ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

私たちは功利計算すべきか(シリーズ:功利主義を掘り下げる2)

 

0 はじめに

 倫理的な問題について議論しているときに功利主義が出てくると、「功利主義的に考えると〜」とまず間違いなく誰かが言い出す。功利主義者も反功利主義者もよく使う言葉だろう。だがそれは本当に功利主義的に考えているのだろうか。実は「功利主義的に考えると〜」と言いながら、当の本人は実は(本来の意味で)功利主義的に考えてないかもしれない。

 功利主義の最も特徴的なところの一つは功利計算だろう。どのような行為や規則がどのようにして最大多数の最大幸福になるのかを計算することである。誰かが「功利主義的に考えると〜」というときはそれを「功利計算をすると〜」という意味で用いているだろう。だが、この二つが必ず同じ意味にはなるわけではない。これを説明するのが本記事の目的である。

 本記事の構成について。1節で直接功利主義と間接功利主義を区別し、どちらが妥当なのかを示す。2節で間接功利主義における道徳実践について考察する。3節でまとめる。

 また、今回の記事の簡単な説明は入門記事の「2.2 直接功利主義、間接功利主義」ですでに説明してあるので、簡単に済ませたいならそちらを読んでいただくといい。

mtboru.hatenablog.com

 

 

1 直接・間接功利主義

 まずそれぞれ定式化する。

直接帰結主義(Direct Consequentialism):帰結主義的枠組みを選択の決定原理(意思決定原理)とする。

直接功利主義(Direct Utiritarianism): 功利主義的枠組み(功利原理)を選択の決定原理(意思決定原理)とする。

間接帰結主義(Indirect Consequentialism):帰結主義的枠組みを選択の評価基準とする。

間接功利主義(Indirect Utiritarianism):功利主義的枠組み(功利原理)を選択の評価基準とする。

直接/間接という区別は功利主義のみならず帰結主義一般にも当てはまるものであるが、ここからは簡単のために功利主義で考える。また前回同様、簡単のために選択ではなく行為で考える。

 直接功利主義における「功利主義的枠組み(功利原理)を選択の決定原理(意思決定原理)とする。」とは、私達が行為決定を行う際に功利計算を行うことを意味する。そしてその功利計算の結果にしたがって行為を選択する。つまり、常に「最大多数の最大幸福となるような行為はどれか?」を考え、最大多数の最大幸福だと思われる行為を行うべきだ、というのが直接功利主義である。一方、間接功利主義の「選択の評価基準」とは、私達が行為決定を行う際に功利計算を行うことを意味しない。そうではなくて、間接功利主義における功利原理はその行為の道徳的な正・不正の評価基準でしかない。そのため、間接功利主義において、私達は功利計算を行って行為決定する必要はない。私たちは、例えば自らの道徳的直観に従って行為決定することもカント主義に従って義務論的に行為決定することもできる。私たちは「最大多数の最大幸福となるような行為はどれか?」を考えて行為する必要はない、というのが間接功利主義と直接功利主義との大きな違いである。間接功利主義での功利原理の使い方は、その行為が功利計算上どうであるのかを評価するのみである*1

 実践面で考えてみよう。例えば目の前の池で子どもが溺れかけていたとしよう。直接功利主義者は子どもを助けることによる関係者の幸福総量を計算し、そして関係者の幸福総量が最大化されるならば子どもを助けるべきだと考え(行為す)る。一方間接功利主義者は、例えば自身の直観によって子どもを助けるべきだと思い助けるという行為を選択するかもしれないし、あるいは(徳のある人のように)とっさに動き出して子どもを助けるかもしれない。もちろん、他の意思決定原理、例えばカント義務論に従って子どもを助ける行為が人格を尊重する行為かどうかを確かめ、そして行為する、としてもいい。間接功利主義は意思決定原理が何であるかを直接的に気にしない。ある行為が客観的に正しいかどうかを評価・判断する評価・判断基準が功利原理である、という立場が間接功利主義である(この評価は、助けた当の本人が行う必要はない)*2。もちろん、行為者は功利計算して行為を選択してもいい。間接功利主義はあくまで評価基準に功利原理を用いるというだけであり、意思決定原理に功利原理を持ち込んではならないということを意味しない

 功利主義について少し知っている人は間接功利主義のことを「功利主義」だとは思えないだろう。功利主義の批判者も含めてほとんどの人は「功利主義」で直接功利主義を意味しているように私には思われる。先に述べれば、現代の功利主義者のほとんどは間接功利主義者である(らしい)。なぜなら、直接功利主義はあまりに極端な立場であり、そしてまた全く魅力的でないからである。

 

1.1 直接功利主義への批判

 ではどちらの立場が正しいのだろうか。すでに述べたように、直接功利主義は全く魅力的ではない。まず極端な例から始める。

世界の運命を支配している全知の悪魔がいるとする。彼は人々がカント主義的道徳を採用しない程度に応じて口にするのもはばかられるような恐ろしい罰を与える。*3

この例からわかるように、直接功利主義者はこの世界では常に罰を与え続けられてしまう。この世界においては、功利主義に従うことそれ自体が功利主義的に悪い行為である。間接功利主義ではこのようなことは起こらない。 間接功利主義において、人々がカント主義者であることは正しい。そしてその正しさそれ自体は、客観的には、間接功利主義によって正当化される。ここからわかるように、間接功利主義では人々は何が本当に正しいのかという基準を知る必要はない。*4

 また日々の実践において直接功利主義を採用することはあまりに非現実的である。例えば、私は朝起きてベッドから起き上がり、廊下を歩いて顔を洗いに行くが、直接功利主義ではこの一挙一動について功利計算を行わなければならない。私はどのようにベッドから起きる上がるのが道徳的に正しいのか。廊下をどれくらいの速度でどちらの足から歩けばよいか。顔を洗うとき何回水で洗えばよいのだろうか。洗顔剤を使うべきか否か。これら全てについて功利計算を行わなければならない*5。これはあまりにバカバカしい立場だろう。

 仮にこれらを回避したとしても、どうして私たちは功利原理を直接の行為決定原理に用いなければならないのだろうか。帰結主義において重要であるのは、その行為の帰結である。にもかかわらず、行為の決定原理に対しても言及するような帰結主義は(もちろん可能だが)帰結主義以外の要素が入っており、純粋な帰結主義者にとって支持する動機がないのではないだろうか。少なくとも私にはまったくない。功利原理的に正しい行為を選択できるのであれば、その行為決定原理(意思決定原理)が道徳的直観によるものであっても利己主義的なものであっても問題がないのではないだろうか。

 だが後者(利己主義)のような非道徳的意思決定原理によって決定された行為の評価を、その意思決定原理に無関係に評価することは少し反直観的かもしれない。仮に犯罪を行おうとして、しかし結果的にその行為が不成功に終わり、さらに最大幸福を達成してしまったとしたら、その行為は正しいのだろうか。直接功利主義はあくまでも意思決定原理に功利原理を用いるのだから、直接功利主義者は実践的には(それに従うなら)道徳的に行為しようとしている。しかし間接功利主義ではそうはならない。この問題は次節で考える。

 

1.2 間接功利主義への批判とその応答

 以上に見たように、直接功利主義をとる理由はほとんどない。では間接功利主義を採用すべきだろうか。もちろん、間接功利主義にもいくつか批判がある。2つ取り上げる。

1.2.1 密教道徳

 最も有力な批判とされているのは、間接功利主義密教道徳化するのではないかという批判である*6密教道徳は、客観的な道徳的正しさと一般の人々が受け入れている道徳的正しさが乖離しており、そして一般の人々は何が本当に正しいかを知らないまま、(客観的に正しい意味で)道徳的に行為し、一部の人びと(例えばエリート)のみが本当に正しい道徳を知っている、そのような状態のことである。極端に言えば、先の悪魔の例のように、もはや誰も本当に正しいことを知らないまま(客観的に正しい意味で)道徳的に正しい行為をしているようなことについて、全く問題ないと答えてしまいかねない。
 しかしこれの何が問題なのだろうか。本当に正しいことは実際に人々に知られていなければならない、ということを示さずに、単に密教道徳的であるからダメだとするのは批判ではなく単なる否定である。これが批判となるためには密教道徳的であることが誤りであることを示す独立の理由を提示すべきだろう*7*8

 また、そもそもこの現実世界では密教道徳にはならないのではないかという疑いがあるだろう。後に紹介するシンガーの様々な努力が示すように、私たちは功利主義的な思考によって「常識道徳」を改革していく必要があるし、おそらくそれはずっと続くだろう*9。私たちは「一般の人々は何が本当に正しいかを知らないまま、(客観的に正しい意味で)道徳的に行為」できないのである。*10

 

1.2.2 非道徳的な意思決定原理による行為

 もう一つの批判として、(例えば)利己的な動機に従って行為したとき、偶然にもその行為が(功利主義的に)最善であるときその行為は道徳的に正しい行為になるが、これは動機を気にしないという点でおかしいのではないか、というものである。だが「道徳的に正しい」という概念が「善なる動機に従って行為しなければならない」ということを含意しているのでもない限りこれは論点先取でしかないのだから*11、この批判をするためにはそのことを示さなければならない*12。仮に何らかの根拠が提示されたとしても、なるほど、その行為について功利原理は正しいと評価するだろうが、一般的に利己的な動機や意思決定原理に従った行為は悪いから、利己的な動機や意思決定原理について功利原理は不正だと評価するだろう。このように動機と行為の評価を区別することによって批判を回避できる。ただし、このように動機と行為の評価を区別すると、功利原理が評価する対象が恣意的に広がる。したがっておそらく、この路線での批判の回避はあるタイプの行為功利主義者にとって嬉しくないかもしれない*13

 よって、あくまでも行為功利主義にとどまって反論するならば別の道を考えなければならない。ではどのような道が考えられるだろうか。

 まず現実的な話として、非道徳的な意思決定原理によって行為する場合、その行為の多くは最善ではないだろう。したがってそもそも現実においてはそんなに問題ではない。だが論理的な話として、あるいは現実の少数の例に関して、やはり非道徳的な意思決定原理によって行為した場合にその行為が最善になるようなケースはありえる。だとするなら、そのようなケースに関して私たちは考えなければならない。

1.2.3 行為の極小化主義と極大化主義

 ここで前回の話を考えよう。

mtboru.hatenablog.com

 この記事において、私たちは時点主義と歴史主義のどちらに立つべきかを考えた。簡単に言えば、時点主義は行為の直後の功利性のみによってその行為の善し悪しを評価する。歴史主義は宇宙の終焉から見て(その行為の影響がもはやまったくないところから見て)行為を評価する。

 この時点主義と歴史主義のどちらを取るかについて考察する上で、行為の極小化主義と極大化主義があった。これらの立場はそれぞれ、行為について、複合行為をも道徳的評価の対象にするのか、それ以上分割できない単純な行為(極小行為)のみを道徳的評価の対象にするのか、という違いであった。今それ以上分割できない極小行為a, b, cがあるとする。このとき前者の立場ではa+b, b+c, c+a, a+b+cという複合行為のいずれか(あるいは複数)を道徳的評価の対象にするのだが、ここでa+b+c以外の選択をする理由は特にないだろう。a+bはcと組み合わさってさらに大きな複合行為になり、複合行為を道徳的評価の対象にするという立場において大きな複合行為を排除する理由は見当たらない。そしてa+b+cを道徳的評価の対象にすることで、a+b, b+c, c+aの全ての複合行為の評価も織り込み済みと考えられるのだから、結局a+b+cという最も大きな複合行為を道徳的評価の対象にすることになるだろう。しかし本当に織り込み済みのだろうか。これは次の原理を認めればそうなる。

Ought Distributes Through Conjuction(連結を通した義務の配分):もし複合行為a+bが義務的行為なら、aとbも義務的行為である。
O(A & B)→O(A)&O(B)

この原理によって私たちは、a+b+cを道徳的評価の対象にすることによってa, b, c, a+b, b+c, c+aというすべての行為を事実上評価対象に織り込むことができる。

 さてそうすると、もはや私たちは最大限に大きな複合行為、つまり極大行為を道徳的評価の対象にすることになる。それは現実的に何を意味するかといえば、私たちの人生という極大行為である。つまり私たちは人生それ自体を道徳的評価の対象にしなければならない。行為の極小化主義ではこのようなことはまったく起きない。なぜなら、分割できない極小行為のみを道徳的評価の対象にすることになるから、人生などという極大行為を道徳的評価の対象にしないからである。(以上の議論は安藤(2006)を参考にした。)

 ここで先程の問題を考えよう。現実的には非道徳的な意思決定原理によって行為された行為のほとんどは最善ではないが、論理的には、あるいは現実の少数の例に関しては、最善になるケースがありえる。だがいまや、この問題は行為の極小化主義にしかあてはまらない。行為の極大化主義では複合行為が道徳的評価の対象になるのだから、その行為は複合行為の評価から派生的に評価される。したがって非道徳的な意思決定原理による単一の行為が極小行為として最善だったとしても、そのような行為を含む複合行為はおそらく最善ではないだろうから、それは行為の極大化主義において最善ではないことになるだろう。もちろん論理的には非道徳的意思決定原理による行為を含む複合行為が最善であることは可能だが、もはやそのような批判は聞くに値しないだろう。人生という極大行為、あるいは人生から分割される各行為(極小行為に限らない)が非道徳的な意思決定原理によって決定されているならば、まず間違いなく最善ではない。それが最善であるような可能世界を想定できるだろうが、そのような可能世界は私たちのこの現実世界とは全く違う世界(例えばカント主義の悪魔がいるような世界)であり、そのような世界における道徳的に正しい行為や道徳的意思決定原理は、この現実世界での道徳的に正しい行為や道徳的意思決定原理とされているそれらとはまったく違ったものになるだろう。したがってこの批判は、行為の極大化主義に対しては成功しないか、成功する見込みが非常に小さいと考える。

 一方でこの批判は、行為の極小化主義に対しては成功する見込みがあるかもしれない。ではどのように反論できるだろうか。ここで、行為の評価と動機の評価では、その評価の種類が違うのだということができるだろう。行為の評価は正・不正(right・wrong)に関わるが、動機や意思決定原理の評価は非難(blame)されるか否かに関わるとするのである。非難されるかどうかが正・不正と一致しないのであればこの回避方法は魅力的になるが、本当に一致しないのだろうか。

 前回の記事のジルの事例を考えよう。その例は次のようなものだった。

ジルは医師で、彼女の患者ジョンのための正しい治療を決定しなければならならない。ジョンは、些細ではないが軽微な皮膚の疾患がある。ジルは3つの薬剤A, B, Cからどれかを選ばなければならない。文献を慎重に考察したところ、ジルは次の結論に至った。薬剤Aはこの状態を改善する可能性が非常に高いが、完全には治せない。薬剤BとCのいずれか一つは完全に治すが、もう片方は患者を殺すことになる。ジルはどちらが殺してしまう薬なのか知ることができない。ジルはどうするべきか。ここで実際には、Bが完全治療薬、Cが殺人薬だとする。ただし、ジルはそのことを知らない。

*14

帰結とは何か(シリーズ:功利主義を掘り下げる1) - ボール置き埸

薬BとCは、ジルの観点からみて50%の確率で完全治癒薬である。もしジルが偶然にもBを選んで投与したら、事実主義と客観的期待値主義ではジルは正しいことをしたことになるが、しかしジルは褒められたことをしたわけではないと私たちは思うだろう(場合によっては非難されるべきかもしれない)。事実主義と客観的期待値主義では、ジルのそのような意思決定原理は非難されるべきだが、その行為自体は正しかったということが可能である。一方で主観的期待値主義や主観主義を取る場合は(間接功利主義と両立できないので)そうすることは不可能である*15。したがって、行為の極小化主義を取りつつ行為の正しさと動機や意思決定原理の非難の評価の区別を妥当とするには、事実主義か客観的期待値主義が正しい必要がある。そして前回の記事で考察したように客観的期待値主義が正しいと考えるので(あるいは事実主義が正しいとしても)、このような行為の正しさと動機の非難可能性の基準を区別することは可能であり、正・不正の基準と非難可能性の基準は一致しないことになる。*16,*17

1.3 間接功利主義が含意すること

 ここまでの議論によって私たちは間接功利主義を採用することになったが、だとするなら、私たちはどのような行為決定原理にしたがうべきなのか。これには理論的な話と実践的な話とがある。ここでは先に間接功利主義が理論的に含意することを述べ、次節で実践的な話について述べる。

 理論的に含意することとはいえ、結局の所、間接功利主義は功利原理を行為の評価基準とする、というただそれだけの話なのだが、これが非常に納得・理解されにくいように思う。功利主義を支持することは功利主義にしたがって行為するということを意味しない、というのは自己論駁的に見え、それだけで間違っているように思われてしまう。

 D・パーフィットはこのような理論を自己破壊的(self-defeating)な理論とよぶ(パーフィット 1998)。パーフィットは自己破壊的な理論を二つに分ける。直接的に自己破壊的な理論間接的に自己破壊的な理論である。直接的に自己破壊的な理論は、その理論の目的を最もよく達成する行為を行っているのにもかかわらず、そうしないほうがその理論の目的を達成するような理論である*18

 間接的に自己破壊的な理論は、その目標を達成しようとすると、全体としてかえってその目標を達成できなくなるような理論である*19。間接的に自己破壊的な理論と直接的に自己破壊的な理論は別物である。直接的に自己破壊的な理論は、最適な行為を実際にできているのにも関わらず最適ではないことになるような理論である。一方で間接的に自己破壊的な理論は、最適に行為しようとしたら最適にならないということに過ぎず、実際に最適に行為できたらそれは最適である。

 パーフィット帰結主義が自己破壊的であるかどうかを検討し、間接的に自己破壊的であると結論づける。人々が現に帰結主義的に最善の行為をしようとしたら、かえって帰結主義的に最善でなくなる場合は容易に想像可能だろう。

 では自己破壊的な理論は問題含みなのだろうか。パーフィットによれば(そして間接功利主義者が考えるところでは)間接的に自己破壊的な理論は問題がない。問題があるのは直接的に自己破壊的な理論の方である。直接的に自己破壊的な理論は実際に目標を最も達成できる行為ができているにもかかわらず、他の行為と比べてその行為によって目標を達成できないような理論である。これはもはや理論として成立していないと言っても過言ではない。一方で間接的に自己破壊的な理論は、単に理論の枠組みどおりに従おうとするとうまくいかないという話であって、実際に目標を最も達成できる行為ができたときには実際に達成できているのだから、間接的に自己破壊的な理論は直接的に自己破壊的な理論のような難点はない。利己的快楽主義を想定すればそれがよくわかるだろう。利己的快楽主義は自身の利益が最大になるように行為すべきだという立場だが、よく知られているように自己利益を最大化しようとするとかえって最大化されない場合がある(快楽主義のパラドックス)。それゆえ利己的快楽主義は(間接功利主義と同様に)意思決定原理について「自己利益が最大化するよう行為すべし」とは言わず、別の意思決定原理を用いることを推奨することになる。こうして快楽主義のパラドックスは解決される。間接功利主義もこの点で同様である。そしてこれが問題だとは思えないだろう。

 さらに言えば、間接的に自己破壊的な理論であるということの何が問題なのだろうか。もし「理論の枠組みを何らかの形で意思決定原理に直接的に関与させなければならない」という(直接功利主義のような)要請がなければならないなどと言うのであれば、彼らはその論拠を示さなければならない。その論拠なしに単にそのようにいうならば、それは論点先取である。よって別の論拠が示されない限り、道徳理論において間接的に自己破壊的な理論には問題がなく、直接的に自己破壊的な理論のみが問題となる。したがってこの点で間接功利主義は(間接的に自己破壊的な理論であっても)問題にならない。

 また他にも、前回の記事について次のような批判を頂いた。

前回の記事で、私達は客観的期待値功利主義を採用すべきだという結論に至った。簡単に述べれば、客観的期待値功利主義とは、できる限りの事実を知り、客観確率についての事実も知り、合理的に思考できる理想的な主体からみて功利計算を行い、期待値が最も大きい行為が最善であり、正しい行為である、という立場である。

 ところで、この批判は直接功利主義を前提にしているように見える。だが、客観的期待値功利主義それ自体は直接/間接とは独立である。なるほど、たしかに、その主体にとって8桁の数字(20190729)は知る由もないのだから、そんな選択は(実践的には)できない。だが今、私達は間接功利主義を採用するに至ったのだから、私達は客観的期待値功利主義が正しいと考えて行為する必要はまったくない。

 また、私たちは前節で、行為の正・不正と行為が称賛・称賛されるか否かを区別し、正しい行為でも非難されうるし、不正な行為でも非難されない場合があるということを確認した。この区別に基づけば、8桁の数字を一度で入力することは正しい行為だが、(偶然だから)称賛されるような行為ではない。一方で一度で入力しないのは不正な行為だが、(8桁の数字を知らないから)非難されるような行為ではない。このように主張すれば、この批判が非難可能性の方に焦点を当てているように思えるだろう。

 客観的にいって、(もし仮に理想的には一回で金庫を開けられるなら)一回で金庫を開けることは正しいだろうと私は思う。しかし現実の我々がそれを客観的期待値功利主義に照らして不正だとか正しいとか考える必要はない。現実の我々が功利原理ではない他の何らかの評価基準に照らして考えることが功利原理によって正しいとされるなら(評価する、ということそれ自体も行為の一つであるから、功利原理の評価の対象である)、そうすべきである。

 前者の例、「たとえば、あまり知らない、悪意ある人に巧妙に騙されて、あやまった情報に基づいて人を害してしまう」ことも、それ自体が客観的に正しいかどうかとそれを主観的に正しいと判断するかどうかは、間接功利主義において区別されなければならない。私たちは現実に、そのような誤った情報に基づいて行為する人に情状酌量の余地があると考えるだろう。だが、その行為が客観的に本当に正しいかどうかと聞かれたとき、以上のことを区別して考える人がそれなりにいるのではないだろうか。誤った事実に基づいて人に嘘をついた場合、たしかにその道徳的悪さは低減するかもしれないが、所詮低減であり、不正であることに変わりはないのではないだろうか。それでもなお「主観的な情報(信念)も道徳的正しさの評価には必要である」と述べるなら、もはやそれは客観的期待値功利主義に対する論点先取であり、主観的な情報を道徳的正しさに関する評価に含めるべき根拠を独立に提示しなければならないだろう。

 これらの説明からわかるように、やはり行為の正・不正の基準と非難されるべきか否か(非難可能性)の基準は区別されるのではないだろうか。シンガーらの次の文章もそのことを示しているように思う。

功利主義者たちは、他の誰もと同じように、時には間違った答えをするが、しかし可能な限り適切な情報を収集しようという真正の努力をするならば、そしてまたその証拠に基づいて、可能な限り最善の判断に到達しようとするならば、その判断が間違っていたことが判明したとしても、非難されるべきではない*20

 

2 間接功利主義的な実践

2.1 二次的規則に従う

 前節までで間接功利主義が正しい見解であることを見てきた。直接功利主義では功利原理を行為決定原理とするのだから、私たちは何に従って行為すればいいのかは自ずとわかっていた。だが間接功利主義においては、何に従って行為すればいいのかはそれ自体からは何もわからない。

 間接功利主義における実践は一般的に、功利原理から導かれる二次的規則に従う、というものである*21。二次的規則は例えば「嘘をつかない」「人のものを盗まない」「人に優しくする」などが考えられる。これらは(例外的な状況を除いて)功利性を増大させる(減少させない)ことに貢献するだろうから、普段の私達はこのような二次的規則に従い、二次的規則が命じないところでは自由に行為すればいい。これらの二次的規則は功利性を増大させる限りで客観的に正当化される。

 ではどのような二次的規則があり、またそれが功利性を増大させるとどのように確認すればいいのだろうか。いくつか考えられるが、前者には「功利主義を専門とする倫理学者に聞けばよい」と、後者には「(前者が達成される限りで)確認する必要はほとんどない」と私は答える。

 私たちは基本的に限られたリソースを使ってしか功利計算を行うことができない。したがって(365日?)普段から倫理的なことについて関心を持ち、また多くのリソースをつぎ込むことができる倫理学を専門とする人(かつ功利主義者)に聞くのが最も手っ取り早いように思う。そして彼ら彼女らに聞く限りで、私たちはその二次的規則が功利主義的に正当化されているか自身で確認する必要はない(もし自身で確認するならば、結局リソースを割かなければならない)。こういってしまうとエリート功利主義*22密教的道徳のそれだが(そしてこれは反直観的であるだろうが)、これが問題でないことはすでに確認した。もちろん専門家であっても功利計算を誤ることはある。しかし、少なくとも私たちより多くのリソースをつぎ込むことができ、また知識とデータと経験をもつ彼ら彼女らのほうが誤る可能性が低いのは明らかである。したがって彼ら彼女らに聞くのは合理的だろう。

 では、彼ら彼女らは何が二次的規則(ないし何をすべき)だといっているのだろうか。一般向けの本を書き、多くの人々に対して何をすべきかを伝えている功利主義者の一人にピーター・シンガーがいる。例えば以下のような本がある。

飢えと豊かさと道徳

飢えと豊かさと道徳

 
動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 
実践の倫理

実践の倫理

 

最後の『実践の倫理』を除き、ほかは一般向けの本であるので比較的読みやすい(特に最初の『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』は非常に読みやすく、おすすめである)。彼の基本的な主張は注にまとめる。*23

修正すべき直観の話は次の入門記事の「3 功利主義の適用」でも述べてあるので、そちらを参考にしてほしい。

mtboru.hatenablog.com

 以上の例からわかるように、間接功利主義であっても功利計算をしてはならないわけではない。だがいつでも功利計算をしなければならないわけでもないし、ほとんどしないほうが良いだろう。というのも、ほとんどの場合、限られたリソースと少ない知識とデータでは功利計算を誤る可能性が高いからである。したがって、基本的には私たちは直観的な道徳的規則(二次的規則)にしたがうべきである。

 このことを明確に示したのがR・M・ヘアの二層理論(Two-lebel theory)である。ヘアの二層理論によれば、私達は思考のレベルを直観レベルと批判レベルの2つ*24に分けるべきである。直観レベルでは直観的規則に照らして考え行為すべきである。しかし直観的規則が衝突したり、直観的規則それ自体を正当化したりするときには批判レベルに移るべきである。そして批判レベルでは、功利主義的に(功利計算して)考えるべきである。これによって私達は、どのようなときに直観にしたがって行為し、どのようなときに功利計算をすればいいのかがわかるだろう*25*26

 

2.2 よくある誤解に対する間接功利主義的回答

 ここまでで、ある程度の人は直接功利主義と間接功利主義の区別ができていると思う。しかしまだ十分に理解・納得できてない人もいるかも知れない。直接と間接の区別は非常に重要なので、この混同によるよくある誤解を取り上げ、さらに説明することにする。

 有名なトロッコ問題を考える。トロッコ問題の詳細ネット上にたくさんあるので見てきてほしい。そしてそこで「功利主義的に考えると〜」と説明されていることも見てきてほしい。ここではとりあえず、次のブログを参考に検討する。

www.tawashix.com

この記事でも示されているように、トロッコ問題では一般に

  • 義務論はレバーを引かず、太った人も落とさない。人を手段としてのみ使ってはならない。
  • 功利主義では、五人が死ぬより一人が死ぬほうが最大多数の最大幸福につながるから、レバーも引くし、太った人も突き落とす

というのが典型的な答え方である。

 功利主義の答え方について、ここまで読んできた読者にはもう明らかだと思うが、これは典型的な直接功利主義的な考え方である。間接功利主義者はこのように答える必要はない。義務論と同じように「人を手段としてのみ使ってはならない」とか「意図的に人を手段として使うのはダメだが、やむを得ずなら仕方ない」とか、どのように答えてもよい。間接功利主義的に正当化された二次的規則にしたがっている限りで、その答え方は間接功利主義的に正当化されているのである。したがって「人を手段としてのみ使ってはならない」などの二次的規則が間接功利主義的に正当化されているかどうかを客観的に判断することで、その判断(二次的規則)が正しいかどうかが評価される*27

 いまや事態は明らかである。間接功利主義者は太った人を突き落とさなくてもいいどころか、レバーを引かないと答えるべきかもしれない。もちろんこのときに功利原理に従って、レバーを引き、太った人を突き落とすと答えてもよい。これらの答えが正しいかどうかは、客観的には功利原理によって評価されるが、実践的にはそのときに従っていた二次的規則が正当化されているかどうか(あるいは功利主義内部のどのような立場に立っているか)にかかっているのである。

 他にも「自分の子ども1人と、見知らぬ他人の子ども2人が溺れていたとき、功利主義的に考えれば後者の2人を救うべきだが、これはおかしい」などのような典型的な功利主義理解についても、以上と同様の答え方になる。*28

 

3 まとめ

 1節で、直接功利主義と間接功利主義をそれぞれ定式化し、区別した。そしてそれぞれに対する批判を検討し、直接功利主義を棄却するに至った。1節の最後では、間接功利主義が理論的に含意することについて、いくつか誤解のないように注意を促した。

 2節で、間接功利主義を実践上行うとしたらどのようになるのかを確認した。ほとんどの場合功利計算をする必要がないこと、しかし直観全てが正当化されるわけではないことを確認した。そしてその形として、ヘアの二層理論を紹介した。またよくある誤解(トロッコ問題における功利主義の答え方)についても言及した。

 誤解を恐れて簡潔に言えば、この記事での結論は、客観的に道徳的に正しいことを私たちが知っていなければならない理由はなく、私たちが知っていなければならないことは、何をすることが(何に従えば)、実践上、客観的にうまくいくのか、ということである。

 この回は非常に重要な回だと私は認識している。ツイッターやネット記事、そしてまた多くの功利主義批判者はおそらく直接/間接の区別がついてないだろう。この区別は功利主義の解説書でもあまり取り上げられていない。児玉(2011)の入門書では書かれているが、規範倫理学一般の入門書や教科書に書いてないことが多々ある。だが現代の功利主義を理解する上でこの区別は非常に重要であると私は考える*29。そのため、記事一回分の文量で取り上げることにした。

 批判や疑問点等あれば、この記事へのコメントやツイッターで連絡をいただければと思う。

 

参考文献

  • 安藤馨(2007), 『統治と功利』, 勁草書房
  • 伊勢田哲治(2012), 『倫理学的に考える』, 勁草書房
  • 児玉聡(2011), 『功利主義入門ーはじめての倫理学』, 筑摩書房
  • シンガー・P(1999), 『実践の倫理 新版』(山内友三郎監訳), 昭和堂
  • ヘア・R・M(1994), 『道徳的に考えること』(内井惣七, 山内友三郎監訳), 勁草書房
  • パーフィット・D(1998), 『理由と人格』(森村進訳), 勁草書房
  • ラザリ=ラデク・K, シンガー・P(2018), 『功利主義とは何か』(森村進, 森村たまき訳), 岩波書店
  • Elinor Mason(2016), "Objectivism, subjectivism, and prospectivism," in B. Eggleston and D. Miller (eds.)(2016), The Cambridge Companion to Utilitarianism (Cambridge Companions to Philosophy) ch.9 (pp.177-198). Cambridge Univercity Press.
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  • -(2016), "Global Utilitarianism," in Eggleston and Miller(2016), ch.8 (pp.166-176)
  • Railton, Peter(1984), "Alienation, Consequentialism, and the Demands of Morality," Philosophy and Public Affairs, Vol. 13, pp.134-171

*1:後でも言及するが、この「評価する」は誰かがその当該行為を評価するということを意味しない。例えば「1+1=2」というのはペアノの公理に照らされて正しいかどうかが評価される。そしてこの評価を誰かが行うか否かに関わらず「1+1=2」はペアノの公理に照らされて(評価されて)正しいわけだが、同様にして、当該の行為が正しいかどうかは誰かが評価するか否かに関わらず、行われた時点ですでに功利原理によって評価されて正しいか否かが決まっている。そして私たちはそれを(実践的には)確認することになる。

*2:前注で述べたように、間接功利主義は客観的に行為が正しいかどうかということの評価基準が功利原理である、としかいわないので、実際に行為が正しいかどうかを功利原理に照らして誰かが評価する(という行為をする)必要はない。

*3:Railton(1984 p.155)、ただし、文章は安藤(2007, p.60)。

*4:これはRailton(1984, p.155)の真理条件(truth-conditions)と受容条件(acceptance-condition)の区別に対応している。

*5:そうでなければ、それが仮に幸福を最大化するとしても、直接功利主義の下では(功利原理を行為の決定原理にしなければならないのだから)正しくない。

*6:代表的な批判者はB・ウィリアムズだったと思うのだが、どの文献でそれがなされているのか把握できていない(おそらく『生き方について哲学は何が言えるか』)。この批判は安藤(2007, p.62)を参考にした。

*7:その一つとして直観が考えられるが(これは哲学方法論において深刻な問題だが)、直観に反するというのみで否定できてしまうなら他の様々な理論も同様に否定されるのだから、これは説得力に欠けるだろうと私は考える(し、私はあまり反直観的だと思わない)。何にしても、密教道徳がダメだということを独立に示さなければならない。

*8:また面白い論考として次がある。
規則功利主義における密教的道徳の検討|ふんと/Six fleuves|note

*9:ベンサム功利主義が明確に提唱されてから200年以上が経過したが、いまだに改革の必要があることは言うまでもない。さらに、人類の技術的な発展によって様々な応用倫理学的な問題が浮上したとき、それらに対する我々の直観の頼りなさを考えれば、功利主義的に考察する必要があるだろう。

*10:この段落は2020-05-26に追記した。

*11:もちろん、帰結が重要であるから動機は無関係である、というのも論理的には同様に論点先取になるが、極端なカント主義者や動機や意図しか気にしない倫理学者でもない限りほとんどの人は帰結をある程度考慮するのだから、帰結以外に考慮すべき要因があると主張する側に説明責任がある。もちろん、間接功利主義者が帰結以外に考慮すべき直接的な要因はないという主張を積極的に行い、そして成功するなら、それはより説得的であり魅力的にもなる。

*12:その一つがカント義務論であるのだが、カント義務論をそのまま保持するのは全く魅力的でなく説得的でもない。ここでカント義務論について批判するのは本筋から外れるから、ここでは言及しない。

*13:この路線で進むならばグローバル功利主義(Global utilitarianism)に向かうことになるだろう。(cf.Driver 2016)

*14:Elinor(2016, p.181)からの引用の例を少し改変している。

*15:と言いたいところだが、主観的期待値主義や主観主義が関節功利主義と両立できないと言い切れるかは微妙である。主観的期待値主義下で、行為者が下した判断と実際にそれが正しいかどうかを分離させることは次のようにして可能かもしれない。行為者のもつ信念から主観的期待値が最大になる行為選択肢(Aとする)を導出する際、もし行為者が推論を誤れば別の行為選択肢(Bとする)が期待値が最大だと判断されるだろう。ここでAとBのどちらが正しい行為選択肢だろうか。完全に主観的にしてしまえばAが正しい行為選択肢になり、したがって間接功利主義と両立しようがない。しかしある程度の客観性を導入して、行為者のもつ信念から正しく推論して出てきた行為選択肢が正しいというような主観的期待値主義をとれば、これは間接功利主義と両立できるかもしれない。

*16:あるいは、いっそのこと行為の極小化主義では開き直ってもいいだろう。すでに述べたように、動機が非道徳的だが結果的には道徳的に最善であるというような行為は功利主義において最善だと評価されてしまうがこれはおかしいという批判に対して論点先取を指摘し、開き直ればそれでもいいと私は考える。帰結が道徳的に一切関係ないと考える者は(カント主義者や一部の徳倫理学者を除けば)ほとんどいないのだから、この点で功利主義(帰結主義)は、帰結は道徳的に関係するが唯一ではないと考える非帰結主義と比べて説明責任が軽く優位である。したがって功利主義者(帰結主義者)らは彼ら非帰結主義者らが何か別の論拠を提示するまで待っていればいいのではないだろうか。そして帰結を一切考慮しないカント主義者(や義務論、徳倫理学の一部)に対しては別個の批判を加えることができるし、非帰結主義者と協力してカント主義や徳倫理学を批判できるだろうから、この問題は功利主義(帰結主義)特有の問題ではなくなるのである。

*17:正・不正と非難の評価の区別は帰結主義一般に見られる傾向だが、通常、正・不正は事実主義に、非難は主観的期待値主義と結びつけられて議論されることが多い。詳しくはDriver(2011, ch.5)を参照。

*18:

(成功裏とは、「誰かが自分にとって可能な行為のうち、理論Tによって与えられた目的を最もよく達成する行為を行うことに成功するとき、彼は成功裏に理論Tに従う」という意味である。)

Tは次のときに直接に個人的に自己破壊的である。ー誰かが成功裏にTに従う場合よりも、彼が成功裏にTに従わなかった場合の方が、その結果として、Tによって与えられた彼自身の目的がよりよく達成されるようになるだろう、ということが確実であるときに。

(パーフィット(1998, p.76)

*19:

誰かがTによって与えられたその目標を果たそうと試みると、全体としてそれらの目標達成がうまくいかなくなるということが真であるとき、Tは間接的に個人的に自己破壊的である

(パーフィット(1998, p.5)

*20:ラザリ=ラデク, シンガー(2018), p.91、ただし下線部強調は引用者。

*21:このような考え方を規則功利主義と混同してはならない。規則功利主義は次回扱うが、規則功利主義は功利原理によって正当化された規則にいかなる場合でも従うべきという立場であるから、間接功利主義とは異なるし、独立である。間接功利主義では二次的規則に従うべきケースもあるし、功利計算すべきとするケースもある。間接功利主義の「二次的規則」と規則功利主義の「規則」は似て非なるものである。

*22:優秀な人々のみが功利計算を行って二次的規則を作り、他の多くの一般人はそうして作られた二次的規則にただ従って行為するような形の功利主義的構想。

*23:彼の基本的な主張は次のようにまとめることができるだろう。

  • 基本的には、私達は「嘘をつかない」「人に優しくする」などの直観的な道徳に従って行為するべきである。なぜなら、これらの直観は人間の長い歴史を経て洗練されてきたものであり、ほとんどの場合よい直観であるからである。
  • だが現代にそぐわない(功利主義的に正当化されない)直観もある。そのような直観は修正されなければならない。
  • そのような直観は大きく三つある。一つ目はは動物に対する直観、二つ目は世界中で絶対的貧困に苦しむ人々に関する直観、そして三つ目は中絶および安楽死に関する直観である。ただし最後の直観については、ここで説明すると大きな誤解を生みかねないので、前者二つに絞って説明する。
    • 動物に対して、私達はそれほど強い道徳的直観を持っていない。もちろん私達は、道端でくつろいでいる猫をいきなり蹴飛ばしたり殺したりすることは道徳的に悪いという直観を持っている。これは正しい。しかし、私達の普段の食生活のうち肉を食べることは功利主義的に正当化されない。その理由は、その動物たちは工場畜産という尋常ではないほどひどい環境下で飼育され、殺されるからである。このような多くの苦痛を生みだすことは正当化できない。したがって私達は肉を(購入して)食べるべきではない。
    • 今、世界中で絶対的貧困に苦しんでいる人々がいる。絶対的貧困とは日々(文字通り)生きるのがギリギリかそれを下回るような生活を意味する。私達はこれに対して悲しく思い、この状態が改善されることを望むだろう。この直観(感覚)は正しい。だが、私達はそれについて何か協力しているだろうか。ほとんどの人はしていないだろう。それは遠い国の出来事であって、私達には関係がないと思っているかもしれない。だがそれは正当化されない直観である。私達は募金を通じて、彼ら彼女らの生活の改善を支援できる。例えば約1万円募金すれば、マラリアを感染させる蚊から守るための蚊帳を50個購入することができ、それによって90人の人々を4年間マラリアから守ることができる。私達が1万円を使って得られる快楽(と取り除かれる苦痛)より、彼らがそれによって得られる快楽(と取り除かれる苦痛)の方が明らかに大きいのだから、私達は遠い国の出来事であるかどうか無関係に、生活をある程度切り詰めて募金すべきである。

*24:ヘア的には本当は3つで、最後のレベルがメタレベルであり、メタ倫理学的なことを考えるときのレベルである。参考:ヘア『道徳的に考えること』

*25:この二層理論をどのように実践で用いるかは実際には難しいところだが、功利主義への批判の回避としては非常に重宝する考え方の一つである。これについても入門記事の方ですでに述べてあるので、参考にしてほしい。功利主義(2/2) - ボール置き埸 

*26:これに関連して、ヘアの二層理論にはいくつかの批判がある。ここでそれらを説明することは避けるが、その批判を受け止め、ヘアの二層理論とは違った形の議論を提案しているのが伊勢田(2012, pp.89-117)である。彼は「未確定領域功利主義」という形の功利主義を提案する。いずれ彼の功利主義に関する言及を含んだものを記事にしたいが、この注で私が言いたいのは、間接功利主義者の実践形態は(倫理学者の間ですら)まだ明確に決まっているわけではないということである。

*27:ではこの判断や評価を行うとき、すでに私たちは功利原理に照らしているのだから、こうなると私たちは直接功利主義者ではないか、ということが考えられる。なるほど、たしかにそれらの二次的規則が正しいかどうかを判定する場合には功利原理に照らして判断・評価するが、トロッコ問題の回答を聞かれた場合には、すでに正当化されている二次的規則に従って答えるのだから、ここで功利原理は持ち出されておらず、したがって直接功利主義のそれではない。
 また、二層理論によれば二次的規則に従わない場合もあるが、二次的規則に従わない場合を功利原理に照らして判断していればそれは直接功利主義ではないか、ということも考えられる。しかし二層理論は(それが適切かは置いといて)直観的規則の正当化時および直観的規則の衝突時に批判レベルに移れといっているのだから、功利原理に照らして批判レベルに移るかどうかを判断しているわけではない。したがってここでも、直接功利主義ではないことがわかる。形式的に示すなら次のようになるだろう。

  1. 行為者Pはa, b, cという行為のどれを選択すべきかを考えている。
  2. 行為者Pは、a, b, cのいずれの行為を決定するかという意思決定原理として、直観レベルと批判レベルのどちらを用いるべきかを決定しなければならない。
  3. ゆえにPは、直観レベルと批判レベルのどちらで考えるべきかという意思決定原理を必要とする。
  4. この意思決定原理は二層理論において「直観的規則が衝突するとき、または、直観的規則を作るときは批判レベルで、それ以外は直観レベルで思考すべきである」というものである。この意思決定原理は功利原理によって評価・正当化されている。
  5. 意思決定原理の功利原理による評価は一度でもなされていればそれで十分だから、各行為選択時に功利原理を用いて意思決定原理を正当化する必要はない。
  6. 各行為選択時に功利原理を用いないのだから、これは直接功利主義ではない。

批判が考えられるとしたら5だろうが、5を批判するためには、二層理論に従っていたとしても功利原理的に正当化されない場合がある、ということを示さなければならない(ここの正当化は意思決定原理の正当化なので、行為の正当化とはその正当化の基準が違うということに注意が必要である)。
 ただしヘアの場合、直観的規則が衝突していなくとも明らかに功利性が悪いと判断される場合には批判レベルに移れとも言っている(つまり意思決定原理が異なる)ので、二層理論を彼の想定している通りのものとして考えるなら、直接功利主義にそれなりに接近するかもしれない。

*28:ここまでの議論は反直観論法に対する一つの回答方法を示しているかもしれない。このような回答方法は二層功利主義による回答に吸収される可能性が高いが、間接功利主義だけでもある程度の批判を回避できることを示しているように思う。

*29:二次的規則に従うほうがいい、というような考え方はJ・S・ミルにすでに見られるので、現代に限った話ではないかもしれない。