ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

書評:エリザベス・ブレイク(2019)[久保田裕之監訳]『最小の結婚』白澤社

  • 本書の内容
  • ブレイクの最小結婚は「最小」なのか?

本記事はエリザベス・ブレイク(2019、原著2012)[久保田裕之監訳]『最小の結婚』白澤社についてのコメント的なものである。以下、断りがなければページ数は翻訳された本書のページ数を表している。

 

 

本書は結婚について倫理学的・政治哲学的に詳細な議論を行なっている本である。訳者解説の通り、本書の中心的な問いは「結婚制度はリベラリズムと両立するのか」「両立するならば、いかなる条件においてか」(p.350f)というものである。

本記事ではまず、本書の内容を、本書の主眼である「最小結婚(minimal marriage)」を中心にして説明する。次に、この最小結婚の妥当性について簡単に議論する。なお、評者はリベラリズムに明るくないため、リベラリズムにおける最小結婚の位置付けが成功しているかどうかについてはあまり議論しない。また、本記事では以下のnoteの記事に賛同し、本書の重要な概念である「amatonormativity」の訳語として、本訳書で採用されている「性愛規範性」ではなく「恋愛伴侶規範性」を用いる。(一応、訳者らからこの訳語の採用の理由も明かされているのでそのURLを併記しておく)*1

note.com

hakutakusha.hatenablog.com

*1:訳語の選択には他にも違和感が多々あった。例えば"dispositionality"の定訳は「傾向性」だが、「気質」と訳されている(これは些細な問題である)。また"commitment"を「献身」と訳しているが、これは誤訳だろうと思う。訳注で、結婚という文脈を考慮して「献身」を選択したとあるが、それでも違和感がある。特に、日本語の「献身」には身を捧げるという強いニュアンスがあるが、本書の「コミットメント」にはそういうニュアンスはないと思われるため、結婚の文脈だからこそ「献身」という訳語を避けたほうがよかったと考える。

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自明な命題(Audi 1999)

Audi, Robert (1999). Self-evidence. Philosophical Perspectives 13:205-228.

https://philpapers.org/rec/AUDS

*1

ざっとまとめていうと

  • 自明な(self-evident)*2命題とは、その命題を適切に理解することが、それを信じることを正当化するような命題
    • 適切な理解は、誤っておらず、不十分でなく、歪んでおらず、曇ってない、つまり欠陥のない理解
    • 自明な命題は即時的に自明な場合と仲介的に自明な場合がある。この違いは反省を介するかどうか
      • 即時的に自明な命題は明白な命題だが、明白で明確な命題が自明だとは限らない
    • また自明性は説得力を必要としないので、理解したとしても、信じることを保留可能
    • また直観的である必要はないし、公理から証明されるようなものでもない
    • 自明な命題は阻却されうるが、それは難解化(理解が不十分になること)で阻却される
      • 適切な理解が保持されていれば、他の命題によって阻却されないかもしれないし、正当化を疑う理由によって弱体化されることで阻却されないかもしれない
    • また自明な命題はアプリオリな命題の基礎であり、狭義の意味でアプリオリだが、広義の意味でアプリオリである必要はない
      • また分析的命題である必要はないし、分析的命題が自明である必要もない

以下は議論の詳細。

*1:R. Shafer-Landau Moral Realism: A Defenceを読んでいて、自明な(self-evident)命題を認めて、そこから道徳的知識を認めようとする議論があったがよくわからなかったので自明な命題について参照されているAudiのこの論文を読んだが、やっぱりよくわからない。

*2:「自己証拠的」という訳し方もあるかもしれない。このように訳すことで、"self-evident"が専門的な用語であり、また証拠的だというニュアンスを含めることができるからである。一方で、専門的な用語にしすぎると、人々が「自明だ」と表現することとの対応ないし整合性が欠けてしまい、あまり嬉しくない。定訳があるならそれを採用したいが、私は知らないので、もしあれば教えていただきたい。

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奇跡論法の数式による定式化

奇跡論法とは「ある科学理論について,現在の科学の成功はその科学理論が経験的に妥当でなければ奇跡になってしまうから,その科学理論は経験的に妥当なはずだろう」という,科学理論の経験的妥当性(ないしは科学理論の指示対象の実在性)を擁護する議論である.以下ではこの議論の数式による定式化を試みる(cf. Sprenger (2016)).

なお,奇跡論法を含めた科学的実在論争については以下の戸田山の本に詳しい.


 

 S:科学(理論)の(予測や説明の)成功

 H:科学理論が経験的に妥当

として,奇跡論法を考える.奇跡論法の中心的前提は以下の前提1である.

前提1:理論が経験的に妥当という元での科学の成功の確率は,理論が妥当でないという元での科学の成功の確率より非常に大きい(理論が妥当でない世界での科学の成功は奇跡だから).数式で表すと

 p(S|H) \gg p(S|\neg H)

となる.ここで p()は確率を表し, p(S|H) Hの元での Sの条件付き確率である.どれくらい大きいかを表す係数 k \gg 1を導入すると,これは

 p(S|H) = k \times p(S|\neg H)

と表せる.ベイズの定理  p(S|H) = \frac{p(H|S)p(S)}{p(H)} より,前提1は

 \frac{p(H|S)p(S)}{p(H)} =k\times \frac{p(\neg H|S)p(S)}{p(\neg H)}

 \frac{p(H|S)}{p(H)} =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}

 p(H|S) =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} p(H)・・・・・・(1)

となる.奇跡論法が成り立つ(科学の成功の元で科学理論の妥当性を言いたい)ためには, p(H|S) >  p(H)であると言いたいから, k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}が1より大きくなければならない. k \gg 1だから,これは自明だと思われるかもしれないが,厳密にするために以下の前提2を追加する.

前提2*1:科学が一般に成功する確率は,科学理論が経験的に妥当でない元での科学の成功の確率より大きい(理論が妥当でない世界での科学の成功は奇跡だから,その成功確率は一般的な成功確率より小さいはずである).数式で表すと

 p(S) > p(S|\neg H)

となり,係数 m> 1を導入して

 p(S) = m\times p(S|\neg H)

と表すことができる.ここで式(1)中の  \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} について,ベイズの定理より

 p(\neg H|S) = \frac{p(S|\neg H)p(\neg H)}{p(S)}

 \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} = \frac{p(S|\neg H)}{p(S)}

である.前提2より  \frac{p(S|\neg H)}{p(S)}=\frac{1}{m} なので,

 \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}=\frac{1}{m}

である.よって式(1)  p(H|S) =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} p(H) より

 p(H|S) = \frac{k}{m} p(H)

となる.いま, k\gg1 m >  1より,\frac{k}{m} >  1 であると考えられるので,

 p(H|S) >  p(H)・・・・・・(2)

といえる.これは,科学理論が経験的に妥当であるという仮説 Hの確率が,科学の成功の元で大きくなることを意味する.つまり,科学の成功は科学理論が経験的に妥当であるという仮説を確証(confirm)する.

以上が奇跡論法の数式による定式化である.適切な前提の元で奇跡論法が成立することが言えているように見える.しかし,ここでおいた前提2はそれほど自明ではない.

前提1と前提2を合わせると,以下の式が成り立つ.

 p(S|H) = \frac{k}{m}p(S) = kp(S|\neg H)

 p(S|H) >  p(S) >  p(S|\neg H)

奇跡論法は本来,前提1のみ,つまりこの不等式の両端の確率の大小関係にしか言及してない.前提1はたしかに論争の余地が小さいだろう.しかし,奇跡論法を厳密に成立させるには前提2,つまり真ん中と右の不等式とその大きさ  m に依存するが,特に  m の大きさに関してはいくらか論争的だと思われる.

また,式(2)から察する通り,そもそも p(H)がどれくらい大きいかによって p(H|S)の大きさも変わる.というのも,式(2)は

 p(H|S) = \frac{k}{m} p(H)

となっており, k m p(H)の組み合わせによっては, p(H|S)はそれほど大きくない.特に, p(H)を過大に見積ることを基準率の誤謬といい,批判がある(Howson (2013)).だとすると,仮に奇跡論法の前提1を認め,また前提2と科学の成功 Sを認めたとしても,奇跡論法の結論,つまり科学理論は経験的に妥当であるという結論 Hを受け入れる必要はないかもしれない.奇跡論法を成立させるには, p(H)がそもそも大きいか,\frac{k}{m}がかなり大きいことを言わなければならないが,どちらの選択肢も自明ではないだろう*2.そこで,問題設定を変えるという別の方針があり,例えばSprenger (2016)は前提を変えて,奇跡論法を文脈依存的な仕方で擁護している.こうした擁護の仕方がどれほど妥当なのかはまた別に検討される必要がある.

*1:ざっと調べた限り,この前提を置いている論文を見つけられなかった.この前提がなければ議論は成立しないはずだが,なぜ書かれてないのか疑問である.

*2:お気づきかもしれないが,実のところ,奇跡論法の結論を出すために前提1はほぼ必要ない.言う必要があるのは p(S|H) >  p(S)であり,そしてこの大きさの比率がどうであるかだけである.というのも,ベイズの定理を用いれば p(S|H) >  p(S)から p(H|S) >  p(H)を導出でき,さらにその比率は等しいということも言えるからである.したがって,科学の成功の確率が一般的な条件よりも理論が妥当な場合に非常に大きくなるということさえ言えれば十分である.だが,この方針が困難であることは間違い無いだろう.

2021年に読んだ本

  • 全体を通して
  • 読んでよかった本(特によかったのは太字)
  • 1月
  • 2月
  • 3月
  • 4月
  • 5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月

 

去年の記事

mtboru.hatenablog.com

 

2021年の読書メーター
読んだ本の数:136
読んだページ数:43140(118/day)

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月ごとの読書量の変化

全体を通して

今年も月ごとに忙しさが異なり、特に10月以降は論文を読むのと並行だったので、本の読書量としては少なくなってしまった。それでも、ちゃんと2020年より多く読めたのはよかった。読んだ論文の量も確実に多くなった。2021年はオンライン読書会にも多数参加して、洋書の論文集を読んだりもしていたので、実質的な読書量はかなり多くなったと思う。

今年もテーマを決めて集中して読んでいた時期があり、特に、情動、統計あたりを中心に集中的に勉強した。情動に関しては哲学より感情科学の方を中心に勉強して、それなりに知識がたまったと思う。情動や統計の勉強を通じて、科学の再現性の問題にも触れることになり、自身の研究実践を見直すことにもなった。

また2021年は、その分野の基本図書や必読書を読むようにも心掛けた。例えば、認知心理学でのカーネマン『ファスト&スロー』、徳倫理学でのハーストハウス『徳倫理学について』、分析哲学でのクリプキ『名指しと必然性』、動物倫理でのRegan『The Case for Animal Rights』などである。特にReganのこの本を読み終えられたのは自分の中で大きい。これで動物倫理モグリを卒業できた。

ネガティブな反省点としては、自分の今後を考えたときにあまりに横路になってしまう本を時間かけて読んでしまったことである。例えば、ワクチンがよくわからなかったので免疫とワクチンについて新書・入門書レベルでいくつか読んで学んだ。たしかに知識になったし、ワクチンを無意味に恐れずに済むようになったとはいえ、自分の業績に全く結びつかないような本だったので、時間がない中でわざわざやることではなかったかなと思う。費やす時間をもう少し短くすべきだった。

 

読んでよかった本(特によかったのは太字)

こうしてみると、前年より当たりの本を読めた。前年は20冊/90冊(=0.22)、今回は45冊/136冊(=0.33)。時間がないので、半分以上を読んでよかった本にしていきたい。

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種差別的言語をやめよう

  • 0 はじめに
  • 1 種差別的言語の具体例
    • 「動物」
    • 「何か」「それ」
    • 「屠殺(とさつ)する」
    • 「犠牲者や負傷者はいませんでした」
  • 2 英語の非種差別的言語
  • 3 日本語の非種差別的言語
    • 言い換え
    • 避けるべき表現
  • 参考文献

 

0 はじめに

タイトルの「種差別的言語 speciesist language」とは、非ヒト動物をヒトの下位におき、彼女ら/彼ら/かれらをモノとして扱ったり侮蔑したりする言語のことである。*1

 種差別的言語を説明する前に、まず性差別的言語 sexist language について説明する。 Cambridge Dictionary の sexist language によれば

性差別的言語とは、一方の性を排除したり、一方の性を他方の性より優れていることを示唆するような言語である。例えば、伝統的には、「彼は」「彼を」「彼の」は、両方の性、つまり男性と女性を指す言葉として使われていた。しかし最近では、これらの言葉は「彼女は」「彼女を」「彼女の」は重要ではないか劣っているようにさせると、多くの人が感じている。人々を不快にさせないためにも、性差別的言語を避ける方がよいだろう。

Sexist language is language which excludes one sex or the other, or which suggests that one sex is superior to the other. For example, traditionally, he, him and his were used to refer to both sexes, male and female, but nowadays many people feel that this makes she, her and hers seem less important or inferior. It is best to avoid sexist language in order not to offend people.

 例えば次の例では、「先生 "the teacher"」は性別が不明であるため、自然には「彼は"He"」を埋めようとするだろう。

先生とは、授業をまとめる人のことです。彼は時間を測ったり、イベントの時系列を管理する人です。*2

The teacher is the person who organises the class. He is the one who controls timekeeping and the sequence of events. 

 しかしこれは性差別的言語である。したがって次のように書き換えるべきである。

先生とは、授業をまとめる人のことです。彼女/彼は時間を測ったり、イベントの時系列を管理する人です。

The teacher is the person who organises the class. (S)he is the one who controls timekeeping and the sequence of events.  

 こうしたことは他にも存在する。例えば英語の "they" に対応する日本語の「彼女ら/彼ら/かれら」は、集団の性別が不明か男性に偏っている場合「彼らは」のみで表現されるだろう。しかし「彼らは」という表現は、その集団内の女性を見えなくする恐れがある。

 これは行き過ぎたポリティカル・コレクトネスだろうか。部分的にはそういえるかもしれない。しかし、「彼」"he", "him", "his"のみを用いた場合と、「彼女/彼」"she/he", "her/him", "hers/his" のようにどちらの代名詞も用いた場合とで、私たちの認識が変わることが様々な形で報告されている(その概説は Menegatti, M., & Rubini, M. (2017). Gender Bias and Sexism in Language. で読むことができる)。

 以上のことを考えれば、私たちは性差別的言語の使用を避けるべきである。そしてそうであるなら、私たちは性別のみならず、「動物」に関する差別的言語、つまり種差別的言語も避けるべきであるように思われる。

 以下ではまず、種差別的言語の具体例を紹介する。次に英語における非種差別的言語を紹介する。最後に、英語の非種差別的言語を日本語に適用し、日本語における非種差別的言語を提示する。

*1:「種差別」については以下の記事を参照してほしい。

mtboru.hatenablog.com

*2:日本語だと主語を省略できるため、「彼は」を使わずに表現することも可能だろう。

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非ヒト動物に対するパターナリズムと安楽死(Regan 2004(1983))

Regan, T. (2004). The case for animal rights. Univ of California Press.
Chapter 3から一部要約

3.6 パターナリズムと動物

  • 〔これまでの章で述べたように〕私たちが利害関心を持っていることが必ずしも私たちの利益になるとは限らないし、また、何が私たちの利益になるかの最善の判断をするのは私たち自身であるとは限らない
    • この点は、有能な成人の場合に、干渉的なパターナリズムを正当化するものではない
      • 個人的自律性を持つことはそれ自体が利益(benefit)になる
    • では動物に対するパターナリズムはどうか?
      • 動物に好き勝手させることを許すことが、必ずしも動物のためにならないことは明らか
  • バーナード・ガートとチャールズ・M・カルバー(Bernard Gert and Charles M. Culver)は、人間が動物に対して文字通りにパターナリスティックに行為できることを否定している
    • カルバーとガートは、動物と乳児に対するそれは、パターナリスティックな行為の必要条件を満たしていないと主張している。彼らの考えでは、ある個人(S)に対してパターナリスティックに行為できるのは、Sが「自分の利益になることは大体わかっている」と、おそらく誤って信じていると信じる理由がある場合のみである。
      • カルバーとガートによれば、人間の乳幼児と同様に、動物もこの条件(信念要件)を満たすことができず、したがって私たちは動物に対してパターナリスティックに行為することができない
      • 他にも政治哲学者のアン・パルメリ(Ann Palmeri)も同様のことを述べ、動物や植物に対してパターナリスティックに行為できないと述べている
  • しかし、かれらは、乳幼児、動物、植物という非常に異なるクラスの存在を一緒にしてしまっている
    • 植物に対して文字通りパターナリスティックに行為できないが、動物に対して文字通りパターナリスティックに行為できる
  • パターナリスティックな行為という概念の中心は、ある種の動機の存在
    • パターナリスティックに行為するためには、自分(または他人)が利益を得るためではなく、Sの利益や福祉のために行為するという動機が必要(これは正当化とは別の話)
  • カルバーとガートによれば、信念要件も必要条件:何が自分の利益になるかを一般的に知っていると信じていなければならない
  • しかし〔Chapter 2で述べたように〕動物は、信念と、信念に対する信念も持つので、信念要件を満たす
    • 仮に満たさないように条件を設定すると、幼児なども満たさなくなり、パターナリスティック(父性的)という概念がゆがめられる〔パターナリスティックな行為の典型例は、そうした幼児を含む子どもに対する父性的な行為である〕
  • かれらの代わりとなるパターナリズムの図式を提示する
    • ある個人(A)による行為がパターナリスティックであるのは、Aが他の個人(S)の生に介入し、かつ以下の条件が満たされている場合である。
      • a)Aは、Sが特定の選好を持っていることを知っている。
      • b)Aは、Sが自分(Sの)選好の満足をもたらすと信じる方法で行為する能力を持っていることを知っている。
      • c)Aは、阻止されない限り、Sが自分の選好の満足をもたらすと信じる方法で行為することを知っている。
      • d)Aは、Sがこの方法で行為すると、Sの厚生(welfare)に有害な結果をもたらすことを知っている。
      • e)Aは、そのような介入がS自身の善(good)のためであり、Sの善を気遣ってのことであると信じて、Aに阻止されなければSが選択するであろう行為をSが阻止するために介入する。
  • 動物や幼児は選好をもつが、植物はもちそうにないので、動物や幼児に対するパターナリスティックな行為が可能になる
    • また信念要件を満たす存在に幼児を含めようとすれば、動物も含めることになるだろう

3.7 安楽死と動物

  • 選好の自律性、死、パターナリズムの分析の結果は、動物に適用される安楽死の考え方を示している
    • 現在〔当時〕行われている〔た〕安楽死の件数や目的を考えると、動物が「安楽死」されたと言われるケースのほとんどは、すべてではないが、正しく考えられた安楽死のケースではない
  • 安楽死は、その個人の「良い死」をもたらすことであり、直接的な殺害(積極的安楽死)または死なせること(消極的安楽死)によってもたらされる
  • 安楽死には、痛みを伴わずに、あるいは苦痛を最小限に抑えてその者を殺す以上のことが必要
    • 積極的に他者を安楽死させるためには、自分の利益のためだと信じて、また相手の利益を気遣って相手を殺すことが必要
    • 動機が自己目的ではなく他者目的であることが必要であり、自分の目的のために行動する相手は、殺される相手でなければならない
  • 積極的安楽死の許容条件
    1. 可能な限り苦痛の少ない方法で個人を殺すこと。
    2. 殺す者が、殺される者の死が後者の利益になると信じていること。
    3. 殺した者が、殺された者の利害、善、厚生に関心を持って、その命を終わらせる動機を持っていること。
    • これらは十分条件ではないが、「動物の安楽死」の多くのケースが真の安楽死に至らない理由を示すには十分
    • ここで、2の条件は弱すぎるので、その信念が真でなければならないと変更する。よって
      • 2. 殺す人は、殺される者の死がその者の利益になると信じていなければならず、それが真でなければならない。
  • 一般的に理解されている自発的安楽死の概念(自分の死を理解し、その生を終わらせたいという欲求を明確にする手段をもっている者に適用可能な概念)は、動物を安楽死させる場合には適用できない
    • したがって、動物を安楽死させる場合には、問題となっている安楽死の種類は非自発的安楽死でなければならないと考えてもいいだろう
  • 非自発的安楽死の典型的なケースは、その対象は心理学的には死んでいる(選好等をもはやもたない)。
    • しかし動物の場合は異なる〔生きており、選好をもつから〕
    • よって、自発的でも非自発的でもない、別の安楽死のカテゴリーが必要。以下に2つ述べる
選好尊重的安楽死
  • 時に動物は、治療不可能で強い苦しみを抱えていることがある
    • このような状況でその動物を殺すことは、明らかにかれらの利益になると思われる
    • このカテゴリーの安楽死を、選好尊重的安楽死(Preference-Respecting Euthanasia)とよぶことにする
    • もちろんかれらは死を欲求してない(死を理解できないから)のだが、このような安楽死は、かれらの選好を尊重することになる
  • これはパターナリスティックではない
    • かれらが自分でできないことをかれらのために行うとはいえ、「かれのために」と自分の意志を押し付けることはしない。
      • むしろ、かれらの選好を満足させるためにしなければならないことをするのだから、私たちは、私たちが知っているかれらの意志に従うのである
パターナリスティックな安楽死
  • しかし上記のケースは、あまりない
    • 最も一般的ケースは、野良犬やペットの「安楽死」(健康であるにもかかわらず!)
  • 選好尊重的安楽死以外のケースで、かれら自身の善(good)のために動物を殺すなら、それはパターナリスティックな行為になる
    • だが一般に、健康な動物は生きていた方が良い理由があるので、その場合は安楽死ですらない〔上記の積極的安楽死の許容条件をみよ〕

子どもとは何か? Schapiro (1999)

Schapiro, T. (1999). What is a Child?. Ethics, 109(4), 715-738.

https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/233943

 

 大人と子どもの違いに関して2つの直観がある。第一に、子どもの意見は、大人の意見と同じような権威や道徳的意味をもっていない。第二に、子どもは、大人と同じようには、自身の行為に責任を持たない。

 この大人と子どもの区別を説明するアプローチは2つある。第一に、生物学的区別によって説明するアプローチであり、これは経験的問題である。しかし、これでは法的・道徳的な意味での身分(status)概念としての「大人」と「子ども」を捉えられない(例:「成人」は何歳からか?)。本論文は後者の意味での「子どもとは何か?」を哲学的に検討する。

 

 子どもと大人の区別を、パターナリズムの正当化の観点から考える。これは帰結主義的な正当化がなされることがあるが、カント倫理学では別の方法で正当化しなければならない。ではカント倫理学でこの問題にどう答えればいいのか。

 カントによれば、子どもは受動的市民である。政治的共同体の構成員であるが、通常の市民権に付随する自由の全範囲を享受する権利(例:投票の権利)を持たない。このような身分が許されるのは、大人は政治的共同体の中で独立して自らの選択によって行為するが、子どもはそうではなく、独立の規範からの逸脱という意味で依存的だからである。

 自分の選択によって行為するには、反省する能力、自分の行為計画を考える能力が必要である。もちろんこれは程度問題であるため、子どもから大人への連続した経路があるという直観が支持される。

 だが、身分概念としての「子ども」は、どこかの段階で「大人」の資格を得る人のことである。これをカントの「子ども時代は苦境(predicament)である」という考えから検討する。

 

 カントにおける自然状態から国家になるまでの発達に関する議論(4節)から類推して、子どもの発達について考えると、未発達の人間とは、自分自身をまとまった形、つまり統合された形にできていない人間のことである。統合には反省が必要であり、未発達な人間は、社会が規範的な不安定さ(自然状態)から脱するのと同じように、反省によって統一されていくことで自分自身になる。

 カントの考えでは、行為するには様々な動機づけの衝動間の対立を解決しなければならない。対立の解決は熟慮の働きによってなされるものであり、これは(対立を調停して行為する)権威をもつことになる。これが自律性であり、義務の源泉である。

 先述したように、カントによれば、子ども時代は苦境である。それは、自身の動機づけの衝動間の対立を解決する能力が未熟だからである。それゆえに、その苦境に対処するために、大人から子どもへのパターナリズムが許されることになる。

 しかし「子ども」から「大人」への移行では、行為と〔単なる一方的な強制による〕プロセスとの間のどちらともつかない揺らぎがある。この揺らぎに焦点を当てる概念が「遊び」である。子どもたちは遊びの中で、なりたい自分を熟慮的に「試着」している。子どもの遊びとは、自分自身になることである。そしてそれは、子どもの遊びにおいて、行為できる人の役を演じることである。これは熟慮的に「試着」する、リハーサルのような状態である。このことは、幼児だけでなく、思春期の「自分探し」にも当てはまる(自分自身を誰かにしようとしている)。

 この発達の度合いは成長によって変化し、発達に応じて、自分が権威を持つ領域が変化する。国家が自身の権利の及ぶ範囲でのみ国権(the rights of nation)を適用できるように、子どもも自分の「裁量の領域」で権威を持つ。

 ここでの大人の義務は、消極的には、子どもが自身の熟慮する能力を高めるのを妨げるような行為を控えなければならず(例:子どもを管理してはならない)、積極的には、子どもの苦境(自己を統合できないこと)を取り除き、子どもが子ども時代から抜け出し、独立する手助けをしなければならない(例:教育)。

 そのためにも、大人自身が自律性のモデルとなり、子どもたちが優れたモデルを「選択」できるようにすることが必要である。また、子どもが自分でルールを決められる場合には積極的にそれを認めるべきである。