ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

道徳的自然主義者になる方法(1/5)

*1

0 はじめに

 ずっと以前から、どうやって道徳の実在を論証すればいいのか悩んでいた。昨年の3月頃に佐藤の『メタ倫理学入門』を読んで以降、道徳の実在性についてずっと悩んでいる。道徳は実在するのだろうか。実在するとしたらそれはどのような実体なのだろうか。

 存在論における道徳的実在論はいくつかの諸理論に分かれるが、ここで佐藤(2017)の整理を参考にすると、次のように分かれる*2

もう何がどうなっているのかわからないくらい錯綜としているが、本記事で検討したいのはこの内の自然主義である。自然主義一般は哲学の中の一つの立場であって、現代哲学の中で非常に大きな潮流を作っている。自然主義内部でも様々に分かれるが、一般的にこの立場は哲学と科学の連続性を重視する。

 道徳や倫理学における存在論自然主義は「道徳は実在し、それは自然的なものである」という立場である。「自然的な」が意味するところは曖昧で、自然主義者の中でも立場が別れている。

 自然主義関連の日本語書籍はいくつかある*4。しかし、こと道徳的自然主義に関しては、専門・研究書は一冊*5、部分的に取り扱っているものとして、私が確認できているもので3冊だけである*6*7。一方で非自然主義の方はそれなりにある*8*9。そこでまず、今ほとんど文献が揃っていないこの自然主義の立場を整理して、自分の中で固めたいと考え、記事を書くことにした。*10

 五つの記事に分ける予定である。五つの記事で説明したいことはそれぞれ

である。

 本記事では「なぜ数ある存在論(認識論)の中でも自然主義なのか?」を説明していく。1節で大雑把に自然主義とはいかなる立場なのかを説明する。2節で自然主義を大きく存在論自然主義と方法論的自然主義とにわけ、それぞれどのように定式化されるかを説明し、3節でまとめる。

1 自然主義とはなにか

 クワインの「経験主義の二つのドグマ」と「自然化された認識論」以降に再興した哲学的立場の一つが自然主義と呼ばれる立場である。一言に「自然主義」と言ってもその内部で様々な分類がある。例えば次のような分類の仕方がある。

この分類の内部でも様々な定義のされ方があり、またこの他に個別トピック(例えば心の哲学や社会科学の哲学)ごとにそれぞれ「自然主義」と呼ばれる立場があり、「自然主義」で何か一つの立場を指すのは難しい*11。とはいえ、冒頭に示したように「自然主義」にある程度共通することとして、科学(特に自然科学)との連続性を重視することである。では「連続性を重視する」とはなにか。

1.1 ノイラートの船

 次のような船を想定してみよう。その船には哲学者と科学者が乗船している。哲学者と科学者は協力して、この船が沈没しないように、修理したり改善したりしている。その船は港に停泊ことはなく、ずっと海洋を進んでいるので、停泊して何かを得るということはできない。哲学者も科学者も船上にあるものでやりくりしなければならず、一から作り直すことはできない。

 このような船をノイラートの船とよぶ。この船の比喩で示唆されていることは二つある(植原 2017; p.3f)。第一に、哲学と科学の連続性である。哲学者も科学者も同じ船に乗っており、協力しなければならない。哲学と科学は全く異なる領域で行われる営みではない。それゆえ、哲学が科学に対して何らかの基礎を与える、といった作業はここでは行われない*12
 第二に、私たちは船を停泊させたり、新しい船に乗り換えたりすることはできない。今ある材料で最善を尽くさなければならない。それゆえ、過去の乗船員たち(過去の科学者、哲学者)が改善してきたこの船を引き継ぎ、新たに私達によって改善していくことになる。このことは、何かゼロから営みを始めることはできず、私達は歴史的に引き継がれてきた知識や理論、道具を用いてしか営みを始めることはできないし、続けることはできないということである。

 植原は『自然主義入門』で自然主義的哲学の営みを次のように描いている。

おおまかなヴィジョンはこうだ。自然主義に立つ哲学者は、哲学を科学と緊密に結びつけようとする。この世界は自然的世界であり、そこには自然を超えるものはなにも含まれていないし、人間も、したがって人間の心もまた、それを構成している部分にほかならない。だとすれば、哲学が人間を含むこの世界を理解しようとする試みであるなら、どの側面についても科学の方法を用いるべきだろう。なぜなら、世界について現在われわれが手にしている最良の認識は科学によってもたらされており、その意味で自然を探求するうえで最も信頼できるのは科学の方法だからである――。(植原亮 (2017), 『自然主義入門』, 勁草書房, p.1) 

実際、植原の『入門』は科学的知見をふんだんに用いて様々なことを説明している。内容については実際に読んで頂くとして、その内容が既存の様々な哲学書とはちょっと違った雰囲気を持っていることがわかるはずである。

 

2 自然主義の二つの枠組み

 自然主義には大きく二つの枠組みがある。

この二つの自然主義は、先程の植原のたとえにも出てきている。存在論自然主義の基本的な考え方は「この世界は自然的世界であり、そこには自然を超えるものはなにも含まれていないし、人間も、したがって人間の心もまた、それを構成している部分にほかならない。」ということであり、方法論的自然主義は「どの側面についても科学の方法を用いるべきだろう。」ということである。

2.1 存在論自然主義

 では「自然的世界」や「自然を超えるもの」とは具体的に何を意味するのだろうか。これは非常に厄介な問題である。自然主義者においても、何が自然的で何が非自然的であるかについて共通理解はないといってもいい。ここで戸田山(2003)の整理を参考にしながら、存在論自然主義について検討する。

 戸田山によれば、存在論自然主義は次のように(近似的に)定式化される(最後に再定式する)。

存在論自然主義1】自然を超えたものは存在しない。つまり、われわれが認めることのできる実在する対象や事象は、自然界を構成する対象、あるいはそうした対象に何らかの仕方で存在論的にもとづけることのできるような対象と事象に限られる。 (p.66)

だがこの定式化は問題を含んでいる。第一に「自然界を構成する対象」が何かわからない。第二に「存在論的にもとづける」とは何かがはっきりしない。

 第一の問題についてどう答えるかによって自然主義の中でも立場が分かれる。例えば精神的な対象(心やクオリアなど)、幽霊、神などを「自然界を構成する対象」と考える「自然主義者」がいるかも知れない。しかし諸科学ですら捉えることが難しいような対象まで「自然界を構成する対象」とするならば、もはや誰も自然主義に独自の意義を見いだせないだろう。したがって自然主義者は対象の存在について、ある程度制限しなければならない。その最も厳しい立場の一つが物理主義である。物理主義は「自然界を構成する対象」を「物理的対象*13」とする。

 第二の問題について、なるほど、たしかに自然界を構成する対象や事実は実在するだろうが、他のものも実在しているように思われる。例えば心的な対象、社会的制度、意味、そして道徳などである。だがもしこれらが、何らかの形で自然界を構成する対象と関連性を持っているなら、その意味で自然的だと言えるかもしれない。
 ではその関連性とはなにか。その一つは「非自然的なものは自然的なものにスーパーヴィーン(付随)している」というものである。AがBにスーパーヴィーンしているとは、Bが変化することなしにAが変化することはない、ということである*14。例えば心的状態が脳の神経生理学的な状態にスーパーヴィーンしているというと、脳の神経生理学的な状態が同一ならば心的状態も同一であるということは必然的である、対偶を言えば、心的状態が異なるならば脳の神経生理学的な状態が異なるのは必然的である、ということである*15。もし非自然的なもの(心的なもの、道徳、制度など)が存在するとしても、それが自然的なものにスーパーヴィーンしているとするなら、非自然的なものは自然的なものに依存しているわけだから、自然主義者はそのような非自然的なものの存在ならば認めるのもやぶさかではないだろう(もちろん認めない者もいる)。

 以上の議論から、存在論自然主義を再定式すると、次のようになる。

存在論自然主義2】すべての実在する対象ないし現象は、自然界を構成する対象からなるか、あるいはそうした対象にスーパーヴィーンするものに限られる。(p.68)

しかし結局、自然界を構成する対象とは何かがはっきりしない。この問題に対する一つの対応が物理主義であることはすでに述べた。(最小限の)物理主義を定義するなら次のようになるだろう。

【(存在論的)物理主義】すべての実在する対象ないし現象は、物理的対象からなるか、あるいはそうした対象にスーパーヴィーンするものに限られる。

しかし物理的対象とはなんだろうか。現代物理学が措定している対象をすべて認めるのだろうか。それとも一部しか認めないのか、あるいは将来的に完成するであろう完璧な物理学において措定されている対象なのか。戸田山はこれらのどれでもなく、(未来の完成された物理学を含む)物理学とは別に、物理的対象を定めようという提案を行っている(戸田山 2003)。例えば科学的実在論における介入実在論などがそれにあたる。介入実在論は、対象が操作可能であるときに、その対象が存在しているとしてもよい、という立場である(ハッキング 2013)。例えば実験物理学において、電子や陽子を操作して他の素粒子を作り出す実験を行っているが、このとき、電子や陽子は実験的に科学者らによって操作されている。そしてそうした対象については存在を認めてもいいだろう、という考え方である*16。こうした立場によって物理的対象を独自に特定できることになり、存在論的物理主義はひとまず理解できる形になるだろう*17

 では、物理主義ではなく自然主義だとどうなるのか。自然主義においても同様の科学的実在論を取ればいいかもしれない。だが科学的実在論は一般的に、目に見えないミクロな対象や自然界の諸法則についての実在論が主で、生物学や化学などの諸対象や諸法則についての実在論ではない。したがって別の議論を必要とするだろう。例えば生物種についてはどう考えればいいだろうか。生物種は目に見えたり触れたりすることができないが、ミクロな対象というわけではない。生物分類学では実際に種やその上の属などによって生物が分類されているが、では種や属は実在するのだろうか、それとも人間側の規約に過ぎないのだろうか。これを介入実在論によって存在を確立できるかというと、微妙そうである。そうした対象については別個の実在論が必要になるかもしれない。さらには、諸科学でわざわざ扱わないような特定の対象(例えばイスや机などの人工物)も自然界を構成する対象なように思われる。このように考えると、これらの諸対象をある程度包括的に論ずる実在論が必要になるかもしれない*18。こうして自然界を構成する対象を特定していく必要がある。一方で、何でもかんでも自然界を構成する対象と認めてしまうと、存在論自然主義 に独自の意義を見いだせないことはすでに述べたとおりである。どこまでの存在者を自然界を構成する対象とし、どこからを非自然的対象とするのか、その基準は何なのか。それは存在論自然主義とは別に独自の何らかの議論によって特定しなければならないだろう。そうして非自然的対象とされた対象の存在を認めない立場を存在論自然主義とすることになる。*19

2.2 方法論(認識論)的自然主義

 次に方法論的自然主義について考える。植原の説明では「どの側面についても科学の方法を用いるべきだろう。」とされていた。ところで、科学の方法とは何か。「科学の方法」について説明する前に、まず「推論」について説明する*20。なお、以下に説明することは基本的な推論(演繹法、枚挙的帰納法アブダクション、仮説的演繹法)についての説明なので、理解している人は飛ばしてもらって構わない

 推論とは「前提から結論へと至る知的活動もしくは過程」である*21。推論は大きく「演繹」と「帰納」にわかれる。

 演繹的推論とは、次のような推論である。

  1. 人間は哺乳類である。
  2. 哺乳類は生物である。
  3. 1, 2より、人間は生物である。

ここで1と2が前提であり、3が結論である。演繹的推論は「前提が正しければ結論もかならず正しい」推論である。

 一方で帰納的推論とは、次のような推論である。

  1. 公園にいたカラスは黒い
  2. 道路にいたカラスも黒い
  3. 1, 2より、すべてのカラスは黒い

この推論は帰納的推論のなかでも「枚挙的帰納法」と呼ばれている。このような推論は有用である。実際、この推論によって得られた結論はおそらくある程度は正しいだろう。だがこの推論は、前提が全て正しくても結論がかならず正しいとはいえない。もしかしたら、次に見かけるカラスは白いかもしれない*22。この点で、この推論は演繹的推論とは異なる。しかし、このような帰納的推論を私達は日常的に行っているし(前回も前々回も大丈夫だったから今回も大丈夫!などというような推論を私は行いがちである)、そしてそれは実際に有用な場合が多いのだから、これを(注意して使うならば)使わない手はない。

 枚挙的帰納法以外の非演繹的推論として、アブダクション仮説的演繹法がある。この2つが科学の推論において非常に重要な役割を果たしている。以下、その2つを説明する。

 アブダクションとは「最良の説明への推論」ともよばれている推論である。この推論は例えば次のようなものである。

  1. ものを手放すと地面に落下する
  2. 重力があるならば、ものは地面に落下する
  3. 1, 2より、重力がある

1は実際に起っていることであり、2は重力の法則の一種である。この2つから重力の存在を導き出している。この推論の特徴は、1のような実際に起っていることと2のような理論や法則を前提として、それを最も良く説明するような事柄を結論として導き出す推論である。これはある種の説明になっている。もし子どもに「どうしてものは落下するの?」と聞かれたら、あなたはおそらく「重力があるからだよ」と答えるだろう。つまりアブダクションは、実際に起っていることの原因を説明する方法でもあるということである。
 もちろん、アブダクションは間違うことがある。仮に前提が全て正しくても、結論が正しくない場合がある(誰かがものを引っ張ったからものが落下したかもしれない)。しかしそれでも、非常に有用な推論であることに変わりはない。

 仮説的演繹法は、帰納と演繹を組み合わせたようなものである。まず様々な実例を集め、そこから経験的な仮説を立てる(枚挙的帰納法)。そしてそれによって得られた仮説を用いて推論し(演繹的推論)、得られた結論(予測)が実際に正しかったかどうかによってその推論全体が正当化される。具体的な例で考えよう。

  1. 昨日は、太陽が東から登った。
  2. 今日も、太陽が東から登った。
  3. 1, 2より、太陽は毎日東から登るだろう。(枚挙的帰納法によって立てられた経験的仮説)
  4. 4より、明日も太陽は東から登る。(演繹的推論)
  5. (次の日になって)実際に太陽は東から登った。
  6. よって3の仮説は正しい。

この最後の6によって、この推論および経験的仮説(3)は正当化されることになる。だがもちろん、この推論は前提(1, 2)が全て正しくても、枚挙的帰納法を使っているので、結論(3, 4)も絶対に正しいとは限らない。もしかしたら太陽が次の日は西から登っていたかもしれないからである。もし間違っていた場合は、枚挙的帰納法によって立てられた経験的仮説(3)は破棄され(これを反証という)、別の経験的仮説が立てられることになり、再び仮説から予測を試みるのである。科学はこのようにして発展していく営みであると言えるだろう。

   さて、ここまでのいくつかの推論から科学の方法を若干詳細に説明できるようになる。科学は

  • アブダクションによって、実際に起っていることの原因や事実を、理論や法則を用いて推論・説明する。
  • 仮説的演繹法によって、実際のデータを集め、そこから経験的な仮説を立て、予測し、予測の正しさを実際のデータによって確認する。もし予測が誤っていれば経験的仮説を棄却し、別の経験的仮説を立て、再度同じように予測、確認を行う。

方法論的自然主義とは、哲学の方法にもこれを導入するということである。だがそれだけなら、方法論的自然主義に独自の何かを見出すのは難しい。方法論的自然主義はただ導入するだけではなく、これら以外の方法による知識の正当化を認めない、という立場である。

 「これら以外の方法による知識の正当化を認めない」とはどういうことか。伝統的な哲学(認識論)ではア・プリオリに正しい知識があるとされてきた。ア・プリオリとは「経験の前」とか「経験に先立って」という意味で、ア・プリオリな知識とは、(概念の意味さえわかっていれば)経験によらずに考えるだけで正しいことがわかるような知識である。その反対はア・ポステリオリで、これは「経験の後」という意味になる。通常の私達の知識はほとんどア・ポステリオリだと思うだろう。何かを知るのは常に学習を伴うのでほとんどの場合は「経験(学習)の後」だからである。しかし、例えば(「哲学的な」含みなく)文字通りに「りんごはりんごである」というような同語反復な知識*23は、何か経験的探求をするまでもなく正しいとわかるのではないだろうか。さらには、形而上学的な知識に関して、そのような明らかに言葉の意味だけからはわからないにもかかわらず、ア・プリオリに知ることができる知識(ア・プリオリに総合的な知識)があると考えてきたのが伝統的な哲学である。
 方法論的自然主義は、ア・プリオリな正当化を認めず、全ての知識は経験的に(ア・ポステリオリに)修正・反証される可能性があるとする*24。ではどのような方法であれば正当化されるのか。それは、先程まで説明してきたアブダクションや仮説的演繹法による正当化である。*25

 しかし、なぜ哲学はこのような方法にこだわらなければならないのだろうか。ここで説明された方法以外でも構わないではないか。そう考える人もいるだろう。実際、方法論的自然主義に立たない立場の人はそうである。この方法論的自然主義に立つのか立たないのかということを説明するにはさらなる議論を要するが、詳細は割愛する*26

3 まとめ

 ここまでの話を簡単にまとめる。哲学上の立場の一つに自然主義という立場がある。この立場は大きく存在論自然主義と方法論的自然主義にわかれる。存在論自然主義とは、存在するものは自然界を構成する対象か、あるいはそれにスーパーヴィーンするものである、という立場である。方法論的自然主義は科学の方法を哲学の方法に導入し、かつそれしか認めない(知識のア・プリオリな正当化を認めない)という立場である。

 自然主義はそれ自体哲学的に魅力的な立場の一つである。この世に非自然的な奇妙な性質や対象があるとは思えないし、現状の科学の成功を考えると(そして伝統的認識論の失敗を考えると)科学の方法に固執するのは悪くないと思うのではないだろうか。少なくとも私はこのような立場に非常に魅力を感じる*27。そしてこの立場を(メタ)倫理学においても採用したいと考える。*28

 次回の記事では、倫理学において自然主義を採用する動機を説明する。

 次の記事↓

mtboru.hatenablog.com

参考文献

*1:タイトルはR・ボイドの論文「道徳的実在論者になる方法 How to Be a Moral Realist.」をもじっている。

*2:もちろんこの整理では位置づけにくい立場もあり、道徳的特殊主義や道徳的相対主義がそれにあたる。

*3:佐藤(2017)には載ってないが、可能だろうし、実際、スミス(2006)の提案(傾向性分析)がここに入ると考える。「佐藤(2017)でいうところの悪魔パターンか?」とも考えたが、伊勢田先生のブログの書評を見て、悪魔パターンは随伴現象説(エピフェノメナリズム)かもしれないと考えている(しかし随伴現象説を「自然主義」の元においておくのが果たして適切なのか不明である)。

*4:

など

*5:蝶名林亮(2016), 『倫理学は科学になれるのか』, 勁草書房

*6:

*7:しかも蝶名林(2016)は非還元主義的総合主義に焦点が当てられており、他の立場の擁護がなされているわけではない。

*8:

など

*9:非実在論の本はほとんどなく、現状あるのは

くらいである。これらの立場は非実在論の中でも特殊で、前者は準実在論といいほとんど実在論寄りで、後者は非実在論の原型を作った古典で、重要文献なのだが、それ以後の発展した立場を追うことができない。

*10:私の理論的立場の変遷は、改革的虚構主義→準実在論→手続的実在論→理由の実在論自然主義的(還元ないし非還元主義的)総合的実在論、であるが、この変遷のほとんどは不勉強のせいである。そして今、自然主義的かつ総合的実在論という立場に一応たどり着き、還元主義か非還元主義か、それともやはり改革的虚構主義か、というところで迷っている(ループしそうである)。
 また、非実在論は、実は自然主義の下位分類の物理主義かつ消去主義を極端にした場合にたどり着くことができる立場でもあるから(もちろん全く別の動機からたどり着くことも可能だが)、結局私は自然主義の内部で迷っていることになる。

*11:Papineau(2015)の説明でも、定義するのはあまり意味がないとされている。「自然主義」で意味することがあまりに広いからである。

*12:こういった作業こそが哲学(認識論)の目的だという考え方は、第一哲学主義、アプリオリズム、知識の基礎付け主義などと言われる。知識の基礎付け主義とは、知識についての一つの立場で、経験によらない絶対に正しいと考えられる信念(ア・プリオリに正しい信念)を基礎とし、そこから演繹的に推論して知識を正当化していこうとする立場である。この立場において、第一哲学の目的は、経験によらない絶対に正しいと考えられる信念を探すことだとされる。この考え方の最も大きな弱点は、まさにその経験によらない絶対に正しいと考えられる信念の存在である。そのような信念はあるのだろうか。もしあるのだとしたら基礎付け主義者はその信念を示す必要がある。過去にそれを行った最も有名な人はデカルトと呼ばれている(が、これが本当にデカルトのやったことかどうかは詳細な検討が必要である)。彼はまず「思惟する私が存在する(我思う、ゆえに我あり)」という信念は正しいとする。そして善なる神を想定し、そこから様々な信念を導出する。だが私たちはこのような方法を受け入れないだろう。こうした基礎付け主義への批判は自然主義をとる動機の一つでもある。

*13:この「物理的対象」もこのままではよくわからない。この問題はすぐあとに論じる。

*14:

随伴性
 2つの性質(ないし述語)XとYについて、Xについて完全に等しい2つの状況においてはYについてもかならず等しくなるという関係が成立するが、逆は成立しないとき、YはXに随伴する、と言い、そうした関係を随伴性(概念的依存や付随性とも訳される)と呼ぶ。
大庭健ら編(2006)『現代倫理学事典』, 弘文堂

*15:この「ありえない」や「必然的に」ということの範囲によって、強い/弱いスーパーヴィーニエンスが定義される。また別に、ローカル/グローバルなスーパーヴィーニエンスという定義もある。しかしここではそれほど重要ではないので、このことについては割愛する。

*16:他の様々な科学的実在論については戸田山(2015)を参考。

*17:物理的対象を物理学とは別に特定するという戸田山の考えには私も基本的に同意するが、おそらく、もう少し物理学に接近する必要があるのではないかと直観的に思う。

*18:例えばその試みは井頭(2010)や植原(2013)で見られる。

*19:だがそうなってしまうと、結局のところ何が存在するのかという問いとほぼ同じことになり、わざわざ存在論自然主義を取る必要はないのではないか、つまり、こうして定義された存在論自然主義において「自然界を構成する対象」が存在論自然主義とは別の存在論的立場に依存してしまっているなら、わざわざ「自然界を構成する対象」という必要はなくなってしまうのではないか、という疑義が考えられる。それぞれのトピックあるいは包括的な存在論の各立場にすでに名前が与えられてる以上、それを名乗っていれば十分だろうということになるのではないだろうか。一つの考え方は、そうした個別のトピックないし包括的な存在論において、それらを分類し、ある一つのグループ(つまりそうした存在論的諸立場すべて)に対して「存在論自然主義」と名付けることである。その分類がどのように行われるかはさておき、そうすることで存在論自然主義の特徴づけが可能になり、一群の存在論的立場において認められている対象を自然界を構成する対象として考えることになるだろう。

*20:以下の説明の多くは森田(2010)を参考にした。

*21:廣松渉ら編(1998), 『岩波 哲学・思想事典』, 岩波書店

*22:実際に白いカラスは存在する。京都で捕らえられた白いカラスはアルビノではなく、「本当に羽が白い稀少なカラス」なのかも - 地球の記録 - アース・カタストロフ・レビュー

*23:これを知識ということに違和感を感じるかもしれないが、ここで言いたいことは、「任意のxがAならば、xはAである」は恒真である、というようなことである。

*24:ただし、例えばア・プリオリに何らかの仮説を提示することは問題ないだろうと思う。ここで問題になっているのはア・プリオリな正当化であって、ア・プリオリなやり方(つまり経験によらないやり方)で別のこと(仮説の提示など)をする分には構わない。しかしそうしたものでもア・ポステリオリに修正・反証されうる、ということである。
 そしてもう一つの注意点として、このア・ポステリオリな修正の可能性は、当該の主張がそれ自体がア・ポステリオリに修正される可能性がなければならない、ということを意味しない。クワイン全体論を考えれば当然であるが、ある種のリサーチ・プログラムのコア仮説として提示することは可能であり、その仮説はおそらく何か実験的な手続きで修正・反証されるわけではないだろう。その種の仮説は、その仮説を携えてリサーチ・プログラムを進めていく中で、どうやらうまくいかないようだ、ということになった場合にプラグマティックに棄却されたり修正されたりする類のものである。このことについて、より詳細には佐藤(2012)と井頭(2012)を参考。

*25:このような(方法論的)自然主義の定式化は井頭(2010)を参考にした。

*26:簡単には注12を参考。詳しくは、井頭(2010)、植原(2017)、戸田山(2002, 2003)を参考。

*27:ただし、私は現在は存在論自然主義であり、方法論的自然主義者であるにすぎない。そしてどちらについても鞍替えする可能性が十分にある。まず前者、存在するものは自然的なものだけだろうか。今の私の立場は自然主義からさらに限定された物理主義だが、別にこれを絶対視しているわけではない(いってしまえばリサーチ・プログラムのコアにすぎない)。したがって存在論的物理主義から鞍替えすることは十分にあると思っている。後者、ア・プリオリな知識の否定が方法論的自然主義の核であるが、ア・プリオリな知識が成立しない、ということを私にはどうしても受け入れがたいのである。例えば「AならばA」は恒真などの論理的法則はア・プリオリに知られているのではないのか。もちろん、それらに対して「どうして「AならばA」は恒真であるのか?」と問うことは可能である。そしてこれの行き着く先が、結局のところクワイン全体論か、ウィトゲンシュタイン的な根源的規約主義であるのはよく知られた話である。だが私はそのどちらでもない立場に立ちたいのである。しかしその見込みがない以上、根源的規約主義に魅力を感じない私は、クワイン全体論、方法論的自然主義に立つしかないのである。

*28:一つ注意が必要である。このように存在論的・方法論的と分けられた自然主義だが、これらはそれぞれ独立した立場である。したがって、存在論自然主義を取った上で方法論的自然主義を取らない、ということは可能であり、逆も可能である。私自身はどちらの立場にも与しているつもりだが、片方だけに与しているような論者もいるようである。