ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

功利主義(1/2)

0 はじめに

 本記事は、規範倫理学の一つの立場である功利主義について入門的なこと、また少し発展的なことを述べる記事である。入門的な内容ならWikipedia他多数の参考になるサイトがある。児玉先生の解説も参考になるだろう。ある程度功利主義を知っている人ならば『道徳的動物日記』のいくつかの記事がとても参考になる。

 功利主義はとても魅力的な倫理理論だと私は思う。しかし批判や誤解がとても多く、あまり支持されていない。この記事を読み終わったとき、皆さんに功利主義が好きになってもらえるよう、せめていくつかの誤解がなくなるよう願っている。

全体の構成について。

 「1 功利主義とは何か」では、功利主義の基礎的なことについて述べ、いくつかの代表的な批判を取り上げる。

 「2 功利主義の分類」では、1で述べたことを軸にいくつかの功利主義の形態を紹介する。多くのサイトでは「行為功利主義」と「規則功利主義」、「快楽功利主義」と「選好充足功利主義」の2つで分けられることが多いが、実は他にも分類法があり、多種多様の功利主義が存在する。

 「3 功利主義の適用」では、いくつかの具体例に関して、功利主義的に考えるとどのようにすべきかを述べる。功利主義は様々なことに関して具体的に述べることができる。しかも、一貫性を保ち、矛盾なくそれができる。これが何よりの魅力であると私は思う。

 「4 功利主義者になる」では、功利主義に対してよくある批判を取り上げる。それら批判に対してどのように答えるかを検討することで、功利主義的な考え方をより深くみる。

 「5 まとめ」では、功利主義についての個人的な見解を含めて、全体のまとめを行う。 

1と2を前半で、残りを後半の記事で取り扱う。

ここで、本記事および後半の記事でよく出てくる「直観」という語について説明する。ここでいう「直観」とは私達が普段持っているような常識的な信念(思っていること)のことである。

 

1 功利主義とは何か

 「功利主義とは何か」。一言でいえば「最大多数の最大幸福」が道徳的に正しい選択であるという道徳理論の立場である。より正確に言えば

「功利性の原理」(功利原理)を善や正・不正の基準とするのが功利主義である。

そして

「功利性の原理」とは、「人がなすべきことや正しい行為とは、社会全体の幸福を増やす行為のことであり、反対に、なすべきでないことや不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為」のことである、とする原理である*1

 歴史的にいえば、ジュレミー・ベンサム(1748-1832)が提唱し、J.S.ミル(1806-1873)、H・シジウィック(1838-1900)らが発展させたものである。

 *2ここで少し補足する。功利主義と間違われやすい考え方として「利己主義」や「効率重視(効率主義)」などがあるが、功利主義はこれらとは全く違う考え方である。まず「利己主義」は自分自身の利益を最重視する立場だが、上に述べたとおり、功利主義は全体の幸福を重視する。そして「効率主義」は物事を達成する上で最も効率のいい手段を取るという考え方だ(と思う)が、功利主義は、仮に最も効率のいい手段と最大幸福を達成する手段が異なれば、後者を支持する。したがって「利己主義」とも「効率主義」とも全く違う立場である。

 

1.1 功利主義の四つの特徴

 功利主義は以下の4つの特徴がある。*3

  1. 帰結主義
  2. 厚生主義
  3. 単純加算主義
  4. 最大化

 帰結主義とはあることが結果的にどうなりそうかを重視する考え方である。意志や性格に注目するのではなく、例えば行為の帰結(が結果的にどうなりそうか)に注目する*4

 厚生主義とは「幸福が、そしてそれだけが重要」という考え方である。幸福主義、福利主義とも呼ばれる。*5

 単純加算主義とは「各人の効用を公平に配慮して単純に加算する」という考え方である。効用は、福利主義では幸福となる。要するに、全員の幸福を公平に足し合わせる、ということである。ベンサムはこの特徴を「一人は一人として数え、決して一人以上には数えない」と表現している。

 最大化とは、単純加算主義によって算出された総和(か平均かその他)が最大化するような選択をせよ、という意味である。

 

1.2 功利主義の魅力

 以上、4つの特徴を兼ね備えているのが功利主義である。ではこのような功利主義の魅力的なところはなんだろうか。

 帰結主義の魅力は結果を重視することである。例えば、あなたが同じ金額の募金で、A団体に募金すると1人しか救えないが、B団体に募金すれば10人救えるとしよう。この場合B団体に募金すべきであると思われるが、それは、結果としてより多くの人を救えるからである。*6

 厚生主義の魅力は私達の直観に合っていることである。私達にとって最も重要なものは何だろうか。例えばあなたが「お金がほしい」と思っていたとする。ではなぜお金がほしいのか。例えば何かを買いたいのかもしれない。もしそうならば重要であるのはお金ではなくその買いたい物である。ではなぜそれを買いたいのか。そうして何度も問い、最後に行き着くところは「幸福になりたい」ではないだろうか。もしそうならば最も重要であるのは幸福だとわかるだろう*7

 単純加算主義の魅力は平等なことである。貴族だから、〇〇人だから、男性/女性だから、こういった属性によって重視されたりされなかったりするのではなく、全ての人を(より正確には利益を持つ全ての主体の幸福を)平等に扱う。

 そしてこれらの組み合わせである功利主義の魅力を以下に4つあげる。*8

  1. 矛盾した結果をもたらさないという整合性、単純さ、適応範囲が広いという包括性などの理論としての長所を備えている。
  2. 直観に訴えるような倫理規範とは違い、規則や行為の是非や優劣を(後にみるように)功利計算によってたしかめることができる。
  3. どの行為や政策が正しいかという問いに対して、実証的に研究することで原理的には答えを出すことができる。
  4. 功利主義の備える特徴は、私たちの直観と一致する部分が多い。

 ここで簡単な例を通して功利主義の理解を深めてみる。

 

  Aの幸福 Bの幸福 Cの幸福 幸福の総量
選択肢X 15 2 3 20
選択肢Y 2 5 2 9
選択肢Z 2 5 8

15

 

選択肢X,Y,Zがあり、A,B,Cの三人がいたとする。表中の数字は幸福の大きさである*9。選択肢X, Y, Zの帰結として表のような幸福が得られるとしたとき、それぞれの選択肢の幸福の総和は表の一番右の列となる。このとき総和が最大である選択肢Xが最も善い選択肢だといえる*10。こういった計算のことを功利計算と呼ぶ。

 

1.3 功利主義に対するよくある批判

 功利主義には様々な批判が寄せられている。

 帰結主義に対しては、帰結以外が重要ではないのか、という批判がある。例えば詐欺師が悪意から行為した結果全体の幸福が偶然にも増加したとき、帰結主義では善いとしてしまうのではないだろうか。道徳的に重要なのは帰結ではなく、意志や動機、性格、行為の理由かもしれない。

 厚生主義に対しては、幸福以外も重要ではないのか、という批判がある。例えば私達は、自由、権利、平等、生命といったものを、ただそれ自体で価値のあるものだと考えているように思う。厚生主義ではそうしたものを無視してしまうのではないだろうか。

 単純加算主義に対しては、その平等な特徴に対する批判がある。例えば私たちは家族や友人に優先的に配慮するし、それが道徳的に正しいと考えている。しかし単純加算主義における平等な配慮は、見ず知らずの他人(の幸福)と家族や友人(の幸福)を等しく扱うことを要求する。これは私たちの直観に合わないだろう。

 これらを組み合わせた功利主義に対しては、さらなる批判がある。

 まず、幸福を数値化できるのか、そして比較・足し算することができるのか、という批判である。先程の表の例では幸福を数値化していたが、幸福には質量(kg)や長さ(m)のように物理的な単位があるわけではない。まして数値化できないのだとしたら、足し算や比較ができるとは思えない。
 しかし、数値化できなくともある程度なら比較や足し算はできるかもしれない。私たちは実際に比較や足し算をしている。私がレストランでメニューを見て何を注文しようか考えているとき、わざわざ嫌いなものを選ばないし、より好きなもの、よりおいそうなものを選ぶ。つまり、私は料理から得られそうな快楽(おいしさ)を比較している。しかしこれは、個人内での幸福の足し算や比較ができそうである、ということしか意味しない。これは実際に比較や足し算が正確に行われることを意味しないし、個人間で足し算や比較ができることを意味しない。私とあなたの幸福度を共通のものさしで測ることはできないだろう。

 思考実験による批判もある。いくつかあるが、代表的なものとして「臓器くじ」と約束に関する思考実験を示す。まず「臓器くじ」について、Wikipediaから引用する。

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

 

ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。

  • くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
  • 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
  • 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。
*11

 例えば臓器移植を必要としている人が5人いたとしよう。そうするとこの社会制度があれば、1人が死ぬことによって5人を救うことができる。功利主義的に考えるといいように思われるが、これは私たちの直観に反するように思われる。

 もう1つの例の、約束に関しての思考実験は次のようなものである。

あなたと友人が遭難して無人島にたどり着いた。友人があなたに自分の全財産を競馬クラブに寄付してほしいと言い残して死んだ。あなたはそうすると約束した。さいわい、その後まもなくしてあなたは救助された。あなたは友人との約束を果たそうと思ったが、よくよく考えると、競馬クラブよりも病院に寄付したほうがより多くの善を生み出せるように思われる。あなたと友人の約束については他に誰も知らない。*12
慈善団体に寄付したほうがより多くの人が幸福になる。約束したことが誰にも知られていないなら、なおさら約束を守る必要なんかない。*13

これもまた私たちの直観に合いそうにない。道徳的に考えて、約束を守るべきではないだろうか。

 これらに対する批判は「4 功利主義者になる」で答える。

 

2 功利主義の分類

 「1 功利主義とは何か」で最も代表的な功利主義について述べた。しかし功利主義はそれだけではない。様々な批判に答えるためにいくつもの功利主義が考え出されている。それらを見ていこう。*14

 

2.1 行為功利主義、規則功利主義、二層理論*15

 「最大多数の最大幸福になるよう行為すべし」が示すように、一般的な功利主義は行為によって最大多数の最大幸福を実現しようとする。これを行為功利主義と呼ぶ。しかし行為功利主義では、先ほどの「臓器くじ」を道徳的に正しいとしたり、約束を破ってもいいとなったりする。これは私たちの直観と合わないのではないだろうか。このような、行為功利主義が直観に合わないという批判に答えるために考え出されたのが規則功利主義である。規則功利主義は「全員がその規則を受容して行為する場合に最大多数の最大幸福になるような、そういう規則に従って行為すべし*16」というものである。規則功利主義では、例えば「嘘をついてはいけない」という規則を全員が受容している社会とそのような規則を受容していない社会とを比較し、功利計算をして、規則がある社会がない社会より幸福が大きくなるならばその規則を作り、私(たち)はその規則に従って行動するべきだ、とする*17。私たちが直観的に考えている道徳規則のほとんど、例えば「嘘をついてはいけない」「人を殺してはいけない」といった規則は功利計算上よいことになりそうである*18。したがってその規則を作り、私たちはそれに従うことで、最大多数の最大幸福を実現する。ほかにも「自由」「平等」「権利」といったものも規則として考えたほうが功利計算上よいことになりそうである。こうすることによって行為功利主義への「直観に合わない」という批判を回避できる。

 しかし規則功利主義は本当に批判を回避できているだろうか。問題点は二つある。第一に、例えば先ほどの「嘘をついてはいけない」という規則を考える。この規則がもしあるならば、私たちはいかなる場合でも嘘をついてはいけないことになる。これはこれで直観に合いそうにない。例えば、自宅に友人が逃げてきたとする。その友人は殺人者に追われているのである。友人が逃げ込んだ後、殺人者が訪れ「友人はいるか?」と問うてきたとする。このときあなたが嘘をつかずに正直に話してしまうと殺人者は友人が中にいることを知り、殺すだろう。とすると、あなたは友人を助けるために嘘をつくべきであるように思う。そこで規則を「友人に危険が迫っているとき以外は、嘘をついてはいけない」と書き換える。こうすることで直観に合う規則になる。このような作業を続けていくと「Aという場合、Bという場合……以外は、嘘をついてはいけない」と書き換えられる。しかしこのような例外だらけの規則は規則と呼べるのだろうか。そしてこのように例外をいくつも書き加えていけば個々の場面を区別でき、それについて功利計算することになるだろうが、これは行為功利主義(個々の場面で功利計算し、最善の行為をすべし)と同じではないだろうか*19
 *20第二に、そもそも全員が受容した場合に最善になるような規則に従ったとしても、それは実際に最善な規則になるのだろうか。現実的には規則に全員が受容するとは考えられないし、ましてや従うとも考えられない。その規則に従わない人が1人以上いるとき、そのときに私(たち)がその規則に従うと最善にならないとき、はたしてそれは正しい行為なのだろうか。私たちは最善の規則に従うのではなく、最善の行為をしなければならないのではないだろうか。

 以上の二つの問題点を考慮すると、私たちは行為功利主義を支持したくなるが、しかし行為功利主義は反直観的な帰結をもたらすのだった。

 このように規則功利主義にも行為功利主義にも問題点がある。そこでこれらのいいとこ取りをしたのがR.M.ヘア(1919-2002)の二層理論(二層功利主義)である*21。二層理論では、私たちの道徳的思考を、直観レベルと批判レベルという2つのレベルに区別する。普段の日常生活では直観レベルで考え、直観的規則に従って行為すべきである。しかし直観的規則の選択や、直観的規則の衝突時には、批判レベルに移って、行為功利主義的に考えるべきだとする。「つまり、普段は直観的に正しいと思える原則に従って行為すべきだが、それでは問題が解決しないときには功利主義に従うべきである」ということになる*22。これは非常に完成された功利主義の一形態といえる。*23*24

 

2.2 直接功利主義、間接功利主義*25

 功利主義内部では、功利性の原理をどのように用いるかについて区別がある。この違いによって功利主義直接功利主義間接功利主義にわかれる。直接功利主義では功利性の原理*26を個々の行為の意思決定基準とする。間接功利主義では「功利性の原理はあくまで事態の評価基準であって個々の行為決定に用いられる必要はない」とする*27。間接功利主義において功利性の原理は、あくまでも行為が正しいかどうかの評価基準でしかなく、実際の意思決定手続きには使用しなくてもよい。例えば、間接功利主義では、行為者が非功利主義的な規則や習慣を意思決定手続きとして用いて最大幸福を実現することをよしとするだろう。となると、直接功利主義は行為功利主義と、間接功利主義は規則功利主義と同じだと考える人もいるだろう。しかし、それは次の理由によって違う。
 行為功利主義は行為によって最大多数の最大幸福を実現するものだが、これは行為の意志決定に功利原理を用いることを要求していない。ある行為の評価基準として功利原理を用いることもまた行為功利主義の一つである。よって行為功利主義は間接功利主義である場合もある。同様にして、規則功利主義も直接功利主義である場合がある。ある行為の選択時に、功利原理に従って最適規則体系(全員の幸福を最大化するような規則の体系)をその場で考え、選び出された最適規則体系に基づいて行動するなら、それは功利原理を意思決定の規準として用いていることから直接功利主義となるし、行為の正しさを規則の遵守に帰属し、規則を功利原理によって選択しているから規則功利主義となる。すなわちこのタイプでは直接規則功利主義となる。*28

 再度述べれば、行為功利主義と規則功利主義の違いは功利性の原理の評価対象が行為なのか規則なのかの違い、直接・間接の違いは功利原理の使い方の違いである*29

 

2.3 快楽説、選好充足説、客観的リスト説*30

 次は幸福*31についての分類である。厚生主義によれば幸福が重要であるということだが、幸福とはいったい何だろうか。ここでは大きく三つ考えられる。*32

  • 快楽説
  • 選好充足説*33
  • 客観的リスト説*34

快楽説とは、幸福とは快楽のことである、という考え方である。たしかに、快楽を感じているとき私たちは幸福であるように思う。功利主義の提唱者であるベンサムやミルは快楽説による功利主義を考えていた。ただし両者の考えていた快楽説は違うものである。快楽説は以下の二種類に分かれる*35

  • 量的快楽説
  • 質的快楽説

量的快楽説とは、私たちの幸福は「快楽」と「苦痛が取り除かれること」のみであり、またこれらの量を測定することによって、その経験がどれくらい私たちにとって善いを決定できるという考え方である。ベンサムがこれを支持していた。
 質的快楽説とは、快楽には質があり単純に量として比較することはできない、という考え方である。ミルがこれを支持していた。ミルの考えによれば、芸術鑑賞や学術的研究などの知的な快楽が、性的な快楽に代表されるような感覚的快楽よりも価値があるという*36。どちらの快楽の質がいいかという判断は、両方を経験すればわかるとミルは主張している*37

 さて、私たちは快楽を本当に幸福であると考えているだろうか。(量的)快楽説が正しければ、例えば、麻薬などによって薬づけにされ、快楽を永遠と享受することが幸福であることになる。これは直観に合いそうにない。
 また「経験機械」という思考実験による批判もある。

これは、脳に電極を差し込むことにより、あなたが望むあらゆる体験をバーチャルに経験できる機械の話だ。この機械による副作用などはなく、使用中も健康状態はモニタリングされ、機械につながれていなかった場合と同じ健康状態が保たれる。そこで、あなたは上で述べたような「快適な意識状態」を好きなだけ楽しむことができる。また、心配性の人のために、数年に一度、現実世界に戻ってくることもできる。さて、このような経験機械にあなたはつながれたいと思うだろうか。あるいは、つながれることが幸福だと思うだろうか。*38

これが幸福であると思えないという人は、快楽説を支持できないだろう。また快楽説では「1.3 功利主義に対するよくある批判」でみた幸福の個人内・個人間の比較と幸福の計算不可能性の批判をもろに受ける。

 これらの快楽説に対する批判を回避できるのが選好充足説である。選好充足説とは、幸福とは選好や欲求が充足(満足)されることである、という考え方である。ここで注意しなければならないのが、選好充足説では、実際に選好が充足されることを幸福とする。例えば、あなたは野球が好きで、巨人のファンで、巨人がリーグ優勝することを欲求している。ある時あなたは巨人がリーグ優勝したという情報を手に入れ、欲求が充足されたと感じた。しかしその情報はデマだったとしよう。するとあなたの欲求は実際には充足されていない。したがって選好充足説においては、あなたの欲求は充足されておらず、あなたは幸福ではないとなる。
 さて、選好充足説では「経験機械」の問題を回避できる。ある選好を持っていて、経験機械の中でその選好が充足されたように勘違いしたとしても、実際には充足されていないのでそれは幸福とはいえない。選好が実際に充足されて初めて幸福になる、というのは私たちの直観に合うだろう。また幸福の比較問題や計算問題もある程度回避できる。個人内の比較ではどちらの方をより望んでいるかは何となく判別がつくだろうし、快楽とは違い欲求はある程度数えることもできるため計算できる可能性がある。

 しかし、選好の強さの個人間の比較の問題を回避できておらず、また計算できる可能性があるとはいえ、完全に解決されたわけではない。

 さらに、選好充足説に対しては、過去にもっていた選好が充足されることが本当に幸福なのかという批判がある。例えば児玉(2012)は二つの例でそれを示している。*39

 一つ目の例は次のようなものである。ある研究者がノーベル賞を欲しがっていたとしよう。しかしその研究者は発表直前に死んでしまった。ノーベル賞をその研究者が受賞することが決まっていたとしたら、死後ではあるが、選好が充足されたことになる。はたして研究者は幸福になったといえるのだろうか。
 二つ目の例は、アルツハイマー患者の例である。あなたの妻は有名な哲学者兼作家で、自分の知性に誇りをもっていた。そのためそれを失うのを恐れていた。妻は次のように周りにお願いしていた。「私がもしアルツハイマー病になったら、積極的な治療をせず、なるべく早く死なせてほしい」というものである。その後、実際に患ったとしよう。病気は進行し、患者は過去の記憶をほとんど失ってしまった。もちろん周りにお願いしていたことも忘れてしまった。しかし日々を楽しく過ごしており、とても幸せそうである。そんな妻が、肺炎を患ったとしよう。抗生物質を用いれば簡単に治せる。では、「早く死なせてほしい」という元々の選好を充足させるために、抗生物質を用いないほうがいいのだろうか。それとも現在の幸福そうな状態を維持させるために治すべきだろうか。選好充足説では前者を行うべきとなりそうだが、これは本当に患者にとって幸福なのだろうか。

 選好充足説にはさらに大きな問題がある。適応的選好の形成という問題である。

「女性は男性に尽くすのが当たり前」と教えられている男女不平等の社会を考えてみよう。そのような社会で育ちそれに適応した選好を持つ女性は、男性に尽くすことによって幸福感を得ることになるだろう。
(中略)
そして、男性に尽くしたいという選好が叶い、幸福感を得られているのなら、何も問題ないではないかと言うかもしれない。だがはたして、そのような社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか。

このように、非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。*40

この問題を回避できない限り、選好充足説を支持するのも難しいかもしれない。

 そこで次に考えられるのが客観的リスト説である。これは幸福とは人々が「善いもの」を持つことである、という考え方である。ここでいう「善いもの」とは何だろうか。これを前二つと比較しながら説明する。

 快楽説と選好充足説は幸福に対して主観的な立場をとる。対して客観的リスト説は幸福に対して客観的な立場をとる。主観的な立場では、幸福とは主観的なものである、とする。快楽も選好充足も、ある個人が主観的に経験するものであるし(選好充足は必ずしも経験を必要としないが)、また欲求や選好は当人が望むものである。一方幸福に対する客観的な立場では、幸福とは客観的なものである、とする。例えば、当人がどれほど快楽を感じ欲求を充足させていたとしても、貧乏だったり知的に不足していたり、そういった豊かでない人生を送っていたとすると、これを幸福な人生だといえるだろうか。客観的リスト説では、仮に快楽を感じていたとしても、(客観的に)「善いもの」を当人がもっていない場合はあまり幸福ではないとなる。当人が「善いもの」を持つことではじめて、その当人は幸福である、となる。この立場をとれば、「経験機械」の問題、幸福の比較問題、計算問題、適応的選好形成の問題など、ほとんどの問題を回避できる*41
 しかし客観的リスト説には重大な問題点がある。客観的な「善いもの」のリストの作成が非常に難しいということである。例えば、快適な住居や食事、健康や自由などは利益リストに載るかもしれない。しかし名画鑑賞、知的な探求、政治参加、結婚、出産など、これらがリストに載るかどうかは定かではない。さらに、リストに載るような事柄がどのような根拠によってリストに載るのか明確ではない。そして仮にリストができたとしても、そのリストを押し付けられて「これがお前の幸福のリストだ」といわれても、私たちがそれを幸福だと思えないなら、やはりそれは幸福ではないかもしれない。

 

2.4 消極的功利主義

 次の分類は、幸福を増やすのか、不幸を減らすのか、どちらに焦点を当てるかということに関して、である。通常の功利主義は、功利計算によって幸福と不幸の足し引きが行われ、それが最大化するよう命じる。*42しかしこれでは、多少の不幸が生まれてもより大きな幸福が生まれるならそれを善としてしまうし、何より幸福を積極的に増加させるべきだとは直観的に思えないかもしれない。そこで、不幸を増加させないことを善とする功利主義を考える。このような功利主義消極的功利主義*43という*44。簡単な例を通して考えてみる。

 

  幸福の量 不幸の量 総量
選択肢X 20 10 10
選択肢Y 10 5 5
選択肢Z 40 20

20

 

通常の功利主義ではZが最も善いとなる。しかしZは他の選択肢に比べて不幸の量が多い。消極的功利主義では不幸の量が最も小さいYを最も善いとする。道徳が、幸福を積極的に増加させるようなものではなく、できる限り不幸を小さくするようなものだと考えるならば、消極的功利主義の方が望ましいだろう。

 ところが、消極的功利主義ではあまり望ましくない結論が出てくる。次のような例を考えてみる。

 

  幸福の量 不幸の量 総量
選択肢W 0 0 0

 

選択肢Wは幸福も不幸も0であるので、その総量も0である。これは誰もいなくなる選択肢である。消極的功利主義では当然、これを最も善いとする。つまり、消極的功利主義では誰もいない、全ての者が絶滅した世界が最も善い世界だということになる。これは直観に合わないだろう*45

 *46またスケープゴート事例という反例もある。以下のような例を考えよう。

  Aの不幸量 Bの不幸量 Cの不幸量 不幸の総量
選択肢X 15 1 1 17
選択肢Y 7 7 7 21

この例では、選択肢Xの方が選択肢Yより全体の不幸総量が小さいので、消極的功利主義では選択肢Xの方を望ましいとする。だがこの例では、Aに対して不幸を押し付けており、それを道徳的に望ましいとするのは間違っているように思われる。

 

2.5 総量説、平均説、先行存在説

 最後は功利計算の結果をどうするかによる分類である。これには三つの考え方がある*47*48

  • 総量説
  • 平均説
  • 先行存在説

功利主義の特徴の一つに「最大化」があった。何を最大化するかということに関して、幸福の総和(合計)を最大化するという考え方が総量説である。平均説では、幸福の総量ではなく人数で割った幸福の平均を最大化する。

 もし人口が変わらない・変えられない場合、総量説と平均説に違いはない。しかし人口の増減を考慮すれば、そうではない。例えば、功利計算上少しでも幸福がプラスになるような子どもを多く生むことによって、幸福の総量は大きくなるだろう。したがって総量説によれば、幸福の総量が少しでもプラスであるような子どもを産むべき、となる。しかしそうすると、非常に小さい幸福しか得られない人生を送る子どもも生むべきとなってしまうし、そもそも「少しでも幸福な人生を送るなら、積極的に子どもを生むべきだ」という主張も直観に合いそうにない。
 平均説ではこれを回避できる。平均説では現在の幸福の平均値未満の幸福しか得られないような子どもを生むべきではないことになる。しかし平均を下回っている幸福しか得られてない人々を(苦痛なく)殺すことによって平均を上げることができるならば、平均説では平均未満の幸福しか得られない人々を殺すべきとなってしまう。

 総量説も平均説も、私たちの直観に合わないだろう。そこで考えられるのが、先行存在説である。先行存在説は既に存在している人々のみを考えて功利計算を行う、という考え方である。これによれば、人口を増やすことによって幸福を増やしたり、あるいは先行存在を殺して幸福の平均を増やしたりしない。しかし先行存在説では、総量説に見られたような幸福がプラスになる子どもを生むべきだということはないが、しかし幸福がマイナス=不幸な子どもを生むべきでないということも言えない。つまり誰かを生み出すことに関して、何も述べることがないのである。そうすると次のような例を考えると、先行存在説も直観にあいそうにないのである。

 例えば、これから妊娠しようと考えている女性がいたとする。この女性は病院で検査を受けたところ、ある病気を持っていた。今妊娠すると、その子供は確実に重たい障害を持つ。この病気は3ヶ月で治るとしたとき、彼女は3ヶ月の間、妊娠を避けるべきであるように思われる。しかし先行存在説ではそうならない。新たに子供を生むことに対して何ら述べることができない、つまり彼女が妊娠しようがしまいが、道徳的にどっちでもいいということになる。これは直観的におかしいだろう。したがって先行存在説も微妙である。*49

 

2.6 私が支持する功利主義

 様々な功利主義の分類を見てきたが*50、いったいどれが一番いいのだろうか。どれもこれも問題があって何がいいのかわからないかもしれない。もちろんこれには様々な考え方があるが、ここでは私が支持している功利主義を簡単に示すことにする。私が支持する功利主義は「二層・間接・快楽・先行存在功利主義」である*51。順に説明する。

 二層理論は2.1で説明したように、規則功利主義と行為功利主義のいいとこ取りをしており、両者の欠点をお互いに補い合っている。これを選ばない理由は無いように思う。また後半の記事で示すように、二層理論は反直観論法に対して強力な反論を行うことができる。*52

 間接功利主義は明らかに直接功利主義より優れているように思う。私たちは有限な時間と知識しか持ち合わせておらず、その都度功利計算を行っていては計算を誤るだろう。全知全能ならまだしも、そうではない私たちにとっては間接功利主義を採用すべきだと考える。また、功利原理を満たすために、なぜその意思決定に功利原理を使わなければならないかも定かではない。功利原理を満たすことができるなら、その意思決定の過程に功利原理が入る必要はないだろうと思う。

 快楽説は「経験機械」などの批判が相次いでいるが、しかし選好充足説や客観的リスト説よりも魅力的だと思う。まず客観的リスト説は押し付けがましいところがあり、また当人が望んでいないような事柄も「いやそれがお前の幸福だ」と押し付けてくるので、「当人が望んでいないにもかかわらず当人の幸福に寄与する」というあまり納得できない場合があり、魅力的ではないように思う。そこで主観的な立場である快楽説と選好充足説で悩むことになる。選好充足説では本人の知らないところで選好が充足された場合に幸福になるとする。しかしこれも本人が知らない=本人が幸福だと感じることはないという意味で私には魅力的ではない。私は、本人の選好が充足されたということを本人が知って(かつ満足感を得て)初めて本人の幸福に寄与する、と思う。したがって私は快楽説を支持したい。*53

 消極的か否かについて、生物が絶滅した世界が最も善いという消極的功利主義の主張を、私は受け入れられる。なら消極的でいいじゃないかとなりそうだが、しかし消極的功利主義では、不幸の量が同じならば、幸福の量が違っても同様の善さしかない。不幸の量が同じでかつ幸福の量が違うならば、幸福の量が大きい方がより善いだろう。また「不幸を増やしてでも幸福の総量が最大限大きくなるよう行為すべし」とう普通の功利主義は道徳的に間違っているように思われるが、このような批判は、現実的には的はずれな批判になると考える。実践上、あるいは二層理論的な直観的規則の範囲ではおそらく、不幸を増やしてでも幸福を最大限増加させるような選択肢はほとんど存在しないように思う*54。例えば誰かに不幸を押し付ける形態の社会や行為は差別社会と同じであり、これは最善ではないように思う。ベンサムやミルが当時、奴隷や女性の社会的地位を向上させるよう訴えていたことを考えれば(そして事実、ミルの『女性の隷従』は女性の社会的地位の向上に寄与し、全体の幸福を増加させただろうから)、これは間違いではないだろう。したがって消極的功利主義を支持する理由(不幸を増やして幸福を最大限増加させる選択は道徳的に悪そうだという直観)を、実践上では普通の功利主義でも擁護できると思う。よって私は(批判的レベルでは怪しいが、実践上は)普通の功利主義がいいと考える。

 先行存在説に対する批判は生むことに関して中立的であるというものであったが、しかし総量説や平均説に比べれば幾分もましであると思う。また中立的とはいえいくらかは述べることができる。

(ある夫婦が子供をつくろうとしているが、その子供は遺伝子の欠陥を引き継ぎ、非常に悲惨な人生を送り、二歳になるまでに死んでしまうとする。)

悲惨になるであろう子供を作ることについて直接不正な点は何もない。しかしいったんそのような子供が存在するなら、その子の人生は悲惨以外のなにものでもないから、我々は安楽死という仕方でこの世における苦痛の量を減らすであろう。しかし安楽死は、両親や他の当事者にとっては、子供をつくらないということにくらべてはるかに痛ましい道である。そこから、<悲惨な生涯を送らざるをえない子供はつくるべきでない>ということの間接的な理由があることになる、と。*55

 

以上が、私が支持する功利主義の形態である。読者の皆さんにはどの功利主義を支持するか(あるいは支持できないか)を考えてみてほしい。

 

 次の記事では、功利主義によればどのような結論が導かれるのか、また功利主義に対する批判に答えることで、功利主義的な考え方をみていく。

(前半終わり)

後半↓

功利主義(2/2) - ボール置き埸

*56

*1:上の引用と合わせて、児玉聡, 『功利主義入門』(2012), p.46, 筑摩書房より。
 ただし、この定義はあまり適切ではないと考える。第一に,社会といったとき、この社会は人間社会を指していると考えるのが通常であるが、功利主義は苦痛を感じる全ての個体の幸福を考える。したがって社会というより世界といった方が適切だと考える。(William K. Frankena, 1973, Ethics second edition)
(追記:2020-09-02)第二に、ここでは「正しい行為」が「幸福を増やす行為」とされているが、ほとんどの功利主義において「正しい行為」は「幸福を最大化する行為」のみであり、その他すべては「不正な行為」である。しかし,このような区別は初学者にとって煩雑になるだけであり、入門書としてこの区別は有意義ではないかもしれない。

*2:2019/08/04追記

*3:赤林朗ら,『入門・倫理学』(2018), pp.30,31, 勁草書房
伊勢田哲治, 「功利主義とはいかなる立場か」, 伊勢田哲治ら編,『生命倫理学と功利主義』(2006), pp.3-25, ナカニシヤ出版

*4:もちろん行為の帰結に限らない。後に見るように規則があることによる帰結を考えるような立場も存在する。2.1を参照

*5:ただし、ここでいう「幸福」が何を意味するのかは定かではない。これに関連して英語圏では二つの概念"well-being"と"happiness"がある。前者の定訳は「福利」である。後者の定訳は「幸福」であるが、「幸福感」と訳すほうが日本語として適切かもしれない。厚生主義が参照するのは"well-being"の方であり、これは、ある人にとって善いような個人的善のことである。詳細は 森村進, 『幸福とは何か』(2018), 筑摩書房を参考にしてほしい。またこの幸福については2.3節で詳しく扱う。

*6:追記(2022-06-02):以前は以下のように書いていたが、誤りである。三流の医師が人を救おうと意志して治療するのと、一流の医師が道徳などを特に考えずに治療するのとで、結果として後者の方がより多くの人々を治療できたのだとしたら、道徳的に善い行為をしたのは後者ではないだろうか。

*7:何らかの事物が、ただそれだけで善いもの(目的自体として善いもの)であるというとき、それは内在的価値を持つという。反対にお金のようなものは手段的な価値があるとして道具的価値を持つという。厚生(福利)主義は、幸福のみに内在的価値(非道具的価値)をおく考え方である。

*8:赤林朗ら, 『入門・倫理学』(2018), p.95

*9:通常はこのように数値化しない。幸福を考えるときはどんぶり勘定、つまりどっちの方がより大きいか程度の比較であまり厳密に考えていない。

*10:例えばあなたがCだとしたら、あなたは選択肢Zを選びたくなるだろう。あるいはBの社会的地位が高く、Bの幸福はもしかしたら他の二人より重要かもしれない。であるならば選択肢Yが善いかもしれない。しかし功利主義(正確には単純加算主義)はそれを許さない。「一人は一人として数え、決して一人以上には数えない」というベンサムの言葉にそれが如実に表れているだろう。

*11:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

*12:児玉聡, 『功利主義入門』(2012), p.43

*13:児玉聡(2012), p.53

*14:あまりに発展的な内容になるのでここには書かなかったが、他にも様々な分類がある。例えば、個人の倫理なのか統治者の倫理なのか、行為前の期待値を評価するのか行為後に実際にどうなったかで行為の評価をするのか、などによる分類がある。詳しくは 安藤馨, 『統治と功利』(2007) , 勁草書房 を参照。また、幸福に関しての分類のみは、功利主義の分類というより幸福についての分類であることに注意されたい。というのも、功利主義に対する批判として扱われているものの中には幸福の快楽説に対する批判でしかないものがあるからである。

*15:ここでは詳しく紹介しないが、他にも動機功利主義というものもある。動機功利主義は「最大多数の最大幸福となるような動機を持ち、それによって行為することが正しい」というものである。規則功利主義の規則を動機に置き換えたと考えればよい。

*16:以前は「最大多数の最大幸福となるような規則を作り、それに従うべし」と定義していたが、正確さに欠けていたと今では考えている。
追記(2020-03-17):「全員がその規則に従って行為する場合に最大多数の最大幸福になるような、そういう規則に従って行為すべし」としていた。規則功利主義にも様々な形態があるが、標準的なものは「に従って」ではなく「を受容して」であることがわかったので、このように書き換えた。

*17:単一の規則のみを考えるわけではないので、実際はこれは不正確である。正確には、全ての規則体系の中で最適な規則を選択し、その規則に従って行為する、ということになる。

*18:もちろんこれは雑すぎるが、しかしほとんどの規則はないよりある方が多くの幸福を生むように思う。

*19:追記(2020-03-17):しかし、こうした批判は「受容」によって規則の是非を判断する規則功利主義には、あまり意味のない批判かもしれない。

*20:2019/08/03追記

*21:詳しくは R.M.ヘア, 内井惣七ら訳(1994), 『道徳的に考えること』, 勁草書房 を参照

*22:瀧川裕英ら(2014), 『法哲学』, pp.17,18, 有斐閣

*23:ただし批判がないわけではない。B.ウィリアムズは二層理論や規則功利主義を「植民地総督府功利主義」と呼んで非難した。これは、二層理論や規則功利主義の考え方によれば、社会全体の幸福を正確に計算できる「功利主義エリート」は批判レベルで正確に判断できるため、いかなる制度や教育プログラムが望ましいのかを正確に判断できる。そのためエリートらがそのような制度設計を行い、エリートでない一般大衆は「功利主義エリート」の制定した規則にただ従うのが、功利主義的に望ましい社会だ、ということになる。これは「植民地総督府」が支配した社会を思い出させるだろう。赤林朗ら(2018), 『入門・倫理学』, pp.100 を参照。

*24:二層理論は両者のいいとこ取りをしている分、どちらの欠点も抱えているかもしれない。ウィリアムズが批判しているのは実際には規則功利主義の欠点であり、それが二層理論にも引き継がれてしまっていると考えられる。

*25:追記(2022-06-02):本節での定義は論争的である。ある実体(entity)の正しさをその実体の帰結によって評価するのか(直接)、それとも他の実体の帰結を参照して評価するのか(間接)の違いとして考えるという定式化もある。歴史的にはこの定式化が正しいと思われるが、しかし日本では本節での説明が主流なので、ここではそれに従う。

*26:「人がなすべきことや正しい行為とは、社会全体の幸福を増やす行為のことであり、反対に、なすべきでないことや不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為」のことである、とする原理。児玉聡, 『功利主義入門』(2012), pp.46, 筑摩書房

*27:安藤馨, 『統治と功利』(2007), p.59

*28:以前は次のような理由を述べていた。「規則功利主義は間接功利主義にならざるを得ないだろうが、間接功利主義だからといって規則功利主義とはならず、行為功利主義である場合もある。」だが、「規則功利主義は間接功利主義にならざるを得ない」は以上に説明したように間違いであった。また詳しくは、安藤馨, 『統治と功利』(2007), pp.59.60を参照。だがこれはあくまで理論的に可能な立場であって、現実的には不可能な選択肢であろう。しかしそういってしまうと、直接功利主義全般にこれは当てはまってしまうかもしれない。

*29:別の違いとして功利計算のタイミングの違いもあると考える。例えば規則功利主義にしろ二層理論にしろ、事前に功利計算を行って規則を作る必要がある(直接規則功利主義ならその限りではない)。しかし直接行為功利主義では、定義からしてその場その場で功利計算をする必要がある。

*30:本章の冒頭の注で指摘したように、これに関しては功利主義そのものではなく功利主義の厚生主義の側面の分類である。したがって功利主義は以下に説明するいずれかの立場にコミットするが、(よく批判される)快楽説(快楽主義)に必ずコミットするわけではない。これはよく注意されるべきことである。

*31:厚生主義のところの注で説明したが、再度説明すれば、最近は幸福という言葉を使わずにウェルビーイング(well-being)という言葉を用いる。ウェルビーイングの定訳は福利である。幸福は主にハピネス(hapiness)の定訳になりつつある。しかし森村(2018)が指摘するように日本語には違いがあまり見られないし、そこまで現代英米倫理学に準拠して説明する必要はないだろうと思う。また功利主義では幸福ではなく効用(utility)という言葉が代わりによく用いられるが、これについても(少なくとも入門的な内容の範囲であれば)こだわらなくてよいだろうと思う。

*32:児玉聡『功利主義入門』(2012) pp.131-168 など。ほか多数の文献あり。一番上は特に参考になる。

  • 森村進(2018), 『幸福とは何か』, 筑摩書房
  • 安藤馨(2007), 『統治と功利』, 勁草書房
  • 米村幸太郎(2017), 「欲求か快楽か、快楽だとしてもどのような快楽か?」, 若林良樹ら編(2017), 『功利主義の逆襲』, pp.35-56, ナカニシヤ出版
  • 江口聡(2015), 「幸福についての主観説と客観説,そして幸福の心理学」, 哲学の探求第42号, 哲学若手研究者フォーラム

*33:欲求充足説・欲求実現説ともよばれる。ここでいう選好は「好んで選ぶ」くらいの意味合いで考えていい。選好と欲求はほとんどの場合、同じような意味であるが、厳密には異なる。

*34:利益説ともよばれる。

*35:二種類というが、以下の快楽説はどちらも感覚的快楽説とよばれるものである。感覚的快楽説以外では態度的快楽説というものがあるが、ここでは扱わない。詳しくは 森村『幸福とは何か』や 安藤『統治と功利』を参照。

*36:前者を「高級快楽」、後者を「低級快楽」と表現する場合もある。

*37:詳しくは J.S.ミル(1861), 「功利主義」, J.S.ミル (川名雄一郎ら訳)(2010), 『功利主義論集』, pp.257-354, 京都大学学術出版会

*38:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.148,149

*39:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.154,155

*40:児玉聡(2012), 『功利主義入門』, pp.156,157

*41:もちろん、リストの内容次第では、これらの問題を回避できない。

*42:以前は「積極的功利主義」と名付けていたが、そんな命名は見たことがないので、削除した。おそらく私よ勘違いである。

*43:ネガティブ功利主義、マイナス功利主義ともいう。

*44:瀧川裕英ら(2014), 『法哲学』, pp.10,11 また次のサイトが参考になる。ネガティブ功利主義とは

*45:直観に合わなくない、という人もいる。私もその1人である。消極的功利主義をただ直観に合わないというだけで否定するのはいささか雑だろうと思うが、ここでは深く追求しない。

*46:追記(2022-06-02)

*47:安藤馨(2007), 『統治と功利』, pp.119,120

*48:D・パーフィット(1984, 邦訳1998)は、総量説および平均説に関連する問題を『理由と人格』の第四部で詳細に論じている。この問題を論じる上で彼の議論は避けられないのだが、ここでその議論を紹介すると内容が難しくなるので、ここでは紹介しないことにする。

*49:この種の問題をさらに深く考えていくと非同一性問題という問題に直面する。詳しくは D・パーフィット(森村進訳)(1998), 『理由と人格』, 勁草書房 の第四部を参照。

*50:功利主義には様々な立場があるため、ある人が功利主義について語ったとき、それがどの功利主義を指しているのか注意する必要がある。なお、批判者が単に功利主義といったときにはおそらく「行為・直接・快楽・総量功利主義」を意味すると思う。対して功利主義者が単に功利主義といったときに意味するのは「行為・間接・快楽または選好充足・総量功利主義」であると思う。つまりここの相違点は直接か間接かである。この違いは非常に大きい

*51:もちろん、後に変わることがあるだろう。特に幸福に関して、私は選好充足説と快楽説(態度的快楽説)で迷っており、計算方法について総量説に傾きつつある。また二層理論ではなく行為功利主義に傾きつつある。

*52:(追記:2020-06-04)ただし、二層理論が厳密にいってどのような立場なのかはかなり微妙である。行為功利主義として解釈される場合もあれば、ある種の規則功利主義として解釈する余地もある。ヘア自身は、直観レベルを規則功利主義とほぼ同一視しているのは間違いないだろうが、批判レベルの方について、詳細な規則功利主義と行為功利主義を同一視している(ヘア(1994))。しかし行為功利主義と詳細な規則功利主義は異なる立場であるというのが一般的な見解であり、さらに直観レベルのことは行為功利主義でも十分に説明可能であるから、結局、彼の立場が整合的にいってどの立場になるかは不明である。

*53:今(2019/5/10)は感覚的快楽説を支持している。以下は過去に態度的快楽説を支持していたときの記述である。

 ただし、私は今回の記事で説明しなかった態度的快楽説というものを支持しているので、単純な快楽説=感覚的快楽説とは少し違う。また、以前は選好充足説を支持していたが、今は立場を変えて快楽説を、特に態度的快楽説を支持することにした。以前の文章を以下に示す。
 選好充足説は、実際に選好が充足されることによって幸福とする。これは私にとって非常に直観にあう。快楽説では欲求が充足されたと勘違いすることも幸福になるが、しかし私は実際に充足されてほしいと思うし、またそうでなくては幸福ではないと思う。また客観的リスト説は押しつけがましいところがあるので、私には受け入れられそうにない。よって、かなり直観的だが、選好充足説を支持したい。

*54:ただし、出生に関してはその限りではないだろう。反出生主義、アンチナタリズム、エフィリズムなどでは消極的功利主義閾値消極的功利主義(要するに十分主義)が支持されることが多い。しかし、いずれ記事にする予定だが、普通の功利主義でもアンチナタリズムを(消極的に)支持することは可能であると考える。

*55:ピーター・シンガー (山内友三郎ら訳)(1999), 『実践の倫理(新版)』, pp.126,127, 昭和堂

*56:追記(2022-06-02):本記事全体を通じて、明確な誤りが含まれたり、わかりにくい表現や例えを大幅に変更した。ただ本記事の構造などは変えてない。