ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

動物性愛・ヒト-非ヒト動物間の性的行為に関する規範的議論の文献リスト

2023-7-30:記事公開

2023-12-24:論文を一本追加

はじめに

※性的な言葉や、強く不快な言葉が出てきます。注意してください。

私が現時点で把握してる(かつアクセス可能かつ既読の)動物性愛(zoophilia)やヒト-非ヒト動物間の性的行為が道徳的に許容できるかについて、規範的な議論をしている文献を以下に紹介する。また各文献の内容についてざっくりと説明する。なお、各議論が成功してるかどうかについての評価はしない。また、動物性愛者に関する記述的な文献(どれくらいいるのか、どのようなセクシュアリティなのかなどの事実的な調査、分析)については膨大にあるので、以下には載せていない。

なお、日本語で読める動物性愛の文献としては以下のものがある。動物性愛についての記述の正確さは不明だが、あまり問題なかったように思う。一方で動物権利活動家らに対する記述はあまりに粗雑で不当に否定的であり、残念に思う。

 

 

言葉の表現について

  • 私は「ヒト動物-非ヒト動物間の性的行為(human animal-nonhuman animal sexual activity)」と表現したいが、冗長なのと、一般的に使われてないため、ここでは「ヒト-非ヒト動物間の性的行為」と表現することにする。なお一般には「人間-動物間(human-animal)」と表現されていると思うが、これはヒトが動物であることを念頭に置いておらず、私は避けたい。
    •  こうした言語的な表現に気を使い過ぎだという批判はあるだろうが、これは、この問題についてどれだけ楽観的であるか否かの問題だと思う。AIにおいてこうした種差別的言語・種差別的バイアスが反映され、ネガティブな表現と紐付けられており、AIの学習元データは私達の言語データであるため、この問題について私はあまり楽観的ではない。
      • Hagendorff, T., Bossert, L. N., Tse, Y. F., & Singer, P. (2022). Speciesist bias in AI: how AI applications perpetuate discrimination and unfair outcomes against animals. AI and Ethics, 1-18.
      • Takeshita, M., Rzepka, R., & Araki, K. (2022). Speciesist language and nonhuman animal bias in English Masked Language Models. Information Processing & Management, 59(5), 103050.
  • 「獣姦(bestiality)」という表現は避ける。これは否定的な含意があるからである。そのため、中立的な表現として「ヒト-非ヒト動物間の性的行為」と表現する。
    • ただし、「獣姦」という表現を意図的に中立的に使うことで、言語実践を変えていくということも重要かもしれない。私としては造語したい。
    • また、ヒト-非ヒト動物間の性的行為をヒト間の性的行為と異なって表現することは人間中心主義的(というより同種性愛中心主義とでも言うべきもの)であるという批判も考えられる。私もそう思うが、ここでの目的上、上記のように表現する。

 

文献一覧

1. Beirne, P. (1997). Rethinking bestiality

Beirne, P. (1997). Rethinking bestiality: Towards a concept of interspecies sexual assault. Theoretical Criminology, 1(3), 317-340. https://doi.org/10.1177/1362480697001003003

Beirneはヒト-非ヒト動物間の性的行為についてかなり強く反対していることで有名。Beirneが反対する理由は、非ヒト動物が人間との性的行為に真正に同意できず、仮にできるとしても私達はそれを理解できないから、というもの。ここで真正な同意(genuine consent)とは、参加者の双方が、同意について意識的であり、十分な情報を得ており(いわゆるインフォームドコンセントのそれ)、その欲求に積極的であるような同意のことである。非ヒト動物は、人間が容易に理解できる仕方で「はい」「いいえ」と言えないので、常に性的強制を伴う、としている。

BeirneはCarol Adamsの議論の批判もしている(ただし、私はAdamsの文献をネット上で見つけられなかった)。Adamsは、不平等な権力関係によって、人間から動物に対する強制の可能性が常にあり、獣姦(bestiality)は常に性的強制を伴うという理由から、ヒト-非ヒト動物間の性的行為は道徳的に間違っていると主張している(らしい)。

  • Adams, Carol J. (1995a) 'Bestiality: the Unmentioned Abuse', The Animals' Agenda 15(6): 29-31.

Beirneはこれに対して、ヒト同士でも権力関係があるときにも常に強制になってしまうが、そうではないから、これはヒト-非ヒト動物間の性的行為を否定する理由にはならないとしている。

Beirneのこの論文はヒト-非ヒト動物間の性的行為の規範的議論の初期の文献であり、また、宗教的記述との関係、性的暴行の種類などの記述的な議論も提示しており、重要な文献である。

 

2. Singer, P. (2001). Heavy petting.

Singer, P. (2001). Heavy petting. Prospect. https://www.prospectmagazine.co.uk/opinions/56258/heavy-petting

Peter Singerによるヒト-非ヒト動物間の性的行為の擁護論。より正確には、それをタブー視することは合理的ではないこと、ヒト-非ヒト動物間の性的行為は常に残酷なわけではない、という議論であり、全般的な擁護を展開しているわけではない。また論文ではない。

 

3. Beirne, P. (2001). Peter Singer's``Heavy Petting''and the Politics of Animal Sexual Assault.

Beirne, P. (2001). Peter Singer's``Heavy Petting''and the Politics of Animal Sexual Assault. Critical Criminology, 10(1), 43-55. https://doi.org/10.1023/A:1013119904480

1のBeirneによる別の文献。基本的な議論は同様であるが、Singerの記述に対して多くの批判をしている。また結論部分では、筆者がヒト-非ヒト動物間の性的行為の規制に関する法案について証言をしたことについて触れており、刑罰廃止論(penal abolitionism)に共感し、疎外された人々を増やしたくないが、非ヒト動物に対する暴行を防ぎたいという、筆者の複雑な心境が語られている。

 

4. Levy, N. (2003). What (if anything) is wrong with bestiality?.

Levy, N. (2003). What (if anything) is wrong with bestiality?. Journal of Social Philosophy, 34(3), 444-456. https://doi.org/10.1111/1467-9833.00193

ヒト-非ヒト動物間の性的行為は、道徳的に間違っているわけではないが、タブーを放棄するのが合理的なわけではない、という議論をしている。

例えば同意について、たしかに非ヒト動物の一部は人間がするような同意はできないが、同意に類似した行為は可能であるとし、それを「同意*」として、この点で同意*はできると議論している。だが同意*で許容可能だとしてしまうと、大人-子ども間の性的行為も子どもの同意*で許容可能になってしまう、という反論が考えられる。これに対してLevyは、子どもにおいて同意*が不十分であるのは、子どもが成長して完全な認知能力を持つようになった時、その当時にした同意*を後悔する可能性があり、精神的トラウマを負ったりするからであるとする。しかし非ヒト動物は成長しても後悔するような認知能力をもたないので、非ヒト動物の場合には同意*でもいいと議論している。

しかし、それでもなおタブー視し続ける理由は、種の境界を超えるという点で人間というものの限界を超えるものだからであり、このような限界を超えることに価値がないからであるとする。そしてそのような限界自体は、文化的に決定されているが、人間の生や人間のアイデンティティを構成するものであり、私達が何者であるのかを認識する上で役割を果たすものであるとする。よって、そのような限界を超えることは、アイデンティティを脅かすものであるから不合理だとする。もちろんLevyは、同性愛に対するタブー視にも同じ議論が当てはまることを認識しているが、コストと利益を評価すれば、同性愛のタブー視は同性愛者らに犠牲を強いることになるとしている。

 

5. Milligan, T. (2011). The wrongness of sex with animals.

Milligan, T. (2011). The wrongness of sex with animals. Public Affairs Quarterly, 25(3), 241-255. https://www.jstor.org/stable/23057080

ヒト-非ヒト動物間の性的行為は道徳的に間違っていると主張する論文。基本的には同意を重視するが、Beirneのように、単に同意できないからという議論ではない。

Milliganによれば、Levyの考えと同様に、非ヒト動物の一部は同意ができる。それは言語的なものではないが、馬や犬などは、複雑な行為を理解でき、行為の性的特徴を理解できるために、同意できると考えている。さらに、明示的に言語的な同意は人間同士の同意に含まれることもあまりないのだから、非ヒト動物が言語的な同意ができないからといって、自動的にレイプになるわけではないと議論している。

Milliganが同意において重視するのは、同意したあとに、例えば欺かれたために、苦情することができる、ということである。これを苦情条件と呼び、この苦情条件が非ヒト動物においては満たされないために、ヒト-非ヒト動物間の性的行為は道徳的に間違っているとしている。

Milliganが苦情を重要だと考えるのは、徳倫理的な理由である。苦情することは、矯正的な役割や、苦情されたときにその過去の過ちから学習するという点において重要な役割を果たしており、そうしたプロセスを通じて、私達は性的行為の意味を理解し、学習する。性的行為は人間にとって非常に厄介なものであり、それについて理解せずに、他者と性的な態度で接する方法を知ることはできない。そして、非ヒト動物はヒト動物と大きく異なり、また苦情できないがゆえに、非ヒト動物との行為について過ちを学習できず、非ヒト動物との性的関係を導くのに十分な実践的知恵を身に着けられない。そのために道徳的に問題のあるものになる。

 

6. Rudy, K. (2012). LGBTQ… Z?.

Rudy, K. (2012). LGBTQ… Z?. Hypatia, 27(3), 601-615. https://doi.org/10.1111/j.1527-2001.2012.01278.x

エッセイ的な文献で、動物性愛についてクィア的な視点から議論している。あまり理解できてないが、おそらくポイントは、人間/動物という区別や、「セックス」にあたかも本質があるようなことを、それぞれ普遍的なものだとみなす事自体が問題であり、そのような二元論、本質主義は維持できない、と考えているところだろう。

 

7. Taylor, C. (2017). “Sex without All the Politics”?: Sexual Ethics and Human-Canine Relations.

Taylor, C. (2017). “Sex without All the Politics”?: Sexual Ethics and Human-Canine Relations. In C. Overall (Ed.), Pets and People: The Ethics of Companion Animals. Oxford University Press. 234-248. https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780190456085.003.0016

Rudyと同じくフェミニズム的な視点から検討するが、Rudyとは反対に動物性愛について否定的。動物性愛者らに白人男性が多いこと、対象が犬などの家畜化された非ヒト動物たちが多いことを指摘し、そこにポリティカルな問題があることを指摘。例えば、男性による女性へのレイプにおいて、ときに男性は女性の否定的行動を認識してないことを取り上げ、ヒト-非ヒト動物間の性的行為においても、非ヒト動物のボディランゲージの解釈においてそうしたことが起こっている可能性があること、犬が訓練によって人間に従順にさせられている可能性があることなどを指摘している。

 

8. Bensto (pseudonym), F. (2023) Zoophilia Is Morally Permissible. Controversial Ideas, 3, 5.

つい最近出版された論文。著者名は偽名。以下のブログ記事で私の読書メモを載せた。

mtboru.hatenablog.com