである。コーパスとは文章データが大量に集まったデータである。コーパスの作成に当たって文章の電子化は必須であり、可能ならば注釈付きコーパスもほしいところだが、なんにせよコーパスがない(私が知らないだけかもしれない)。論理解析や概念解析はそれ単体でどうにかなるが、しかし、他の概念や理論との整合性や有意義さを検討するようなシステムを構築しようと思うとコーパス(しかも十分な量の)が必須であるし、論理解析や概念解析を機械学習・深層学習を用いて行おうとなると、これらにすらコーパスが必要となる。コーパスの重要性は明らかである。

したがって哲学的文章に対する自然言語処理については、難しいと考える。しかし何らかのコーパスができれば、研究の余地・重要性は大きくあると思う。

功利主義(2/2)

 

mtboru.hatenablog.com

 前半の記事で、『1 功利主義とは何か』では功利主義について、その基本的な特徴と代表的な批判を取り上げた。『2 功利主義の分類』ではいくつもの分類軸によって功利主義を分類し、様々な形態があることを確認した。また私が望ましいと思うものは「二層・間接・選好充足・積極的・先行存在功利主義」であることを示した。

 後半の本記事では、功利主義を用いると私たちがどのように行動すべきなのかを示していく。また、よくある批判に対して答えることで功利主義的な考え方をみていく。そして最後に前半の記事と後半の記事のまとめを行う。

 

3 功利主義の適用

 ここでは主に、現代の倫理学者であるピーター・シンガーの『実践の倫理』*1と、ラザリ=ラデクとシンガーの共著『功利主義とは何か』*2を参考に、功利主義的に考えると私たちはどのように行動すべきかを二つ示す*3。一つ目は「遠くの貧しい人に対する道徳的義務はあるのか」、二つ目は「動物に対して配慮しなければならないか」である。

 検討に入る前に一つ注意点がある。ここでは簡単のために快楽説功利主義で考える。しかし、もしあなたが選好充足説や利益説で考えたいならば、それで考えてもらっても構わない。私がこれからする議論は、それらでも同様にできるだろう。

 

3.1 遠くの貧しい人に対する道徳的義務はあるのか

 これを読んでいるあなたはおそらく、少なくとも日々何とか食べていけるだけの生活水準を保っているだろう。また多くの人はおそらく十分に食べてなお、他の用途に使えるだけの余裕がある生活をしているだろう。例えば買い物を楽しんだり、趣味や娯楽を楽しんだりする余裕があるだろう。しかし世界全体でみると、これらの生活水準は極めて高い。

 今まさに、飢餓や伝染病で苦しんでいる人々が世界中にたくさんいる。ある見積もりによれば、これらが原因で死ぬ5歳以下の子どもは一日に3万人を超える。一年ではなく一日に、しかも5歳以下の子供に限定してである。また(少なく見積もっても)世界中でおよそ4億人の人々が栄養不足に苦しんでいる。これらの人々の生活水準は絶対的貧困と呼ばれている。絶対的貧困とは生存のぎりぎりの限界での生活水準のことを意味している。

 さて、あなたが今、旅行を計画しているとしよう。旅行先は北海道かもしれないし沖縄かもしれないが、あなたはその旅行で大いに楽しむことができるだろう。例えば、その旅行の予算が3万円だったとしよう。
 しかしここで、この3万円でどれほどの善を成し遂げられるだろうか。次のサイトでそれを確認できる。

www.thelifeyoucansave.org

ドル表記なので、ここでは簡単にドル換算で300ドルの予算だと考えよう。あなたはその300ドルの予算をすべて募金することで、次のいずれかを行うことができる。

  • 150個の蚊帳を買うことができ、270人の人々を3年間マラリアから守ることができる
  • 240人の人々に、一年分の水を提供できる
  • 30000人の人々に、ヨード欠乏障害(致命的な脳機能障害を引き起こす障害)に対する予防を一年間支援できる
  • 8人の子どもたちに、一年間分の学校給食を提供できる
  • 6つのトイレを、自然災害や紛争によって被災した家族の健康を守るために建設できる

あなたの旅行は、これらの善と比べて大きな善をなすのだろうか。少し考えれば、あなたが旅行することによって得られる快楽と、募金することによって遠くの国の人々の取り除かれる苦痛を比べれば、後者の方が圧倒的に多いことがわかるだろう。したがって功利主義によれば、あなたの旅行を正当化することはできない。
 これは旅行に限った話ではない。ちょっと高いレストランでの贅沢、ファッションを楽しむために新しい服を買うこと、その他の生きるために不必要なほとんどすべての事柄について、功利主義では許容できないかもしれない。

 これらが意味していることは、功利主義ではあなたに、あなたの生活水準が生活できるギリギリまで募金すべし、つまり可能な限り最大の善を行うべきと要求するだろう、ということである。

 しかしこれは非常に厳しい要求ではないだろうか。こんな厳しい要求をするような倫理規範は間違っているのではないだろうか。この批判に対する応答は「4 功利主義者になる」でみることにする。

 

3.2 動物に対して配慮しなければならないか

 通常、私たちが道徳と呼ぶものはほとんど人間に対する道徳である。では動物に対してはどうだろうか。私たちは動物に対してどのような道徳的義務を負っているのだろうか。

 功利主義の一つの特徴である単純加算主義を思い出してほしい。単純加算主義は「各人の効用を公平に配慮して単純に加算する」という考え方である。人間も動物も同様に苦痛や快楽を感じている。したがって功利主義によれば、人間と動物に対して公平に配慮するべきである。

 ここであなたは、人間と動物は違う、だから公平に配慮するなんておかしい、と主張するかもしれない。人間と動物はたしかに違う。例えば動物は理性的に考えられないし、言語を持たない。ほとんどの動物は私たちと話すこともできないだろう。だが、これらは道徳的に重要な違いだろうか。
 功利主義の一つの特徴である厚生主義を思い出してほしい。厚生主義によれば重要なのは幸福である。幸福についてはいくつかの立場、例えば快楽説や選好充足説があったが、人間も動物も同様に苦痛や快楽を経験しているし、選好を持っている。厚生主義によれば、理性や言語能力は人間と動物を分ける道徳的に重要な違いではない。何者かと何者かを区別する道徳的に重要な違いとは、幸福を持つのか、持つとしたらどのような幸福なのか、である*4。したがって、人間と動物を区別する道徳的に重要な違いはない*5功利主義創始者であるベンサムの言葉を引用する。

問題は彼らが理性的に考えられるかということでもなければ、話すことができるかということでもなく、馬や犬が苦痛を感じることができるかということなのである。

以上の理屈に従うならば、功利主義では有感生物全て*6に公平に配慮すべきである。

 

 さて、公平に配慮するとして、私たちは何をすべきだろうか。

 あなたは今日、何を食べただろうか。あなたがヴィーガンベジタリアンでなければおそらく、あなたは肉や魚を食べただろう。その肉はもともと誰のものだったのだろうか。答えはもちろん動物のものである。毎年およそ650億もの個体が食料のために殺されているが、それらの肉はどのようにして私たちの元までとどくのだろうか。

 現代の畜産のほとんどは、工場畜産と呼ぶに値するものである。その実態は例えば次のようなものである。*7

  • 鶏は、早く太るのを促進するために初めの1~2週間は24時間明るい光にさらされる。その後、(睡眠後に食欲が上がるとされているので)照明を薄暗くし、2時間ごとにつけたり消したりされる。そうして早々に太らされた鶏はおよそ、7週齢で殺される(鶏の自然の寿命は約七年である)

  • 雌鶏はバタリーケージという狭い檻の中で一生を過ごす。バタリーケージの床は平均して30.5cm×50.8cm、対して鶏の翼長(翼を広げたときの全長)は約76.2cmである。ここに通常は3羽、ひどいと5羽入れられる(鶏一羽に必要な最低限のサイズは、41cm×41cmといわれている)

  • 妊娠・出産させるために飼育されている雌豚は60cm×200cmの仕切りの中で過ごす。これは豚の大きさとほぼ同じ大きさで、彼女らは一歩も歩くことも、回ることもできない。彼女らは出荷されないので、死なない程度のエサしか与えられず、常に空腹である
  • 乳牛の場合も同様に、彼女らは妊娠と出産を繰り返す。彼女らが生んだ仔牛は、すぐに彼女らから引き離される。彼女らは数日間泣き続ける。引き離された後、彼女らは毎日搾乳される。多くの場合ホルモン注射がなされ、自然よりも多く乳が出るようにさせられる。もちろんその分不自然に多く搾乳されるので、一部の乳牛は炎症を起こしている*8

ここで功利主義者は問うだろう。あなたが彼ら彼女らの肉を食べることで得られる快楽は、彼ら彼女らが受ける苦痛を凌駕するか、と。答えはもちろん否である。したがって功利主義によれば、あなたは肉を食べるべきではない。

 畜産よりも難しい問題として動物実験があるだろう。動物実験は、私たちに重要な知見をもたらしてくれるかもしれない。それらの実験は動物に与えられる苦痛を凌駕する医学の進歩をもたらすかもしれない。功利主義的に考えると

  • 多数の人間あるいは動物に苦しみあるいは死をもたらす病気を予防する方法を発見する合理的な可能性があり、そして
  • ある動物の利用(しかしその数は、その発見が助ける人間あるいは動物の数よりもずっと少ない)なしにはこの目的を達成するほかの方法がなく、そして
  • 動物が経験するいかなる苦痛と苦しみも減少させるあらゆる可能な手段が取られ、そして
  • 全体としてより大きな善を生み出すであろう研究に費やされるような、資金・時間・能力使用方法がほかに存在しないならば、
その時は
  • 研究のために動物使用は正当化される。
*9

これほど厳しい基準をクリアする動物実験がはたしてあるのかはとても疑問である*10

 

 

4 功利主義者になる 

 この章では、今までにみてきた功利主義への批判に答えることで、功利主義的な考え方をさらにみていく。ここでは以下の3つの批判を検討してみる。

  • 幸福を単純に比較・足し算することができるのか
  • 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか
  • 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

 

4.1 幸福を単純に比較・足し算することができるのか

まず、幸福を数値化できるのか、そして比較・足し算することができるのか、という批判である。先程の表の例では幸福を数値化していたが、幸福には質量(kg)や長さ(m)のように物理的な単位があるわけではない。まして数値化できないのだとしたら、足し算や比較ができるとは思えない。
しかし、数値化できなくともある程度なら比較や足し算はできるかもしれない。私たちは実際に比較や足し算をしている。私がレストランでメニューを見て何を注文しようか考えているとき、わざわざ嫌いなものを選ばないし、より好きなもの、よりおいそうなものを選ぶ。つまり、私は料理から得られそうな快楽(おいしさ)を比較している。しかしこれは、個人内での幸福の足し算や比較ができそうである、ということしか意味しない。これは実際に比較や足し算が正確に行われることを意味しないし、個人間で足し算や比較ができることを意味しない。私とあなたの幸福度を共通のものさしで測ることはできないだろう。

  『功利主義(1/2)』で上のように述べた。この問題について考えていく*11。幸福を測定するための尺度はいくつか提案されているが、そのうちQALYについてみてみる。

  QALYとは、健康経済学者らがヘルスケア上の介入の利益を比較するために用いるもので、「質によって補正された寿命 quality-adjusted life-year」のことである。QALYの測定方法は例えば次のようなものである。

あなたが四肢麻痺で余命が二十年だとしてみよう。あなたの通常の健康と可動性を回復させるが、余命を五年に削減する新たな治療法を医師が提案する。あなたはよくよく考えてその治療を受けないことに決める。すると医師が戻ってきてこう述べる。「新たな調査研究の結果、この治療後の余命は十五年であると判明しました。」あなたは治療を受けることに同意する。*12

このとき、あなたが治療を受けるかどうかの分岐点を、簡単のために余命十年だとしよう。これは、あなたにとって四肢麻痺で生きる二十年と通常の健康で生きる十年は等価であるとみなしていることになる。このようにして全く異なった物事の価値を比較することができる*13
しかし問題は解決されてない。第一に個人間比較をやはり回避できてない。その価値はあくまで評価者に依存するので、別の個人が違った評価をすると、途端に比較不能になる。第二に仮に回避できたとして、QALYの測定をどのようにして行えばよいだろうか。全ての人に「もし四肢麻痺になったら」と聞き、平均を取ればいいだろうか。それとも四肢麻痺の人々に聞くべきだろうか。定かではないだろう。

 他の快楽の測定法も、基本的に個人内の比較は回避で来ていても、個人間の問題を回避できていない場合がほとんどである。これは幸福の個人間比較をすることは不可能なことを意味しているのだろうか。ここで功利主義者が答えるやり方として「なるほど、正確な測定は不可能だろう。だがそもそも、そんな厳密に測定・計算しなくてもよい」というのがある。実際私たちは幸福の大雑把な計算をしている。例えば『3 功利主義の適用』で見たように、あなたの贅沢な趣味によって得られる幸福とそれに使うお金を全て募金に回すことで取り除くことができる苦痛の量では後者の方が明らかに多いだろうし、あなたが肉を食べることによって得られる味覚の満足度とそれを食べないことによって取り除かれる苦痛の量でもやはり後者の方が大きいことは自明だろう*14。このように、ある程度正確でない計算でも最善の行為がわかるようなケースは多々ある。そのようなケースでは正確に計算しなければならない理由はない。しかし同時に、正確でない計算では最善の行為がわからないケースもあるだろう。だがそのようなケースであったとしても、我々が正確な計算に近づくように最善を尽くすことが重要ではないだろうか。シンガーとラザリ=ラデクは次のように述べている*15

異なった種の成因の間の苦しみを正確に比較することはできないというのは、ほんとうである。この点に関して言えば、異なる人間どうしの間の苦しみも正確に比較することはできない。正確である必要はないのである。*16

功利主義者たちは、他の誰もと同じように、時には間違った答えをするが、しかし可能な限り適切な情報を収集しようという真正の努力をするならば、そしてまたその証拠に基づいて、可能な限り最善の判断に到達しようとするならば、その判断が間違っていたことが判明したとしても、非難されるべきではない。*17

以上のように、幸福の計算が正確にできないとしても実践上問題になることはあまりないし、あるとしても最善をつくすことが重要であるだろうと考える。*18

 

4.2 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。

  • くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
  • 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
  • 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。
*19

あなたと友人が遭難して無人島にたどり着いた。友人があなたに自分の全財産を競馬クラブに寄付してほしいと言い残して死んだ。あなたはそうすると約束した。さいわい、その後まもなくしてあなたは救助された。あなたは友人との約束を果たそうと思ったが、よくよく考えると、競馬クラブよりも病院に寄付したほうがより多くの善を生み出せるように思われる。あなたと友人の約束については他に誰も知らない。*20
慈善団体に寄付したほうがより多くの人が幸福になる。約束したことが誰にも知られていないなら、なおさら約束を守る必要なんかない。*21

「臓器くじ」に似たものとして次のような思考実験もある。

ある外科医が担当している五人の患者はみな臓器移植を必要としているとしよう。それぞれが必要としている臓器は全て違う。患者らはすぐにでも臓器を移植しなければ全員死ぬ。ここで外科医が何の罪もない通りすがりの人に手術を行い臓器を取り出して移植をすれば5人全員が助かり、移植元の人間は死ぬとしよう。手術を行えば1人を殺して5人を救える、一方行わなければ5人が死ぬ。功利主義に従えば、通りすがりの人に手術を行い5人を救うべきであるように思われる。*22

これらの例における功利主義の帰結は全て、私たちの直観に合わないだろう。このような反直観的な例で批判するやり方を反直観論法とよぶ。これは次のような三段論法で表すことができる。

大前提:われわれの直観に反する結論を導く理論は拒絶されるべきである。

小前提:功利主義はわれわれの直観に反する結論を導く理論である。

結論:功利主義は拒絶されるべきである。

*23

「臓器くじ」や外科医の例、約束の例は全て、基本的な構図は上と同じである。功利主義者の一般的な回答方法は次の三つに分けられる。

  1. 功利計算を正しく行えば直観に反する結論は出ない(功利計算の誤り)。
  2. 修正された功利主義を採用すれば直観に反する結論は出ない(功利主義の修正)。
  3. 常識は必ずしも信用できない(常識に反する結論の受け入れ)。
*24

 「臓器くじ」と外科医の例、約束の例を、この三つの方法に沿って考える。

 

4.2.1 「臓器くじ」および外科医の例に対する反論

 まず功利計算の誤りがあることを指摘しよう。臓器くじが実施されている社会では、人々はいつでも臓器移植を受けられるが、しかし健康だとドナーに選ばれてしまう可能性があるため健康であろうとしなくなり、結果的に不健康な人が増えるという「モラル・ハザード」が起こるだろう。このマイナスの帰結を考慮すれば臓器くじは功利主義的に考えて正当化されない*25。臓器くじを提唱したジョン・ハリスはこの指摘を受け止め、臓器くじを「瀕死な者の間での臓器くじ」と修正したらしい*26*27

  外科医の例に対しては、1,2,3のすべてを使って反論を試みる。行為・直接功利主義ではなく、R.M.ヘアの二層理論からの応答を考える(功利主義の修正)。
二層理論での議論は直観レベルの議論と批判レベルの議論の二つに分かれる。まず直観レベルの議論では、このような行為は不正に人を殺すのと同じであり、直観的に許されないとなるだろう。一般にこのような直観(人を殺すべきではないという直観)を持つことは功利主義的に望ましいため、この直観は功利主義的に正当化される。したがって功利主義者は、直観レベルの議論ではこの批判を回避できる。

 しかし批判者と功利主義者が、直観レベルではなく批判レベルで議論していたとしよう。この場合は批判レベルの議論に移って行為の功利性を計算する。つまり、本当に通りすがりの1人の健康な人を殺して5人を救うことが功利計算上よいのだろうかを検討する。すると、もし本当にそんなことをしてしまったら社会は大きな不安に包まれるだろうし、そうでなくても殺された人々の家族、殺した医者や周りの看護婦の社会的地位への影響などを考えれば、後のこと、そして全体の幸福を考えるとほぼ確実にマイナスになるだろうと思う。つまりこの例では功利計算を誤っている(功利計算の誤り)。したがって批判レベルでも功利主義者は批判を回避できる。

 しかし批判者が「通りすがりの無実の人を殺すことが功利主義的に最善の結果をもたらすことが論理的にはありうるため、その場合は、功利主義者は人を殺して臓器を分配すべきだ、と述べるだろう。そしてこれは直観に反している。」と述べたとしよう。この場合、功利主義者は「そのような事例は論理的にはありうるが、現実でそんなことは起こらない。よってこのような非現実的な状況では私達の答えは間違ってない」と答えるだろう。しかしこれでは開き直っているだけのように見える。なぜこの答えでいいのだろうか。
 私達の持つ直観は現実の状況に対処できるよう身につけられたものである。そのため、このような非現実的な状況に対して「直観に反するから」という理由で批判したとしても、直観はそのような状況に対処できないため使い物にならない。したがって、非現実的な状況に対しては反直観的な答えで問題がないのである。このような非現実的な状況では(非現実的な状況に対処できない)直観を用いるのではなく、批判レベルに移って功利主義的に考えるのが望ましいだろう。そして功利主義的に考えて通りすがりの無実の人を殺すことが本当に望ましいのならば、私たちはそれを受け入れるべきである(常識に反する結論の受け入れ)。*28

 

4.2.2 約束の事例に対する反論

 約束の例は、功利主義によればこの種の事例の時に約束を破るべきという反直観的な結論が導かれるのではないか、という批判である。ここでも功利主義者からの応答を1,2,3にならって試みる。

 まず功利計算の誤りを指摘しよう。もし約束という制度をいとも簡単に破ってもよいというのならば、それは約束という制度が崩壊するため、全体としてマイナスの帰結を導くことになるだろう。したがって功利主義的にも、あなたは約束を守るべきである。

 しかし批判者は次のように反論するだろう。この事例では、この約束を知っている者はあなたと死んだ友人だけである。したがってあなたが約束を破ったところで誰にも知られることはなく、約束という制度が崩壊することもない。よって約束を破って慈善団体へ寄付することはプラスの帰結となり、功利主義によればあなたは約束を破るべきであるが、これは反直観的であるため功利主義は間違っている、と。
 このような反論に対して、二層理論からの再反論を考えよう。直観レベルでは、約束を守ることは道徳的に正しいという直観を持っていた方が望ましいため、約束を守るべきであり、主張の衝突は起こらない。
 また、約束が誰にも知られておらず、守らなかったとしても(約束を破ること自体を除いて)全く問題ないようなケースは現実ではありそうにない。したがってそのような非現実的な状況に対しては、功利主義的に考えて約束を破って募金すべきと答えても何ら問題はないだろう。
 外科医の例と同様に、批判者がなお「実際に起こる場合もある」と問うのだとしたら、そのような例外的状況においては直観ではなく功利主義的に考えて、約束を破り慈善団体に募金したほうが望ましいだろう。*29

 

4.3 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

 『3 功利主義の適用』で見たように、功利主義は私たちに、贅沢品にお金を使わず募金せよ、動物を食べるべきではない、などの厳しい要求を突きつける。またほとんどの道徳規範は、例えば人を殺すべきではない、嘘をつくべきではない、といった消極的規則を命じるのに対し、功利主義は「~すべし」という形(積極的規則)で多くの要求を突きつける。このような多くの厳しい要求をする道徳規範は間違っているのではないだろうか。

 まず、たしかに功利主義は多くのことを要求するが、実はそこまで厳しい要求をするわけではない。例えば、休日なしには私たちの仕事の効率は下がるだろう。休むことなく善行をしようとしても多くの人は続かず、適度に休みながら善行をするよりも休まず善行をすることは帰結として悪いかもしれない。したがって適度に休むことは重要であるし、ある程度の娯楽も許されるかもしれない。*30
 さらに、功利主義がこのように多くのことを要求するのは、今の世界の状態がそのような状態だからである、と答えることもできる。

極端な富や貧困が存在しない、孤立した部族コミュニティの世界の中では、功利主義はあまりに多くを要求しすぎるものにはならない。幅広い贅沢な品物を享受する富裕な人々と極端な貧困の中で暮らす人々がともに多く、富裕層が貧困層を支援できる効果的なチャンネルがある世界では、功利主義者はより多くを要求するようになる。*31

また、ここで1つの修正を試みるのもよいかもしれない。正・不正という単純な二分法で考えるのではなく、倫理的善はもっと連続的なものであるという考え方である。この見解は「スカラー功利主義」と呼ばれている。それは、行為は「それが幸福を推進する程度に応じて正しく、幸福の反対をもたらす程度に応じて不正である」というミルの功利主義の定義からきている。例えば募金について考えると、少し募金することは全く募金しないよりも善く、より多く募金することはそれに比例してより善いだろう、ということになる。この考え方を採用すると、私たちはある程度効果的な募金をしているならば、功利主義的に考えて、非難されるべきものではないといえるかもしれない。*32

 

5 まとめ

 最後に、ここまでのまとめを行う。

 「1 功利主義とは何か」では、基本的な功利主義について、その魅力と代表的な批判を紹介した。功利主義は次のような特徴を備えている。

  1. 帰結主義
  2. 福利主義
  3. 単純加算主義
  4. 最大化

これらそれぞれの特徴に魅力的なところがあるが、同時に批判もある。これらの特徴を持つ功利主義にも批判が相次いでおり、代表的な批判として「臓器くじ」や約束を破るべきとなってしまう、という事例を紹介した。

  「2 功利主義の分類」では様々な形態の功利主義を紹介した。功利主義の形態は

などのようにわかれている。もちろんこれ以外の分類もあるが、それは後述する参考文献を参考にしてもらいたい。

  「3 功利主義の適用」では、功利主義を現実の問題に適用して、私たちがどうすればいいのかを示した。ここでは「遠くの人々に対して配慮しなければならない」こと、「動物に対しても同様に配慮しなければならない」ことを示した。

  「4 功利主義者になる」では功利主義に対する様々な批判に対してどのように答えるかを示した。ここでは代表的な批判として

  • 幸福を単純に比較・足し算することができるのか
  • 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか
  • 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

を取り上げた。これらに対する回答は本文を見てもらいたい。

 

 功利主義は時代とともに洗練され続けてきた規範倫理である。というのも、提唱以来、多くの批判にさらされ続けてきたからである。ベンサムやミルの時代には「豚の哲学」と揶揄された。ロールズ登場以降は政治哲学において、ロールズノージックらからの攻撃を受け、一時劣勢に立たされていたという(もしかしたら今も)。しかし功利主義はいまだに生き延びている。ラザリ=ラデク、シンガーらはこう述べる。

功利主義が批判者の多くより長生きしてきたのには立派な理由がある。倫理学の根本問題は「私は何をすべきか?」であり、政治哲学の根本問題は「われわれは社会として何を行うべきか?」だが、両方の問題に対して功利主義は直截な回答を与える。それは簡単に言えば、なすべきことは最善の帰結をもたらすことだ、というものだ。*33

「0 はじめに」で述べたように、功利主義はとても魅力的な倫理理論、政治哲学理論であると思う。単純明快な論理で、矛盾なく、そして常識道徳にも挑戦的なこの理論には魅力がたくさん詰まっている。
 何よりの魅力点は、皆で議論して最善を目指すことができるという側面を持っていることだと私は思う。ほかの倫理理論ではそれ以上根拠のない直観に頼ってしまい、直観同士の衝突を免れえないと思う。しかし功利主義では「最大多数の最大幸福」という目標を目指して、それを達成するための方法を議論することができる。またJ.グリーンのいうように、功利主義幸福を共通通貨として、各々の常識道徳の衝突を調停することができるメタ道徳として重要な役割を果たすことができるだろう*34

 以上までの内容で、これを読んだ方々が、功利主義に対して少しでも興味を持ってもらえたら、またこれによって誤解が少なくなれば、幸いである。

 

参考文献、読書案内

功利主義について中心的に学びたいならば、読む順番としては

  1. 児玉『功利主義入門』
  2. ラザリ=ラデク, シンガー『功利主義とは何か』
  3. 安藤『統治と功利』(わからなくてもいい)
  4. シンガー『実践の倫理』、または伊勢田ら『生命倫理学と功利主義』、またはグリーン『モラル・トライブズ(下)』
  5. 森村『幸福とは何か』
  6. 若林ら『功利主義の逆襲』
  7. 安藤『統治と功利』(二度目)*35

が現状ではいいと思う。功利主義に限らず倫理学全般を学びたいならば、ひとまず赤林ら『入門・倫理学』か、伊勢田『動物からの倫理学入門』を読むことをお勧めする。

*1:ピーター・シンガー (山内友三郎ら訳)(1999), 『実践の倫理(新版)』,  pp.67-99, 262-296, 昭和堂

*2:カタジナ・デ・ラザリ=ラデク, ピーター・シンガー(森村進, 森村たまき訳)(2018), 『功利主義とは何か』, pp.92-96, 127-138, 岩波書店

*3:これらの主張は、功利主義者の中でも過激である。功利主義的に考えて、これが本当に妥当なのかは定かではない。これから示していくことが本当に正しいことかどうかは、読者それぞれで判断してもらいたい。

*4:後者の「持つとしたらどのような幸福なのか」に関して、どのような幸福を持つのかは種によっても個体(個人)によっても異なるだろう。各人に公平に配慮するという面において重要な違いは幸福を持つか否かだが、各人にどのように公平に配慮するかという面において「持つとしたらどのような幸福なのか」は道徳的に重要な違いである

*5:「道徳的に重要な違い」については次のブログが詳しい。'Treat like cases alike.'という原則 - ピラビタール

*6:もしAIやロボットが幸福を持つならば、彼らもここに含まれる。

*7:以下の資料は
ピーター・シンガー(戸田清訳)(2011), 『動物の解放 改訂版』, 人文書院
による

*8:ここには次のような指摘を貰った。不適切な搾乳法及び搾乳後に乳頭の保護が不十分な場合、細菌が乳頭から侵入して乳房炎を起こす場合が多いので、牛を丁寧に扱っている牧場では乳房炎の牛は少ない、というものである。私は獣医を目指しているわけでもなく、その辺りの知識が浅いので、判断は読者に任せる。

*9:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.131

*10:実際、動物実験は意味がないということが指摘されている。詳しくは、例えば ゲイリー・L・フランシオン(井上太一訳)(2018), 『動物の権利入門』, pp.96-107, 緑風出版
本当に有意義で、かつ以上の条件がクリアされる実験ならば、その場合に限り、動物実験は正当化されるだろうと私は思う。英語だが、ピーター・シンガーの公式FAQの"Is it true that you have said that an experiment on 100 monkeys could be justified if it helped thousands of people recover from Parkinson's disease?"に対する回答が参考になるだろう。
Peter Singer FAQ

*11:この批判は功利主義特有のものでないことを指摘することは有意義だろう。多くの倫理規範は他者の利益や善の大きさを考慮する。しかしこの批判が妥当であるなら、他者の利益がどれほどの大きさなのか全くわからなくなるし、より大きな善を達成するためにどのようにすればいいのか全くわからなくなり、よって多くの倫理規範もこの批判に答えなければならないようになる。ヘアはこれらを一切考慮しない倫理規範ならば問題ないが、そのような倫理規範に魅力があるとは思えない、と述べている。(R.M.ヘア(1994), 『道徳的に考えること』, 勁草書房)

*12:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.89

*13:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.89

*14:もちろん、これらに対して「いや、私の幸福の方が大きい」と答える者もいるだろう。私はそのような意見は聞くに値しないように思う。理由は二つある。第一に、幸福の個人間比較の不可能性を考えれば、そもそも誰の幸福が最も大きいかを答えることができないのだから、そのような意見もまた証明不可能である。第二に、このような主張は本来「私の幸福の方が重要である」であって「私の幸福の方が大きい」ではない。功利主義批判のためにだけ持ち出したアドホックな主張なように思う。日常生活でも本当にこのように考えているとは思えない。

*15:ここには実用主義的な側面があるだろう。つまり、最善の行為を正確に知ることはできないが、最善の行為に近い行為を知ることはおおよそできるだろうし、功利主義的には(実用的な意味で)それで十分である、というような前提があると思う。

*16:ピーター・シンガー(1999),  p.74

*17:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.91

*18:しかしこの回答では問題に答えられていないかもしれない。この後に紹介する2つの批判が反直観的な批判であるのに対し、これは理論的な問題に対する批判である。この違いは大きい。私の考えでは、反直観論法は所詮直観という弱い根拠(これには異議が唱えられるかもしれない)に由来するものでしかなく、そのようなものが何らかの理論に対して決定的な打撃をあたえることはできないように思う。しかし幸福の正確な計算ができないという批判は直観によるものではない。したがってこの批判が妥当ならば、功利主義(および注11で指摘したように多くの倫理規範)に対して決定的な打撃を与えられるかもしれない。

*19:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

*20:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, p.43, 筑摩書房

*21:児玉聡(2012), p.53

*22:詳しくは児玉聡(2006), 「功利主義と臓器移植」, 伊勢田哲治ら編(2006),『生命倫理学と功利主義』, pp.171, ナカニシヤ出版, Häyry, Matti. (1994) Liberal Utilitarianism and Applied Ethics, Routledge, p.98.

*23:児玉聡(2006), p.170

*24:J.レイチェルズ, S.レイチェルズ (次田憲和訳)(2017)『新版 現実をみつめる道徳哲学』, pp.118-125, 晃洋書房
児玉聡(2006), p.177

*25:この指摘はピーター・シンガーが行ったものであるらしい。

*26:児玉聡(2006)

*27:ただしこの議論に対して、臓器くじ制度ができたとしても、私たちはそんなことを気にしないので(外を歩いたら車に轢かれて死亡するリスクがあるから外を歩かないようにしよう、などど考える人はいないだろう)、したがって「モラル・ハザード」は起きないという批判がある。「モラル・ハザード」が生じるかどうかは実際に臓器くじ制度を作ってみるまでわからないので、現状では経験的事実からの推測でしかない。どちらの方が推測として正しそうかという議論をするのもよいが、私としては、もう少し穏便な形かつ臓器くじ制度とあまり変わらない功利性をもつ制度(例えばハリスの提案する「瀕死な者の間での臓器くじ」)の模索をする方が賢明であると思う。もしそのような制度が見つかれば、臓器くじ制度は現状よりいいかもしれないが、最善ではないため、功利主義は臓器くじ制度を作るべしと命じないことになる。

*28:以上の議論は、児玉聡(2006) による

*29:この約束の事例に関してはさらに、誰にも知られていない約束を破って慈善団体に募金することがそこまで反直観的なのかという疑問もある。この議論の詳細は 安藤馨(2007), 『統治と功利』, pp.8-11 , 勁草書房 を参考にしてもらいたい。ここでは個人道徳的観点からではなく統治功利主義という統治の観点からも検討している

*30:またそもそも、なぜ多くのことを要求することが道徳規範として間違っている根拠になるのだろうか。功利主義の要求はできないことを要求するものではない。できる範囲の中で最善の選択をせよと要求しているにすぎない。「~べし」は「~できる」を含意するという道徳規範の前提に功利主義は従っており、道徳規範として間違っているという根拠として弱いだろう。

*31:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.94

*32:以上の議論は、ラザリ=ラデク, シンガー(2018) による

*33:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.ⅸ

*34:ジョシュア・グリーン(竹田円訳)(2015), 『モラル・トライブズ』, 岩波書店

*35:再読するからといって理解できるわけではない。この本を隅から隅まで読んで理解するためには功利主義倫理学の勉強だけでは全く足りない。私自身も半分も理解できてない。しかしこの本が功利主義についての発展的かつ理論的な側面について知ることができる最良の日本語文献であることは間違いなく、それゆえ読む価値があると私は思う。

功利主義(1/2)

 

0 はじめに

 本記事は、規範倫理学の一つの立場である功利主義について入門的なこと、また少し発展的なことを述べる記事である*1

 功利主義はとても魅力的な倫理理論だと私は思う。しかし批判や誤解がとても多く、あまり支持されていない。この記事を読み終わったとき、皆さんに功利主義が好きになってもらえるよう、せめていくつかの誤解がなくなるよう願っている。

全体の構成について。

 「1 功利主義とは何か」では、功利主義の基礎的なことについて述べ、いくつかの代表的な批判を取り上げる。

 「2 功利主義の分類」では、1で述べたことを軸にいくつかの功利主義の形態を紹介する。多くのサイトでは「行為功利主義」と「規則功利主義」、「快楽功利主義」と「選好充足功利主義」の2つで分けられることが多いが、実は他にも分類法があり、多種多様の功利主義が存在する。

 「3 功利主義の適用」では、いくつかの具体例に関して、功利主義的に考えるとどのようにすべきかを述べる。功利主義は様々なことに関して具体的に述べることができる。しかも、一貫性を保ち、矛盾なくそれができる。これが何よりの魅力であると私は思う。

 「4 功利主義者になる」では、功利主義に対してよくある批判を取り上げる。それら批判に対してどのように答えるかを検討することで、功利主義的な考え方をより深くみる。

 「5 まとめ」では、功利主義についての個人的な見解を含めて、全体のまとめを行う。 

1と2を前半で、残りを後半の記事で取り扱う。

ここで、本記事および後半の記事でよく出てくる「直観」という語について説明する。ここでいう「直観」とは私達が普段持っているような常識的な信念(思っていること)のことである。

 

1 功利主義とは何か

 「功利主義とは何か」。一言でいえば「最大多数の最大幸福になるよう行為すべし」という規範である。より詳しく言えば、「功利性の原理」(功利原理)を善や正・不正の基準とするのが功利主義である。「功利性の原理」とは、「人がなすべきことや正しい行為とは、社会全体の幸福を増やす行為のことであり、反対に、なすべきでないことや不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為」のことである、とする原理である*2

 歴史的にいえば、ジュレミー・ベンサム(1748-1832)が提唱し、J.S.ミル(1806-1873)、H・シジウィック(1838-1900)らが発展させたものである。

 

1.1 功利主義の四つの特徴

 功利主義は以下の4つの特徴がある。*3

  1. 帰結主義
  2. 福利主義
  3. 単純加算主義
  4. 最大化

 帰結主義とはあることが結果的にどうなるかを重視する考え方である。意思や性格に注目するのではなく、例えば行為の帰結(結果的にどうなりそうか)に注目する*4

 福利主義とは「幸福こそが重要」という考え方である。幸福主義、厚生主義とも呼ばれる。*5

 単純加算主義とは「各人の効用を公平に配慮して単純に加算する」という考え方である。効用は、福利主義では幸福となる。要するに、全員の幸福を公平に足し合わせる、ということである。ベンサムはこの特徴を「一人は一人として数え、決して一人以上には数えない」と表現している。

 最大化とは、単純加算主義によって算出された総和が最大化するような選択をせよ、という意味である。

 

1.2 功利主義の魅力

 以上、4つの特徴を兼ね備えているのが功利主義である。ではこのような功利主義の魅力的なところはなんだろうか。

 帰結主義の魅力は結果を重視することである。例えば、三流の医師が人を救おうと意志して治療するのと、一流の医師が道徳などを特に考えずに治療するのとで、結果として後者の方がより多くの人々を治療できたのだとしたら、道徳的に善い行為をしたのは後者ではないだろうか。

 福利主義の魅力は私達の直観に合っていることである。私達にとって最も重要なものは何だろうか。例えばあなたが「お金がほしい」と思っていたとする。ではなぜお金がほしいのか。例えば何かを買いたいのかもしれない。もしそうならば重要であるのはお金ではなくその買いたい物である。ではなぜそれを買いたいのか。そうして何度も問い、最後に行き着くところは「幸福になりたい」ではないだろうか。もしそうならば最も重要であるのは幸福だとわかるだろう*6

 単純加算主義の魅力は公平性である。貴族だから、〇〇人だから、男性/女性だから、こういった属性によって重視されたりされなかったりするのではなく、全ての人を(より正確には利益を持つ全ての主体の幸福を)公平に扱う。

 そしてこれらの組み合わせである功利主義の魅力を以下に4つあげる。*7

  1. 矛盾した結果をもたらさないという整合性、単純さ、適応範囲が広いという包括性などの理論としての長所を備えている。
  2. 直観に訴えるような倫理規範とは違い、規則や行為の是非や優劣を(後にみるように)功利計算によってたしかめることができる。
  3. どの行為や政策が正しいかという問いに対して、実証的に研究することで原理的には答えを出すことができる。
  4. 功利主義の備える特徴は、私たちの直観と一致する部分が多い。

 ここで簡単な例を通して功利主義の理解を深めてみる。

 

  Aの幸福 Bの幸福 Cの幸福 幸福の総量
選択肢X 15 2 3 20
選択肢Y 2 5 2 9
選択肢Z 2 5 8

15

 

選択肢X,Y,Zがあり、A,B,Cの三人がいたとする。表中の数字は幸福の大きさである*8。選択肢X,Y,Zの帰結として表のような幸福が得られるとしたとき、それぞれの選択肢の幸福の総量は表の一番右の列となる。このとき総量が最大である選択肢Xが最も善い選択肢だといえる*9。こういった計算のことを功利計算と呼ぶ。

 

1.3 功利主義に対するよくある批判

 功利主義には様々な批判が寄せられている。

 帰結主義に対しては、帰結以外が重要ではないのか、という批判がある。例えば詐欺師が非道徳的に行為した結果全体の幸福が偶然にも増加したとき、帰結主義では善いとしてしまうのではないだろうか。道徳的に重要なのは帰結ではなく、意志や性格、行動の理由かもしれない。

 福利主義に対しては、幸福以外も重要ではないのか、という批判がある。例えば私達は、自由、権利、平等、生命といったものを、ただそれだけで価値のあるものだと考えているように思う。福利主義ではそうしたものを無視してしまうのではないだろうか。

 単純加算主義に対しては、その公平性に対する批判がある。例えば私たちは家族や友人に優先的に配慮するし、それが道徳的に正しいと考えている。しかし単純加算主義の公平性は、見ず知らずの他人(の幸福)と家族や友人(の幸福)を等しく扱うことを要求する。これは私たちの直観に合わないだろう。

 これらを組み合わせた功利主義に対しては、さらなる批判がある。

 まず、幸福を数値化できるのか、そして比較・足し算することができるのか、という批判である。先程の表の例では幸福を数値化していたが、幸福には質量(kg)や長さ(m)のように物理的な単位があるわけではない。まして数値化できないのだとしたら、足し算や比較ができるとは思えない。
 しかし、数値化できなくともある程度なら比較や足し算はできるかもしれない。私たちは実際に比較や足し算をしている。私がレストランでメニューを見て何を注文しようか考えているとき、わざわざ嫌いなものを選ばないし、より好きなもの、よりおいそうなものを選ぶ。つまり、私は料理から得られそうな快楽(おいしさ)を比較している。しかしこれは、個人内での幸福の足し算や比較ができそうである、ということしか意味しない。これは実際に比較や足し算が正確に行われることを意味しないし、個人間で足し算や比較ができることを意味しない。私とあなたの幸福度を共通のものさしで測ることはできないだろう。

 思考実験による批判もある。いくつかあるが、代表的なものとして「臓器くじ」と約束に関する思考実験を示す。まず「臓器くじ」について、Wikipediaから引用する。

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

 

ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。

  • くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
  • 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
  • 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。*10

 例えば臓器移植を必要としている人が5人いたとしよう。そうするとこの社会制度があれば、1人が死ぬことによって5人を救うことができる。功利主義的に考えるといいように思われるが、これは私たちの直観に反するように思われる。

 もう1つの例の、約束に関しての思考実験は次のようなものである。

あなたと友人が遭難して無人島にたどり着いた。友人があなたに自分の全財産を競馬クラブに寄付してほしいと言い残して死んだ。あなたはそうすると約束した。さいわい、その後まもなくしてあなたは救助された。あなたは友人との約束を果たそうと思ったが、よくよく考えると、競馬クラブよりも病院に寄付したほうがより多くの善を生み出せるように思われる。あなたと友人の約束については他に誰も知らない。*11
慈善団体に寄付したほうがより多くの人が幸福になる。約束したことが誰にも知られていないなら、なおさら約束を守る必要なんかない。*12

これもまた私たちの直観に合いそうにない。道徳的に考えて、約束を守るべきではないだろうか。

 これらに対する批判は「4 功利主義者になる」で答える。

 

2 功利主義の分類

 「1 功利主義とは何か」で最も代表的な功利主義について述べた。しかし功利主義はそれだけではない。様々な批判に答えるためにいくつもの功利主義が考え出されている。それらを見ていこう。*13

 

2.1 行為功利主義、規則功利主義、二層理論*14

 「最大多数の最大幸福になるよう行為すべし」が示すように、一般的な功利主義は行為によって最大多数の最大幸福を実現しようとする。これを行為功利主義と呼ぶ。しかし行為功利主義では、先ほどの「臓器くじ」を道徳的に正しいとしたり、約束を破ってもいいとなったりする。これは私たちの直観と合わないのではないだろうか。このような、行為功利主義が直観に合わないという批判に答えるために考え出されたのが規則功利主義である。規則功利主義は「最大多数の最大幸福となるような規則を作り、それに従うべし」というものである*15。規則功利主義では、例えば「嘘をついてはいけない」という規則がある社会とない社会を比較し、功利計算をして、規則がある社会がない社会より幸福が大きくなるならばその規則を作り、私たちはその規則に従って行動するべきだ、とする。私たちが直観的に考えている道徳規則のほとんど、例えば「嘘をついてはいけない」「人を殺してはいけない」といった規則は功利計算上よいことになりそうである*16。したがってその規則を作り、私たちはそれに従うことで、最大多数の最大幸福を実現する。ほかにも「自由」「平等」「権利」といったものも規則として考えたほうが功利計算上よいことになりそうである。こうすることによって行為功利主義への「直観に合わない」という批判を回避できる。

 しかし規則功利主義は本当に批判を回避できているだろうか。例えば先ほどの「嘘をついてはいけない」という規則を考える。この規則がもしあるならば、私たちはいかなる場合でも嘘をついてはいけないことになる。これはこれで直観に合いそうにない。例えば、自宅に友人が逃げてきたとする。その友人は殺人者に追われているのである。友人が逃げ込んだ後、殺人者が訪れ「友人はいるか?」と問うてきたとする。このときあなたが嘘をつかずに正直に話してしまうと殺人者は友人が中にいることを知り、殺すだろう。とすると、あなたは友人を助けるために嘘をつくべきであるように思う。そこで規則を「友人に危険が迫っているとき以外は、嘘をついてはいけない」と書き換える。こうすることで直観に合う規則になる。このような作業を続けていくと「Aという場合、Bという場合……以外は、嘘をついてはいけない」と書き換えられる。しかしこのような例外だらけの規則は規則と呼べるのだろうか。そしてこのように例外をいくつも書き加えていけば個々の場面を区別でき、それについて功利計算することになるだろうが、これは行為功利主義(個々の場面で功利計算し、最善の行為をすべし)と同じではないだろうか。

 このように規則功利主義にも行為功利主義にも問題点がある。そこでこれらのいいとこ取りをしたのがR.M.ヘア(1919-2002)の二層理論(二層功利主義)である*17。二層理論では、私たちの道徳的思考を、直観レベルと批判レベルという2つのレベルに区別する。普段の日常生活では直観レベルで考え、直観的規則に従って行為すべきである。しかし直観的規則の選択や、直観的規則の衝突時には、批判レベルに移って、行為功利主義的に考えるべきだとする。「つまり、普段は直観的に正しいと思える原則に従って行為すべきだが、それでは問題が解決しないときには功利主義に従うべきである」ということになる*18。これは非常に完成された功利主義の一形態といえる。*19*20

 

2.2 直接功利主義、間接功利主義

 行為功利主義と規則功利主義には、行為と規則というところ以外に、もう一つ別の違いがある。それは功利原理をどのように用いるか、である。この違いによって功利主義直接功利主義間接功利主義にわかれる。直接功利主義では功利性の原理*21を個々の行為の決定基準とする。間接功利主義では「功利性の原理はあくまで事態の評価基準であって個々の行為決定に用いられる必要はない」とする*22。例えば、間接功利主義では、行為者が非功利主義的な規則や習慣に従って最大幸福を実現することもよしとするだろう。となると、直接功利主義は行為功利主義と、間接功利主義は規則功利主義と同じだと考える人もいるだろう。しかし、それは次の理由によって違うと考える。
 行為功利主義は行為によって最大多数の最大幸福を実現するものだが、これは行為の意思決定に功利原理を用いることを要求していない。ある行為の評価基準として功利原理を用いることもまた行為功利主義の一つである。よって行為功利主義は間接功利主義である場合もある。同様にして、規則功利主義も直接功利主義である場合がある。ある行為の選択時に、功利原理に従って最適規則体系(全員の幸福を最大化するような規則の体系)をその場で考え、選び出された最適規則体系に基づいて行動するなら、それは功利原理を意思決定の規準として用いていることから直接功利主義となるし、行為の正しさを規則の遵守に帰属し、規則を功利原理によって選択しているから規則功利主義となる。すなわちこのタイプでは直接規則功利主義となる。*23

 再度述べれば、行為・規則の違いは最大多数の最大幸福を達成する方法の違い、直接・間接の違いは功利原理の使い方の違いである*24

 

2.3 快楽説、選好充足説、客観的リスト説*25

 次は幸福*26についての分類である。福利主義によれば幸福が重要であるということだが、幸福とはいったい何だろうか。ここでは大きく三つ考えられる。*27

  • 快楽説
  • 選好充足説*28
  • 客観的リスト説*29

快楽説とは、幸福とは快楽のことである、という考え方である。たしかに、快楽を感じているとき私たちは幸福を感じているように思う。功利主義の提唱者であるベンサムやミルは快楽説による功利主義を考えていた。ただし両者の考えていた快楽説は違うものである。快楽説は以下の二種類に分かれる*30

  • 量的快楽説
  • 質的快楽説

量的快楽説とは、私たちの幸福は「快楽」と「苦痛がないこと」のみであり、またこれらの量を測定することによって、その経験がどれくらい私たちにとって善いを決定できるという考え方である。ベンサムがこれを支持していた。
 質的快楽説とは、快楽には質があり単純に量として比較することはできない、という考え方である。ミルがこれを支持していた。ミルの考えによれば、芸術鑑賞や学術的研究などの知的な快楽が、性的な快楽に代表されるような感覚的快楽よりも価値があるという*31。どちらの快楽の質がいいかという判断は、両方を経験すればわかるとミルは主張している*32

 さて、私たちは快楽を本当に幸福であると考えているだろうか。快楽説が正しければ、例えば、麻薬などによって薬づけにされ、快楽を永遠と享受することが幸福であることになる。これは直観に合いそうにない。
 また「経験機械」という思考実験による批判もある。

これは、脳に電極を差し込むことにより、あなたが望むあらゆる体験をバーチャルに経験できる機械の話だ。この機械による副作用などはなく、使用中も健康状態はモニタリングされ、機械につながれていなかった場合と同じ健康状態が保たれる。そこで、あなたは上で述べたような「快適な意識状態」を好きなだけ楽しむことができる。また、心配性の人のために、数年に一度、現実世界に戻ってくることもできる。さて、このような経験機械にあなたはつながれたいと思うだろうか。あるいは、つながれることが幸福だと思うだろうか。*33

これが幸福であると思えないという人は、快楽説を支持できないだろう。また快楽説では「1.3 功利主義に対するよくある批判」でみた幸福の個人内・個人間の比較と幸福の計算不可能性の批判をもろに受ける。

 これらの快楽説に対する批判を回避できるのが選好充足説である。選好充足説とは、幸福とは選好や欲求が充足(満足)されることである、という考え方である。ここで注意しなければならないのが、選好充足説では、実際に選好が充足されることを幸福とする。例えば、あなたは野球が好きで、巨人のファンで、巨人がリーグ優勝することを欲求している。ある時あなたは巨人がリーグ優勝したという情報を手に入れ、欲求が充足されたと感じた。しかしその情報はデマだったとしよう。するとあなたの欲求は実際には充足されていない。したがって選好充足説においては、あなたの欲求は充足されておらず、あなたは幸福ではないとなる。
 さて、選好充足説では「経験機械」の問題を回避できる。ある選好を持っていて、経験機械の中でその選好が充足されたように勘違いしたとしても、実際には充足されていないのでそれは幸福とはいえない。選好が実際に充足されて初めて幸福になる、というのは私たちの直観に合うだろう。また幸福の比較問題や計算問題もある程度回避できる。個人内の比較ではどちらの方をより望んでいるかは何となく判別がつくだろうし、快楽とは違い欲求はある程度数えることもできるため計算できる可能性がある。

 しかし、選好の強さの個人間の比較の問題を回避できておらず、また計算できる可能性があるとはいえ、完全に解決されたわけではない。
さらに、選好充足説に対しては、過去にもっていた選好が充足されることが本当に幸福なのかという批判がある。例えば児玉(2012)は二つの例でそれを示している。*34

 一つ目の例は次のようなものである。ある研究者がノーベル賞を欲しがっていたとしよう。しかしその研究者は発表直前に死んでしまった。ノーベル賞をその研究者が受賞することが決まっていたとしたら、死後ではあるが、選好が充足されたことになる。はたして研究者は幸福になったといえるのだろうか。
 二つ目の例は、アルツハイマー患者の例である。あなたの妻は有名な哲学者兼作家で、自分の知性に誇りをもっていた。そのためそれを失うのを恐れていた。妻は次のように周りにお願いしていた。「私がもしアルツハイマー病になったら、積極的な治療をせず、なるべく早く死なせてほしい」というものである。その後、実際に患ったとしよう。病気は進行し、患者は過去の記憶をほとんど失ってしまった。もちろん周りにお願いしていたことも忘れてしまった。しかし日々を楽しく過ごしており、とても幸せそうである。そんな妻が、肺炎を患ったとしよう。抗生物質を用いれば簡単に治せる。では、「早く死なせてほしい」という元々の選好を充足させるために、抗生物質を用いないほうがいいのだろうか。それとも現在の幸福そうな状態を維持させるために治すべきだろうか。選好充足説では前者を行うべきとなりそうだが、これは本当に患者にとって幸福なのだろうか。

 選好充足説にはさらに大きな問題がある。適応的選好の形成という問題である。

「女性は男性に尽くすのが当たり前」と教えられている男女不平等の社会を考えてみよう。そのような社会で育ちそれに適応した選好を持つ女性は、男性に尽くすことによって幸福感を得ることになるだろう。
(中略)
そして、男性に尽くしたいという選好が叶い、幸福感を得られているのなら、何も問題ないではないかと言うかもしれない。だがはたして、そのような社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか。

このように、非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。*35

この問題を回避できない限り、選好充足説を支持するのも難しいかもしれない。

 そこで次に考えられるのが客観的リスト説である。これは幸福とは人々が「善いもの」を持つことである、という考え方である。ここでいう「善いもの」とは何だろうか。これを前二つと比較しながら説明する。

 快楽説と選好充足説は幸福に対して主観的な立場をとる。対して客観的リスト説は幸福に対して客観的な立場をとる。主観的な立場では、幸福とは主観的なものである、とする。快楽も選好充足も、ある個人が主観的に経験するものであるし(選好充足は必ずしも経験を必要としないが)、また欲求や選好は当人が望むものである。一方幸福に対する客観的な立場では、幸福とは客観的なものである、とする。例えば、当人がどれほど快楽を感じ欲求を充足させていたとしても、貧乏だったり知的に不足していたり、そういった豊かでない人生を送っていたとすると、これを幸福な人生だといえるだろうか。客観的リスト説では、仮に快楽を感じていたとしても、(客観的に)「善いもの」を当人がもっていない場合あまり幸福ではないとなる。当人が「善いもの」を持つことではじめて、その当人は幸福である、となる。この立場をとれば、「経験機械」の問題、幸福の比較問題、計算問題、適応的選好形成の問題など、ほとんどの問題を回避できる。
しかし客観的リスト説には重大な問題点がある。客観的な「善いもの」のリストの作成が非常に難しいということである。例えば、快適な住居や食事、健康や自由などは利益リストに載るかもしれない。しかし名画鑑賞、知的な探求、政治参加、結婚、出産など、これらがリストに載るかどうかは定かではない。さらに、リストに載るような事柄がどのような根拠によってリストに載るのか明確ではない。そして仮にリストができたとしても、そのリストを押し付けられて「これがお前の幸福のリストだ」といわれても、私たちがそれを幸福だと思えないなら、やはりそれは幸福ではないかもしれない。

 

2.4 積極的功利主義、消極的功利主義

 次の分類は、幸福を増やすのか、不幸を減らすのか、どちらに焦点を当てるかということに関して、である。通常の功利主義は、功利計算によって幸福と不幸の足し引きが行われ、それが最大化するよう命じる。このように積極的に幸福の総量を増加させることを善とする功利主義積極的功利主義*36という。しかしこれでは、多少の不幸が生まれてもより大きな幸福が生まれるならそれを善としてしまうし、何より幸福を積極的に増加させるべきだとは直観的に思えないかもしれない。そこで、不幸を増加させないことを善とする功利主義を考える。このような功利主義消極的功利主義*37という*38。簡単な例を通して考えてみる。

 

  幸福の量 不幸の量 総量
選択肢X 20 10 10
選択肢Y 10 5 5
選択肢Z 40 20

20

 

通常の功利主義、つまり積極的功利主義ではZが最も善いとなる。しかしZは他の選択肢に比べて不幸の量が多い。消極的功利主義では不幸の量が最も小さいYを最も善いとする。道徳が、幸福を積極的に増加させるようなものではなく、できる限り不幸を小さくするようなものだと考えるならば、消極的功利主義の方が望ましいだろう。

 ところが、消極的功利主義ではあまり望ましくない結論が出てくる。次のような例を考えてみる。

 

  幸福の量 不幸の量 総量
選択肢W 0 0 0

 

選択肢Wは幸福も不幸も0であるので、その総量も0である。これは誰もいなくなる選択肢である。消極的功利主義では当然、これを最も善いとする。つまり、消極的功利主義では誰もいない、全ての者が絶滅した世界が最も善い世界だということになる。これは直観に合わないだろう。

 

2.5 総量説、平均説、先行存在説

 最後は功利計算の結果をどうするかによる分類である。これには三つの考え方がある*39*40

  • 総量説
  • 平均説
  • 先行存在説

功利主義の特徴の一つに「最大化」があった。何を最大化するかということに関して、幸福の総和(合計)を最大化するという考え方が総量説である。平均説では、幸福の総量ではなく人数で割った幸福の平均を最大化する。

 もし人口が変わらない・変えられない場合、総量説と平均説に違いはない。しかし人口の増減を考慮すれば、そうではない。例えば、功利計算上少しでも幸福がプラスになるような子どもを多く生むことによって、幸福の総量は大きくなるだろう。したがって総量説によれば、幸福の総量が少しでもプラスであるような子どもを産むべき、となる。しかしそうすると、非常に小さい幸福しか得られない人生を送る子どもも生むべきとなってしまうし、そもそも「子どもを生むべきだ」という主張も直観に合いそうにない。
 平均説ではこれを回避できる。平均説では現在の幸福の平均値未満の幸福しか得られないような子どもを生むべきではないことになる。しかし平均を下回っている幸福しか得られてない人々を(苦痛なく)殺すことによって平均を上げることができるならば、平均説では平均未満の幸福しか得られない人々を殺すべきとなってしまう。

 総量説も平均説も、私たちの直観に合わないだろう。そこで考えられるのが、先行存在説である。先行存在説は既に存在している人々のみを考えて功利計算を行う、という考え方である。これによれば、人口を増やすことによって幸福を増やしたり、あるいは先行存在を殺して幸福の平均を増やしたりしない。しかし先行存在説では、総量説に見られたような幸福がプラスになる子どもを生むべきだということはないが、しかし幸福がマイナス=不幸な子どもを生むべきでないということも言えない。つまり誰かを生み出すことに関して、何も述べることがないのである。そうすると次のような例を考えると、先行存在説も直観にあいそうにないのである。

 例えば、これから妊娠しようと考えている女性がいたとする。この女性は病院で検査を受けたところ、ある病気を持っていた。今妊娠すると、その子供は確実に重たい障害を持つ。この病気は3ヶ月で治るとしたとき、彼女は3ヶ月の間、妊娠を避けるべきであるように思われる。しかし先行存在説ではそうならない。新たに子供を生むことに対して何ら述べることができない、つまり彼女が妊娠しようがしまいが、道徳的にどっちでもいいということになる。これは直観的におかしいだろう。したがって先行存在説も微妙である。*41

 

2.6 私が支持する功利主義

 様々な功利主義の分類を見てきたが*42、いったいどれが一番いいのだろうか。どれもこれも問題があって何がいいのかわからないかもしれない。もちろんこれには様々な考え方があるが、ここでは私が支持している功利主義を簡単に示すことにする。私が支持する功利主義は「二層・間接・快楽・積極的・先行存在功利主義」である*43。順に説明する。

 二層理論は2.1で説明したように、規則功利主義と行為功利主義のいいとこ取りをしており、両者の欠点をお互いに補い合っている。これを選ばない理由は無いように思う。また後半の記事で示すように、二層理論は反直観論法に対して強力な反論を行うことができる。

 間接功利主義は明らかに直接功利主義より優れているように思う。私たちは有限な時間と知識しか持ち合わせておらず、その都度功利計算を行っていては計算を誤るだろう。全知全能ならまだしも、そうではない私たちにとっては間接功利主義を採用すべきだと考える。また、功利原理を満たすために、なぜその意思決定に功利原理を使わなければならないかも定かではない。功利原理を満たすことができるなら、その意思決定の過程に功利原理が入る必要はないだろうと思う。

 快楽説は「経験機械」などの批判が相次いでいるが、しかし選好充足説や客観的リスト説よりも魅力的だと思う。まず客観的リスト説は押し付けがましいところがあり、また当人が望んでいないような事柄も「いやそれがお前の幸福だ」と押し付けてくるので、「当人が望んでいないにもかかわらず当人の幸福に寄与する」というあまり納得できない場合があり、魅力的ではないように思う。そこで主観的な立場である快楽説と選好充足説で悩むことになる。選好充足説では本人の知らないところで選好が充足された場合に幸福になるとする。しかしこれも本人が知らない=本人が幸福だと感じることはないという意味で私には魅力的ではない。私は、本人の選好が充足されたということを本人が知って(かつ満足感を得て)初めて本人の幸福に寄与する、と思う。したがって私は快楽説を支持したい。*44

 積極的か消極的かについて、生物が絶滅した世界が最も善いという消極的功利主義の主張を、私は受け入れられる。なら消極的でいいじゃないかとなりそうだが、しかし消極的功利主義では、不幸の量が同じならば、幸福の量が違っても同様の善さしかない。不幸の量が同じでかつ幸福の量が違うならば、幸福の量が大きい方が善いと私は思う。また「不幸を増やしてでも幸福の総量が最大限大きくなるよう行為すべし」とう積極的功利主義は道徳的に間違っているように思われるが、このような批判は、現実的には的はずれな批判になると考える。実践上、あるいは二層理論的な直観的規則の範囲ではおそらく、不幸を増やして幸福を最大限増加させるような選択肢はほとんど存在しないように思う*45。例えば誰かに不幸を押し付ける形態の社会や行為は差別社会と同じであり、これは最善ではないように思う。ベンサムやミルが当時、奴隷や女性の社会的地位を向上させるよう訴えていたことを考えれば、これは間違いではないと思う。したがって消極的功利主義を支持する理由(不幸を増やして幸福を最大限増加させる選択は道徳的に悪そうだという直観)を、実践上では積極的功利主義でも擁護できると思う。よって私は(批判的レベルでは怪しいが、実践上は)積極的功利主義がいいと考える。

 先行存在説に対する批判は生むことに関して中立的であるというものであったが、しかし総量説や平均説に比べれば幾分もましであると思う。また中立的とはいえいくらかは述べることができる。

(ある夫婦が子供をつくろうとしているが、その子供は遺伝子の欠陥を引き継ぎ、非常に悲惨な人生を送り、二歳になるまでに死んでしまうとする。)

悲惨になるであろう子供を作ることについて直接不正な点は何もない。しかしいったんそのような子供が存在するなら、その子の人生は悲惨以外のなにものでもないから、我々は安楽死という仕方でこの世における苦痛の量を減らすであろう。しかし安楽死は、両親や他の当事者にとっては、子供をつくらないということにくらべてはるかに痛ましい道である。そこから、<悲惨な生涯を送らざるをえない子供はつくるべきでない>ということの間接的な理由があることになる、と。*46

 

以上が、私が支持する功利主義の形態である。読者の皆さんにはどの功利主義を支持するか(あるいは支持できないか)を考えてみてほしい。

 

 次の記事では、功利主義によればどのような結論が導かれるのか、また功利主義に対する批判に答えることで、功利主義的な考え方をみていく。

(前半終わり)

後半↓

功利主義(2/2) - ボール置き埸

*1:入門的な内容ならWikipedia他多数の参考になるサイトがある。ある程度功利主義を知っている人ならば『道徳的動物日記』(はてなブログ)のいくつかの記事がとても参考になる。

*2:児玉聡, 『功利主義入門』(2012), p.46, 筑摩書房
 ただし、この定義はあまり適切ではないと考える。社会といったとき、この社会は人間社会を指していると考えるのが通常であるが、功利主義は苦痛を感じる個体全体の幸福を考える。したがって社会というより世界といった方が適切だと考える。(William K. Frankena, 1973, Ethics second edition)

*3:赤林朗ら,『入門・倫理学』(2018), pp.30,31, 勁草書房
伊勢田哲治, 「功利主義とはいかなる立場か」, 伊勢田哲治ら編,『生命倫理学と功利主義』(2006), pp.3-25, ナカニシヤ出版

*4:もちろん行為の帰結に限らない。後に見るように規則があることによる帰結を考えるような立場も存在する。2.1を参照

*5:ただしここでいう「幸福」が何を意味するのかは定かではない。これに関連して英語圏では二つの概念"well-being"と"happiness"がある。前者の定訳は「福利」である。後者の定訳は「幸福」であるが、後者については「幸福感」と訳すほうが日本語として適切かもしれない。詳しいことは 森村進, 『幸福とは何か』(2018), 筑摩書房を参考にしてほしい。またこの幸福については2.3で詳しく扱う。

*6:何らかの事物が、ただそれだけで善いもの(目的自体として善いもの)であるというとき、それは内在的価値を持つという。反対にお金のようなものは手段的な価値があるとして外在的価値を持つという。福利主義は、幸福のみに内在的価値をおく考え方である。

*7:赤林朗ら, 『入門・倫理学』(2018), p.95

*8:通常はこのように数値化しない。幸福を考えるときはどんぶり勘定、つまりどっちの方がより大きいか程度の比較であまり厳密に考えていない。

*9:例えばあなたがCだとしたら、あなたは選択肢Zを選びたくなるだろう。あるいはBの社会的地位が高く、Bの幸福はもしかしたら他の二人より重要かもしれない。であるならば選択肢Yが善いかもしれない。しかし功利主義(正確には単純加算主義)はそれを許さない。「一人は一人として数え、決して一人以上には数えない」というベンサムの言葉にそれが如実に表れているだろう。

*10:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

*11:児玉聡, 『功利主義入門』(2012), p.43

*12:児玉聡(2012), p.53

*13:あまりに発展的な内容になるのでここには書かなかったが、他にも様々な分類がある。例えば、個人の倫理なのか統治者の倫理なのか、行為前の期待値を評価するのか行為後に実際にどうなったかで行為の評価をするのか、などによる分類がある。詳しくは 安藤馨, 『統治と功利』(2007) , 勁草書房 を参照。また、幸福に関しての分類のみは、功利主義の分類というより幸福についての分類であることに注意されたい。というのも、功利主義に対する批判として扱われているものの中には幸福の快楽説に対する批判でしかないものがあるからである。

*14:ここでは詳しく紹介しないが、他にも動機功利主義というものもある。動機功利主義は「最大多数の最大幸福となるような動機を持つべし」というものである。規則功利主義の規則を動機に置き換えたと考えればよい。

*15:ここでいう規則について、例えば政府が定める法はもちろんだが、私たちのマナーなども規則の1つと考えられる。したがってこの規則は法のみを意味するわけではない。しかし、狭い意味(あるいは政治的な意味)では法のみを意味するだろうと思う。

*16:もちろんこれは雑すぎるが、しかしほとんどの規則はないよりある方が多くの幸福を生むように思う。

*17:詳しくは R.M.ヘア(内井惣七ら訳), 『道徳的に考えること』(1994), 勁草書房 を参照

*18:瀧川裕英ら, 『法哲学』(2014), pp.17,18, 有斐閣

*19:ただし批判がないわけではない。B.ウィリアムズは二層理論や規則功利主義を「植民地総督府功利主義」と呼んで非難した。これは、二層理論や規則功利主義の考え方によれば、社会全体の幸福を正確に計算できる「功利主義エリート」は批判レベルで正確に判断できるため、いかなる制度や教育プログラムが望ましいのかを正確に判断できる。そのためエリートらがそのような制度設計を行い、エリートでない一般大衆は「功利主義エリート」の制定した規則にただ従うのが、功利主義的に望ましい社会だ、ということになる。これは「植民地総督府」が支配した社会を思い出させるだろう。赤林朗ら, 『入門・倫理学』(2018), pp.100 を参照。

*20:二層理論は両者のいいとこ取りをしている分、どちらの欠点も抱えているかもしれない。ウィリアムズが批判しているのは実際には規則功利主義の欠点であり、それが二層理論にも引き継がれてしまっていると考えられる。

*21:「人がなすべきことや正しい行為とは、社会全体の幸福を増やす行為のことであり、反対に、なすべきでないことや不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為」のことである、とする原理。児玉聡, 『功利主義入門』(2012), pp.46, 筑摩書房

*22:安藤馨, 『統治と功利』(2007), p.59

*23:以前は次のような理由を述べていた。「規則功利主義は間接功利主義にならざるを得ないだろうが、間接功利主義だからといって規則功利主義とはならず、行為功利主義である場合もある。」だが、「規則功利主義は間接功利主義にならざるを得ない」は以上に説明したように間違いであった。また詳しくは、安藤馨, 『統治と功利』(2007), pp.59.60を参照。だがこれはあくまで理論的に可能な立場であって、現実的には不可能な選択肢であろう。しかしそういってしまうと、直接功利主義全般にこれは当てはまってしまうかもしれない。

*24:別の違いとして功利計算のタイミングの違いもあると考える。例えば規則功利主義にしろ二層理論にしろ、事前に功利計算を行って規則を作る必要がある(直接規則功利主義ならその限りではない)。しかし直接行為功利主義では、定義からしてその場その場で功利計算をする必要がある。

*25:本章の冒頭の注で指摘したように、これに関しては功利主義そのものではなく功利主義の厚生主義の側面の分類である。したがって功利主義は以下に説明するいずれかの立場にコミットするが、(よく批判される)快楽説(快楽主義)に必ずコミットするわけではない。これはよく注意されるべきことである。

*26:福利主義のところの注で説明したが、再度説明すれば、最近は幸福という言葉を使わずにウェルビーイング(well-being)という言葉を用いる。ウェルビーイングの定訳は福利である。幸福は主にハピネス(hapiness)の定訳になりつつある。しかし森村(2018)が指摘するように日本語には違いがあまり見られないし、そこまで現代英米倫理学に準拠して説明する必要はないだろうと思う。また功利主義では幸福ではなく効用(utility)という言葉が代わりによく用いられるが、これについても(少なくとも入門的な内容の範囲であれば)こだわらなくてよいだろうと思う。

*27:児玉聡『功利主義入門』(2012) pp.131-168 など。ほか多数の文献あり。一番上は特に参考になる。

  • 森村進(2018), 『幸福とは何か』, 筑摩書房
  • 安藤馨(2007), 『統治と功利』, 勁草書房
  • 米村幸太郎(2017), 「欲求か快楽か、快楽だとしてもどのような快楽か?」, 若林良樹ら編(2017), 『功利主義の逆襲』, pp.35-56, ナカニシヤ出版
  • 江口聡(2015), 「幸福についての主観説と客観説,そして幸福の心理学」, 哲学の探求第42号, 哲学若手研究者フォーラム

    *28:欲求充足説・欲求実現説ともよばれる。ここでいう選好は「好んで選ぶ」くらいの意味合いで考えていい。選好と欲求はほとんどの場合、同じような意味である。

    *29:利益説ともよばれる。

    *30:二種類というが、以下の快楽説はどちらも感覚的快楽説とよばれるものである。感覚的快楽説以外では態度的快楽説というものがあるが、ここでは扱わない。詳しくは 森村『幸福とは何か』や 安藤『統治と功利』 を参照。

    *31:前者を「高級快楽」、後者を「低級快楽」と表現する場合もある。

    *32:詳しくは J.S.ミル(1861), 「功利主義」, J.S.ミル (川名雄一郎ら訳)(2010), 『功利主義論集』, pp.257-354, 京都大学学術出版会

    *33:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.148,149

    *34:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.154,155

    *35:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.156,157

    *36:ポジティブ功利主義ともいう。

    *37:ネガティブ功利主義、マイナス功利主義ともいう。

    *38:瀧川裕英ら(2014), 『法哲学』, pp.10,11 また次のサイトが参考になる。ネガティブ功利主義とは

    *39:安藤馨(2007), 『統治と功利』, pp.119,120

    *40:D・パーフィット(1984, 邦訳1998)は、総量説および平均説がはらむ問題を『理由と人格』の第四部で詳細に論じている。この問題を論じる上で彼の議論は避けられないのだが、ここでその議論を紹介すると内容が難しくなるので、ここでは紹介しないことにする。

    *41:この種の問題をさらに深く考えていくと非同一性問題という問題に直面する。詳しくは D・パーフィット(森村進訳)(1998), 『理由と人格』, 勁草書房 の第四部を参照。

    *42:功利主義には様々な立場があるため、ある人が功利主義について語ったとき、それがどの功利主義を指しているのか注意する必要がある。なお、批判者が単に功利主義といったときにはおそらく「行為・直接・快楽・積極的・総量功利主義」を意味すると思う。対して功利主義者が単に功利主義といったときに意味するのは「行為・間接・快楽または選好充足・積極的・総量功利主義」であると思う。つまりここの相違点は直接か間接かである。この違いは非常に大きい

    *43:もちろん、後に変わることがあるだろう。特に幸福に関して、私は選好充足説と快楽説(態度的快楽説)で非常に迷っている。

    *44:今(2019/5/10)は感覚的快楽説を支持している。以下は過去に態度的快楽説を支持していたときの記述である。

     ただし、私は今回の記事で説明しなかった態度的快楽説というものを支持しているので、単純な快楽説=感覚的快楽説とは少し違う。また、以前は選好充足説を支持していたが、今は立場を変えて快楽説を、特に態度的快楽説を支持することにした。以前の文章を以下に示す。
     選好充足説は、実際に選好が充足されることによって幸福とする。これは私にとって非常に直観にあう。快楽説では欲求が充足されたと勘違いすることも幸福になるが、しかし私は実際に充足されてほしいと思うし、またそうでなくては幸福ではないと思う。また客観的リスト説は押しつけがましいところがあるので、私には受け入れられそうにない。よって、かなり直観的だが、選好充足説を支持したい。

    *45:ただし、出生に関してはその限りではないだろう。反出生主義、アンチナタリズム、エフィリズムなどでは消極的功利主義閾値消極的功利主義が支持されることが多い。しかし、いずれ記事にする予定だが、積極的功利主義でもアンチナタリズムを(消極的に)支持することは可能であると考える。

    *46:ピーター・シンガー (山内友三郎ら訳)(1999), 『実践の倫理(新版)』, pp.126,127, 昭和堂

雑考:出生は危害か

以下に述べることは道徳的な議論ではない。したがって、これが善いか悪いか、という話では全くない。

前半部分は道徳的な議論ではないが、後半のあるところから道徳的な議論になる。どこからかは明示してあるので、前半部分についてのみ注意してほしい。

 

 

ANにおける出生=加害行為だけど

  1. 加害行為は苦痛を直接与える行為、あるいは間接的に与える行為のことである。
  2. 私たちは人生の中で苦痛を必ず経験する。
  3. 出生は人生をスタートさせる行為である。
  4. 1,2,3より、出生は苦痛を間接的に与える行為なので、加害行為である。

 

先日、以上のような論証をツイッターで行った。この論証の2〜4に関しては問題ないと思う。1について、大きく分けて2つほど指摘を頂いた。

  1. 加害行為が悪でない場合がある。
  2. 加害行為の定義がおかしい。

1について、冒頭に述べたように善悪の判断ではないので、的はずれな指摘である。しかし加害行為は悪の意味がたしかにある。この誤解は私の表現の稚拙さによるものであり、私の責任だろう。

2について、これに関してはツイッターで議論した。たしかに「加害行為」の分析的定義としては不適切だったかもしれない。しかし議論を通していく中で、私がここで述べたかったことを私自身が理解していなかったことがわかった。ここで私が述べたかったのは「出生は加害行為か」ではなく「出生は苦痛を(直接なり間接なり)与える行為か」であった。したがって加害行為が一般的な意味から外れているとしても、私の議論では何ら問題はなかった。つまり、私はここで「苦痛を(直接なり間接なり)与える行為」の代替表現として「加害行為」を用いていたので、分析的に定義する必要はなかった。「加害行為」は他の表現(例えば危害行為、損害行為など)でも何も問題なかった。したがって2に関する指摘も的はずれである。1と同様、この誤解も私の表現の稚拙さによるものであり、私の責任である。

 

さて、「加害行為」では誤解を招くため、ここでは便宜的に「危害行為」という表現を用いる。上述したように、この名前は何でもいい。
危害行為に変えて、先の論証を訂正する。

  1. 苦痛を直接与える行為、あるいは間接的に与える行為のことを危害行為とする。
  2. 私たちは人生の中で苦痛を必ず経験する。
  3. 出生は人生をスタートさせる行為である。
  4. 1,2,3より、出生は苦痛を間接的に与える行為なので、危害行為である。

 

今後、この論証に関してここに追記する予定である。追記内容は主に、苦痛を"直接"的ないし"間接"的に与える行為とはどのような行為か、である。

 

追記

考えていく中で、直接ないし間接的に与える、ということはあまり重要でないと判断した。以下に述べることは危害行為のより厳密な定義、および危害行為の是非である。

 

他者に苦痛を与える行為のことを危害行為と定義したが、より厳密に定義しよう。
危害行為とは次の条件に当てはまる行為のことである。

  1. ある者が苦痛を経験した。
  2. ある行為が、1の原因となる行為であった。

この定義では説明不十分だろう。というのも、原因となる行為が何を意味しているのか明らかではない。原因と結果の関係である因果関係は、哲学的にかなりの曲者であるが、ここでは簡単に、次のように定義する。

「ある行為が行われたとき、他のすべての条件が同じならば、ある事象が起こるとする。そしてその条件下である行為が行われなかったとき、ある事象が起こらなかったとする。このとき、その行為は、ある事象が起こることに関する原因となる行為である。」

他のすべての条件が同じならば、もまだ明らかではない。これは「ある行為が行われたか行われてないか以外の他のすべての条件(例えばその時のTPO、あるいは別の行為者の介入、そういったすべての条件)を統一して、そして行ったとするならば」という意味である。
単純な例で考えよう。AがBに暴力を振るうことを考える。暴力を振るったか振るわなかったか以外はすべて同じだとしよう。そしてこのときAが暴力を振るってBが苦痛を経験したが、Aが暴力を振るわなかったらBは苦痛を経験しなかったとしよう。このとき、Aの暴力を振るうという行為はBの苦痛の経験の原因となる行為といえる。もし、暴力を振るう振るわないに関係なくBが苦痛を経験したならば、Aの暴力行為はBの苦痛の経験の原因となる行為ではない。

 

さて、これで危害行為の説明は十分だと思う。ここでもう一度述べる。

危害行為とは次の条件に当てはまる行為のことである。

  1. ある者が苦痛を経験した。
  2. ある行為が、1の原因となる行為であった。

では出産、正確にはある者の人生をスタートさせる行為は危害行為だろうか。
ある者はその人生の中で必ず苦痛を経験する。そして人生がスタートされなければある者は存在せず、したがってある者は苦痛を経験することはない。つまり、人生をスタートさせる行為はある者の苦痛の経験の原因となる行為である。したがって、人生をスタートさせる行為=出生は危害行為である。

さて、そうなるとこの危害行為が道徳的に悪いのか善いのかということが気になる。功利主義的に考えれば、危害行為をするかしないかしか選択肢がないならば、危害行為の有無でどちらの方が功利原理を満たすか、によって善悪が判断される。しかしこの問題は非常に難しい。人生をスタートさせる行為の帰結をどこに設定したらいいのか、そもそも人生をスタートさせる行為とはどのようなものか、などの問題があると考える。これを解決するのに必要な材料を私は持ち合わせてない。
そこで規則功利主義的に考えることにする。つまり、危害行為をしてもよいとするのと、してはならないとするのとで、どちらの規則の方が良いかを考える*1

ここで思い出されるのは、ミルの他者危害原理である。他者危害原理は次のように定式化される。

その原理とはこうだ。人間が個人としてではあれ、 集団としてであれ、誰の行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである*2

他者危害原理は統治についての原理であるが、個人道徳としても十分に有用であると考える。
一つ注意しなければならないのは、ここでいう危害が及ぶ(以下、ミル的危害行為)というのが、私のいう危害行為ではないということである。というのも、私は危害行為を便宜的に定義したからである。しかし、私の危害行為はミル的危害行為の十分条件、つまり、危害行為ならばミル的危害行為であると考える。ただし逆は成り立たないかもしれない。つまり、ミル的危害行為ならば危害行為である、は真ではないかもしれない。だがこれは重要ではない。なぜならミル的危害行為に危害行為が含まれるならば、他者危害原理を用いて危害行為の是非について述べることは可能であるからである。*3

元に戻ろう。私は、他者危害原理は規則として妥当だと思う。これについてはミルが『自由論』の中で詳細に述べているので、そちらを参考にされたい。
さて、規則として他者危害原理を採用する。となると当然、危害行為を行う者に対して、その行動の自由に干渉するのは正当である。危害行為の自由に対して干渉するのが正当であるならば、人生をスタートさせる行為=出生の自由に干渉するのもまた正当である。ここにアンチナタリズムの正当性がある。

*1:これは実際は二層理論的な考え方である。つまり、今行おうとしているのは直観的規則の選択である。

*2:J.S.ミル(山岡洋一訳), 『自由論』(2011), 日経BP

*3:ミル的危害行為が意味する危害とはどのようなものを意味しているのか、という大問題がある。この危害の範囲によってはあまり直観的でない結論が出てくるかもしれない。しかしここで述べるには私の知識が不足しすぎている。これについて知りたい方は、例えば安藤馨『統治と功利』(2007)が参考になるかもしれない。

植物に配慮するべきか

0.前提

まずはじめに私の立場を述べておく。私はシンガー的なヴィーガニズム(快楽または選好功利主義による反種差別)に賛同しており、工場畜産は廃止するべきだと考える。また私はヴィーガンである。フランシオン的な動物の権利論の立場にはあまり賛同できないにしろ、その考え方にはいくつか賛同できるところもある。

また、私はこの記事をもってして植物に配慮するべきだと大きな声で主張するわけではないし、また動物に配慮しなくてもいいという考えを持っているわけではない。

以上のような私の立場を踏まえて、本記事を読んでいただければ幸いである。

 

1.なぜ動物に配慮するべきなのか

本題に入る前に簡単に基本事項をおさえておく。

ヴィーガニズムとは動物製品を一切購入、摂取しない、というライフスタイルであり、その動機によって大きく「エシカルヴィーガニズム」と「オーガニック・ヴィーガニズム」に別れるが、本記事では前者のみを考える。

ではなぜヴィーガンは動物製品を購入しないのか。それは「種差別」に反対しているからである。種差別とは「ヒトがヒトであるというだけで配慮され、動物がヒトでないというだけで配慮されない」という区別のことである。

この論理は「AはAであるというだけで配慮され、BはAでないというだけで配慮されない」という一般化を行えばその不当さが理解できると思われる。例えばAとBに「白人」と「黒人」を入れれば人種差別、「男」と「女」を入れれば性差別になる。同様にして「ヒト」と「動物」では種差別であり、以上のような差別と同様の構図になっている。これは種差別が差別に当たりそうだという考えを抱くには十分だと思う。

私たちは一般的に、同種のヒト、つまり人に対して配慮するべきであるという道徳を受け入れているが、ではなぜ動物にまで配慮しなければならないのだろうか。これは動物(特に牛や豚、鶏、魚などのせきつい動物)は苦痛を感じる能力を持っているからである。私たちは一般的に、苦痛を与えるべきではないという道徳を受け入れている。そして実際に、人に不当に苦痛を与える行為をするべきではないということを実践している人は多いだろう。しかし先ほどの種差別の論理から言えば、人にだけこのような配慮をすることは非道徳的であるように思われる。もしこれが正しいのならば種差別の観点からいって、動物にも同様に苦痛を与えるべきではない。つまり、動物に対しても配慮するべきであるといえる。

一言でいえば、私たちが採用するべき道徳原理は「利益に対する平等な配慮」である、とヴィーガンは主張するだろう。

 

2.なぜ植物に配慮しなくてもいいのか

植物に配慮しなくていい理由は、植物が苦痛を感じないからである。

植物には侵害受容器がない、脳を持たない、せきつい動物のような神経系がない、などなど、これらの理由から植物は苦痛を感じないと推測される。また同様にして植物は利益を享受しない。したがって、「利益に対する平等な配慮」の原理から考えて、植物に配慮しなくてもいい*1

 

3.植物に配慮するべきか

本題に入る。本記事では「植物に配慮するべきである*2」という主張を合理的根拠によって裏付けることを試みる。

ヴィーガニズムヴィーガンに対してよくなされるのが「プランツゾウ論法」といわれる「じゃあ植物は?」という批判である。しかし、よくある批判なだけに、ヴィーガンに簡単に反論され、ヴィーガン批判者の多くはこの論法に失敗する。もはやヴィーガンにとっては1+1=2並みに簡単な切り返しができる程度にはよくあり、反論も容易である。

しかし私はあえて、この植物への配慮可能性について少し歩を進めて議論してみたいと思う。しかしこれから見ていくように、やはりほとんどの場合は失敗しそうである。

 

3-1.命への配慮

「プランツゾウ論法」でもっともなされるのが「命への配慮」であり、命は大切なものだから配慮されなければならない、という主張である。その論理構造は以下のようになっている。

  1. 命は尊いものである。
  2. 尊いものは大切にされるべきである。
  3. 植物は命を持っている
  4. 1.2.3.より、私たちは植物を大切にするべきだ(だからヴィーガンはおかしい)

さて、この議論において3.は否定できそうにない。実際に植物は生きており、命を持っている。

では1.はどうだろうか。実際にここでは1.を否定することが「プランツゾウ論法」への反論でよく行われる。

ではなぜ命は尊いものではないのだろうか。私たちは直観的に命が尊いものであると考える。しかしその直観は間違っているとヴィーガンは反論する。具体的な例を考えてみよう。

例えば私たちは毎日排泄行為を行うだろう。行わない人には失礼だが、おそらく人生で一度くらいはあるだろう。この排泄行為は糞を排泄するわけだが、この糞には何兆個という腸内細菌(例えば大腸菌)という命あるものが含まれている。しかし、私たちはこれをトイレに流す。つまり殺すのである。何兆個とある腸内細菌を無慈悲に殺すが、私たちは特に道徳的非難をあびることはないし、また自責の念にかられることはない。菌のような小さな存在ではわかりにくいというならば、例えば「害虫」とされている蚊やゴキブリを私たちは無慈悲に殺すのではないだろうか*3

これらの事実はひとえに「命は尊い」と考えていないことを示しているように思われる。

もちろん他にもたくさん例があるが、このような例を考えると、私たちは実は直観的に「命は尊い」と考えていない。したがって1.は間違っている。

このあたりの議論は「あにまるえしっくす 第二回」を参考にしていただけるとよくわかると思われる。

 

 

 また、そもそも「尊い」とは何だろうか。すると「尊い」の意味にはすでに価値判断が含まれていることがわかるだろう。では何を持ってして「命」を「尊い」と判断するのだろうか。全く持って合理的な理由付けができないように思われる。

2.への批判としては、実際に「尊い」からといって「大切にするべき」が導かれるか疑問であることが考えられる。つまり「尊い」ものは無条件に「大切にするべき」なのだろうか。また実際に大切にしているだろうか。先の例を見る限り、そうではないように思われる。

 

ではこれらのヴィーガンの反論に対して再反論を試みる。

「「命は尊い」と考えていない」ということが間違っている可能性である。実際に、植物の命は尊いものであると考えているし、動物に対してもそうであるし、腸内細菌に対してもそうである。これは日本文化ならではのアニミズムに由来するものであろうと思われる。

ではなぜ私たちは排泄行為を嘆かないのだろうか。これは「慣れ」ではないだろうか。例えばと殺場で働く方々の内には畜産動物を殺すことに慣れてしまい、そこで働いていない人とは直観がずれていると思われる。同じようにして私たちは腸内細菌を殺すことに慣れてしまっているだけなのかもしれない。実際、私はたちは苦痛を感じるはずの動物たちの肉を食べてきた。しかし、慣れならば理性によって制御できる。肉を食べることに慣れてしまった私がヴィーガンになれたのと同じように。

また、動物や植物は目に見える対象であるのに対し、大腸菌は目に見えない。目に見えない対象は認識のしようがないから、今まで気づいていなかっただけかもしれない。この場合は、私たちが知識を得て配慮をするようになれば整合性が取れる*4。このようにして行動する限り「「命は尊い」と考えていない」わけではないと主張できる。

 2.の再反論としては、「尊い」から無条件に「大切にするべき」とはなりそうにない、ということはありえない。「尊い」は価値判断であり、それは「善い」などと何ら変わらず無条件に(直観的に)重要で大切なものであると反論できる。

また、これがとても重要であるように私は思うのだが、「命」は客観的に観測できるものではないだろうか。私は、客観的に十分に観測できるものが基準として適切であるように思われる。これについては3-4で述べる。

 

3-2.植物も苦痛を感じている

「プランツゾウ論法」で二つ目によくあるのが「植物も苦痛を感じている」というものだ。しかしこれは先に述べたようにすでに否定されている。

植物には侵害受容器がない、脳を持たない、せきつい動物のような神経系がない、などなど、これらの理由から植物は苦痛を感じないと推測される。また同様にして植物は利益を享受しない。

これらは全て生物学等の研究によって明らかにされている事実(と推測)である。植物学者も植物に意識があるなんてことは言わない*5

これに対して苦しいながら反論を試みる。先の引用の議論は次のような論理構造である。

  1. 侵害受容器がない生物は痛覚がない
  2. 痛覚がない生物は痛みを感じない
  3. 植物には侵害受容器がない
  4. 1.2.3.より植物は痛みを感じない

2.3.は否定できそうにない。そこで1.に関して反論を試みる。論点となるのは「侵害受容器を持つことは痛覚を持つことの十分条件か」ということである。以下に示す命題はどちらも真だろうか?

  • 「侵害受容器がある」⇒「痛覚がある」
  • 「侵害受容器がない」⇒「痛覚がない」

上の命題は(正確にはこれに脳と神経系も必要ではあるが)真のように思える。しかし下の命題は真だろうか。私はそう思わない。なぜなら侵害受容器がない生物でも、痛覚受容器とは別の器官によって痛覚(痛み)を持つ可能性があるからである。とはいえ、これに関して反例を示すことは不可能なように思える。

しかしまだ食い下がれる。先の議論は反例がない、しかしそれは今わかってないだけで、将来、実は植物は痛み(苦痛)を感じているとわかるかもしれない、という反論である。ある事実がわからないとき、そのときはリスクが少ない方の選択肢を取るべきである、という考え方がある。予防原理とよばれるこの原理を採用する限りでは現時点で植物に配慮するべきであると主張することが可能である。

しかしこれにしても、あまりに可能性が低すぎると反論される。例えばヴィーガンは虫や貝に関してはこの原理を採用している。なぜならば彼らは脳や神経系を持つので、植物に比べて苦痛を感じている可能性があるからである。これは私たちの直観と一致するところだろうと思う。

だが植物は現在の自然科学でわかっている限りではあまりに可能性が低い(ありえないとまでいえるかもしれない)。そこまで配慮し始めることは「果実は苦痛を感じている可能性がある」「石は苦痛を感じている可能性がある」ということに繋がる程度には可能性が低い。汎心論という立場を取る者にとっては「石は苦痛を感じている可能性がある」という主張をするかもしれないが、このような主張は多くの者にとって受け入れられないだろう。したがってその多くの者にとって、この反論が成功することはあまりに難しいと考えられる。*6


3-3.論点先取

次の反論は、ヴィーガンの論理は論点先取である、というものだ。実はヴィーガンの論理は初めから植物を除く論理になっている可能性があるのではないだろうか。

例えば本当は倫理的に「命に配慮するべき」であるが、私たちが植物にまで配慮し始めると食べるものがなくなり生きていけなくなる。植物にも配慮するべきかもしれないが、生きるために仕方なく必要最低限は命をいただかなければならない。このようなことになるのならば、初めから植物を配慮の外側に置く議論を構築することによって植物に配慮しなくてもいいということにした方が都合がいい。そうして植物が配慮の外側に置かれるように「利益に対する平等な配慮」の原理を採用するという論点先取を犯しているかもしれない。

  1. 苦痛を感じないものに配慮する必要はない、と仮定する
  2. 植物は苦痛を感じない
  3. 1.2.より植物に配慮する必要はない

 このように、結論が重要な意味で仮定に依存している関係は論点先取だといえるだろう。この仮定を否定する者にとってこの結論は受け入れがたいものであろう。しかしこの仮定はかなりの根拠を持って説明されていることは既に述べたとおりである(1.なぜ動物に配慮するべきなのか を参照)。

 

ところで、私たちは植物に配慮しつつ生きることができるだろうか。実際に植物を殺さないライフスタイルとして「フルータリアニズム」というものがある。これは果実をメインに食すライフスタイルである。果実を取ることはその果実のなる植物を殺さない、それどころか果実を取ることは(繁栄という観点から)植物の利益になる可能性すらある。しかしフルータリアニズムは必要な栄養素すべてをまかなえるわけではないとされている。したがって完全なフルータリアニズムを実践するフルータリアンになることはおそらく不可能だろう。

話は逸れたが、もしこの論点先取を示して反駁を試みる場合、「利益に対する平等な配慮」の原理とは別の倫理規範を示す必要がある。しかしその倫理規範も同様に論点先取を犯す可能性は十分にあるので、この反駁を試みる場合は注意が必要である。

 

3-4.「苦痛を感じる能力」または「苦痛」という配慮の線引の妥当性のなさ

次に、ヴィーガニズムや規範倫理学の大本の原理である「利益に対する平等な配慮」を少し崩してみよう。その方法の一つは先ほどの論点先取、もう一つが見出しの反論である。 

3-4-1.「苦痛」とは何か

ところで、なぜ「苦痛を感じる能力」言い換えれば「利益享受能力」は配慮の線引として不適切なのだろうか。それを論ずるにあたり、まず「利益」とは何かということを定義したいが、ヴィーガニズムの議論ではもっぱら「不利益」に関して言及することが多いのでそちらを参考にする。まず辞書的な意味を確認してみる。

り えき [1] 【利益】
( 名 ) スル
① もうけ。得とく。収入から費用を引いた残り。利潤。 ⇔ 損失 「 -をあげる」 「 -金」
② 役に立つこと。ためになること。 「公共の-」 「知っておけばなんらかの-になる」 「国家を-する為めの経済策/社会百面相 魯庵」 → りやく(利益)

である。不利益は当然次のようになる。デジタル大辞泉によれば

ふ‐りえき【不利益】
[名・形動]利益にならないこと。損になること。また、そのさま。「不利益な売買」

次に「苦痛」を確認してみよう。デジタル大辞泉によれば次のとおりである。

苦痛
くつう
distress
痛覚刺激などの不快刺激によって誘発される情動で,痛みの感覚そのものとは区別される。苦痛は,悲しみ,欲求不満,葛藤など各種の心理的原因によっても生じる。

 これらの辞書的意味や、あるいは直観と照らし合わせて考えてみると、ヴィーガニズムが主張する「不利益」=「苦痛」はナンセンスであるように思われる。実際には「不利益」の中の一つに「苦痛」があるのだと私は考える。つまり「不利益」という意味の一つが「苦痛」であり、「不利益」には別の意味も含まれている、という考えである。

 

3-4-2.「苦痛」以外の「不利益」

では別の利益とは何か。例えば人間においては金銭的利益がある。したがって不利益には金銭的損失が含まれていると考えられるが、これは人間にのみ当てはまるものである。では植物にとっての利益とは何か。

 ベネターの提案する利害の四つの分類を考えてみる。ベネター*7は以下の四つに利害を分類できるという。

  1. 機能的利害
  2. 生物的利害
  3. 意識的利害
  4. 反省的利害

機能的利害とは、ある人工物の機能を強めるものは良い、そうでなく機能を壊そうとするものは悪いとするような利害である。例えば車にとって修繕は良いことであり、錆や故障そのものは悪いことである。

生物的利害とは、人工物以外の、例えば植物などの生物的機能に関して機能的利害と同様の利害である。植物に水をやらないことは植物の機能を損なうものであるので、これは植物にとって悪いことであるといえる。

意識的利害とは、意識のある存在者が感じてる何かというものに関しての利害である。これは意識して感じている利害という意味ではなく、意識のある存在者が感じることが可能であるような利害である。例えば私たちには痛みを避けるという利害を持つが、意識的にその利害を持っているとは限らない。つまり痛みのない時も常に痛みに関しての利害を持っていないということだ。しかし痛みという感じている何かに関しては利害を持つのである。

反省的利害とは、高度な認知能力をもつ一部の生物が、自らの言動等に関して「反省的」であり、明らかに自分たちの利害を持っているといえる。

これらの説明からわかるように、機能的利害と生物的利害は主体が違うだけで、その内容はほぼ同一の利害であるといえるだろう。そして反省的利害は非常に高度な認知能力を必要とする。ヴィーガンが主張しているのは「意識的利害」と「反省的利害」だろうが、「生物的利害」を配慮の対象にするべきといえばある程度の反論になることは確実だろう。

このようにして「利益」の意味を拡張することによって植物に対しても配慮するべきだといえるようになることがわかる。しかしこの意味の拡張はおそらく慎重に行われなければならない。「誰かにとっての何らかの利益」というものを人が一方的に決めているにすぎず、それが妥当であるかは慎重に議論されなければならないだろう*8

もう一つ、仮に利益の意味を拡張したとしても、その利益を享受する主体はいったいどこに存在するのだろうか。「植物がいるじゃないか」とすぐに反論したいのはわかるが、冷静に考えてみると、そもそも利益を享受することができるのは「意識ある主体」でなければならないのではないだろうか。例えば、二度と蘇らない脳死患者にはその身体が生存することに利益があるかもしれない。しかし脳死患者には意識がなく、その利益を享受する主体(つまりその身体を動かしていた意識ある主体)が存在しないことは明らかである。これでは誰に配慮しているのか全くわからない。植物にも同じことがいえるだろう。植物の利益に配慮したところでいったい「誰」が利益を享受するというのだろうか。これを明確にしなければ、たとえ植物の生物的利益に配慮したとしても、結果的に誰にも配慮してないのと同じになりかねない。これをうまくかわすか反論する必要があるように思われる。

その方法としては二つあるだろう。一つは「意識ある主体」など必要ないという考え方である。この場合は配慮する誰かの存在は必要なくなるが、もはや配慮という概念が形骸化しかねず、また「機能的利害」と「生物的利害」の区別をすることが難しくなる。もしかしたらその辺の石ころにさえ配慮しなければならなくなってしまいかねない。これは私達の直観に合わない、石ころの利益が何なのかわからないなど、あまりに無理がある反論のように思われる。

もう一つは植物にも意識はあるとする方法である。しかしこれは現在の自然科学からいえばかなり無理があるように思われる。ただし、哲学者のチャーマーズが提唱しているような「情報」に意識が宿るといった考え方を採用すれば、植物は何らかの機能を有しているという点で情報を持つので意識が宿るとすることは可能だろう。ただしこの場合、石ころにも意識が宿ることになる。

どちらでもない方法をとるにせよ、私にはこれが成功するようには思われない。

3-4-3.「クオリア」を線引きとする不当性

3-4-2では「利益に対する平等な配慮」の原理を採用しつつ、「利益」の意味を拡張するという方法で植物への配慮の必要性を考えた。本節では「利益に対する平等な配慮」を「利益」の意味を拡張せずに解釈し、その上でこの原理の批判を試みる。

「不利益」とはなにか、「苦痛」である。「苦痛」とは何か。辞書的な意味から考えて痛覚などによる「身体的苦痛」、情動による「精神的苦痛」の二種類が考えられる。どちらとも「意識」を必要とする点で同じであるが、特に前者に関しては「痛みのクオリア」があることを必要とする。「クオリア」とは簡単に言ってしまえば”その感じ”である。

「利益に対する平等な配慮」の線引きの中にいるためにはこの「クオリア」を必要とする。3-3.で述べたように、実はこれは論点先取ではないだろうか。

また、「クオリア」を配慮の線引きとして定めることは妥当だろうか。以下の例を考えてみよう。

人に近い見た目や言動をするAIがある。AIは人工的に作られたものであり、人工物は生物ではないため、AIは生き物ではない。また生物でないため命はない。またAIの中身は電気的な反応を基本としているいくつもの複雑な電気回路の塊である(と思われる)。ここに「クオリア」が宿るとは思えない。「クオリア」がないならばAIは苦痛を感じない。AIが苦痛を感じているように見えるのは、私たち人や動物が苦痛を感じたときと同じように動くようプログラムされたからに他ならない。そして実際に「クオリア」がないならば、実際には苦痛を感じていない。「利益に対する平等な配慮」の原理からして、私たちは苦痛を感じないAIに配慮する必要はない。

私たちはこれを受け入れられるだろうか。つまり人ないし知能ある動物とほぼ同じ機能を持つAIは苦痛を感じないから、それらに配慮しなくてよい、ということを私たちは認めるだろうか。「命」や「苦痛」を配慮の線引きにすることは以上のような結論を導くが、少なくとも私の直観に全く合わないため、私はこれに同意できない。これに同意することは、例えばドラえもんに配慮しなくてもよい、ということになるだろう。

私はAIに配慮するべきであると考える。したがって「クオリア」を配慮の線引きとして用いるのは妥当ではないと考える*9。しかしこれでは単に私の直観に合わないからといって退けているにすぎず、説得力がないだろう。そこで「クオリア」の特徴から、これを配慮の線引きにすることの妥当性の無さを考える。

クオリア」は内的経験の一種であるので外から観測することは不可能な現象である。このような不可知の概念を配慮の線引きにすることは妥当だろうか。客観的に観測できる線引きを設定する方がよほど妥当ではないだろうか。客観的に観測できない何かを基準にすることは、そのような基準を持っているのかわからないという点で誰に配慮するべきなのか、特に境界事例に関して全くわからなくなってしまう*10。このような観点から「苦痛」すなわち「クオリア」を配慮の線引きにするのは不適切であると考えられる。

 

3-4.客観的に観測できる配慮の線引

では「クオリア」や「苦痛」といった客観的に観測できない線引きではなく、客観的に観測できかつ妥当性のある線引きは何だろうか。

ではここで配慮の線引きに入れることが直観と合うような線引きを探してみよう。ただしこのような形で反論を行うことは論点先取を犯しているため結果として失敗する。

配慮の線引の内側に入れられるべきと思われる存在は次のとおりである。

  • 人以外の動物
  • 植物
  • AI

以上四つの存在を配慮できるような属性は何だろうか。

まず「命」が考えられる。「命」は客観的に観測できる類のものではないだろうか。例えば私たちはヒトや動物が死んでいるのか生きているのか、おおよそのところで判断可能である。少なくとも内的経験である「苦痛」よりかは観測可能だろう。*11これは当然植物にも言えそうである。この意味では「命」は客観的に観測できる妥当な線引のように思われるが、残念ながらAIに当てはまらず、また予想以上に多くの者に配慮しなければならない。

次に「理性」だが、なぜこれが道徳配慮の対象になるというのだろうか。例えば重度の障碍者や幼子は明らかに「理性」がないように思われる。ではこのような対象に配慮しなくてもいいのだろうか。この点をうまく説明しなければならないだろう。さらには「理性」の定義が曖昧、つまり何をもってして「理性」があると判断されるのかわからない。言語コミュニケーション、推論、その他さまざまな指標があるが、どれにあたるのかわからない。

「苦痛」は今まで議論してきた通り、植物とAIに当てはまらず、客観的に観測することが難しい。しかし内的経験であることを除けば、侵害受容器や脳などから苦痛を感じうるかどうかは判別がつきそうである。したがって客観的に観測というものを、実際に苦痛を感じているか否かではなく感じうるかどうかで考えれば配慮するべき属性として適当なものになるだろう。さらに、苦痛は倫理の根拠として適当なものでもある。このように考えていくと、やはり「苦痛」は適切な基準であるように思われる。

拡張された意味での「利益」*12ならば、すべてに当てはまる可能性があるが、慎重に行わなければならず、非常に厄介である。またこれも客観的に観測することが難しい。そして利益享受主体の存在の問題を解決しなければならない。

ここまではこれまでにも検討されてきた線引である。ここで私なりの線引を提案する。それは「複雑な電気的ないし化学的システム」である。少なくともクオリアよりは客観的に観測可能であり、上記のすべての存在に対して配慮できる線引の一つであると思われる。しかし重大な欠点が2つある。1つ目は「複雑な」というのはどの程度なのかわからないということである。n階微分方程式で表されるようなシステムだろうか。そのときnはいくらだろうか。また微分方程式以外で表されるような(例えばフィードバック)システムはどうだろうか。疑問は尽きない。もう一つは(こちらの方がより重大であるが)「複雑な電気的ないし化学的システム」がなぜ配慮の対象になるのかを説明するのが、幸福や苦痛に比べて非常に困難であろうということである。直観的に考えれば私達はこのような存在に配慮するべきとは思わない。この直観との乖離をうまく説明する必要があるだろう*13

*14*15

 

4.おわりに

ここまでプランツゾウ論法を補強するためにヴィーガンの反論に対する再反論、および別の配慮の基準を考えてきた。はじめに述べたように、私はヴィーガンであるし、また「利益」を「苦痛の回避」とすることにも同意している。もっとも妥当な配慮の線引はこれだと私も思う。しかし以上に見てきたようにそれなりに疑問点もある。その中でも大きな疑問点は二つで、利益の意味が狭いのではないか(3-4-2)、その利益は客観的に判断できず不適切ではないだろうか(3-4-3)、ということである。これらはプランツゾウ論法のいくつかの反論に見られたことを参考にした。

正直なところ「命」そのものに私は価値があるとは思えないので、よくある「命を大切にしよう論法」には説得力のかけらもないように思えてしまう。これはあくまで私の感想なので、本記事ではできるだけ偏りがないように「命を大切しよう論法」にも説得力があるように書いたつもりである。

最後に、プランツゾウ論法そのものをするのは構わないのだが、これをするときの注意点を述べたいと思う。それは「植物も配慮するべきでは?」と述べたからには批判者自身にある程度の道徳的義務が課せられるということである。「植物も配慮するべきでは?」と思うならば、やはり批判者自身が植物にも配慮しなければならないだろう。しかしプランツゾウ論法を行う多くの者は実際にそうはしないのではないだろうか。例えば「全ての生命に配慮するなんて無理」などと否定して実践に移そうとしないと思われる。

しかし、実際にそれを本気で行おうとした者がいる。アルバートシュヴァイツァーである。彼の思想は「生命への畏敬」と呼ばれており、簡単に言えば全ての生命に対する畏敬の念をもつことである。彼は本気でこれを実践しようとし、生きる上でどうしても必要な場合のみ命を奪ってもよいとしたそうである。少なくとも現代の人間は必要以上に命を奪い、食べているように思われる。このような生活スタイルを改め、命を奪うのを必要最低限とする実践を行おうと思えば、シュヴァイツァーのような実践か、あるいはフルータリアンになるしかないだろうと思われる。ここまで実践する覚悟があるのならば、プランツゾウ論法がたとえ失敗したとしても、それなりの説得力を持つと思われる。プランツゾウ論法を行うときにはこのようなことを念頭に置いて批判してほしいと思う。

*1:配慮するべきではない、といっているわけではない

*2:ここでの配慮は、植物に対する直接的な配慮である。フランシオンが指摘しているように配慮を二種類に分けることができるだろう。すなわち「植物に対する配慮」と「植物に関する配慮」である。そして後者について私たちは否定せず、前者について否定する。したがってここでは前者に関して擁護する議論である

*3:例えば有名な某ユーチューバーHはそれらを殺さないことで有名であるが、ここではそのような人を例外として扱っている

*4:どのようにして腸内細菌に配慮するかは全くわからないが

*5:言っている人もいるかもしれないが、ほとんどの場合それはオカルト科学であろう

*6:とはいえ、石に意識が宿ると主張する哲学者もいる。例えばチャーマーズの情報に意識が宿るという主張である。この辺りの議論は 渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』 (中公新書)に詳しい。しかし意識が宿るからといって(肉体的ないし精神的)苦痛を感じるかは不明である。

*7:「生まれてこない方が良かった ——存在してしまうことの害悪」, 2017, p.144

*8:功利主義はそのように誰かにとっての「幸福」ないし「利益」を決めつけている側面があることで批判されている

*9:私はAIは「クオリア」をもたず、意識もないという前提で考察している。しかしながらAIに関しては本当に「クオリア」を持たないのか、持ちはしないが意識はあるのか、もっとよく議論されるべきだろうと思われる

*10:現に植物、虫、貝などが配慮の対象かそうでないのか不明である。3-2.を参照

*11:もちろん「脳死」が命の終わりなのか、など議論が尽きないところはあるので、「命」ですら客観的に判別がつかないかもしれない

*12:3-4-2.参照

*13:提案しておいてなんだが、私はこの基準が倫理の基準として成功するようには全く思えない

*14:ほかにも「繁栄」「調和」などが倫理根拠として考えられるが、これらは植物に対して必ず配慮しなければならない、ということにつながらないため、今回は議論から外す

*15:ディープ・エコロジーのように、環境や自然そのものを目的として扱うべき、というような主張も存在する。しかし私はまだこの分野について勉強不足なので、もう少し勉強してから扱いたい

ルッキズム擁護への反論

(ブログトップにも書いてある通り、ルッキズムについての私の記事の意見に関して、部分的に誤りだと考えるようになった。だが、大筋としては正しいと今でも考えている。)

 

前回と前々回の記事でルッキズムについてまとめた。それらの記事を踏まえて、ルッキズムを擁護する意見、あるいは反ルッキズムについての疑問を示し、それらに対して答えていく。回答は随時増やしていくつもりである。コメントで批判等があれば、それに対しての答えを載せていこうと考えている。

 

 

誰しもが行う差別なんだから仕方がないのでは?

視力を持ち、人間の容姿を判断できる程度の能力を持っているならば、ルッキズムを必ず行う。これは事実である。悟りを開くか失明するかくらいでしかルッキズムを完全になくすことはできないだろう。だからといってルッキズムをしない努力を行わなくてもいいということにはならない。

この方のいう通り、まず個人でルッキズムを解消する努力を行うべきである。「仕方ないから」と回避することは、ルッキズムによって不当に苦しめられている被差別者に対して見て見ぬふりをすることである。他の差別でこのようなことが許されるだろうか。いや、許されない。ルッキズムの解消に対する努力は、他の差別の解消の努力と同じように怠ってはならないのである。

 

内心の自由が保証されてるのだから、私が外見で判断して誰を好きになるのかは自由では?

もちろん法的には自由である。しかし、仮に誰かを好き(嫌い)になった要因の一つが外見だとしたら、それがわかってしまうような態度をする「べきではない」といっている。

態度に出てしまったときに、すぐに(ないし後になって気付いて)その態度や行為を修正できる、しようとすることである。何度でも修正し、より反ルッキズムの完璧な実践に近づいていこうというものである。*1

もちろん、最終的には内心ですらそのようなことを思わないことが望まれる。しかしこれはあくまでも道徳規範である。例えば人種差別的な態度や発言は法的に許されないが、内心で思うことは現在でも自由である。しかしながらそう思わないことが道徳規範として求められる。すなわち、人種差別的思想を抱くべからず、ということだ。そしてこれはルッキズムにもいえることであり、外見で人の好き嫌いを判断することは自由だが、するべきではない、という道徳規範が求められているということである。したがって、誰を好きになるかは自由であるが、ルッキズム的判断をするべきではない、ということが答えになる。

 

外見がだめなら声とか知性とか個性とかも差別してはダメなのでは?

 私はいずれそうなるだろうと考えている。今の私にはそれをダメだという理論基盤を持ち合わせていないので、それらについて言及できない。

しかしながら、ルッキズムが不当であるならば、声による差別、すなわちボイシズム(voicism)まであと一歩であることは確かだろう。事実この英単語で検索するといくつかヒットする。

知性(教養)に関して、「利益に対する平等な配慮の原理」という倫理規則を採用すると、ある程度は差別として扱えるかもしれない。しかしながら知性はその利益の享受に関わる能力であるため、この区別を不当な差別として扱うのは難しいだろう。個性に関しても同様である。

 

社会的な問題としてルッキズムはダメだと思うが、個人的な好き嫌いはルッキズムではない

いや、ルッキズムである。ある一つの事例を紹介しよう。

 

この記事の彼女はルックスもさることながら、これだけの努力ができる内面の素晴らしい人かもしれない。しかし、だとしたら、それはルッキズムが蔓延っている確固たる証拠である。もしルックスに関係なく中身が重要であるならば、彼女は整形以前にもモテていたかもしれない。しかしそんなことはなかったのである。彼女は努力し、整形し、そうして初めて記事のような日を迎えることができたのだ。

もう一つ別の例を考えてみよう。

 このケースにおいてルッキズムと思う人、そうでない人はおおよそ半々であった。ではこの言葉を別の単語で置き換えてみる。

「私は白人が社会的に優遇されることに反対です。黒人がいじめにあったりと社会的に不遇なことに反対です。
ところで、私は白人が個人的に好きです。黒人は個人的に嫌いです。」

「ところで」以降の発言、これは人種差別ですか?

*2

どうだろうか。思想として人種差別に反対しているし、おそらく社会的な場面においてこの人は人種差別をしないだろう。しかし実際には人種という属性によって他者を評価し、態度を変えてしまっている(しまいかねない)。これは人種差別ではないだろうか。黒人で分かりづらいならば韓国人や中国人というワードを入れればわかりやすいだろうか。何にせよ、個人的な人種の好き嫌いは人種差別に当たるだろう。

同様にして、個人的な容姿の好き嫌いはルッキズムである。

 

人種差別や性差別と比べてルッキズムは取るに足らないことだから考慮する必要はない

以下の3つの理由から考慮する必要があるといえる。

1つ目は、ルッキズムは私達に最も身近な差別であるから、取るに足らないなんてことはない。私達はヒトであると同時に人間である。人間は人と人との間を意味する、つまり社会的な生き物である。私達は人と対面するとき、必ず相手の外見を見て何かを感じる。この何かは私達の好みと照らし合わされ、相手の第一印象を決める。この第一印象がその相手との関係においてどれほどの影響を持つかは私達がよく知っている。視覚を失っていない人は、常にルッキズムと共にある。

2つ目、私達は人種や性を見た目で判断する。このことから、人種差別や性差別の主な要因の一つは間違いなくルッキズムにある。ルッキズムを解消することは、すなわち相手の肌で相手を判断せず、相手の外見で相手の性別を判断しないことである。ルッキズムの解消は人種差別や性差別の解消を手助けすることは間違いないだろう。

3つ目、仮に取るに足らないとしても、それを理由に考慮しなくていいわけではない。「〇〇という差別によって不利益を被る者は少なく取るに足らないから、彼らを無視してもよい」、このようなことは倫理的に許されないことである。例えばそれはLGBTQの問題とつながるだろう。彼らはマイノリティなのだから無視しても良いなどということが認められない。それと同様に取るに足らないからといって考慮しなくていいわけではない。

 

貶したりすることはダメだけど、かっこいいとか褒めることはいいんじゃない?

いや、よくない。以下のツイートのツリーを参考にしてもらいたい。

 誉めることや貶すことはどちらも評価の話に違いない。そして評価するということは上下に差をつけるということである。これが差別でなくて何だというのだろうか。クラスの男女の点数付けと大差ないことである。

 

 

*1:前回の記事より引用

*2:実は数年前にこれとほぼ同じ内容のツイートかネット上の記事があり、それを思い出してルッキズムのアンケートに用いた。出典がわならないので、ご存知の方がいらっしゃったらコメントにお願いしたい