ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

ヴィーガニズムと動物倫理

 

0 はじめに

 *1

本記事の目的は、倫理的な理由に基づくヴィーガニズムへの誤解や批判に対して答えることである。

 まず1節でヴィーガニズム、より正確には動物倫理における反種差別の議論をみていく。2節で、1節で検討したことからの帰結としてのヴィーガニズムを検討する。3節でヴィーガニズムに対するよくある批判を検討する。4節でまとめる。

 

1 ヴィーガニズムの根拠

 この節の中心的な議論を簡略化すれば次のようになる。

  1. 人間は苦痛を感じ、また動物も同様の苦痛(全く同じ苦痛、ではない)を感じる
  2. 苦痛を避けることは、人間にとっても動物にとっても利益である
  3. 同様の利益には平等に配慮しなければならない(利益に対する平等な配慮)
  4. 1, 2, 3より、人間と動物の苦痛を避けるという利益に対しては平等に配慮しなければならない
  5. しかし現在、ほとんどの人は人間の利益を動物の利益よりも重要とみなし、より配慮している
  6. 同様の利益に対して平等に配慮しないことは差別である
  7. 5, 6より、ほとんどの人は動物に対して差別している(種差別)

この議論に納得がいくなら、次の節まで読み飛ばしてもいい。しかしもし納得できないなら、以下に続く議論を読んでほしい。

 ヴィーガニズム、より正確には動物に対するひどい扱いに対して反対するような考え方はずっと昔からあった*2。しかしそれらは個々人の実践であって、大きなムーブメントではなかった。これが今に続く一つの大きな主義・主張として提出されたのは、おそらくピーター・シンガー『動物の解放』が最初だろう。

 『動物の解放』で彼は、私たちのほとんどは動物に対してひどく差別的な扱いをしている、と主張した。その扱いとは、例えば工場畜産や動物実験などのことである。これらの悲惨さはネットで調べればいくつも出てくるが、『動物の解放』からまとめたものを当ブログの記事 功利主義(2/2) - ボール置き埸 でまとめているので参考にしていただきたい。ここではその一つを引用しよう。

鶏は、早く太るのを促進するために初めの1~2週間は24時間明るい光にさらされる。その後、(睡眠後に食欲が上がるとされているので)照明を薄暗くし、2時間ごとにつけたり消したりされる。そうして早々に太らされた鶏はおよそ、7週齢で殺される(鶏の自然の寿命は約七年である)。

功利主義(2/2) - ボール置き埸

シンガーは、こうした扱いを容認する者を「種差別主義者」だとして批判する。彼の定義によれば種差別とは「私達の種〔人種〕の成員に有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」*3である。シンガーはこの種差別が不当であるかどうかを検討するために、人種差別と性差別とのアナロジーを考える。人種差別や性差別はなぜ道徳的に悪いのだろうか。これらの差別を正当化しようとする人々は、女性や黒人は、男性や白人と比べて知的に劣っているから差別してもいいのだ、と主張するかもしれない。

 これに対しては二つの応答が可能である。第一に、女性も黒人も、実際には男性や白人と知的に同等であるという事実によって反論できる。しかしこうした反論の仕方は、ある種の知性差別主義(例えばIQの高い者にのみ権利を与えるといった立場)に反論することを不可能にする*4。したがってこの応答の仕方は別の形の差別主義に対応できない。*5

 われわれはこうした応答をすべきではない。そこで第二の応答は、そもそもわれわれは、IQや体力といった何らかの能力にもとづく差別主義を拒絶すべきである、というものである。

 では何に基づく平等であればよいだろうか。シンガーが依拠するのは「利益に対する平等な配慮の原理」である*6。この見解が妥当であるということを示すために、なぜ人間を差別してはならないのかを考えよう。例えば、黒人奴隷や女性に選挙権が与えられてないことなどが差別的で不当であるのはなぜだろうか。それは、彼らの利益を考慮していないからではないだろうか。黒人や女性は、白人や男性と同じような利益を持っている。黒人と白人の違いは肌の色の違い程度でしかないが、それによって彼らはそれぞれ異なる利益を持つだろうか。少なくとも基本的人権に関わるような利益に関しては、同様の利益を持っているだろう。また、女性であるということが選挙権が与えられないことについての根拠になるだろうか。民主主義社会に参加するにあたって、女性は能力的に男性に劣っているわけではない。女性に選挙権を与えない根拠がもし「女性だから」という理由だけだとしたら、それは不当だろう。なぜなら「女性である」という事実は選挙を行う上で直接的に関係しないからである。女性も男性も、選挙に関して同様の利益を持ち、そして選挙権を行使する上で重要な違いはない。それゆえ、これらの人種差別、性差別は不当であるといえる。

 では動物に対する我々の扱いはどうだろうか。動物と人間はいくつかの面で明らかに異なる利益を持っている。例えば動物に選挙権を与えることは何の意味もないだろう*7。なぜなら、彼らは選挙に関して何の利益も持たず、選挙権を行使する能力を持たないからである。それゆえ選挙権に関して、動物と我々人間を差別(区別)することは道徳的に問題ではない。だが、例えば殴ったり銃で撃ったりナイフで傷つけたりすることに関してはどうだろか。動物も人間と同様に身体的な苦痛を感じる。その意味で、この点に関しては明らかに同様の利益を持っているといえる。今まで検討してきたように、同様の利益を持つにもかかわらず差別的に扱うのは、不当である。それゆえ身体的苦痛に関して「(人間ではない)動物である」という事実のみによって差別的に扱うのは不当である。それゆえ、少なくとも身体的苦痛という利益に関しては、動物と人間とで平等に道徳的に配慮しなければならない*8。しかし既に述べたように、我々の動物に対する扱い(工場畜産や動物実験など)は、平等な道徳的配慮をしているとは全くいえない。それゆえ、少なくともこの点に関して不当である。それゆえ、我々はこの不当な差別=種差別に対して批判・反対するべきである。

 この見解は過激だろうか。そうではないと私は思う。例えば、野良猫を特に理由もなく(あるいはそうするのが楽しいからという理由で)蹴飛ばすのは道徳的に悪いと思うのではないだろうか。これは道端の石ころを蹴るのとは全く違う。石ころを蹴飛ばすこと自体は道徳的に問題がないだろう*9。石ころと猫は苦痛を感じるか否かという点で異なり、後者は苦痛を感じる。それゆえ、猫を特に理由もなく(あるいは楽しむために)蹴飛ばすのは道徳的に悪いといえるだろう。そしてこれは、ほとんどの人が同意するのではないだろうか。ヴィーガニズムの根本的な主張は、これを少し先に進めたところにある。つまり具体的に言えば、猫を殴るのは悪いことであって、人間と猫の間で身体的苦痛についての大きな違いはなく(つまり同様の利益を持っており)、そしてそれゆえ、人間の苦痛と猫の苦痛を平等に配慮するべきなのである*10

 一般に、ヴィーガニズムの主張は過激なように思われている。だがその根底にある考えは私たちの常識とそこまでかけ離れているわけではない。

 ところで、少し詳しい人は「シンガーは功利主義者だ。だから功利主義に立って種差別批判してるが、功利主義は間違ってるからこの議論は根本から誤り」という感想を持っているかもしれない。まず「功利主義は間違ってる」という主張を批判したいが、それは話がそれるのでおいとこう。さて、ここまでの一連の説明からわかるように、ここでは功利主義は一切登場していない。正確には、功利主義の一側面である平等主義が取り出されているに過ぎない(一側面である以上、それ自体は功利主義ではない)。反種差別は、功利主義や義務論などの規範理論に立たずとも、何らかの常識的な倫理規範を少し補強するだけで導出可能である。また、功利主義は規範倫理学の中では不人気だが、これは動物倫理でもそうであり、功利主義を支持する動物倫理学者はほとんどいない(と思う)。それゆえ「ヴィーガンの立脚する思想は功利主義」というのはほとんどの場合誤りである。*11

 

2 反種差別の帰結

 1節での検討から、我々はどう行動していくべきといえるだろうか。例えば、現代で女性の選挙権が認められていなかったり奴隷制度が横行していたりした場合、我々はそれに対して反対し、女性の権利を認めるよう、奴隷制度を廃止するよう働きかけをするべきだろう(少なくとも表立って現状肯定するべきではない)。

 ここから類推すると、私たちは工場畜産や動物実験などに反対するべきであり、そのような工場畜産や動物実験によって生産されたものの購入や、そういった制度の維持を積極的に行うべきではない。スーパーやコンビニなどの普段私たちが購入する場所に並んでいる動物性の食品類のほとんどは工場畜産によって生産されているものである。それゆえ、我々はそれらの購入を避けるべきである*12

 ここでの議論からわかるように、ヴィーガンになるべきかどうかは実は微妙なところである。問題は、ヴィーガンになることが重要なのではなく、動物に対する差別に反対することが重要だということである。ヴィーガンというライフスタイルは、その反対運動を行う上での単なる手段にすぎない。もしヴィーガンにならずとも種差別反対運動をすることができるならそれでいいし、ヴィーガン以上の厳格さが必要であるなら、ヴィーガン以上の実践を行うべきである(パーム油や動物実験企業、白砂糖を避けている人がいることを考えれば当然だろう)。重要なことは、動物に対する差別に反対することである*13

 ここで少し用語上の問題がある。私は「ヴィーガン」を「動物性食品を避け、動物性製品を避け、また動物の犠牲(動物実験など)の上に成り立っているような製品を可能な範囲で避けるようなライフスタイルをおくる者」という意味として使っている。だがそうではなく、ヴィーガンヴィーガニズムを反差別運動の意味も含めたものとして使っている人がいる。特にヴィーガンを自称している人でその傾向があるように思う。そうした人々は、先程のような単に動物性製品を避けるだけで動機が反種差別のそれではないライフスタイルを「プラントベース(植物ベース)」と呼ぶ。たしかに、元々のヴィーガンの定義は動物搾取に対して反対する意味を含意したものだった。しかし今はもうその定義からは違う意味として使われている。

 私は反差別の意味を含んだものとしての「ヴィーガン」という使い方には否定的だが、これは定義の問題なので、どう定義するのが(功利主義的に)望ましいかによって定義するべきであると私は思う。また、誰かがヴィーガンであるか否かは些末な問題である。再度述べれば、ヴィーガンであることが重要なのではなく、動物に対する差別に反対し、実践することが重要なのである。

 

3 よくある批判

 まずこちらのサイトを参考にしていただきたい。

therealarg.blogspot.com

ほとんどの批判に対する解答が載っている。以下では、このサイトと重複する点が多くなるだろうが、私なりにいくつかの疑問に対して回答していく。

 

3.1 植物の命はいいのか?

 この批判には3つのパターンがあると私は考える。

  1. ヴィーガンは命を大切にすると言っているのに植物を無視している
  2. 植物も苦痛を感じている(利益を享受する主体である)
  3. 命ある者に配慮すべきである

1は、単に私たちの主張を勘違いしているに過ぎない。私たちは命ではなく「利益」に注目している。そして植物は「利益」を享受する主体ではない。補足すれば、時々「ヴィーガンは植物を生き物だと思ってない!」という批判があるが、それは誤解である。植物は分類学上生物に属しているのであって、生物ではない、生きてない、命はない、などと誰も思っていないし言ってもいない。そのような主張として見えているのならば、それは完全に誤解である。

 2は事実の問題である。植物が実際に苦痛を感じているか否かは科学によって明らかにされることである。そして現状の科学の成果が明らかにしているのは、彼らには意識がなく、そして当然苦痛も感じてないということである*14。例えば植物学者のチャモヴィッツは『植物はそこまで知っている』というキャッチーなタイトルの本を書いているが、植物への刺激を通して見られるのは、単なる電気的な反応に過ぎないと述べている。さらにいってしまえば、擬人化して植物が損害を受けたことを知っているといえるとしても、植物はそれを気にしないのだそうだ。

Q:オジギソウはそれを嫌がりますよね?

A:人間中心的になって「ああ、植物も痛がるよ!」と言うことは簡単です。しかし、私に確認できるのは、一つの生物学的な現象であり、そこにスピリチュアルな要素は全くありません。全ての生物は電気を使います。脱分極と呼ばれるものです。これは太古から存在する生物学的な機能です。私たちの神経も電気を使います。

「植物は痛みを感じるか? 生物学者に訊いてみた。」 - 道徳的動物日記

Q:はっきりさせておきましょう。植物は自分が損傷されている時はそのことを知っているんですよね?

A:あなたは、明確に植物を殺すことができます。しかし、植物はそのことを気にしません。(You can definitely kill a plant, but it doesn't care.)

「植物は痛みを感じるか? 生物学者に訊いてみた。」 - 道徳的動物日記 

また以前話題になった日本人の植物研究者の研究の記事でも「キャッチーな言葉を使っ」たと述べている。

—「植物は痛みを感じていた」と大きく取り上げられていましたね。

確かに「痛み」と言うと哲学の世界に踏み込んでしまって、植物が本当に「痛み」を感じているかはわかりません。ただ、少なくとも自分が傷つけられた時に、どういう仕組みでそれを感じているかは明らかになったんです。

—分かりやすく説明するために、そういう言葉を選んで説明していると。

やはり「植物って大事だけど、人間の命とか病気と比べると重要なの?」と考える人は多くいます。そこには大きなギャップがあるのかもしれませんが、取るに足らない植物が非常に巧みな仕組みを使って、動物と同じようなことをやっていると多くの人に伝えたい。だから論理的には飛躍しているかもしれませんが、「痛い」といったキャッチーな言葉を使って説明しました。

blogos.com

 

しまいには、植物学者からわざわざ「意識はない」と主張する論文が出ている。(意識がなければ、もちろん「苦痛」も「痛み」も経験しない)

gigazine.net

 

しかし、本当にもし「苦痛」や「痛み」を感じて気にしているならば、植物に対しても配慮すべきことは明らかである。それはヴィーガンだけに課された義務ではない。

 さて、もし「苦痛」を感じていたとしたら、私たちはどのようなライフスタイルを送ればいいだろうか。これは厄介な問題だが、少なくとも、一般的な生活よりもヴィーガンになる方がましである。動物性の製品の製造過程を考えれば、その原料である動物たちは植物を食べるので、直接的に植物性の製品を用いるより、消費される植物の量、犠牲となる植物の総量が多くなる。したがって直接的に植物性の製品を用いる方が犠牲の量が少なくなるから、ヴィーガンの方がましである。それゆえ、植物が有感だとしても、なおヴィーガンになるべき(あるいはもっと強く食生活を制限するべき)である。*15

 そして3は、道徳規範についての問題である。1節で説明したように、私たちが注目するべきは「利益」である。では命ある者について配慮しなくてもいいのだろうか。つまり、命は道徳的に重要な要素なのだろうか。私は直接的に重要であるとは考えない(間接的に重要であることはもちろんあるだろう)。 

  

3.2 今まで動物実験をさんざんしてきて発展してきたのだから、そのような犠牲の上に成り立っている社会から出ていくべきである

 過去に何があったかは全く問題にならない。問題はこれからどうしていくかである。現在流通している医薬品は(おそらく)全て動物実験によってテストされているだろうが、だからといってそれらを利用してはならない理由にはならない。以後動物実験を行わないという前提のもとで、それらの薬を使用することは動物の苦痛を増やさないので、何も問題ではない*16

 では、これからも犠牲が増え続ける社会に参加することは許容できるのだろうか。これは少し難しい問題である。この問題への回答はいくつか考えられるが、もっとも単純な話として、例えば奴隷制度が存在する社会内部から奴隷制度に反対することは問題がないだろう。 社会の外から批判することは難しく、また内部から反対することは奴隷制度をやめさせる上で効果的である。あるいはフェミニズムを例にしてもいいかもしれない。現代社会が男尊女卑によって何らかの利益を生み出すか、あるいは社会を効率的に回しているとして、その場合、その内部から男尊女卑に反対することはなにか問題だろうか。その社会から一度出て、その外部から批判するべきなのだろうか。そうではないだろう。

 これらから類推すれば、ある社会が何らかの不当なシステムに維持されており、かつ批判者がその社会に参画しているとしても、社会内部からそのシステムを批判することは問題ではないことがわかるだろう。ゆえに、ヴィーガンが動物搾取的社会に参画しているとしても、その動物搾取を批判することは問題ではない。

 関連する批判として、社会に参画している以上動物搾取に加担してしまっているのだから、ヴィーガンがとやかくいう権利はない、という批判もある。これについても、上に述べたのと同様の返答ができる。*17

 

3.3 ヴィーガンは私たちに菜食を押し付けるべきではない

 面白いことに、ヴィーガニズムに対する批判としてはよく見かけるのに、フェミニズムや反差別運動に対して「押し付けるな」という批判をほとんど目にしたことがない。この違いは、フェミニズムは社会変革運動として正確に捉えられている(それゆえ批判しようとしたときは「押し付けるな」ではなく「それはおかしい・間違っている」となるし、「価値観は人それぞれ」ともならない)一方で、ヴィーガニズムはそのような運動の一つとしては捉えられていない(つまり単なる個人の趣味・嗜好であると捉えられている)からだと考えるが、これは社会学的・心理学的問題だろう。

 話がそれたが、「押し付け」は、少なくともその動機や目的が社会変革を求めるものであるならば、何の問題もない。むしろ社会変革を求める運動にもかかわらず押し付けないなら、その運動形態を変えたほうがいいだろう*18ヴィーガニズムは個人のライフスタイルの問題のみにとどまらない、社会変革を求める運動である。それゆえ、押し付けを避けては通れないし、押し付け自体も問題にはならない。もし問題となるなら、ありとあらゆる社会変革を目的とする運動が問題になってしまうだろう。

 だが、例えば、私は現実に友人や知人にヴィーガニズムを押し付けたことはあまりない。どこか遊びに行くような機会があったとき、ほとんどの友人・知人は、私が動物性食品を食べられないことに配慮してお店を選んでくれる。これは本当にありがたいと思う。そのように配慮してくれているにもかかわらず押し付け的な言動をすることは互いに気分が良くないし、ましてその場面で押し付けたところで相手が変わることはまずないので、押し付けの意味がない。そのため、通常の日常会話でもそうだが、基本的に押し付け的な言動をすることはほとんどない。

 私が押し付け的な言動をするタイミングは、例えば動物倫理に関する議論をしているときである。このとき自身の意見の正当性を主張し、相手に「押し付け」ることは問題ないだろう。*19

 

3.4 他者に迷惑をかけていないのだから何を食べようと自由である

 この「他者」に動物を含めた場合、動物に迷惑(こんな軽い言葉で言い表せるほどではないが)をかけていることは明らかである。私たちは、この配慮される対象としての「他者」に動物を含めるべきだと主張しているので、結局のところ迷惑をかけていることになる。

 そして「他者」が人間のみを意味するとしても、実際には迷惑をかけている。肉食や雑食が菜食と比べて環境に多大な負荷をかけていることは他のサイトでたくさん論じられているので、調べてほしい。

 

3.5 ヒトラーベジタリアン(ヴィーガン)だった。だから、ヴィーガンはおかしな集団である

 冷静に考えれば、論理的に飛躍していることは明らかである。

  1. ある集団Aに殺人者がいる
  2. それゆえ、集団Aに属する人々は全ておかしな人々である

この論理は妥当だろうか。例えば日本人にはたくさんの殺人者がいるが、それによって日本人全てがおかしな人々であると判断するのは妥当だろうか。当然妥当ではない。それゆえ、この集団Aにヴィーガンを当てはめても妥当ではない。

 一方で、ヴィーガン側でもこれと似たような形をした論証が使われることがそこそこの頻度である。

  1. アインシュタインレオナルド・ダ・ヴィンチヴィーガンである
  2. アインシュタインレオナルド・ダ・ヴィンチは知的に優れた人である
  3. それゆえ、ヴィーガンは知的に優れている

あるいは、次のような意見も時々目にする。

  1. 私はヴィーガンになって花粉症が治った・軽減した
  2. ヴィーガンになって花粉症が治った・軽減したという話をよく聞く
  3. それゆえ、ヴィーガンになれば花粉症が治る

これらも論理的に飛躍している(現に私は花粉症が治りも軽減されもしていない)。後者のようなポジティブな発信は好ましいが、しかし過度に一般化して論理的に誤っているような発信をすることは、私は望ましくないと思う。

 

3.6 どれだけ頑張っても動物の犠牲を0にはできないのだから、ヴィーガニズムを普及させたところで意味がない

 0にできないなら意味がない、というのは直観的には正しそうだが、冷静に考えてみればかなり極端なことをいっているとわかる。例えば、自動車に自動ブレーキシステムが搭載されるようになって久しいが、これらの技術は、事故を0にすることはできないが減らすことができるし、そのために開発された技術である。もちろん、理想は0だが、少しでも事故を減らし犠牲者を減らすことは意味のあることだろう。事故を0にすることができないからこの技術は意味がない、というのはかなり極端な話ではないだろうか。そしてこれはヴィーガニズムも同様である。もちろん理想は犠牲0だが、現実的にそうはいかない。あくまでも、ヴィーガニズムの現実的目標は「できる限り犠牲・搾取を減らす」ことである。そしてこれは、意味のあることである。

 

3.7 野生動物の世界では肉食動物は草食動物を食べている。それゆえ私たちも動物を食べても問題ない 

 野生動物がそうしているからといって、私たちもそうしてもいい、ということにはならない。形式的に書けば

  1. 自然界では肉食動物は草食動物を食べている
  2. それゆえ、私たちも(草食)動物を食べてもよい

となるが、これが論理的に飛躍しているのは明らかである。妥当な論理にするためには次のようにしなければならない。

  1. 自然界で行われていることは、私たちも行ってよい
  2. 自然界では肉食動物は草食動物を食べている
  3. それゆえ、私たちも(草食)動物を食べてもよい

さて、前提の「自然界で行われていることは、私たちも行ってよい」は正しいだろうか。例えばライオンの雄同士が争い、群れの単独雄に勝ち、群れを乗っ取ったとき、その群れの子どもを殺す(子殺し)ことでよく知られている。ライオン以外でもいくつか発見されているようであるが、では、人間はこんなことをしてもいいのだろうか。いいはずがないだろう。よって前提1は正しくない。そしてそれゆえ、この議論も正しくない。

 

4 まとめと参考文献とヴィーガン料理

 ここまでで、ヴィーガニズムおよび動物倫理に関する基本的な説明はできていると思う。要点を押さえれば次のようになる。

  • 人間を人間であるというだけで特別に配慮し、動物を人間でないというだけで虐げるのは種差別である
  • 同様の利益を持つ者に対しては平等に配慮すべきであり、そうしないのは不当である
  • 動物も人間も、身体的苦痛という点で同様の利益を持つ
  • それゆえ、種差別は不当である

本記事だけで動物倫理およびヴィーガニズムのトピック全てを取り扱えているわけではない。まずはネットですぐに確認できるサイトを以下に紹介する。

therealarg.blogspot.com

vegan-translator.themedia.jp

davitrice.hatenadiary.jp

 

出版されている文献として、代表的な論者であるピーター・シンガーの次の二冊は参考になる。

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 
実践の倫理

実践の倫理

 

 

また、ヴィーガンに関しての話としてはこの二冊が参考になるだろう。

  • シェリー・F・コープ『菜食の疑問に答える13章』
  • マーク・ホーソーン『ビーガンという生き方』(私は未読)
菜食への疑問に答える13章: 生き方が変わる、生き方を変える

菜食への疑問に答える13章: 生き方が変わる、生き方を変える

 
ビーガンという生き方

ビーガンという生き方

 

 

動物倫理・倫理学一般の話としては

  • 伊勢田哲治、作画:なつたか『マンガで学ぶ動物倫理』(私は未読)
  • 伊勢田哲司『動物からの倫理学入門』(特にこれはおすすめ)
マンガで学ぶ動物倫理

マンガで学ぶ動物倫理

 
動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

 

ここまで「動物の権利」について言及しなかったことに気づいている読者もいるだろう。私は権利論一般に対して肯定的ではないため、ここでは議論を紹介しなかった(動物倫理のテクニカルな問題には権利論は必要かもしれないが、基本的なことに関しては権利論も功利主義も必要ないと考える)。動物倫理と聞くとピーター・シンガーがとても有名で、彼が「動物の権利」を主張しているとよく誤解されるのだが、実は彼は直接的に「動物の権利」を擁護しているわけではない。権利論、つまり「動物の権利」については次の二つが参考になる。

  • ゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』
  • デヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』(動物倫理への簡単な入門書としてもおすすめ)
動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

 
動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

「廃止!廃絶!動物を食べるな!」ばかりの消極的な議論で辟易している人もいるだろう。「じゃあ私たちはどういう社会を作ればいいんだよ!」という批判はごもっともである。そういう方にとって、積極的な議論を行っている次の文献はとても参考になるはずである。

  • スー・ドナルドソン、ウィル・キムリッカ『人と動物の政治共同体』
人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

最後に、少しヴィーガン料理を紹介したいと思う。

 

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自宅で母の手伝いを借りつつ作った弁当。我ながらおいしかったと思う。

 

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これは母が作ってくれたもので、この日は何かのお祝いごとだった気がする。もちろん、全て動物性抜きである。中央右上のピザっぽいものに目が行くと思うが、もちろんこれもヴィーガンピザである。チーズ部分にはヴィーガンシュレッドを用いた。
私のとろ~りとろけるヴィーガンシュレッド 200g | 商品情報 | マリンフード株式会社

 

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これは東京と仙台にお店を構えるT'sタンタンの金胡麻担々である。

ts-restaurant.jp

お店はチェーン店で、いくつか店舗を構えている。東京や仙台にお住まいの方は一度いってみてほしい。またカップ麺も販売している。私は担々麺のほうが好きだ。

ニュータッチ T's NOODLE 担担麺 67g×12個

ニュータッチ T's NOODLE 担担麺 67g×12個

 
ニュータッチ T's NOODLE 酸辣湯麺 67g×12個

ニュータッチ T's NOODLE 酸辣湯麺 67g×12個

 

 

*1:(2022/12/14追記)以前は以下のような文章から初めたが、もはや必要ないと思われるので省略した。

ここ最近ツイッターやネット記事で「動物はご飯じゃない」デモとそれへのカウンターである「動物はおかずだ」デモに関して様々な意見・主張が見受けられる。少なくともいくつかは的を射た批判もあるが、その他の多くの批判は、互いに対する無理解が中心的であるように思う。私はデモとカウンターデモに関してよく理解できていないので、これら一般に関して意見することは控える。

*2:(2022/12/14追記)以前は以下のような情報をのせていたが、出典を明示できないので省略した。

例えば三平方の定理で有名なピタゴラスヴィーガンであったと言われているし、レオナルド・ダ・ヴィンチアインシュタインもそうであったようである。ただしこれらの情報はネットで検索した程度で、文献を確認したわけではない。

*3:シンガー・P(2009, 邦訳2011), 『動物の解放』(戸田清訳), 邦訳p.27, 人文書院

*4:もちろん、IQが実際の知性を反映していないと言えるかもしれない。しかし以下に述べるように、問題はそこではないのだ。

*5:追記(2021/03/19):以前は以下のような記述であったが、これはシンガーが依拠する考え方ではないので変更した。
具体的には次のようになるだろう。「白人は白人であるというだけで特別に配慮され、黒人は白人ではない(黒人である)というだけで虐げられる」、「男性は男性であるというだけで特別に配慮され、女性は男性ではない(女性である)というだけで虐げられる」。この種の見解が不当であることは明らかである(当然、明らかではないという主張もあるだろう。この主張の検討をすると話がそれてしまうので、本記事では扱わない。)。シンガーはここから、「人間であるというだけで特別に配慮され、人間でないというだけで虐げられる」という種差別的な偏見は不当であるとする。

 これだけでは納得できない人もいるかもしれない。これは単に種差別も人種差別や性差別と同様の構造を持っているということを示したのみだからである。同じ構造だからといって全部不当になるわけではないだろう。そこでシンガーはもっと根本的な倫理規範から考えていく。

*6:追記(2019-11-27):ここでいう利益は「その主体の幸福に資すること」程度のものであると考えればいい。したがって、例えば「種の利益」は種という主体が存在しない以上、存在しない。

*7:ドナルドソンとキムリッカが主張するような「人と動物の政治共同体(zoopolis)」構想のような考え方のもとではそうではないかもしれない。

*8:そして身体的苦痛以外にも人間と動物で同様の利益を持つようなことがあるなら、その状況では人間と動物を平等に配慮しなければならない。

*9:もちろん石ころを蹴飛ばし、人にあったてしまうのは悪いことであるが、それはあくまで人に当たるのが悪いのであって、石ころをけとばすことそれ自体が悪いわけではない。

*10:ここに飛躍があると思った方は正しい。ここには飛躍がある。つまり、猫の苦痛と人間の苦痛に大きな違いがないという事実から、平等に配慮するべきとはもちろんいえない。この議論は、正確には次のようになる。

  1. 猫の(身体的)苦痛と人間の(身体的)苦痛に(質的に)大きな違いはない
  2. (質的に)同様の(身体的)苦痛には平等に配慮すべきである
  3. それゆえ、猫の(身体的)苦痛と人間の(身体的)苦痛に対して平等に配慮するべきである

そしてこの議論に対して反駁したいのであれば、2つの前提のどちらかを否定すればいい。前提2は何らかの哲学的立場に立つことによって否定することができる。例えば私が記事にしてまとめたケーガンの論文では2を否定し、猫(非様相人格)と人間(様相人格)を平等に配慮しなくてもいいと論じている。 シェリー・ケーガンの種差別批判批判とシンガーのリプライ論文の要約 - ボール置き埸 
一方で1は科学によって明らかにされるべきことであって、科学を頼らずして判明するようなものではない。そして、現状では1は微妙なところである。しかしどちらとも結論できないなら、予防原理的に、質的に同様であると仮定して議論するのが賢明であろう。

*11:ツイッター界隈でガチガチの功利主義に立脚して反種差別・ヴィーガンを擁護しているのは私しかいないんじゃないかと思うくらいである(私以外で見たことがない)。

*12:では工場畜産ではない畜産であればどうだろうか。つまり動物たちがのびのびと快適に過ごした後に屠殺するような畜産を許容できるだろうか。これは、飼育方法や屠殺方法によっては許容できるかもしれない。この点については反工場畜産の立場でも見解が分かれるところである。大きくわければ、功利主義者はこれを許容し、権利論者はこれを許容しないといえるだろう。だが功利主義的な立場にたったとしても、かなり配慮された形での畜産(その程度がどのくらいであるかは不明であるが)でない限り許容しない。

*13:追記(2020-11-24):ここで功利主義ヴィーガニズムに批判的な人は、功利主義では行為の帰結が重要なのだから、ヴィーガンになったところで経済的に影響を与えることができない以上、ヴィーガンになる理由はないと論じるかもしれない。私自身、当初は「たしかに経済に影響を与えるのは困難である」と考えていたが(下記の古い追記を参照)、今ではこの前提から結論は出てこないと考える。これについては別のブログでまとめたものを参照のこと

あなた1人だけがヴィーガンになっても無意味なのか?——菜食を巡る個人消費の影響と倫理的実践
追記(2019-06-28):このことからわかるように、功利主義者がヴィーガンになるべき理由は差別に反対することで、結果的に他の人にも広めることになり、将来的な苦痛を減らすことができるというものである。功利主義に批判的な人びとが述べるように、たしかに、たった1人が動物性製品の消費をやめたところで市場は動かないし、全く苦痛は減らせない(上記の追記の記事にあるように、これは今(2020-11-24)では誤りだと考える)。したがって功利主義者がヴィーガンであるのは非合理的ですらあるかもしれない。だがそれは功利計算を誤っていると私は思う。ヴィーガンになることは他人にもそれを広めるための説得材料になる。もし私がヴィーガンではないのに、「あなたはヴィーガンになるべきだ」といっても何の説得力もない。もしヴィーガンであることによって説得ができ、動物性製品を減らすことにつながるのであれば、そしてこれが連鎖的に生じるのであれば、結果的に複数人の人が動物性製品を減らすことにつながる。そしてこれは、功利主義が命ずるところであるだろう。

*14:最近では貝類も意識がなく苦痛を感じてないという研究があるらしいので、今後、ヴィーガンは一部の貝類を食べられるようになるかもしれない。もしそうなったら完全菜食主義者としてのヴィーガンと動物倫理的意味合いとしてのヴィーガンとは区別しなければならないだろう。

*15:ここで私が「まし」だと述べていることからわかるように、おそらくこれは最善の選択肢ではない。植物が苦痛を感じているとなったとき、植物は何に関して苦痛を感じるのか定かではない。科学的に明らかにされる苦痛の経験の如何によって、私たちの選択すべきライフスタイルは異なるだろう。

*16:それゆえ、例えば、私たちは自然死した肉を食べても問題ないのである。

*17:もう少し踏み込んで別の観点からいえば、この問題は説得力の問題に過ぎない。例えば「人のものを盗んではならない」と強盗常習犯が発言した場合、説得力はまるでないが、発言内容の正しさは全く失われないだろう。「人のものを盗んではならない」ということの正しさが発言者に依存していようものなら、誰が言ったのかに依存して人のものを盗むのが悪くなったりならなかったり変わってしまう。だがそんなことは考えにくい。それゆえ、ヴィーガンが動物搾取的な社会に参加し搾取に加担しているとしても、ヴィーガンの発言内容自体の正しさは全く失われないのである。したがって、ヴィーガンに対して「お前も結局搾取に加担してるじゃないか、人のこと言えないぞ」と批判したとしても、その批判はヴィーガン行為に対する批判でしかなく、ヴィーガン発言内容への批判には全くなっていないのである。

*18:これは実践的な問題で、もっと柔らかなアプローチをとって社会変革を求めていく方法も考えられる。例えば、次の記事の内容をどう受け取り、どう実践に移すかは難しい。

社会運動において意見を発信する側はどうするべきか、そして意見を受け取る側はどうあるべきか - 道徳的動物日記

*19:以前は下記のように考えていたが、「押し付け」という語の使用範囲は相当に広いと思うようになったので、今では下記のように考えてない。

ここまで「押し付け」という言葉を用いてきたが、私自身、何が押し付けで、何が押し付けでないかさっぱりわからない。少なくとも言語的な主張にとどまるならそれは押し付けではないと思う。反対に物理的な強制力の行使(例えば食べたくないものを無理やり食べさせられること)は押し付けだろう。しかしどのあたりから押し付けになるのか判然としない。