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読書メモと勉強したことのまとめ。

動物権利活動家の直接行動の擁護(Hardman 2021)

  • 書誌情報
  • Introduction
  • Section One
  • Section Two
  • Section Three
  • Section Four
  • Section Five
  • Conclusion

 

書誌情報

Hardman, I. (pseudonym) In Defense of Direct Action. Journal of Controversial Ideas 2021, 1(1), 2; doi:10.35995/jci01010002.

https://journalofcontroversialideas.org/article/1/1/137/htm

本記事はこの論文の要約(本記事は1万字を超えている)。

本論文の目的は、「過激な」動物権利活動家の(一部の)直接行動(侵入、救出、破壊等)の擁護(1−4節)、および、さしあたり許容可能だとしてもすべきでない理由の簡単な検討(5節)である。

 

Introduction

  • 人間が他人に深刻な危害を不当に与えることを防ぐために、非国家主体であっても強制力を行使することができる点については広く同意されてる
    • しかし、その他者が非ヒト動物の場合はどうか
    • 過激な動物権利活動家の一部は強制力の行使を支持しているが、種の平等主義を唱えるものでさえこれを直接支持する者は少ない
    • 筆者は、動物に深刻かつ不当な危害を加える者に対して強制力を行使することは、さしあたり[prima facie](または一応[pro tanto])道徳的に許されると主張する
  • 以下は筆者の議論
    1. 子犬が深刻かつ不当に害されることを防ぐために強制力を行使することは、さしあたり道徳的に許容可能である
    2. 子犬と他の哺乳類の間に道徳的に顕著な差はない
    3. したがって、哺乳類が深刻かつ不当に害されることを防ぐために強制力を行使することは、さしあたり道徳的に許容可能である
    4. 牛、豚、羊、ネズミなどの哺乳類が食用、衣服用、実験用の研究対象などにされる場合、ほとんどの場合、深刻かつ不当に害されることになる。
    5. そのため、牛、豚、羊、ネズミなどの哺乳類が食用、衣服用、実験用の研究対象にされるのを防ぐために強制力を行使することは、ほとんどの場合、さしあたり道徳的に許容可能である
  • 以下では前提2と4は当然のこととし、前提1を議論する
続きを読む

子犬への危害の不正さからの類推と、限界事例からの議論(Norcross 2004)

書誌情報

Norcross, A. (2004). Puppies, pigs, and people: Eating meat and marginal cases. Philosophical perspectives, 18, 229-245.
philpapers.org

pdf: https://spot.colorado.edu/~heathwoo/readings/norcross.pdf

1. Fred's Basement

  • 動物虐待をしていたフレッドの事例[思考実験]
  • フレッドはチョコが大好きだが、交通事故のせいでチョコの味が変わってしまった。
  • 子犬を虐待するとココアモンが分泌され、それによって味を感じられるようになった
    • 六ヶ月の子犬の苦しみから、一週間分のココアモンがとれる
    • 子犬が苦しむこと自体からは一切の快楽を得てない
    • チョコがなくても死ぬわけではないが、人生はひどく貧しいものになる
  • ほとんどの人はフレッドの行為の正当化に同意しないだろう。
    • 味のために殺すのはダメである、と考えるはず
    • だが、畜産はそのようなことである

2. Fred's Behavior Compared with Our Behavior

  • [畜産とフレッドのケースの違いはなにか]
    • 第一に、フレッドは自分で虐待してるが、多くのアメリカ人は他人に虐待させてる
    • これは関係あるのか?フレッドが他人に頼んでいたらよかったのか?そんなことはない
  • 別の違い:工場畜産ルートだと消費者はそのプロセスをしらないこと
    • だが知らないという言い訳はこの論文を読んでるような人にはできない
  • 別の違い:フレッドの行動は忌まわしいが、私達の行動とは決定的に違う
    • フレッドはチョコを食べなければ犬を拷問することはない。だが私達が食べるのをやめても工場畜産はなくならない、苦しみを防げない
  • これに対する二つの反論
    • 類似ケース:あなたが異国の地に訪れたときにココアモン入りのムースを頼むか(頼もうが頼まかなろうが結果が変わらないとする)
      • 道徳的にまともな(decent)人ならば、これを注文できないことは明白だと思われる
    • 第二の反論は、因果的無効力を否定すること
      • [平均と期待値の話]*1
      • 閾値に到達する時間の短縮にもつながる
  • 別の違い:フレッドのケースでの子犬の苦しみは味覚的快楽を得るのに必要だが、工場畜産の動物の苦しみは経済的理由による副産物
    • 二重結果原理の応用
      • フレッドは子犬の苦しみを意図してるが、あなたはそうではない
  • 二重結果原理はそもそも間違っていそうだが、正しいとしても、このケースではうまくいかない
    • 二重結果原理は、悪い影響が意図されずに予見されるだけでなく、それに勝る良い影響があることを要求してるが、工場畜産の苦しみは非常に大きく、悪い
  • 最後の違い:子犬は道徳的に重要(count)だが、他の食肉にされる動物とは道徳的に重要ではない
    • しかし、子犬にはあり他の動物にはないような道徳的な性質はなさそう
    • 私達がより大切にしている(care more about)、というのは重要な違いかもしれない[が、おそらく間違っている]。
      • 例:韓国での犬食。フレッドが韓国で育っていたら問題なかったのか?このような相対主義は受け入れがたい
      • 仮にcareが重要だとしても、そのcareを違うようにするのはなぜ正当化されるのかの説明が必要。
      • そしてそれは結局、上のように道徳的性質の違いを見つけなければならないことになる

3. The Texan's Challenge*2

  • モーダスポネンスを逆手に取って、子犬の虐待を不正でないという人がいるかも
  • 子犬を虐待したくないというのを、道徳的ではなく、sentimental preferenceとして説明する方向性
    • またそれによってカント的な間接義務論を使うとか、そういう道がある

4. Humans’ versus Animals’ Ethical Status—The Rationality Gambit

  • 議論のために、人間が動物より倫理的に優れた地位にあると主張することは、どのように行動するかを決定する上で動物よりも人間の利害により大きな重みを与えることが道徳的に正しいと主張することである、とする
  • この主張の根拠はなにか?そのような性質を見つけなければならない
    • 合理性がそれかもしれない。

5. The Challenge of Marginal Cases

  • 以上の議論への反論として重大なのは、限界事例からの議論*3
  • この議論への応答には二つの系統がある
    1. 認知的に洗練されてる動物に対して、限界的な事例の人とは異なる道徳的地位を与えることが正当化される
    2. 限界的な人間は道徳的に劣っているが、同等の地位があるかのように扱うためのプラグマティックな理由がある
  • 1の方:この応答は、その特徴が[そのグループで]標準的(normal)かどうかを問題にしてる
    • だがこれは馬鹿げてる。
      • 何らかのグループの統計的な平均をとって、その平均的性質をそのグループのメンバーの誰かに当てはめるのはもっともらしくない。
  • 「種」というカテゴリーは「自然」なので、この反論は当てはまらないかもしれない
    • だが男女の心的能力に統計的に関連した差があることが判明したらどうか。平均的な違いによって、雇用を決めるなどがあってもよいのか。[ダメだろう]
  • 2の方:理性的でない人間を保護するプラグマティックな理由がある。間接義務論的なそれ
    • だがこの考えは、限界事例の人々も同等の道徳的配慮に値すると考える人を満足させることはできないだろう
    • 実践的正当化としても非常に不安定。歴史を考えてみよ。
  • 進化上の理由、種の生存の価値から擁護できるかもしれないが、そこに道徳的関連性を見出すことは難しい

6. Agent and Patient—the Speciesist's Central Confusion

  • そもそもなぜ合理性が重要なのかわからない。
    • 重要なことは、ベンサムの言うように、苦しむことができるかではないか
  • Warren:合理性が道徳的に重要な理由は、協力や非暴力的な問題解決の可能性を高めるから
    • ある種・レベルの合理性が道徳的にレレヴァントであるという点でこの主張は正しいが、その道徳的関連性(relevance)が何に相当するのかの特定において間違っている
      • ある主体が道徳的推論や主張などができなければ、道徳的行為者ではありえない
      • しかし、道徳的行為者になりえないことは、道徳的受動者としての地位においてレレヴァントではないと思われる
        • なぜ道徳的行為者性を持たないことが道徳的受動者としての地位を下げるのかわからない
  • 人間が道徳的責任の重荷を負って、見返りとして自分らへの配慮が強化されないのは不公平だという主張がある
    • しかし、人間が道徳的義務を負うのは、それが可能な生物だからである
  • 別の議論:合理性が重要なのは協力を促進する限りにおいて正しい
    • 道徳の本質を互恵性と捉えれば、合理性の意義は明らか
    • この考え方では、動物に配慮する意味はない
      • だがこの見解は、道徳性とは真逆の、自己利益への関心である
  • 道徳性の本質が互恵性だということに対する筆者の反論は不公平かも
    • 互恵性が重要なのは、私の利害に役立つからではなく、すべての者(all)の利害に役立つから
    • これは「すべての者(all)」の範囲による。ここにすべての有感な生き物が含まれるなら、互恵的になれない動物の重要性は、利益の平等な配慮の方法について教えてくれる
    • 合理性が互恵性に重要であり、互恵性は道徳の究極の目的であると主張するなら、動物の利益を平等に配慮することに対して疑問を投げかけている

*1:mtboru.hatenablog.com

*2:ここのセクションの議論の役割はよくわからなかった。

*3:最近はこの呼び方は避けられており、例えばHortaは「種間の重なりからの議論」と呼んでいる。philpapers.org 以下の本も参照。

反擬人化主義に反対する(Andrews 2020, sec.1.2)

1.2 Anti-anthropomorphism

  • 比較心理学、比較認知学の主要な教科書で擬人化の禁止が書かれている
  • 擬人化禁止の二つの解釈
    • 1:素朴心理学を避けること
    • 2:心理学的性質の不当な帰属を避けること
  • 以下では、これは有害な原則であり、科学的調査の一般的な原則にとって代わるべきだと議論する
1.2.1 Anti-anthropomorphism as Avoid Folk Psychology
  • [まず最初の解釈、素朴心理学を避けることとしての反擬人化主義の検討]
  • 擬人化と素朴心理学が混同されてる
  • 素朴心理学とは?
    • チャーチランド:信念や欲求を含む概念からなる「心理現象の常識的概念」
    • 機能主義:解釈の枠組みの中で因果的な力を持つ構成概念
    • 志向システム:素朴心理学の概念と一般化が現実の行動パターンを摘出するが物理的な因果的要素は摘出しない
  • 筆者としては、機能主義的または志向システムとしての素朴心理学に訴えることが必要だと考えている
    • 動物認知の用語は素朴心理学からきてる
      • 例:"Affiliative relationship" は "friendship" から、 "episodic-like memory" は "memory" から、 "aversive" は "fear" と "dislike" から
  • 行動をまとめて研究する上で、機能的に類似した異なるパターンの動きを同じ行動タイプとして分類したい
    • 機能的類似性は、比較認知研究において種を超えて行動を研究するために重要だと提示されてる[ので、人間にだけ素朴心理学用語を適用しようとするのは不適切で、比較が難しくなる]
  • 素朴心理学を放棄すると、比較心理学者を消去的唯物論者に変えてしまい、人間心理に関しても消去主義を採用しない限り人間と他の動物を比較することが不可能になる[よって、素朴心理学を避けるものとしての反擬人化主義に反対すべき]
1.2.2 Anti-anthropomorphism as Avoid Unjustified Attributions
  • [次に二つ目の解釈の、心理学的性質の不当な帰属を避けることとしての反擬人化主義の検討]
  • 不当な帰属をそもそも避けるべきなのだから、擬人化禁止としてわざわざそれを提示するのは何の参考にもならない
  • またこの原則の問題は、どれが擬人化された性質なのかを前経験的に特定する方法がないこと
    • もし人間に特有の性質であれば、その性質を利用して人間以外の動物の行動を説明するべきではない[つまり擬人化を避けるべき]、ということに同意できるかもしれない
    • しかし、ある性質が人間特有のものであるという主張を正当化することは、調べたが人間以外の動物では見られなかったと言うことだが、これは結果であるべきで、前経験的にわかることではない[よって、心理学的性質の不当な帰属を避けるものとしての反擬人化主義にも反対すべき]
  • そうだとしても、反擬人化主義は有用だとも言われる。次にこれを検討する

1.2.2.1 Operationalize Vocabulary.

  • 反擬人化原則のおかげで、用語を操作的に定義しようとするかもしれない
  • それは[場合によっては]よいことだが、人間にだけ古い用語[素朴心理学用語]を適用し続けると、比較の際に不必要な問題が生じる
  • 前述のように、[機能主義的]素朴心理学用語の使用を否定すると、機能的類似性に頼らずにヒトと非ヒト動物の行動をまとめて一つのカテゴリーに分類することが困難になる
    • 例:アルツハイマー病治療薬の効果を確かめるためにラットを使う場合、そこに機能的類似性がなければどうやって人間と比較するのか?[できないだろう]
  • このようなことが起こるのは有害。必要であれば操作的に定義すべきだが、過度になってる

1.2.2.2 Avoid Forming Relationships with Subjects.

  • [反擬人化原則のおかげで]動物との関係を作ることを避けることで、非科学的に解釈することを避けようとしている
    • だが、例えば人間の子供を研究する場合には関係形成に時間をかける[のに、人間以外の動物との関係形成に時間をかけないのはどう正当化されるのか? されないだろう]
  • 社会性のある動物の研究では、関係形成はその行動の理解に重要。
    • なぜなら、[もし関係形成をしないなら]コミュニケーションが取れないし、[関係の欠如のために]動物の心理的なシステムの一部である足場(scaffold)や動機づけが存在しない可能性があるから
      • 例:過剰模倣は人間だけと言われてきた。しかし、人間であっても外国語を話す人には過剰模倣しないし(Buttelmann et al. 2013)、犬の場合は養育者を過剰模倣するが(Huber et al. 2018)、未知の研究者を過剰模倣しない(Huber et al. forthcoming)ことが最近わかった。[これらは関係形成を避けないことによって得られた知見である]
    • このこと哺乳類だけではない。例えば、ヘビとの関係を築きながら研究する者もいる
  • よって、研究者に関係形成を避けるように指示する限り、反擬人化主義は否定されるべき

功利主義は個人を幸福の容器として扱わない(Chappell 2015)

philpapers.org

Chappell, Richard Yetter (2015). Value Receptacles. Noûs 49 (2):322-332.

 

功利主義は、人々を交換可能な幸福の容器として扱っているとか*1、人格を分離できてないだとかの理由で、誤った立場であると批判されてきた。この論文ではこの批判の四つの解釈を示し、あるタイプの功利主義はこれらすべての解釈で批判を回避できると論じる。四つの解釈は次の通り。

  1. 置き換え可能[replaceable]であるとする
  2. 個人間の厚生を比較可能であるとする
  3. 人々の利害を[個別に]気にするのではなく、[その総和である]功利性(効用)を気にしている*2
  4. 価値の容器として扱っている(個人の利害を、集約された善への交換可能な[fungible]手段として扱っている)

大まかに、1と2には価値論的応答を行う。3には理由の議論から応答する。4にはトークン価値という概念を導入して応答する。

 

第一に、置き換え可能批判は、人々の諸経験がどうパッケージ化されて別々の人生になるのかに意味を見出してないという批判である。特に死の悪さを、将来の善い経験が少なくなるという点で悪いとしか思っていないのが問題であるとされる。

だが功利主義は、人生の計画を価値論に組み込むことで、ある人の死の悪さを、将来の善の減少だけではなく、その計画の中断として積極的に負価値的なものとして扱える*3

 

第二に、厚生の比較可能性について検討する。これは、正確な[厚生の]値の割り当てができたあとに、完全に等しい二つの選択肢(二人が瀕死でどちらだけしか助けられないとか)があり、一方にわずかな価値を追加するだけで[それ以外のことを考慮せず]追加された方の選択肢を選択すべきだとしてしまう、という批判である。

功利主義からの応答の一つは、それらの比較を「大まかに等しい」(Parfit, 1984)や「同等[on a par]」(Chang, 2002)とすることで、多少の変化に対して反応しないようにすることである。だが、そもそも正確な値の割り当て[微小な追加的価値による選択肢ランキングの変化]がなぜ不道徳になるのかわからない。「比較可能[comparable]」であることは「交換可能[fungible or interchangeable]」であることを意味しない。

 

第三に、功利性だけを気にしているという批判について検討する。これは、誰かを助ける理由は、その個人の利害のためではなく、功利性[幸福総和]を理由として助けるという説明になってしまう、という批判である。

たしかに、これは一部の功利主義(功利性基本主義)には当てはまる。だが筆者は厚生主義的功利主義[welfarist utilitarianism]を採用する。これは、(例えば)ある快楽が善いのはまさに、それを経験する個人にとって善いからである、とする立場である。よってこの立場では、集約的善を第一に気にするのではなく、個人にとっての善を第一に気にする。そして、行為の理由の源泉・根拠は、個人の利害である[集約的善ではなく]。

 

第四に、個人を価値の容器として扱っているという批判を検討する。なぜこれが批判になるのかを明確にする。一つの理解は、交換可能であることは道具的価値しかもたない印であるからである(例:千円札5枚と五千円札1枚は交換可能である)。そのため、個人を内来的[intrinsic]価値をもつ対象として扱う必要があるが、功利主義にはそれができない、という批判として理解できる。適切な理論ならば、もし内来的価値をもつ個人のどちらかを選ばなければならない場合、ここでの適切な反応は選択肢の間でアンビバレントな感情を持つことである、ということを説明できるはずである。しかし、功利主義にはそれはできないとされる。

ここで、以下のような区別を認められるだろう。

  1. 等しく重い最終的価値を与える一対の選択肢
  2. 文字通り同じ最終的な価値を提供する一対の選択肢

1の例は、優れた絵画と、同じように優れた彫刻のどちらを保護するかという場合の選択である。2の例は、同じ絵画のどちらを保護するかという場合の選択である。ここでトークン価値という考えを導入してこれらの例を考えよう。その場合、2の場合では同じトークン芸術作品の一方を保護するので、どちらも同じトークン価値を持つ。しかし、1の場合は、同じ重みを持つが異なるトークン価値を持つといえる。

トークン価値を認めた場合、優れた絵画と優れた彫刻のどちらを保護するかという選択で、行為者がアンビバレントな感情を持つことを適切に説明できる。よって、優れた絵画と優れた彫刻を交換可能なものとしては扱ってない。諸個人もそれぞれ異なるトークン価値を持つと考えられるため、交換可能なものとして扱われないことになる。

よって、トークン価値というアイデアを認める功利主義、すなわちトークン多元的功利主義であれば、人々を交換可能なものとして扱わないため、価値の容器または交換可能なものとして個人を扱っているという批判は当てはまらない。

以上より、四つすべての解釈で、交換可能性の批判は成り立たないことが示された。*4

*1:このメタファーを有名にしたのはP・シンガーだろう。本論文でも言及されている。

*2:これは「人格の分離ができてない」という批判に対応する解釈だと思う。

*3:こんな応答が功利主義に許されるのか、功利主義は快楽説または選好充足説をとるのではなかったのだろうか、という疑問があるだろう。
功利主義は厚生主義[welfarism]をとっており、ある個人にとっての善(個人的善、福利[well-being])のみを非道具的価値として扱う。だが、この個人的善が快楽または選好充足であると限定する必要はない。客観的リスト説とよばれる立場を取っても、それが福利であるなら、功利主義に留まることができる。また、ローカルな福利と人生全体について評価する際の福利を区別できる。快楽説の中にも人生全体で福利を考える論者(Bramble 2016)が存在することを考えれば、功利主義がこうした立場を組み込むことは(難しいだろうが)可能である(Brambleが功利主義を取るかどうかは不明だが)。

Ben Bramble, A New Defense of Hedonism about Well-Being - PhilPapers

*4:このような理解をしても、功利主義が命じる行為は結局同じではないか、という批判は可能だろう。だが、そのような反論は問題を全く別のものにしている。この論文で扱われている「個人を幸福の容器として扱っている」という批判は、どのような選択をすべきかについての批判ではなく、「功利主義はそのように個人を扱うのだ」という功利主義の解釈の問題だからである。

種差別に対しても一貫した態度を取るべきか

注意事項が二つある。

  1. 筆者は一貫性を絶対に優先すべきだとは考えない。物事には文脈があり、ある点で一貫することはより悪い帰結をもたらす可能性があるからである。
  2. 本記事の主目的は、種差別を重要視してない・例外扱いする人々に再考を促すことである。倫理的ヴィーガンの溜飲が下がることを予想しているが、それは主目的ではない。

 

「すべての差別に反対する」といわれるとき、その「差別」には、ホモサピエンス内の差別が想定されていることがほとんどである。もしそうなら、それは欺瞞的だと私は思う。なぜなら、種差別をはじめとして、非ヒトに対する差別がありうるからである。非ヒトへの差別の中でも現状特に問題なのは種差別だと私は考えているので、以下ではこれを例に考える。

種差別とは、ある生物種のメンバーに対する差別である。例えば、工場畜産と呼ばれる農業形態は、そこにいる非ヒト動物たちに多大な苦痛を与えている。だが、もしホモサピエンスに対して同様のことが行われていたとしたら、それは全く許容できないだろう。もし一方を許容し他方を許容しないならば、それはホモサピエンスとそれ以外の動物とで差別しているため、これは種差別と言える。*1

なぜ種差別は不正なのか。ここでは二つの理由を考えよう。

第一に、ホモサピエンスだけが倫理的配慮に値し、非ヒト動物は配慮に値しないとする倫理的基準を設ける試みはどれも失敗する。例えば知的能力を基準としよう*2。その場合、一定の知的能力に満たないホモサピエンスを排除してしまう。一方、ホモサピエンスすべてを含めようとすれば、一部の非ヒト動物も含まれることになる。例えば苦しみを感じる能力を基準にすると、それには非ヒト動物も含まれることになる。苦しみではなく「尊厳」という基準を持ち出しても、なぜホモサピエンスにだけ尊厳があり、非ヒト動物には尊厳がないのかを説明することは難しい。こうしたことからも、ホモサピエンスと非ヒト動物を区別する倫理的基準を設けることは難しい*3

第二に、非ヒト動物も一定の倫理的配慮に値すると考えたとしても、ホモサピエンスの方がより倫理的配慮に値すると主張することもまた難しい。例えば、知的能力によって、倫理的配慮のヒエラルキーがあるとしよう*4。明らかに、ホモサピエンスの内部でも倫理的配慮のヒエラルキーが生まれる。ホモサピエンス内での差別に反対するのであれば、倫理的配慮のヒエラルキーを擁護するのは難しい*5

以上の理由から、ホモサピエンス内での差別が不正であるなら、種差別もまた不正であると考えるべきである*6

冒頭の言葉に戻ろう。「すべての差別に反対する」といわれるとき、私はそこに種差別も含めるべきだと考える。そこで、この言葉通りに一貫した行動を取ることを考えてみよう。

例えば、特定の企業の製品に対する不買運動を考えよう。ある企業が特定のSOGI*7の人々を不当に低い賃金で働かせていたとしよう。そして、それをやめる見込みもないとしよう。これは性差別であり、批判すべきことである。そこで、運動の一環として不買運動を行うとしよう*8

ここで、他の差別への一貫性を考えよう。あなたが一貫性を気にするなら、人種差別や障害者差別を行う差別的企業の製品に対しても不買運動を行うべきだと考えるだろう。だが、種差別的企業の製品はどうだろうか。ここで種差別的企業と言って意味するのは、例えば、不必要な動物実験を行なっていたり、動物性の原材料を含む製品を販売したりする企業のことである。あなたはこのような種差別的企業の製品について不買運動を行うだろうか。種差別について考えたことがないなら、これまで行なったことはないだろう。しかし、一部の倫理的ヴィーガンや種差別に反対する人々は、例えば動物実験を不必要に行なっている企業の商品を買わないようにしている。私も、例えば化粧品の商品開発のために動物実験をやめてない企業から化粧品を買わないことにしている。私はヴィーガンなので、動物性製品全般も購入していない。

別の例を考えよう。例えば、障害者差別に対して反対の態度を取らないSNSアカウントについて考えよう。このSNSアカウントは、障害者差別につながるような発言を行い、またそのような情報の共有を行い、肯定的な反応をしているとしよう。あなたはそのようなSNSアカウントをフォローしたり友達になったりすべきでなく、またそのようなアカウントの情報を(何のコメントもなく)共有すべきでないと考えるとしよう。

他の差別への一貫性を考えれば、あなたは、人種差別的、性差別的SNSアカウントについても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。では、種差別的SNSアカウントに対してはどうだろうか。種差別的SNSアカウントとは、例えば、非ヒト動物の死体を使った(つまり肉)料理の画像をアップしたり、種差別を助長するような記事を共有したりするようなアカウントである。一貫性を考えれば、このようなアカウントに対しても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。

以上の議論から、次のような主張を導き出せる*9

もし「すべての差別に反対する」ならば、種差別に対しても反対すべきである。

また、一貫性を考えれば、他の差別に対する態度を、種差別に対しても同様に取るべきである。

以上が本記事の結論である。

 

もしあなたがこれまで種差別について全く知らなかったら、アニマルライツセンターやPEACEの記事をいくつか読むといいだろう。

arcj.org

animals-peace.net

 

特に、PEACEのツイッターアカウントは推奨できる。

twitter.com

 

*10

*1:工場畜産や動物実験の悲惨さについては、ピーター・シンガー『動物の解放』やゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』を参照されたい。

*2:私はこの基準は間違っていると思うが、ここでは例として検討している。

*3:注意して欲しいが、私は、事実として、ホモサピエンスとそれ以外の非ヒト動物が「同じである」とは言ってない。ホモサピエンスと非ヒト動物は異なる生物種に属する生物であり、当然、さまざまな違いがある。私がここで言いたいのは、倫理的にいって、原理的に重要な違いがあるのかないのか、という点である。そして、私はないと考える。

そのような違いを見つけることが不可能だとは言わない。だが、この試みはほぼ失敗する運命にあると思う。ホモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別するには、系統学的証拠を基準にするしかないだろう。しかし、なぜその系統学的関係が倫理的に重要なのか全くわからないので、倫理的に重要な違いを系統学的に決めるのは難しい。しかしそれ以外の方法でモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別することは非常に困難だと思う。

*4:もちろん、知的能力という基準は間違っていると私は思う。

*5:もちろん、ここで、ホモサピエンス内でのなんらかの「差別」を認めれば、非ヒト動物を倫理的配慮のヒエラルキーで下に位置付けることは可能だろう。しかし、ここでも、個別の事例では、一部のホモサピエンスは一部の非ヒト動物よりも下に位置付けられる可能性がある。例えば、知的能力を基準にすれば(もちろん、私はこの基準は間違っていると思うが)、生まれたばかりのホモサピエンスの赤子は、成長した一部の類人猿より知的能力の点で劣るだろう。

*6:こうした議論をおこなっているのが動物倫理である。動物倫理については以下の本が読みやすいだろう。ただし、私自身はどちらの本の立場に対しても同意していない。

*7:性指向と性同一性:Sexual Orientation and Gender Identity

*8:不買運動をすることが倫理的に正しいかどうかは議論の余地があると思う。いってしまえばケースバイケースであるが、さまざまな理由を考えながら行うべきことだろう。

*9:私は、一つ目の主張に関しては賛成している。二つ目の主張に関しては、「他のことが等しければ」という条件のもとで同意する。だが、無条件に擁護するのは難しいと思う。

*10:私自身も、動物倫理に関連するブログ記事をいくつか書いているので、参照されたい。

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

非ヒト動物を民主主義に含める(Cochrane 2019, ch.6)

Cochrane, A. (2019). Should animals have political rights?. John Wiley & Sons.

Ch.6 Democratic Representation

本書は政治哲学で動物倫理的な仕事をしてきたCochraneによる、簡潔な入門書である。道徳的地位の話から始まり、動物福祉法における地位、憲法における地位、法的地位、政治的地位を扱い、非ヒト動物は一定の道徳的、法的、政治的地位を(ヒトと同様に)持っていることが論じられる。そして本章(第六章)ではそれまでの議論を踏まえ、政治的な領域において非ヒト動物を適切に扱うべきであることが前提とされる。よってこの章では、どうやって非ヒト動物を民主主義システムに適切に組み込むかが問題となる。

 

方法1:非ヒト動物に思いやりのある、同情的な人に投票し、その人たちを政策立案者にして、非ヒト動物の利害関心(interests)を政策立案プロセスに組み込む。これは現状のシステムの変更を必要としない。

この方法の問題点は、そういう人が議席獲得できるとは限らないので、非ヒト動物の利害関心が必ずしも保証されないことである。この問題を回避するために、選挙制度を変えて動物政党により公平にする、熟慮フォーラムなどを開き非ヒト動物の利害関心が政策立案に組み込まれるような状況を適切に設計することなどができる。だが、やはり保証されないままだろう。

ではどのように現状のシステムを変えるべきだろうか。

 

方法2:投票権を賦与する。だが、非ヒト動物は投票できず、立法者がかれらを直接代表することもできない。そこで、何らかの専門家委員会やオンブズマン制度を作り、これらが政策立案者に対して圧力をかけることができれば、かれらの利害関心を政策立案に組み込めるかもしれない。

この方法の問題点は、まず、政策立案者が非ヒト動物の利害関心(を代弁した専門家委員会の話)を聞き入れることを保証できないこと、また、専門家委員会が非ヒト動物の利害関心を効果的に反映できるか疑問であることである。通常、立法者が有権者の利害関心を最低限効果的に政策立案プロセスに反映させるのは、選挙による圧力があるからである。よって、何らかの形で、非ヒト動物たちの民主主義的代表権の行使を認めなければならない。

 

方法3:立法機関の議席の一部を非ヒト動物の利害関心の反映のためだけに用意する。そこに就いた人々の仕事は、非ヒト動物の利害関心を聞き入れ、政策に適切に考慮されてるかどうかを考えることだけにする。これは、うまく機能すれば、非ヒト動物の利害関心を保証するだろう。

問題点は、非ヒト動物は投票できず、自身を代表する代議士の質について理解も熟慮もできないので、人間と同じ様には、選挙の圧力によって議員に効果的に職務遂行させるということができないことである。

解決策の一つは、非ヒト動物の代理選挙を行うことである。だが普通に人々が投票するのでは、結局、非ヒト動物の利害関心を反映できることを保証できない。

二つの解決策がある。第一に、代理選挙での投票者を動物擁護組織に限定することで保証できるかもしれない。だが動物擁護組織を適切に選ぶのは難しい。そこで第二に、投票者ではなく候補者側を、司法によって適格だと認められた、非ヒト動物の利害関心にだけ焦点を当てた政党の者だけに限定することで保証できるかもしれない。

しかし、非ヒト動物の複雑な利害関心を適切に代表するにはまだ不十分かもしれない。

 

方法4:代議士を用意するだけでなく、参政権を賦与する。参政権が重要なのは、政策立案者が人々(と非ヒト動物)の利害関心を正しく理解、解釈するために、政策立案者と人々(と非ヒト動物)の間でのコミュニケーションが必要だからであり、この実現には参政権が必要になる。(ここで想定されている参政権は、市民が互いの意見を調整し、議論し、集団政治組織内で結集し、ロビー活動を行い、代表者を選ぶなどである。)

問題点は、そもそも非ヒト動物が政治に参加するなどということができるのかという点である。ドナルドソンとキムリッカ*1は、障害者の参政権の議論を非ヒト動物に援用している。かれらは、現在の政治参加の理解は「合理主義的」であるが、そうではなくて、政治参加を「身体化されたもの」として捉えるべきであると主張する。例えば、障害者が社会の中で生活することによってその存在感自体が政策決定に影響を与えるような事例があり、同様に非ヒト動物(特にコンパニオンアニマルや都市に住む非ヒト野生動物など)の存在感自体が政策決定に影響を与えることができ、その意味で政治に参加することができる。

存在感自体が政治に影響を与えるというのはそうだろう。だが、それを政治参加と全く同じ様に捉えることは疑わしい。例えば天候の存在感も政策決定に影響を与えるが、だからといって政治に参加できるとは思わないだろう。

では、参政権なしに非ヒト動物の利害関心を政策決定に反映するにはどうすればいいだろうか。重要なのは、代議士が非ヒト動物たちの声を聞くことである。良き代議士に必要なのが人々の複雑な利害関心を、人々の声をよく聞く技術であるように、非ヒト動物と面と向かってかれらの声をよく聞くことが、非ヒト動物を代表することにとって必要なことである。非ヒト動物たちは、参政なしの市民権(citizenship)、あるいは市民権なしのメンバーシップとでも呼ばれるものをもつことになる。

 

*1:

本書の読書メモを別の人がブログ記事にまとめているので参照されたい。

davitrice.hatenadiary.jp

状況主義的批判と徳倫理学からの再反論(van Zyl 2018, ch.9)

van Zyl, L. (2018). Virtue ethics: A contemporary introduction. Routledge.

第9章、状況主義的批判のざっとした要約です。*1

状況主義

  • 徳は、さまざまな文脈で時間的に信頼可能で安定してその行動を予測できるようなことが期待される
    • だが状況主義によればそんな特性は存在しない
  • 実験の例
    • ミルグラムの電気刺激の実験、善きサマリア人の研究、援助行動(10円玉が落ちてて拾ったかどうかで援助行動が高まった、という気分研究)、正直な行動をすることと窃盗などをすることとの相関のなさ(幼児を対象とした実験)
  • これらの(より多くの)実験から、性格特性に関する私たちの直観が間違ってる、というのが状況主義からの批判。
    • つまり、私たちの行動は性格より状況の方に影響される。
  • ではなぜ私たちは間違った直観を持つのか?
    • 根本的帰属エラーのバイアス:他人の行動の要因を外部要因ではなく内的特性に帰属しがちだが、自分は逆(自分の場合は状況要因に気づきやすい)
    • 別の説明:公平世界仮説
  • 状況主義的批判の仕方はいろいろある
    • Harman:そんな特性はない(消去主義)
      • 特性があると思って責任帰属とかすると寛容でないことになっていろいろ問題がある、など
    • Doris:グローバルな特性はないが、ローカルな(局所的)特性はある
      • 特定の文脈での特性なら予測できる程度にある

状況主義への反論

  • 反論1:希少性応答(The Rarity Response)
    • 徳は希少で難しいことを示したにすぎない
      • アリストテレス自身、完全な徳を持つ人は少ないことを論じており、状況的要因が行動の安定性に重要なことに同意してる
    • だがこの反論は、状況主義の二つの反論(ロバストな特性としての徳を持つ人はわずかしかいない、および、状況的特徴は個人的特徴より人の行動に影響を与える)の片方(つまり前者)にしか答えてない
  • 反論2:行動主義的応答
    • 状況主義的批判は粗雑な行動主義的モデルに基づいている
      • 性格を、特定の仕方で行為する傾向性の集合とみなしており、[他の]行動のパターンに還元できない内的傾向的要因(情動や感情の傾向性、目的、理由認識、知恵など)を無視している
    • Swantonは、性格特性が期待されるほど行動傾向に関してロバストではないことを認めるが、だからといって内的な要因がないわけではないし、その意味でその性格特性を示しているといえると主張
  • 反論3:道徳的ジレンマと誘惑(Temptation)
    • 状況主義での実験での参加者は道徳的ジレンマに陥っていた。かれらは異なる徳の要求にさらされていた
    • ジレンマにない場合には誘惑があり、有徳でない人がそれに耐えられるかどうかは誘惑の種類による
      • 有徳でないことを示してはいるが、性格特性に言及した行動の説明を排除できない
    • しかし、気分研究の説明がつかない
      • Mark Alfano (2013)は、そうした非理由である要因に行動が大きく影響されるというのが、状況主義の核だという
  • 反論4:気分影響の最小化
    • John Sabini and Maury Silver (2005):気分に左右されるのは認めるが、それによって影響される行動はそんなに重要な事柄ではないので、あまり深刻な問題ではない
    • Prinz (2009):気分は人の行動に大きな影響を与えるし、道徳的行動にも影響を与える
  • 反論5:人為的徳(factitious virtue)
    • Alfanoは、ほとんどの人がグローバルな性格特性をもってないことが徳倫理への問題であることを認め、状況要因の操作が重要だと言うことも認めた上で、その操作の方法の一つとして「徳ラベリング」を考えている
      • 例:「正直者だね」と言われると、正直者と一致するような行動をとりやすくなる
    • これを支持するためのさまざまな研究を引用している
      • 例:募金した人に寛大のレッテルを貼ると、二週間後に別の団体に寄附する可能性が高い(Kraut 1973)
    • この意味で、徳は有用なフィクションである
  • 反論6:徳を獲得するためにより努力する
    • MillerおよびBesser-Jonesはそれぞれ、ほとんどの人が伝統的な徳や悪徳を持ってないことを認めているが、それは徳倫理の完全否定の十分な理由にならないと考えている
    • 徳倫理が妥当な規範理論かどうかは、それを身につけることが可能かどうかにかかってる
      • 誘惑への対処、微妙で無意識的な要因の影響の調整などの方法を学ばなければならない。
    • 有望な戦略は以下の通り
      1. 有徳な性格と有徳な行為のモデルを利用する
        • 道徳教育では、実在・架空のロールモデルの物語を使って、子どもたちに有徳なあり方を教えるし、一定の効果を見込めることが経験的研究で示されてる
      2. 道徳的行動に影響を与える心理的プロセスにより気づきやすくする
      3. 自己規制理論(self-regulation theory)を参照した戦略
        • より具体的な計画や実行の意図を形成することで、目標追求をより効率的に行えるようになる

状況主義からの別の反論

  • 実践的合理性への反論
    • 性格の改善の戦略は全て、道徳的行動は合理的思考の結果である(少なくともありうる)という主張に依拠しているが、そうではないという批判を状況主義者は展開している
  • これに関する二重プロセス理論による説明がある(意識的プロセスと非意識的・自動的プロセス)
  • アリストテレス主義は意思決定での自動的プロセスの役割を認めているが、同時に、そうした自動的プロセスが批判的反省に利用可能であると仮定している
    • しかし、自動的プロセスは、その人の反省的に支持された価値観にほとんど影響されないことが示唆されてる
    • このことは、MillerやBesser-Jonesの戦略に望みがないことを示している
  • すると、一番の望みは、道徳的認知の望ましい側面を自動的に活性化させる可能性の高い状況に身を置くことであると思われる
    • 行動の一貫性は、性格の安定性ではなく、環境、特に他者からの期待の安定性の表れである

経験的根拠に基づく徳倫理

  • Snowの徳倫理
    • Snowは、以下の三つが経験的に支持されてると主張
      1. グローバルな性格特性が存在する。
      2. 伝統的に考えられてきた性格特性は、そのような特性の一部である。
      3. 私たちは徳を身につけることが可能である。
  • Snowは認知・感情処理システム(CAPS)としてのパーソナリティ理論を参照する
    • CAPSシステムの構成要素は、「認知-感情ユニット」と呼ばれ、信念、欲求、感情、期待、目標、価値観などの変数を含んでいる。これらの変数は、外的または状況的な特徴によって活性化されるだけでなく、内在的な刺激(例えば、思考、推論、想像)によっても活性化されることがある
      • MischelとShodaは、状況主義者がロバストな特性の証拠を見いだせないのは、被験者の状況に対する解釈を考慮せず、純粋に客観的な用語で状況を記述しているからではないか、と考えた
      • そして実験してみたら、子どもたちは安定した状況-行動プロファイルを示した*2
    • Snowは、これらの知見がCAPS特性の存在を支持していると考えている
      • 性格特性(美徳と悪徳)はCAPS特性のサブセットである。有徳な傾向性は、CAPS特性同様、「思考、動機、感情反応の特徴的なタイプの比較的安定した構成で、『待機』しており、適切な刺激に反応して起動する準備ができている」
  • Snowはさらに、Annas*3やRussellを参照し、徳の獲得と行使は非意識的プロセスに依存する、実践的スキルに似ていると考えているようである

*1:日本語で読める状況主義をめぐる状況に関して、立花(2016)「徳と状況 徳倫理学と状況主義の論争」In 太田編『モラル・サイコロジー』春秋社

、が参考になるだろう。また、関連するブログ記事として以下のようなものがある。emerose.hatenablog.comemerose.hatenablog.com

*2:これはDorisのローカルな特性と矛盾しないだろう(Doris 2002 ch.4)。もしSnowのような方向性で徳倫理学を発展させるならば、状況主義者と徳倫理学者の間の相違はかなり小さくなるかもしれない。

*3: