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読書メモと勉強したことのまとめ。

道徳理論の本質とその評価:Krister Bykvist *Utilitarianism: A Guide for the Perplexed* 第二章の読書メモ

本記事は

Krister Bykvist. *Utilitarianism: A Guide for the Perplexed*

の第二章「道徳理論の本質とその評価」の読書メモである。

 この本は"A Guide for the Perplexed"『迷える人のためのガイド』シリーズの一冊で、他にはスコフィールドの『ベンサム』がある。こちらは邦訳がある。 

ベンサム―功利主義入門

ベンサム―功利主義入門

 
Bentham: A Guide for the Perplexed (Continuum Guides for the Perplexed)

Bentham: A Guide for the Perplexed (Continuum Guides for the Perplexed)

 

  スコフィールドの方は入門的な内容だが、ビクビストの本書はかなり突っ込んだ内容になっており、「初心者向けではない」みたいなことを本文で述べている。

 私はこれを読んでかなり勉強になっているので、功利主義について少し知っている人で、さらに詳しく知りたい(あるいは功利主義を論破したい)という場合にはこの本をおすすめしたい。

 この第二章は規範倫理学における道徳理論はどのような理論なのかを説明をしている。特に「Moral theory and the criterion of rightness 道徳理論と正しさの基準」は日本語文献ではほぼ見られないような説明をしているので、規範倫理学に興味のある方に読んで欲しい。

 

 

 

Chapter two: The Nature and Assessment of Moral Theories 道徳理論の本質と評価

Normative ethics 規範倫理学

  • 道徳的な問題(行為の正しさ、義務性に関する問題)がある
    • 道徳理論は「何が正しいか」「何が不正か」を答える理論ではない
    • 道徳理論にとって最も中心的な問いは「なぜある行為は正しいのか」「なぜある行為は不正なのか」である*1
      • 例:なぜ目の前でおぼれている子どもを助ける義務があり、一方で、遠くの貧しい子どもを救うために募金しないことを正当化できるのか
      • これらの問題への回答が得られれば上の問題にも答えられるが、これに解答するには多くの経験的データが必要なので、それだけでは不十分
  • 規範倫理学は、メタ倫理学(道徳的性質や道徳的用語の意味などに関する問題を扱う)や応用倫理学(特定の行為が正しいかどうかを扱う)とは異なり、一般的な行為全般を正しくしたり不正にしたりするものを扱う

Moral theory and the criterion of rightness 道徳理論と正しさの基準

  • ある行為がなぜ正しいのかを説明する特徴を「right-making features」とよび、悪い方を「wrong-making features」と呼ぶ
    • 規範倫理学はこれらの特徴を探索する分野
  • ある行為が right-making features を持っているからと言って、その行為が正しいrightわけではない。
    • 行為は right-making features も wrong-making features も持つことができる
    • 例:友人とレストランで昼食の約束をしていたが、途中で交通事故に遭遇し、被害者を助けるために約束を破った
      • ここで、約束を破るのは wrong-making features だが、人助けは right-making features である。
      • ある行為が正しいかどうかの判断は、すべてのことを考慮してそれぞれの特徴を比較しなければならない
  • ここで扱っている正しさは、全てのことを考慮した正しさではなく、一見自明の正しさ prima facie rightness という用語で表されるような正しさ
  • 多くの道徳理論は単にそれらの特徴をリストアップするだけでなく、それらの特徴の比較・計算方法も提供する
    • 後者がおまけかどうかは議論の余地がある
      • おまけだと考えない人:何が正しいかを決定する明確な方法を提供しなければ、その理論は行為指導的action-guidingではないと考える
      • おまけだと考える人:そもそもそうした明確な方法を探すのは間違いと考える
        • 倫理は不正確であり、正確な原則では成文化できない直観や道徳的感受性moral sensibilitiesに頼る必要がある
  • 理論友好的theory-friendlyな陣営は、正しさの基準criterionを次のように表現できるとよく言う
    • 「ある行為Aが正しいのは、AがFであるとき、そのときのみである」
      • F-ness(Fさ)は、すべての正しい行為に共通する唯一のものであり、正しい行為を正しくするものだと捉えられている
      • 例:功利主義者「ある行為が正しいのは、その行為が福利総量を最大化するとき、そのときのみである」
  • 注意点
    • 正しさの基準は、用語の定義ではない。
      • 「Aは正しい」と「AはFである」は同じ意味ではない
    • 正しさの基準は、性質的同一性を意味するものでもない
      • 「Aは正しい」と「Aは福利を最大化する」は同じ性質ではない。もし性質的に同一なら、正しい行為がなぜ正しいかを、まさにその正しさ[という性質]によって説明しているようなもの*2
    • 正しさの基準は、リトマス試験ではない
      • 「ある行為が正しいのは、その行為が福利を最大化するときのみ、そのときのみである」は「リトマス紙が赤くなるのは、物質が酸性のとき、そのときのみである」と同じではない
      • 後者は酸性の識別に役立つが、何が酸性を酸性たらしめているのかを教えてくれない。しかし我々はその種の説明を正しさの基準に求めている
    • 正しさの基準は、意思決定の方法やその手順とは異なる
      • 正しさの基準は、正しい行為がなぜ正しいのかを説明するのに対し、意思決定方法は、どのように行為を決めるかを教えるもの
  • 功利主義やカント主義は理論的アプローチを選択し正しさの基準を明確にしようとしており、徳倫理はソフトなアプローチで正しさの基準を明確にしようとはしてないが、どの立場も、right- and wrong-making featuesを見出すことを目的としている

 

How to test moral theories 道徳理論をどうテストするか

  • 理論の比較において、その評価項目を以下の二種類に区別できる
    • 理論的なもの:right- and wrong-making featuresについてのもっともらしい説明を提供するかどうか
    • 実践的なもの:理論がどのように行為に移されるか
  • 理論的なもの
    • 明確さ Clarity
      • 理論は明確で曖昧ではない概念で述べられているか?
      • 例:「人を単なる手段として扱うことは決して正しくない」
        • 「単なる手段として扱うこと」とは何か?
      • 例:「人の命は神聖なもの」
        • 「人の命」と「神聖なもの」とは何か?
    • 単純さ Simplicity
      • 理論は単純なものか?
        • 膨大な数の複雑な原理で構成されているか、いくつかの単純な原理で構成されているか
      • 他のすべてが同じなら、単純な方がより好ましい
    • 説明力と射程 Explanatory power and scope
      • 理論は正しい処方箋を伴うだけでなく、その処方箋がなぜ正しいかを説明しているか?
      • 理論は、私たちが自身を持って答えられない、または私たちの間で同意できていない道徳的問題への対処に役立つか?
    • 内的整合性 Internal coherence
      • 理論はその内部で整合的か?論理的に支離滅裂になっていないか?
        • ある行為は全体として正しい、かつ、全体として不正である、となってはいないか?
    • 道徳的整合性 Moral coherence
      • 理論は、慎重に反省した結果、私たちが自信を持っている道徳的信念と整合性があるか?
      • ただし、自信を持っているなら何でもいいわけではない
        • 即自的な判断は、感情の乱れや利己心、社会的圧力によって歪められているかもしれない
        • 「冷静な時間 cool hour」のなかで真剣な反省に耐えられるかどうかを確認する必要がある
        • また、その道徳的信念の形成過程が判明したとき、それによって自信がなくなるなら、それも排除されなければならない
          • 例:「ある肌の色の人は危険だから避けた方が良い」ということが何の裏付けもなく言われている文化で育ったとしたら、その肌の色を避けるべきだという私の判断は、それがどのように形成された信念なのかを知ったら自信を失うかもしれない
      • 道徳的整合性についての二つの問題
        • 理論が要求しすぎるtoo demanding問題
          • その理論は直観的にあまりに厳しい要求をするか?
            • 例:道徳的聖者になることを要求してくるか?
        • 理論が寛容すぎるtoo permissive問題
          • 慎重な反省の後に、私たちが見つけた明らかに許容できないimpermissible行為をその理論は許容するpermissibleか?
            • 例:5人の患者を救うために健康な患者を殺すことは正しいか?
  • 実践的なもの:「何をすべきか」についての意思決定の際に、理論は行為を指導guideできるか?
    • 理論は、私たちが従うことができる処方箋を与えているか?
      • 例:時にAをやれといったり時にAをやるなといったりする理論では、全ての状況において行為を指導すること、はできない
    • 理論は、[意思決定に]必要とする情報収集が難しすぎる要求をしてないか?
      • 遠い過去の情報、自分の潜在意識の動機、遠い未来の自分の行為の帰結……
    • 理論は、普通の道徳的行為者に対して、計算や推論を要求しすぎるか?
      • 例:各人の幸福度に、非常に複雑な数学的演算を必要とするような数値を当てはめることで全体の幸福度を計算する[のは要求しすぎではないか]
    • 理論は、非現実的な動機づけ能力が必要か?
      • エスのようになる必要があるか?
  • ここまでのリストは網羅的ではない
    • 例えば、不偏的impartialであることをリストに追加したい人もいる
    • しかし、筆者(ビクビスト)は最も議論の余地のないリストと考えている
      • 理論的なものの評価項目に欠けているような理論は実践に適用するのは困難
  • 最も論争的なのは、道徳的整合性
    • 自分の好きな信念と一致していることや現状維持が理論を正当化する、というわけではない
      • しかし、理論の唯一の賢明な出発点は、あなた自身の考えた信念
      • F・ジャクソン「直観的ではないところから始めるのは、それが善い出発点になるとはありえそうにない」
      • とはいえ、最終的には、反省した後の信念のいくつかは拒否されることに気づくかもしれない
  • 功利主義に非功利主義にしろ、それがよく適している狭い範囲のケースだけを考えれば、自分自身を納得させるのは簡単だが、悪い面を考慮しないのは不誠実
    • 良い面も悪い面も考えることで、自分の道徳観のもっともらしさや整合性を考えることを強制し、それによって道徳的な自己理解を得られる

*1:太字はブログ筆者

*2:これはある種のメタ倫理学説に対して論点先取になっているように思う。(自然主義的)還元主義はまさに同一だと言っているのではないだろうか。これは私の理解が不十分なことが起因しているように思うので、もしご存知の方がいれば教えていただきたい。