- 書誌情報
- 1. Fred's Basement
- 2. Fred's Behavior Compared with Our Behavior
- 3. The Texan's Challenge*2
- 4. Humans’ versus Animals’ Ethical Status—The Rationality Gambit
- 5. The Challenge of Marginal Cases
- 6. Agent and Patient—the Speciesist's Central Confusion
書誌情報
Norcross, A. (2004). Puppies, pigs, and people: Eating meat and marginal cases. Philosophical perspectives, 18, 229-245.
philpapers.org
pdf: https://spot.colorado.edu/~heathwoo/readings/norcross.pdf
1. Fred's Basement
- 動物虐待をしていたフレッドの事例[思考実験]
- フレッドはチョコが大好きだが、交通事故のせいでチョコの味が変わってしまった。
- 子犬を虐待するとココアモンが分泌され、それによって味を感じられるようになった
- 六ヶ月の子犬の苦しみから、一週間分のココアモンがとれる
- 子犬が苦しむこと自体からは一切の快楽を得てない
- チョコがなくても死ぬわけではないが、人生はひどく貧しいものになる
- ほとんどの人はフレッドの行為の正当化に同意しないだろう。
- 味のために殺すのはダメである、と考えるはず
- だが、畜産はそのようなことである
2. Fred's Behavior Compared with Our Behavior
- [畜産とフレッドのケースの違いはなにか]
- 第一に、フレッドは自分で虐待してるが、多くのアメリカ人は他人に虐待させてる
- これは関係あるのか?フレッドが他人に頼んでいたらよかったのか?そんなことはない
- 別の違い:工場畜産ルートだと消費者はそのプロセスをしらないこと
- だが知らないという言い訳はこの論文を読んでるような人にはできない
- 別の違い:フレッドの行動は忌まわしいが、私達の行動とは決定的に違う
- フレッドはチョコを食べなければ犬を拷問することはない。だが私達が食べるのをやめても工場畜産はなくならない、苦しみを防げない
- これに対する二つの反論
- 別の違い:フレッドのケースでの子犬の苦しみは味覚的快楽を得るのに必要だが、工場畜産の動物の苦しみは経済的理由による副産物
- 二重結果原理の応用
- フレッドは子犬の苦しみを意図してるが、あなたはそうではない
- 二重結果原理の応用
- 二重結果原理はそもそも間違っていそうだが、正しいとしても、このケースではうまくいかない
- 二重結果原理は、悪い影響が意図されずに予見されるだけでなく、それに勝る良い影響があることを要求してるが、工場畜産の苦しみは非常に大きく、悪い
- 最後の違い:子犬は道徳的に重要(count)だが、他の食肉にされる動物とは道徳的に重要ではない
- しかし、子犬にはあり他の動物にはないような道徳的な性質はなさそう
- 私達がより大切にしている(care more about)、というのは重要な違いかもしれない[が、おそらく間違っている]。
- 例:韓国での犬食。フレッドが韓国で育っていたら問題なかったのか?このような相対主義は受け入れがたい
- 仮にcareが重要だとしても、そのcareを違うようにするのはなぜ正当化されるのかの説明が必要。
- そしてそれは結局、上のように道徳的性質の違いを見つけなければならないことになる
3. The Texan's Challenge*2
- モーダスポネンスを逆手に取って、子犬の虐待を不正でないという人がいるかも
- 子犬を虐待したくないというのを、道徳的ではなく、sentimental preferenceとして説明する方向性
- またそれによってカント的な間接義務論を使うとか、そういう道がある
4. Humans’ versus Animals’ Ethical Status—The Rationality Gambit
- 議論のために、人間が動物より倫理的に優れた地位にあると主張することは、どのように行動するかを決定する上で動物よりも人間の利害により大きな重みを与えることが道徳的に正しいと主張することである、とする
- この主張の根拠はなにか?そのような性質を見つけなければならない
- 合理性がそれかもしれない。
5. The Challenge of Marginal Cases
- 以上の議論への反論として重大なのは、限界事例からの議論*3
- この議論への応答には二つの系統がある
- 認知的に洗練されてる動物に対して、限界的な事例の人とは異なる道徳的地位を与えることが正当化される
- 限界的な人間は道徳的に劣っているが、同等の地位があるかのように扱うためのプラグマティックな理由がある
- 1の方:この応答は、その特徴が[そのグループで]標準的(normal)かどうかを問題にしてる
- だがこれは馬鹿げてる。
- 何らかのグループの統計的な平均をとって、その平均的性質をそのグループのメンバーの誰かに当てはめるのはもっともらしくない。
- だがこれは馬鹿げてる。
- 「種」というカテゴリーは「自然」なので、この反論は当てはまらないかもしれない
- だが男女の心的能力に統計的に関連した差があることが判明したらどうか。平均的な違いによって、雇用を決めるなどがあってもよいのか。[ダメだろう]
- 2の方:理性的でない人間を保護するプラグマティックな理由がある。間接義務論的なそれ
- だがこの考えは、限界事例の人々も同等の道徳的配慮に値すると考える人を満足させることはできないだろう
- 実践的正当化としても非常に不安定。歴史を考えてみよ。
- 進化上の理由、種の生存の価値から擁護できるかもしれないが、そこに道徳的関連性を見出すことは難しい
6. Agent and Patient—the Speciesist's Central Confusion
- そもそもなぜ合理性が重要なのかわからない。
- 重要なことは、ベンサムの言うように、苦しむことができるかではないか
- Warren:合理性が道徳的に重要な理由は、協力や非暴力的な問題解決の可能性を高めるから
- ある種・レベルの合理性が道徳的にレレヴァントであるという点でこの主張は正しいが、その道徳的関連性(relevance)が何に相当するのかの特定において間違っている
- ある主体が道徳的推論や主張などができなければ、道徳的行為者ではありえない
- しかし、道徳的行為者になりえないことは、道徳的受動者としての地位においてレレヴァントではないと思われる
- なぜ道徳的行為者性を持たないことが道徳的受動者としての地位を下げるのかわからない
- ある種・レベルの合理性が道徳的にレレヴァントであるという点でこの主張は正しいが、その道徳的関連性(relevance)が何に相当するのかの特定において間違っている
- 人間が道徳的責任の重荷を負って、見返りとして自分らへの配慮が強化されないのは不公平だという主張がある
- しかし、人間が道徳的義務を負うのは、それが可能な生物だからである
- 別の議論:合理性が重要なのは協力を促進する限りにおいて正しい
- 道徳の本質を互恵性と捉えれば、合理性の意義は明らか
- この考え方では、動物に配慮する意味はない
- だがこの見解は、道徳性とは真逆の、自己利益への関心である
- 道徳性の本質が互恵性だということに対する筆者の反論は不公平かも
*2:ここのセクションの議論の役割はよくわからなかった。
*3:最近はこの呼び方は避けられており、例えばHortaは「種間の重なりからの議論」と呼んでいる。philpapers.org 以下の本も参照。