ボール置き埸

私が興味を持ったことに関して述べるブログです。基本的に自分の考えをまとめ、記録することが目的です。長文の記事ばかりになると思います。もし批判等あればコメントをお願いします。※ルッキズム関連の記事について、今は少し考え方が変わっているので、昔の私の考え方だったというように思ってください。

What Is This Thing Called Knowledge? 4th ed. の第13章 moral knowledgeの読書メモ

この記事は

*What Is This Thing Called Knowledge? 4th ed.*

の第13章 moral knowledge(道徳的知識)の読書メモです。

この本の第一部(第1章~第6章)の読書メモは以下で公開しています。

mtboru.hatenablog.com

 

おそらくいろいろと参考になる部分があると思うので、この章の読書メモを公開します。

The problem of moral knowledge

道徳的知識とは、道徳的真理に関する命題の知識である。しかし私たちが、例えば「子どもを楽しみのために蹴るのは不正(wrong)である」というのを知っているのはなぜか。以下で見るように、この問題は道徳的事実の知識どころか道徳的事実の概念さえ意味するを成すことが難しく、またどのように道徳的知識を獲得するのかを説明するのは非常に困難である。

Scepticism about moral facts

道徳的事実があるとすれば、それは他の種類の事実と比べて客観性を欠いているように見える。例えば「水は約100℃で沸騰する」という経験的事実は、ある意味では主観的(温度の測定システムをどう利用するかは私たち次第)だが、例えば異星人が別の測定システムを用いたとしても同じ結果を得るだろうという意味で客観的である。

 科学的な言明(statement)と好みの言明には事実に関して違いがある。前者は客観的な事実についての言明だが、後者は個人的な見解を述べているにすぎない。

 では道徳的言明はどちらの言明のタイプに属するか。ここで「子どもを楽しみのために蹴るのは不正である」という例で考える。この真理は、(例えば)子どもが痛みを感じているということを私たちが気にする(care)という意味で、主観的である。しかし「水が約100℃で沸騰する」という事実は、私たちのような生物が存在するか否かに関わらず真である、という意味で主観的ではない。

 しかしこれは映画の好みと同じ意味で主観的であるわけではない。痛みとその道徳的関連性からして「子どもを楽しみのために蹴るのは不正である」というのは[客観的に]真である。道徳的言明は私たちがどのような生物であるかに依存するという意味で主観的だが、私たちがこのような生き物であることを考えると(私たちと同じような生き物は同じ道徳的規範を持つべきだ、という意味で)客観的である。

 こう考えると、道徳的言明にはある種の客観性があり、純粋に主観的ではない。道徳的言明は映画の好みのように個人的意見の表明(express)ではなく、共通の人間の真理を表現している。

 しかしこれだけでは不十分であり、他の幅広い道徳的言明の真理(例えば人権:言論の自由の権利など)について、上記のように痛みに訴えるだけでは説明できない。

 またより一般的に、例えば人種や文化の違いによって道徳的言明は異なる。この意味で、道徳的言明の「客観性」は局所的に共有された主観性に過ぎないかもしれない。

 こうしたことに関して、道徳的言明は表出(express)であるという表出主義という立場がある。このように道徳的言明を説明する利点は(表出主義者によれば)、道徳的事実が存在しないにもかかわらず、私たちが道徳的事実の存在にコミットしていると仮定することができるかを説明できるという点である。道徳的事実が存在すると信じる人は、なぜこのように道徳的言明を考えるべきではないのかを説明しなければならない。

 

Scepticism about moral knowledge

道徳的事実の存在を仮定して進める。道徳は上記で見たように多様で不一致があるが、科学でも同様に不一致がある。したがって道徳だけが懐疑にさらされるべき理由はないように見える。

 しかし科学と道徳とでは2つの点で異なる。第一に道徳(観)は文化と非常に関連しているが、科学はそうではない。例えば水の沸点の例では、測定システムが文化によって異なるかもしれないが、同じ結果にたどり着く。

 第二に、科学では論争を解決する方法が明確であるケースが多いが、道徳の場合はそうではない。関連するすべての経験的事実に同意があっても反対の道徳的意見を持つことがあり、どのようにして論争を決着させるかが不明瞭である。

 第一の点の自然な対処法は、一方の文化が他方の文化より優れた道徳的規範を持っている、つまり他方の文化の道徳的規範は一方のそれと比べて多くの点で誤っていると主張することである。この対処法の心配事は、あらゆる文化が自分の道徳的規範の方が優れている(正しい)と仮定する傾向にあることである。

 この点は第二の問題と結びつく。道徳的意見の相違を解決する方法があるなら、上のような問題を気にすることはないだろう。科学と異なり、客観的なテストがないことによって、私たちを道徳的事実へと導く確実な方法がないままである。

 

The nature of moral knowledge I: classical foundationalism

ここまで道徳的知識の存在についての問題を見てきたが、以下では存在すると仮定して、道徳的知識に関するどのような認識論的説明ができるかを考える。

 道徳的知識の最も自然なモデルは、具体的な状況に関する知識と基礎的かつ普遍的な道徳的真理(ないし道徳的原理)の知識を用いた複雑な推論として扱われる。このとき、普遍的な道徳的真理と具体的な状況に関する知識によってなすべきことを推論することになる。普遍的な道徳的真理は互いに相反する場合がありえるので、それらの重みづけについても検討する必要もある。

 実際のケースに当てはめる。女性が川に身を投げて自殺未遂した場面に遭遇したとする。あなたはどうすべきか。ここで考慮すべき道徳的真理とは何か。

 あなたは「他のことが全て等しければ、苦痛をできる限り軽減すべき」という道徳的原理(原理1)があることに同意するかもしれない。同様に、「他のことが全て等しければ、人の命の尊厳を尊重すべき」(原理2)かもしれない。あるいは「他のことが全て等しければ、他人の考えた見解を尊重すべき」(原理3)、「他のことが全て等しければ、自分の幸福の世話をするべき」(原理4)があるかもしれない。これら四つの原理は(少なくとも表面上は)矛盾している。原理1,2は飛び込むべきことを、3,4は飛び込まなくていいこと(または飛び込むべきでないこと)を示唆している。

 これらの原理は「他のことが全て等しければ」を含んでいるので実際には矛盾しないが、道徳的原理間に緊張がある。では原理間の調整をどうするのか。まず、関連する諸事実をよく理解する必要がある。関連する諸事実は道徳的原理の重みづけに影響する。例えば、もし彼女が飛び込み直後に死んでいたなら、原理1,2,3は実質的に機能しない。状況に関する様々な諸事実に照らして道徳的原理間で重みづけすることに対する複雑な評価を考えると、正しい道徳的判断を下すのは非常に難しい。

 以上のことから、ある種の基礎づけ主義が適切かもしれない。以上の説明の中で道徳的原理は基礎的な役割を占めているように見え、またこの道徳的原理に関する知識は他の信念に基づく必要がないという点で認識論的に基礎的であるように思われる。特にこれらはアプリオリに知ることができると思われ、またアプリオリな知識は認識論的に基礎的であるとみなされている。

 対照的に、個別的な道徳的真理(個別の状況において正しい行為とは何か)は本質的に非基礎的であるように思われる(なぜなら道徳的原理と状況に関する経験的知識から推論されて得られるから)。それゆえ、道徳的知識の認識論は基礎づけ主義的なものである。

  

The nature of moral knowledge II: alternative conceptions

  しかし道徳的知識の古典的基礎づけ主義的な考え方以外に、整合主義(coherentism)的なものもある。彼らは基礎的な道徳的知識はなく、道徳的原理の知識がアプリオリな知識であることに反論している。

 ではアプリオリな知識がなければどうやって知識を獲得するのか。整合主義は、人はまず信念体系を持っており(この中に道徳的原理についての信念もある)、遭遇した様々な関連要因に照らして、この信念体系を調整しつつ、特定の事例ごとに道徳的知識を獲得する、と答える。

 道徳的原理は、様々な状況に遭遇し道徳的判断を形成していく中で、その共通部分として定式化されるかもしれないが、この道徳的原理の知識は暫定的なものである。

 整合主義と古典的基礎づけ主義以外にも、非古典的基礎づけ主義の道がある。この考えでは、道徳的知識は上記二つの立場が仮定しているような推論的知識(inferential knowledge)ではなく、むしろ知覚的知識(perceptual knowledge)であるとする。

 この考えは道徳的知識の獲得をうまく説明している。私たちは道徳的知識の獲得に推論が必要または要求されているという説明は全く正しくなく、むしろ、ある行為が道徳的に正しいか否かを単に「見る(see)」ことができるように思われる。

 例えば、楽しみのために小さな子供を蹴っているという明らかに卑劣なことをしている人を見たとき、推論が必要だと考えるのは奇妙であると思われる。実際、もし道徳的判断について問われたら「だって道徳的に間違っているだろ!?」と再主張するだけのように思われる。

 推論はむしろ道徳的退廃の兆候である場合がある。私たちはちゃんとした(decent)人に対して、道徳的に良い行為と悪い行為に反応し、前者を瞬時に支持(suppot)し後者を瞬時に拒絶(repulsed)し、それらに応じて行為することを期待しているのである。

 一般に、冷静で感情的でない方法で道徳的判断を下した人(または合理的根拠を検討した後に感情的な反応を起こしただけの人)の道徳的性格は問題だと私たちは考える。もし、目の前で子どもが傷つけられているのを見ても道徳的または感情的な反応を持たず、道徳的原理に反しているという事実を反映して行為に移す人に対して、私たちは少なくとも戸惑いを覚える。

 これが正しければ、道徳的に正しいか否かを直接的に見ることができるという考えを受け入れるべきだと思われる。これは知覚的知識に似ている。しかし、道徳的知識の認識論(つまり直接見る)とは何か。

 ここで自然な考えは徳認識論に沿った種類のものだろう。徳認識論は、知識は行為者の持つ信頼できる認識論的徳(と認知能力)によって獲得される真なる信念である、というものである。これにそって道徳的知識を説明すれば、行為者は独立した合理的根拠を何も持っていなくとも、信頼できる認識論的徳(と認知能力)によって道徳的知識を直接獲得することができる、となる。(徳認識論は前の記事の第六章を参照)

 その結果、これは道徳的知識に関する一種の認識論的外在主義になる。これは、ある信念がそれ以上の別の信念によって支持されていなくともいいという意味で基礎づけ主義的だが、自己正当化するような基礎的信念ではないので、古典的基礎づけ主義とは全く異なる。

 この立場の利点はそのまま問題点でもある。通常の知覚的知識はそれに関する認知能力が生得的にあるといえるが、道徳的な能力に関しては生得的とは考えにくい。もし生得的なら文化によって道徳規範が異なることが不可解である。しかし「この能力は成長していく中で身に着け磨いていくようなものだ」と考えるなら、合理的な支持を欠いている可能性があるとは考えにくい。

 道徳的知識の不可能性を克服できても、いかにして道徳的知識とはどのようなものかを説明する課題がまだ残っている。「特に、一方では道徳的知識を過剰に知的化する(intellectualising)危険を回避することと、他方では私たちがそれを善意のもの(bona fide)とみなすことをいとわないような道徳的知識についての十分に洗練されたストーリーを提案することとの間に、絶妙な線引をする必要がある。」(p.150)

 

感想

 道徳的事実に関する論争はメタ倫理学の入門書でよく見るが、道徳的知識の話は認識論の特有の問題で、とても興味深い。ここでは古典的基礎づけ主義、整合主義、非古典的基礎づけ主義(徳認識論)の三つが紹介されているが、個人的には後者の2つに魅力を感じる。

 古典的な基礎づけ主義はアプリオリに道徳的原理を知ることができるという主張としてまとめることができるが、これは方法論的自然主義をとりたい私としては望ましくない。もしかしたらごく限られた範囲(例えば普遍化可能性など)を認めてもいいかもしれないが、しかしそれにしたって、経験的に訂正される可能性はある。

 整合主義はもっともらしいが、しかし道徳的事実の把握にいちいち信念体系を調整するというのが説明としてもっともらしくない。この点では知覚的知識としての道徳的知識に軍配が上がるように見える。しかしこれは、知識の整合主義にも同様の問題があるはずで、その意味で、その問題と生死を共にしているかもしれない。この辺りは別の文献を読んで詰めていきたい。

 そして非古典的基礎づけ主義としての道徳的徳認識論だが、問題は徳認識論を援用したとして、いかにして道徳的事実を「見る」のかが不明瞭であるという点だと考える。認識論的徳はまだいいとしても、(マッキーが批判するように?)道徳的事実を認知する能力があるのかどうかさっぱりわからない。それは神経生理学的な過程によって説明されるものとは異なる能力なのか、それともそれに還元できるものなのかがいまいちわからない(とはいえ、通常の知覚でさえ十分な説明を我々は持っていないわけだが、しかしそれよりも説明が困難に思える)。しかし推論によって獲得するというのもおかしな気はする。知覚的知識としての説明はたしかに非常に魅力的であるが、これを自然化しない限りどうにも奇妙さが残る。

 ここでは三つの立場が示されたが、他にも立場があるならぜひ知りたい。

というわけで、次は

plato.stanford.edu

Moral Epistemology (New Problems of Philosophy)

Moral Epistemology (New Problems of Philosophy)

  • 作者:Zimmerman, Aaron
  • 発売日: 2010/05/19
  • メディア: ペーパーバック
 

 これらに挑戦しようと思う。機会があれば読書メモも公開する予定である。