ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

功利主義(2/2)

 

mtboru.hatenablog.com

 前半の記事で、『1 功利主義とは何か』では功利主義について、その基本的な特徴と代表的な批判を取り上げた。『2 功利主義の分類』ではいくつもの分類軸によって功利主義を分類し、様々な形態があることを確認した。また私が望ましいと思うものは「二層・間接・快楽・積極的・先行存在功利主義」であることを示した。

 後半の本記事では、功利主義を用いると私たちがどのように行動すべきなのかを示していく。また、よくある批判に対して答えることで功利主義的な考え方をみていく。そして最後に前半の記事と後半の記事のまとめを行う。

 

 

3 功利主義の適用

 ここでは主に、現代の倫理学者であるピーター・シンガーの『実践の倫理』*1と、ラザリ=ラデクとシンガーの共著『功利主義とは何か』*2を参考に、功利主義的に考えると私たちはどのように行動すべきかを二つ示す*3。一つ目は「遠くの貧しい人に対する道徳的義務はあるのか」、二つ目は「動物に対して配慮しなければならないか」である。

 検討に入る前に一つ注意点がある。ここでは簡単のために快楽説功利主義で考える。しかし、もしあなたが選好充足説や客観的リスト説で考えたいならば、それで考えてもらっても構わない。私がこれからする議論は、それらでも同様にできるだろう。

 

3.1 遠くの貧しい人に対する道徳的義務はあるのか

 これを読んでいるあなたはおそらく、少なくとも日々何とか食べていけるだけの生活水準を保っているだろう。また多くの人はおそらく十分に食べてなお、他の用途に使えるだけの余裕がある生活をしているだろう。例えば買い物を楽しんだり、趣味や娯楽を楽しんだりする余裕があるだろう。しかし世界全体でみると、これらの生活水準は極めて高い。

 今まさに、飢餓や伝染病で苦しんでいる人々が世界中にたくさんいる。ある見積もりによれば、これらが原因で死ぬ5歳以下の子どもは一日に3万人を超える。一年ではなく一日に、しかも5歳以下の子供に限定してである。また(少なく見積もっても)世界中でおよそ4億人の人々が栄養不足に苦しんでいる。これらの人々の生活水準は絶対的貧困と呼ばれている。絶対的貧困とは生存のぎりぎりの限界での生活水準のことを意味している。

 さて、あなたが今、旅行を計画しているとしよう。旅行先は北海道かもしれないし沖縄かもしれないが、あなたはその旅行で大いに楽しむことができるだろう。例えば、その旅行の予算が3万円だったとしよう。
 しかしここで、この3万円でどれほどの善を成し遂げられるだろうか。次のサイトでそれを確認できる。

www.thelifeyoucansave.org

ドル表記なので、ここでは簡単にドル換算で300ドルの予算だと考えよう。あなたはその300ドルの予算をすべて募金することで、次のいずれかを行うことができる。

  • 150個の蚊帳を買うことができ、270人の人々を3年間マラリアから守ることができる
  • 240人の人々に、一年分の水を提供できる
  • 30000人の人々に、ヨード欠乏障害(致命的な脳機能障害を引き起こす障害)に対する予防を一年間支援できる
  • 8人の子どもたちに、一年間分の学校給食を提供できる
  • 6つのトイレを、自然災害や紛争によって被災した家族の健康を守るために建設できる

あなたの旅行は、これらの善と比べて大きな善をなすのだろうか。少し考えれば、あなたが旅行することによって得られる快楽と、募金することによって遠くの国の人々の取り除かれる苦痛を比べれば、後者の方が圧倒的に多いことがわかるだろう。したがって功利主義によれば、あなたの旅行を正当化することはできない。
 これは旅行に限った話ではない。ちょっと高いレストランでの贅沢、ファッションを楽しむために新しい服を買うこと、その他の生きるために不必要なほとんどすべての事柄について、功利主義では許容できないかもしれない。

 これらが意味していることは、功利主義ではあなたに、あなたの生活水準が生活できるギリギリまで募金すべし、つまり可能な限り最大の善を行うべきと要求するだろう、ということである。

 しかしこれは非常に厳しい要求ではないだろうか。こんな厳しい要求をするような倫理規範は間違っているのではないだろうか。この批判に対する応答は「4 功利主義者になる」でみることにする。

 

3.2 動物に対して配慮しなければならないか

 通常、私たちが道徳と呼ぶものはほとんど人間に対する道徳である。では動物に対してはどうだろうか。私たちは動物に対してどのような道徳的義務を負っているのだろうか。

 功利主義の一つの特徴である単純加算主義を思い出してほしい。単純加算主義は「各人の効用を公平に配慮して単純に加算する」という考え方である。人間も動物も同様に苦痛や快楽を感じている。したがって功利主義によれば、人間と動物に対して公平に配慮するべきである。

 ここであなたは、人間と動物は違う、だから公平に配慮するなんておかしい、と主張するかもしれない。人間と動物はたしかに違う。例えば動物は理性的に考えられないし、言語を持たない。ほとんどの動物は私たちと話すこともできないだろう。だが、これらは道徳的に重要な違いだろうか。
 功利主義の一つの特徴である厚生主義を思い出してほしい。厚生主義によれば重要なのは幸福である。幸福についてはいくつかの立場、例えば快楽説や選好充足説があったが、人間も動物も同様に苦痛や快楽を経験しているし、選好を持っている。厚生主義によれば、理性や言語能力は人間と動物を分ける道徳的に重要な違いではない。何者かと何者かを区別する道徳的に重要な違いとは、幸福を持つのか、持つとしたらどのような幸福なのか、である*4。したがって、人間と動物を区別する道徳的に重要な違いはない*5功利主義創始者であるベンサムの言葉を引用する。

問題は彼らが理性的に考えられるかということでもなければ、話すことができるかということでもなく、馬や犬が苦痛を感じることができるかということなのである。

以上の理屈に従うならば、功利主義では有感生物全て*6に公平に配慮すべきである。

 

 さて、公平に配慮するとして、私たちは何をすべきだろうか。

 あなたは今日、何を食べただろうか。あなたがヴィーガンベジタリアンでなければおそらく、あなたは肉や魚を食べただろう。その肉はもともと誰のものだったのだろうか。答えはもちろん動物のものである。毎年およそ650億もの個体が食料のために殺されているが、それらの肉はどのようにして私たちの元までとどくのだろうか。

 現代の畜産のほとんどは、工場畜産と呼ぶに値するものである。その実態は例えば次のようなものである。*7

  • 鶏は、早く太るのを促進するために初めの1~2週間は24時間明るい光にさらされる。その後、(睡眠後に食欲が上がるとされているので)照明を薄暗くし、2時間ごとにつけたり消したりされる。そうして早々に太らされた鶏はおよそ、7週齢で殺される(鶏の自然の寿命は約七年である)

  • 雌鶏はバタリーケージという狭い檻の中で一生を過ごす。バタリーケージの床は平均して30.5cm×50.8cm、対して鶏の翼長(翼を広げたときの全長)は約76.2cmである。ここに通常は3羽、ひどいと5羽入れられる(鶏一羽に必要な最低限のサイズは、41cm×41cmといわれている)

  • 妊娠・出産させるために飼育されている雌豚は60cm×200cmの仕切りの中で過ごす。これは豚の大きさとほぼ同じ大きさで、彼女らは一歩も歩くことも、回ることもできない。彼女らは出荷されないので、死なない程度のエサしか与えられず、常に空腹である
  • 乳牛の場合も同様に、彼女らは妊娠と出産を繰り返す。彼女らが生んだ仔牛は、すぐに彼女らから引き離される。彼女らは数日間泣き続ける。引き離された後、彼女らは毎日搾乳される。多くの場合ホルモン注射がなされ、自然よりも多く乳が出るようにさせられる。もちろんその分不自然に多く搾乳されるので、一部の乳牛は炎症を起こしている*8

ここで功利主義者は問うだろう。あなたが彼ら彼女らの肉を食べることで得られる快楽は、彼ら彼女らが受ける苦痛を凌駕するか、と。答えはもちろん否である。したがって功利主義によれば、あなたは肉を食べるべきではない。

 畜産よりも難しい問題として動物実験がある。動物実験は、私たちに重要な知見をもたらしてくれるかもしれない。それらの実験は動物に与えられる苦痛を凌駕する医学の進歩をもたらすかもしれない。ではどのようなときに許容されるだろうか。功利主義的に考えると以下のように言えるだろう。

  • 多数の人間あるいは動物に苦しみあるいは死をもたらす病気を予防する方法を発見する合理的な可能性があり、そして
  • ある動物の利用(しかしその数は、その発見が助ける人間あるいは動物の数よりもずっと少ない)なしにはこの目的を達成するほかの方法がなく、そして
  • 動物が経験するいかなる苦痛と苦しみも減少させるあらゆる可能な手段が取られ、そして
  • 全体としてより大きな善を生み出すであろう研究に費やされるような、資金・時間・能力使用方法がほかに存在しないならば、
その時は
  • 研究のために動物使用は正当化される。
*9

これほど厳しい基準をクリアする動物実験がはたして現実にあるのかは疑問である*10

 

 

4 功利主義者になる 

 この章では、今までにみてきた功利主義への批判に答えることで、功利主義的な考え方をさらにみていく。ここでは以下の3つの批判を検討してみる。

  • 幸福を単純に比較・足し算することができるのか
  • 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか
  • 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

 

4.1 幸福を単純に比較・足し算することができるのか

まず、幸福を数値化できるのか、そして比較・足し算することができるのか、という批判である。先程の表の例では幸福を数値化していたが、幸福には質量(kg)や長さ(m)のように物理的な単位があるわけではない。まして数値化できないのだとしたら、足し算や比較ができるとは思えない。
しかし、数値化できなくともある程度なら比較や足し算はできるかもしれない。私たちは実際に比較や足し算をしている。私がレストランでメニューを見て何を注文しようか考えているとき、わざわざ嫌いなものを選ばないし、より好きなもの、よりおいそうなものを選ぶ。つまり、私は料理から得られそうな快楽(おいしさ)を比較している。しかしこれは、個人内での幸福の足し算や比較ができそうである、ということしか意味しない。これは実際に比較や足し算が正確に行われることを意味しないし、個人間で足し算や比較ができることを意味しない。私とあなたの幸福度を共通のものさしで測ることはできないだろう。

  『功利主義(1/2)』で上のように述べた。この問題について考えていく*11。幸福を測定するための尺度はいくつか提案されているが、そのうちQALYについてみてみる。

  QALYとは、健康経済学者らがヘルスケア上の介入の利益を比較するために用いるもので、「質によって補正された寿命 quality-adjusted life-year」のことである。QALYの測定方法は例えば次のようなものである。

あなたが四肢麻痺で余命が二十年だとしてみよう。あなたの通常の健康と可動性を回復させるが、余命を五年に削減する新たな治療法を医師が提案する。あなたはよくよく考えてその治療を受けないことに決める。すると医師が戻ってきてこう述べる。「新たな調査研究の結果、この治療後の余命は十五年であると判明しました。」あなたは治療を受けることに同意する。*12

このとき、あなたが治療を受けるかどうかの分岐点を、簡単のために余命十年だとしよう。これは、あなたにとって四肢麻痺で生きる二十年と通常の健康で生きる十年は等価であるとみなしていることになる。このようにして全く異なった物事の価値を比較することができる*13
しかし問題は解決されてない。第一に個人間比較をやはり回避できてない。その価値はあくまで評価者に依存するので、別の個人が違った評価をすると、途端に比較不能になる。第二に仮に回避できたとして、QALYの測定をどのようにして行えばよいだろうか。全ての人に「もし四肢麻痺になったら」と聞き、平均を取ればいいだろうか。それとも四肢麻痺の人々に聞くべきだろうか。定かではないだろう。

 他の快楽の測定法も、基本的に個人内の比較は回避で来ていても、個人間の問題を回避できていない場合がほとんどである。これは幸福の個人間比較をすることは不可能なことを意味しているのだろうか。ここで功利主義者が答えるやり方として「なるほど、正確な測定は不可能だろう。だがそもそも、そんな厳密に測定・計算しなくてもよい」というのがある。実際私たちは幸福の大雑把な計算をしている。例えば『3 功利主義の適用』で見たように、あなたの贅沢な趣味によって得られる幸福とそれに使うお金を全て募金に回すことで取り除くことができる苦痛の量では後者の方が明らかに多いだろうし、あなたが肉を食べることによって得られる味覚の満足度とそれを食べないことによって取り除かれる苦痛の量でもやはり後者の方が大きいことは自明だろう*14。このように、ある程度正確でない計算でも最善の行為がわかるようなケースは多々ある。そのようなケースでは正確に計算しなければならない理由はない。しかし同時に、正確でない計算では最善の行為がわからないケースもあるだろう。だがそのようなケースであったとしても、我々が正確な計算に近づくように最善を尽くすことが重要ではないだろうか。シンガーとラザリ=ラデクは次のように述べている*15

異なった種の成因の間の苦しみを正確に比較することはできないというのは、ほんとうである。この点に関して言えば、異なる人間どうしの間の苦しみも正確に比較することはできない。正確である必要はないのである。*16

功利主義者たちは、他の誰もと同じように、時には間違った答えをするが、しかし可能な限り適切な情報を収集しようという真正の努力をするならば、そしてまたその証拠に基づいて、可能な限り最善の判断に到達しようとするならば、その判断が間違っていたことが判明したとしても、非難されるべきではない。*17

以上のように、幸福の計算が正確にできないとしても実践上問題になることはあまりないし、あるとしても最善をつくすことが重要であるだろうと考える。*18

 

4.2 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。

  • くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
  • 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
  • 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。
*19

あなたと友人が遭難して無人島にたどり着いた。友人があなたに自分の全財産を競馬クラブに寄付してほしいと言い残して死んだ。あなたはそうすると約束した。さいわい、その後まもなくしてあなたは救助された。あなたは友人との約束を果たそうと思ったが、よくよく考えると、競馬クラブよりも病院に寄付したほうがより多くの善を生み出せるように思われる。あなたと友人の約束については他に誰も知らない。*20
慈善団体に寄付したほうがより多くの人が幸福になる。約束したことが誰にも知られていないなら、なおさら約束を守る必要なんかない。*21

「臓器くじ」に似たものとして次のような思考実験もある。

ある外科医が担当している五人の患者はみな臓器移植を必要としているとしよう。それぞれが必要としている臓器は全て違う。患者らはすぐにでも臓器を移植しなければ全員死ぬ。ここで外科医が何の罪もない通りすがりの人に手術を行い臓器を取り出して移植をすれば5人全員が助かり、移植元の人間は死ぬとしよう。手術を行えば1人を殺して5人を救える、一方行わなければ5人が死ぬ。功利主義に従えば、通りすがりの人に手術を行い5人を救うべきであるように思われる。*22

これらの例における功利主義の帰結は全て、私たちの直観に合わないだろう。このような反直観的な例で批判するやり方を反直観論法とよぶ。これは次のような三段論法で表すことができる。

大前提:われわれの直観に反する結論を導く理論は拒絶されるべきである。

小前提:功利主義はわれわれの直観に反する結論を導く理論である。

結論:功利主義は拒絶されるべきである。

*23

「臓器くじ」や外科医の例、約束の例は全て、基本的な構図は上と同じである。功利主義者の一般的な回答方法は次の三つに分けられる。

  1. 功利計算を正しく行えば直観に反する結論は出ない(功利計算の誤り)。
  2. 修正された功利主義を採用すれば直観に反する結論は出ない(功利主義の修正)。
  3. 常識は必ずしも信用できない(常識に反する結論の受け入れ)。
*24

 「臓器くじ」と外科医の例、約束の例を、この三つの方法に沿って考える。

 

4.2.1 「臓器くじ」および外科医の例に対する反論

 まず功利計算の誤りがあることを指摘しよう。臓器くじが実施されている社会では、人々はいつでも臓器移植を受けられるが、しかし健康だとドナーに選ばれてしまう可能性があるため健康であろうとしなくなり、結果的に不健康な人が増えるという「モラル・ハザード」が起こるだろう。このマイナスの帰結を考慮すれば臓器くじは功利主義的に考えて正当化されない*25。臓器くじを提唱したジョン・ハリスはこの指摘を受け止め、臓器くじを「瀕死な者の間での臓器くじ」と修正したらしい*26*27

  外科医の例に対しては、1,2,3のすべてを使って反論を試みる。行為・直接功利主義ではなく、R.M.ヘアの二層理論からの応答を考える(功利主義の修正)。
二層理論での議論は直観レベルの議論と批判レベルの議論の二つに分かれる。まず直観レベルの議論では、このような行為は不正に人を殺すのと同じであり、直観的に許されないとなるだろう。一般にこのような直観(人を殺すべきではないという直観)を持つことは功利主義的に望ましいため、この直観は功利主義的に正当化される。したがって功利主義者は、直観レベルの議論ではこの批判を回避できる。

 しかし批判者と功利主義者が、直観レベルではなく批判レベルで議論していたとしよう。この場合は批判レベルの議論に移って行為の功利性を計算する。つまり、本当に通りすがりの1人の健康な人を殺して5人を救うことが功利計算上よいのだろうかを検討する。すると、もし本当にそんなことをしてしまったら社会は大きな不安に包まれるだろうし、そうでなくても殺された人々の家族、殺した医者や周りの看護婦の社会的地位への影響などを考えれば、後のこと、そして全体の幸福を考えるとほぼ確実にマイナスになるだろうと思う。つまりこの例では功利計算を誤っている(功利計算の誤り)。したがって批判レベルでも功利主義者は批判を回避できる。

 しかし批判者が「通りすがりの無実の人を殺すことが功利主義的に最善の結果をもたらすことが論理的にはありうるため、その場合は、功利主義者は人を殺して臓器を分配すべきだ、と述べるだろう。そしてこれは直観に反している。」と述べたとしよう。この場合、功利主義者は「そのような事例は論理的にはありうるが、現実でそんなことは起こらない。よってこのような非現実的な状況では私達の答えは間違ってない」と答えるだろう。しかしこれでは開き直っているだけのように見える。なぜこの答えでいいのだろうか。
 私達の持つ直観は現実の状況に対処できるよう身につけられたものである。そのため、このような非現実的な状況に対して「直観に反するから」という理由で批判したとしても、直観はそのような状況に対処できないため使い物にならない。したがって、非現実的な状況に対しては反直観的な答えで問題がないのである。このような非現実的な状況では(非現実的な状況に対処できない)直観を用いるのではなく、批判レベルに移って功利主義的に考えるのが望ましいだろう。そして功利主義的に考えて通りすがりの無実の人を殺すことが本当に望ましいのならば、私たちはそれを受け入れるべきである(常識に反する結論の受け入れ)。*28

 

4.2.2 約束の事例に対する反論

 約束の例は、功利主義によればこの種の事例の時に約束を破るべきという反直観的な結論が導かれるのではないか、という批判である。ここでも功利主義者からの応答を1,2,3にならって試みる。

 まず功利計算の誤りを指摘しよう。もし約束という制度をいとも簡単に破ってもよいというのならば、それは約束という制度が崩壊するため、全体としてマイナスの帰結を導くことになるだろう。したがって功利主義的にも、あなたは約束を守るべきである。

 しかし批判者は次のように反論するだろう。この事例では、この約束を知っている者はあなたと死んだ友人だけである。したがってあなたが約束を破ったところで誰にも知られることはなく、約束という制度が崩壊することもない。よって約束を破って慈善団体へ寄付することはプラスの帰結となり、功利主義によればあなたは約束を破るべきであるが、これは反直観的であるため功利主義は間違っている、と。
 このような反論に対して、二層理論からの再反論を考えよう。直観レベルでは、約束を守ることは道徳的に正しいという直観を持っていた方が望ましいため、約束を守るべきであり、主張の衝突は起こらない。
 また、約束が誰にも知られておらず、守らなかったとしても(約束を破ること自体を除いて)全く問題ないようなケースは現実ではありそうにない。したがってそのような非現実的な状況に対しては、功利主義的に考えて約束を破って募金すべきと答えても何ら問題はないだろう。
 外科医の例と同様に、批判者がなお「実際に起こる場合もある」と問うのだとしたら、そのような例外的状況においては直観ではなく功利主義的に考えて、約束を破り慈善団体に募金したほうが望ましいだろう。*29

 

4.3 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

 「3 功利主義の適用」で見たように、功利主義は私たちに、贅沢品にお金を使わず募金せよ、動物を食べるべきではない、などの厳しい要求を突きつける。またほとんどの道徳規範は、例えば人を殺すべきではない、嘘をつくべきではない、といった消極的規則を命じるのに対し、功利主義は「~すべし」という形(積極的規則)で多くの要求を突きつける。このような多くの厳しい要求をする道徳規範は間違っているのではないだろうか。

 まず、たしかに功利主義は多くのことを要求するが、実はそこまで厳しい要求をするわけではない。例えば、休日なしには私たちの仕事の効率は下がるだろう。休むことなく善行をしようとしても多くの人は続かず、適度に休みながら善行をするよりも休まず善行をすることは帰結として悪いかもしれない。したがって適度に休むことは重要であるし、ある程度の娯楽も許されるかもしれない。*30
 さらに、功利主義がこのように多くのことを要求するのは、今の世界の状態がそのような状態だからである、と答えることもできる。

極端な富や貧困が存在しない、孤立した部族コミュニティの世界の中では、功利主義はあまりに多くを要求しすぎるものにはならない。幅広い贅沢な品物を享受する富裕な人々と極端な貧困の中で暮らす人々がともに多く、富裕層が貧困層を支援できる効果的なチャンネルがある世界では、功利主義者はより多くを要求するようになる。*31

また、ここで1つの修正を試みるのもよいかもしれない。正・不正という単純な二分法で考えるのではなく、倫理的善はもっと連続的なものであるという考え方である。この見解は「スカラー功利主義」と呼ばれている。それは、行為は「それが幸福を推進する程度に応じて正しく、幸福の反対をもたらす程度に応じて不正である」というミルの功利主義の定義からきている。例えば募金について考えると、少し募金することは全く募金しないよりも正しく、より多く募金することはそれに比例してより正しいだろう、ということになる。この考え方を採用すると、私たちはある程度効果的な募金をしているならば、功利主義的に考えて、非難されるべきものではないといえるかもしれない。*32

 

5 まとめ

 最後に、ここまでのまとめを行う。

 「1 功利主義とは何か」では、基本的な功利主義について、その魅力と代表的な批判を紹介した。功利主義は次のような特徴を備えている。

  1. 帰結主義
  2. 厚生主義
  3. 単純加算主義
  4. 最大化

これらそれぞれの特徴に魅力的なところがあるが、同時に批判もある。これらの特徴を持つ功利主義にも批判が相次いでおり、代表的な批判として「臓器くじ」や約束を破るべきとなってしまう、という事例を紹介した。

  「2 功利主義の分類」では様々な形態の功利主義を紹介した。功利主義の形態は

などのようにわかれている。もちろんこれ以外の分類もあるが、それは後述する参考文献を参考にしてもらいたい。

  「3 功利主義の適用」では、功利主義を現実の問題に適用して、私たちがどうすればいいのかを示した。ここでは「遠くの人々に対して配慮しなければならない」こと、「動物に対しても同様に配慮しなければならない」ことを示した。

  「4 功利主義者になる」では功利主義に対する様々な批判に対してどのように答えるかを示した。ここでは代表的な批判として

  • 幸福を単純に比較・足し算することができるのか
  • 「臓器くじ」や約束を破ってもいいということを正当化するのではないか
  • 功利主義はあまりに多くのこと、非常に厳しいことを要求しすぎではないか

を取り上げた。これらに対する回答は本文を見てもらいたい。

 

 功利主義は時代とともに洗練され続けてきた規範倫理である。というのも、提唱以来、多くの批判にさらされ続けてきたからである。ベンサムやミルの時代には「豚の哲学」と揶揄された。ロールズ登場以降は政治哲学において、ロールズノージックらからの攻撃を受け、一時劣勢に立たされていたという(もしかしたら今も)。しかし功利主義はいまだに生き延びている。ラザリ=ラデク、シンガーらはこう述べる。

功利主義が批判者の多くより長生きしてきたのには立派な理由がある。倫理学の根本問題は「私は何をすべきか?」であり、政治哲学の根本問題は「われわれは社会として何を行うべきか?」だが、両方の問題に対して功利主義は直截な回答を与える。それは簡単に言えば、なすべきことは最善の帰結をもたらすことだ、というものだ。*33

「0 はじめに」で述べたように、功利主義はとても魅力的な倫理理論、政治哲学理論であると思う。単純明快な論理で、矛盾なく、そして常識道徳にも挑戦的なこの理論には魅力がたくさん詰まっている。
 何よりの魅力点は、皆で議論して最善を目指すことができるという側面を持っていることだと私は思う。ほかの倫理理論ではそれ以上根拠のない直観に頼ってしまい、直観同士の衝突を免れえないと思う。しかし功利主義では「最大多数の最大幸福」という目標を目指して、それを達成するための方法を議論することができる。またJ.グリーンのいうように、功利主義幸福を共通通貨として、各々の常識道徳の衝突を調停することができるメタ道徳として重要な役割を果たすことができるだろう*34

 以上までの内容で、これを読んだ方々が、功利主義に対して少しでも興味を持ってもらえたら、またこれによって誤解が少なくなれば、幸いである。

 

追記

 当ブログでは功利主義をさらに詳しく説明する一連の記事を「シリーズ:功利主義を掘り下げる」として書いている(2020/05/27時点で記事は2つ)。興味を持たれたら是非読んでほしい。

mtboru.hatenablog.com

 

参考文献、読書案内

功利主義について中心的に学びたいならば、読む順番としては

  1. 児玉『功利主義入門』
  2. ラザリ=ラデク, シンガー『功利主義とは何か』
  3. シンガー『実践の倫理』、または伊勢田ら『生命倫理学と功利主義』、またはグリーン『モラル・トライブズ(下)』
  4. 森村『幸福とは何か』
  5. 若林ら『功利主義の逆襲』
  6. 分析形而上学関連の入門書(例えば鈴木ら『ワードマップ 現代形而上学』や、サイダーら『形而上学レッスン』など)
  7. 安藤『統治と功利』*35

が現状ではいいと思う。功利主義に限らず倫理学全般を学びたいならば、ひとまず赤林ら『入門・倫理学』か、伊勢田『動物からの倫理学入門』を読むことをお勧めする。

*1:ピーター・シンガー (山内友三郎ら訳)(1999), 『実践の倫理(新版)』,  pp.67-99, 262-296, 昭和堂

*2:カタジナ・デ・ラザリ=ラデク, ピーター・シンガー(森村進, 森村たまき訳)(2018), 『功利主義とは何か』, pp.92-96, 127-138, 岩波書店

*3:これらの主張は、功利主義者の中でも過激である。功利主義的に考えて、これが本当に妥当なのかは定かではない。これから示していくことが本当に正しいことかどうかは、読者それぞれで判断してもらいたい。

*4:後者の「持つとしたらどのような幸福なのか」に関して、どのような幸福を持つのかは種によっても個体(個人)によっても異なるだろう。各人に公平に配慮するという面において重要な違いは幸福を持つか否かだが、各人にどのように公平に配慮するかという面において「持つとしたらどのような幸福なのか」は道徳的に重要な違いである。

*5:「道徳的に重要な違い」については次のブログが詳しい。'Treat like cases alike.'という原則 - ピラビタール

*6:もしAIやロボットが幸福を持つならば、彼らもここに含まれる。

*7:以下の資料は
ピーター・シンガー(戸田清訳)(2011), 『動物の解放 改訂版』, 人文書院
による

*8:ここには次のような指摘を貰った。不適切な搾乳法及び搾乳後に乳頭の保護が不十分な場合、細菌が乳頭から侵入して乳房炎を起こす場合が多いので、牛を丁寧に扱っている牧場では乳房炎の牛は少ない、というものである。私自身はこれによって上の記述が否定されるとは考えないが(例えば、一回あたりの炎症確率を考えれば、施行回数が増えることは炎症を増やすことと同義である)、獣医を目指しているわけでもなく、知識が浅いので、判断は読者に任せる。

*9:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.131

*10:実際、動物実験は意味がないということが指摘されている。詳しくは、例えば ゲイリー・L・フランシオン(井上太一訳)(2018), 『動物の権利入門』, pp.96-107, 緑風出版
本当に有意義で、かつ以上の条件がクリアされる実験ならば、その場合に限り、動物実験は正当化されるだろうと私は思う。英語だが、ピーター・シンガーの公式FAQの"Is it true that you have said that an experiment on 100 monkeys could be justified if it helped thousands of people recover from Parkinson's disease?"に対する回答が参考になるだろう。
Peter Singer FAQ

*11:この批判は功利主義特有のものでないことを指摘することは有意義だろう。多くの倫理規範は他者の利益や善の大きさを考慮する。しかしこの批判が妥当であるなら、他者の利益がどれほどの大きさなのか全くわからなくなるし、より大きな善を達成するためにどのようにすればいいのか全くわからなくなり、よって多くの倫理規範もこの批判に答えなければならないようになる。ヘアはこれらを一切考慮しない倫理規範ならば問題ないが、そのような倫理規範に魅力があるとは思えない、と述べている。(R.M.ヘア(1994), 『道徳的に考えること』, 勁草書房)

*12:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.89

*13:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.89

*14:もちろん、これらに対して「いや、私の幸福の方が大きい」と答える者もいるだろう。私はそのような意見は聞くに値しないように思う。理由は二つある。第一に、幸福の個人間比較の不可能性を考えれば、そもそも誰の幸福が最も大きいかを答えることができないのだから、そのような意見もまた証明不可能である。第二に、このような主張は本来「私の幸福の方が重要である」であって「私の幸福の方が大きい」ではない。功利主義批判のためにだけ持ち出したアドホックな主張なように思う。日常生活でも本当にこのように考えているとは思えない。

*15:ここには実用主義的な側面があるだろう。つまり、最善の行為を正確に知ることはできないが、最善の行為に近い行為を知ることはおおよそできるだろうし、功利主義的には(実用的な意味で)それで十分である、というような前提があると思う。

*16:ピーター・シンガー(1999),  p.74

*17:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.91

*18:しかしこの回答では問題に答えられていないかもしれない。この後に紹介する2つの批判が反直観的な批判であるのに対し、これは理論的な問題に対する批判である。この違いは大きい。私の考えでは、反直観論法は所詮直観という弱い根拠(これには異議が唱えられるかもしれない)に由来するものでしかなく、そのようなものが何らかの理論に対して決定的な打撃をあたえることはできないように思う。しかし幸福の正確な計算ができないという批判は直観によるものではない。したがってこの批判が妥当ならば、功利主義(および注11で指摘したように多くの倫理規範)に対して決定的な打撃を与えられるかもしれない。

*19:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

*20:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, p.43, 筑摩書房

*21:児玉聡(2012), p.53

*22:詳しくは児玉聡(2006), 「功利主義と臓器移植」, 伊勢田哲治ら編(2006),『生命倫理学と功利主義』, pp.171, ナカニシヤ出版, Häyry, Matti. (1994) Liberal Utilitarianism and Applied Ethics, Routledge, p.98.

*23:児玉聡(2006), p.170

*24:J.レイチェルズ, S.レイチェルズ (次田憲和訳)(2017)『新版 現実をみつめる道徳哲学』, pp.118-125, 晃洋書房
児玉聡(2006), p.177

*25:この指摘はピーター・シンガーが行ったものであるらしい。

*26:児玉聡(2006)

*27:ただしこの議論に対して、臓器くじ制度ができたとしても、私たちはそんなことを気にしないので(外を歩いたら車に轢かれて死亡するリスクがあるから外を歩かないようにしよう、などど考える人はいないだろう)、したがって「モラル・ハザード」は起きないという批判がある。「モラル・ハザード」が生じるかどうかは実際に臓器くじ制度を作ってみるまでわからないので、現状では経験的事実からの推測でしかない。どちらの方が推測として正しそうかという議論をするのもよいが、私としては、もう少し穏便な形かつ臓器くじ制度とあまり変わらない功利性をもつ制度(例えばハリスの提案する「瀕死な者の間での臓器くじ」)の模索をする方が賢明であると思う。もしそのような制度が見つかれば、臓器くじ制度は現状よりいいかもしれないが、最善ではないため、功利主義は臓器くじ制度を作るべしと命じないことになる。

*28:以上の議論は、児玉聡(2006) による

*29:この約束の事例に関してはさらに、誰にも知られていない約束を破って慈善団体に募金することがそこまで反直観的なのかという疑問もある。この議論の詳細は 安藤馨(2007), 『統治と功利』, pp.8-11 , 勁草書房 を参考にしてもらいたい。ここでは個人道徳的観点からではなく統治功利主義という統治の観点からも検討している

*30:しかしそもそも、なぜ多くのことを要求することが道徳規範として間違っている根拠になるのだろうか。功利主義の要求はできないことを要求するものではない。できる範囲の中で最善の選択をせよと要求しているにすぎない。「~べし」は「~できる」を含意するという道徳規範の前提に功利主義は従っており、過剰な要求をすることそれ自体が道徳規範として間違っているというのはいささかよくわからない。

*31:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.94

*32:以上の議論は、ラザリ=ラデク, シンガー(2018) による

*33:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.ⅸ

*34:ジョシュア・グリーン(竹田円訳)(2015), 『モラル・トライブズ』, 岩波書店

*35:おそらくここで紹介した本を読んでも、この本のすべてを理解できるわけではない。この本を隅から隅まで読んで理解するためには功利主義倫理学の勉強だけでは全く足りない。私自身も半分も理解できてないと思う。しかしこの本が功利主義についての発展的かつ理論的な側面について知ることができる最良の日本語文献であることは間違いなく、それゆえ読む価値があると私は思う。