ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

動物製品の購入・消費の倫理(Fischer 2021 ch.7 後半)

 

本記事は

Fischer, Bob. Animal ethics: A contemporary introduction. Routledge, 2021.

の「第七章:生産と消費の倫理」の消費の部分の読書メモである。

 

伝統的な動物倫理では工場畜産の生産面に関する問題が議論されてきた。非ヒト動物に直接関連した理論的検討はほぼ出尽くしており(Fischer自身、どうやって擁護できるのかわからないと述べている)、現実的にどのように実現していくかという問題に焦点が当たっているように思われる(工場畜産以外の畜産・水産養殖業や動物実験に関してはまだ検討されていると思われる)。

しかし、ここ10年くらいで、生産面に問題があるとしても、そこから生産された製品の消費行動にどのような問題があるかの検討が数多くなされてきた。Fischer自身、この問題について単著を書いている。

 

以下の読書メモを読めばわかるように、消費行動が悪いと主張することは非常に難しい。つまり、工場畜産が悪いとしても、そこから生産された製品の購買がなぜ悪いのかを説明するのは非常に困難である。これは、菜食主義者になる道徳的義務はないかもしれないことを意味する。

日本語でこの辺りの議論を紹介している文献を見たことがないため*1、この読書メモが何らかの参考になれば幸いである。

なお、私自身は功利主義に立つので、菜食主義を義務として決定的に擁護するには経験的証拠が不足していると思っている。

 

購入と消費の倫理(The Ethics of Purchasing and Consuming)

  • ここでは集約的農業[工場畜産]の生産面に問題があることを前提にする
    • 生産が悪いなら、そこから生産された製品を購入・消費するのはダメだというのは簡単な議論だと思うかもしれない
    • しかし、これを示すのは難しい。いくつかの道徳理論で再考する

功利主義(Utilitarianism)

  1. あなたは何であれ期待効用を最大化すべきである
  2. 集約的システムで生産された動物製品の購入・消費を控えることで、期待効用を最大化する
  3. それゆえ、あなたは集約的システムで生産された動物製品の購入・消費を控えるべきである
  • 重要な前提は二つ目。購入したり食べたりすることが、農場で何が生じるかに何らかの影響を与えるなら、これは正しいだろう
    • しかし、明らかに真ではない
      • 食べ残しを食べるような例では、生産者に、生産量に関する信号を何も送らない
  • 「無信号の議論」は、購入と消費のギャップに基づいているが、功利主義者は、それでも消費を控えるべき理由があると言うことができる。
    • 現実には判断が難しいので、すべての状況で控える規則を採用するのが道徳的に賢明だということを支持できる
  • たしかに、この規則の採用は道徳的に賢明かもしれないが、これは道徳的要求の領域の外であることに注意
    • ここでは、工場で生産された製品の消費が常に不正だということを立証することが目標だった。
      • しかし上のような反論をしてしまうと、一般的な功利主義的結論はなく、人それぞれということになる
  • 消費と購入を一緒にしたのが問題だったかもしれない。そこで、別の論証
  1. あなたは何であれ期待効用を最大化すべきである
  2. 集約的システムで生産された動物製品の購入を控えることで、期待効用を最大化する
  3. それゆえ、あなたは集約的システムで生産された動物製品の購入を控えるべきである
  • しかし、これも問題がある。
    • 例:あなたが食料品店で鶏肉を購入しても、誰も、その購入された鶏肉の代わりに新しい鶏を屠殺しには行かない。生産レベルが全く変わらない確率が非常に高い。その場合、購入から利益を得られ、効用を増やす
  • 生産量と購入量が必ず対応するわけではない。お店はある程度の無駄を許容するので、小さな変動によっては変わらない
  • これは、購入は違いをもたらさない、ということではない。
    • システムの大きさために、お店は一人の購入者の行為に注意を払うことに動機付けられてない(インセンティブがない)ということ
  • 功利主義者の標準的反論:たしかに購入がいつ変化をもたらすかどうかはわからないが、それを知る必要はない
  • 違いをもたらす確率は非常に低いが、違いを生み出した場合のその違いの大きさは非常に大きい
    • 自分が閾値を超えた購入者かどうかわからないから、不確実性の下での功利主義者は確率と違いの大きさを掛け算すると期待効用が得られる、つまり
  1. もし1万人の人が鶏肉の購入を止めれば、[例えば]25万羽の鶏が救われる
  2. それゆえ、あなたは、1万分の1の確率で、25万羽の鶏を救う
  3. 1万分の1の確率で25万羽の鶏が救うことは、25羽の鶏を救うことと(期待効果が)等しい
  4. もしあなたが25羽の鶏を救うことができるなら、あなたは鶏肉の購入をやめるべき
  5. それゆえ、あなたは鶏肉の購入をやめるべき
  • この議論を、因果的無影響問題に対する閾値注文解決と呼ぶ
  • これは有効な議論だろうか
    • ここで考えているのは、平均的効果ではなく期待効果。そして、あなたが変化をもたらす確率は、お店のシステムを考えると、1万分の1より極めて低い
      • 前提1は正しいかもしれないが、2は正しくないかもしれない。
  • 確率がさらに小さいなら、上記のような計算ができない
    • 確率がどの程度なのかは経験的に複雑な問題でわからないし、確率がより小さければ鶏肉を購入することに有利な計算が成り立つ
  • こう考えるのは冷たいと思われるかもしれないが、これが功利主義のやり方
    • 功利主義者は経験的・理論的問題に依存する
      • その確率がわからない限り、これ以上のことは言えない

 

権利論(The Rights View )

  • 権利論などの広義のカント主義的な考え方に移る
    • Regan:農場の動物を再生可能な資源として扱うことは、固有の価値を持った動物として尊重しないことになる。消費するために家畜を飼育するという現在の慣行[practice]は動物を尊重し損ねているので、肉の購入は不正な慣行を存続させることに加担することになる。
    • T. Reganは、功利主義より権利論を支持する理由として、功利主義の経験的複雑さに言及し、こういう計算に没頭するのは誤っているとしている。
  • 議論をまとめると
  1. 動物は固有の価値[inherent value]を持つ
  2. もしある存在が固有の価値をもっているなら、彼女を再生可能な資源として扱うのは不正義[unjust]である
  3. 人間の消費のために動物を飼育することは、かれらを再生可能な資源として扱うことである
  4. それゆえ、人間の消費のために動物を飼育することは不正義である
  5. もしある慣行が不正義なら、その「存続に加担すること」は不正である。
  6. 動物製品を購入することによって、あなたは不正義な慣行に加担することになる
  7. よって、動物性製品の購入は不正である
  • 前提5と6について[どのような場合、加担することになるのか?]
    • 一つの解釈によれば、その慣行の継続の原因となれば[cause]、不正義な慣行の存続に加担することになる 
      • 例:ある選択をしていたら生じなかった不正義を、別の選択をしたために生じさせた場合に加担になる
    • しかし、これが正しい読み方なら、[功利主義と同様に]「因果的無影響の問題」が浮上する。
      • なぜなら、あなたが違いをもたらさない確率が非常に高いので、不正義な慣行の存続に加担することにはならないから
  • Reganは、ある慣行が不正義なら、その発生に因果関係のあるわずかでも可能性があるなら、そうするのは不正であるというかも
    • この最小確率前提[The Event the Tiniest Chance Premise]には問題がある
    • 第一に、これは良い結果に対して反応しない。
      • 例:ホームレスの人がハンバーガーを欲しがっていたら、黒豆バーガーではなくハンバーガーを買う方がその人の欲求を尊重して満足させることができるし、より多くのカロリーを摂取させることができる。ではなぜこの良い結果が行為の道徳的是非に関係ないのか?
  • 第二に、わずかな可能性があれば不正な行為になるとすると、私たちの大部分の行為は道徳的に不正になる
    • 因果の連鎖は複雑なので、明らかな関係がなくとも、不正義な慣行の存続に加担するわずかな可能性を含んでいる 
      • 例:コーヒーショップでブラックコーヒーを注文すると、動物性食品を販売する企業の支援になる[他の多くの商品はヴィーガンではない]。そうすると、ブラックコーヒーを買うことは道徳的に不正になるが、それはもっともらしくないだろう
  • 第三に、最小確率前提は、Reganの議論を発展させるための恣意的な方法のように思われる
    • 最小確率と、全くありえない場合の区別は困難
    • Reganは、最小確率であっても、動物製品の購入・消費が不正だとするのに十分なほど重要なのかを説明しなければならない
      • もし彼が購入による期待影響に訴えれば、功利主義より優れていると言えなくなる
      • しかし他の選択肢があるかどうかは不明
  • では、「不正義な慣行への加担」を因果的に解釈せず、例えば、不正義な慣行から利益を得ていたら加担しているというアイデアだとどうか
  • 第一に、この代替案では、私たちの行為の大部分が道徳的に不正になる
    • 因果の連鎖は複雑なので、私たちは不正な慣行から利益を得ている
      • 例:著者が授業する際、肉を食べて元気になって著者の授業に参加している生徒がいると、授業することによって間接的に利益を得ることになり、授業が不正になるが、これはもっともらしくない
  • 第二に、動物性食品を購入しても必ずしも利益を得るとは限らないので、購入が必ずしも悪いとは限らない
    • 例:著者が腐った牛乳を買って飲んで病気になったら、著者は利益を得てないので道徳的に問題にならなくなる。しかし、病気になったから道徳的に問題ないということにはならないはず
  • 「不正義な慣行から利益を得ようと[try to]するな」と言う方がいいかもしれない
    • これは牛乳の例の問題の助けになるかどうかはわからない
      • 著者は牛乳の購入から利益を得ようとしているだろうが、しかし、そうするのが不正だということは明らかではない
    • また私たちは、利益を得ることより支持することが道徳的に問題だと考えているだろう[だから、この説明はもっともらしくないだろう]
  • 「不正な慣行への加担」の別の解釈もあるだろうが、同様の問題があるだろう
    • 差別してないのに差別していると思われるか、私たちの行為の大部分が道徳的に不正だということになるかのどちらかになる
    • 後者を喜んで受け入れる権利論者もいるだろう。「それは不正な世界に生きることの代価だ」などと
  • しかし、ここでの目的は正しい行為と不正な行為の区別に何をすべきかの指針を得ることだったと思われる。
    • もし誰かが、ほとんどの行為が不正であり、それゆえ道徳的に行為する唯一の方法は、例えば資本主義システムでの生活を避けることだと主張するなら、それはある意味では可能(森の中で暮らすとか)だが、それは明らかに実行不可能[isn’t feasible]
      • 「できる」の意味は、実践的な意思決定に無関連[irerevant]になる
    • 著者としては、極端に理想的な基準ではなく、実際の状況に応じた合理的な基準を課したいし、実現可能性[feasible]に敏感であるべき
  • 反対に、実現可能性は現状に譲歩しすぎだと言うかもしれない
    • これは、道徳は厳密には何のためにあるのかという疑問提起をしているので、別の問題に移ることになる
  • ここで、私たちにはいくつかの選択肢があるが、同じ問題が繰り返されると思われる。
    • 生産の倫理から購入・消費の倫理への移行は複雑
    • この複雑さの一部は、動物製品の購入・消費を控える道徳的義務を立証する、というところから来ている
    • そこで、この目的を脇に置き、別のアプローチを検討する

 

徳と自己吟味(Virtue and Self-Examination)

  • 徳倫理においてこの道徳的問題を解決する方法を検討する
    • Hursthouseの議論:集約的農業での動物の苦しみを考えれば、工場生産の規制が改善されても、これをどうでもいいと受け流すのは冷酷。残酷なことに加担している間は、思いやりのある人間であるとは考えられない
      • これを、道徳的義務と解釈すると、功利主義や権利論が直面したような問題に陥る
  • 重要なのは、熟慮の仕方
    • 自分自身を吟味し[examining]、自分の信念・価値観・動機を一変させている
    •  徳倫理は、自分自身を吟味することを求めている点で正しいと思われる
  • しかし、Hursthouseがここで理由づけしている仕方は少し奇妙:生き方について考えるとき、徳を直接思い起こさせることはほぼない
    • 代わりに、自分の感情、情報と経験が自分の観点を動かす仕方、現実と願望の両方の自分のアイデンティティに注意している 
    • 例:Grace Boeyは、なぜ動物性食品の摂取を控えることにしたのかを説明するエッセイを書いている
      • 要約すると「お皿を見るたびに悲しくなった。どのように生産されているかを知っているものを食べることに耐えられなくなった。携帯に工場畜産の写真も保存している。このシステムの中で動物を断つことが、インテグリティ[誠実性]なのだ。それが自分自身の自己統合とアイデンティティのプロジェクトにとって重要なのは確かだ」
    • Boeyのここでのプロセスを評価してみよう。
      • 第一に、彼女は集約的畜産がどのようなものか理解している
      • 第二に、その理解を、自分の感情から完全に切り離すことはしていない。むしろ、情報によって自分の感情を変化させ、インテグリティを気にしている
  • 第三に、Boeyの感情の変化は視点の変化を伴っている。
    • 以前は、ポークチョップはポークチョップでしかなかったが、今では特殊で暗い歴史をもつ動物の一部としてその物語を見ている。
    • 第四に、彼女は、支配的視点に戻らないよう、自分の視点の移動を維持する手段を講じている(写真を携帯に保存)
  • 最後に[第五に]、以上のことがどのように組み合わされるのかについて、彼女は物語を持っている
    • ポークチョップを食べるというような何の違いももたらさない行為が、彼女の人生において象徴的な意義[significance]を持つようになった
      • それを食べることは、彼女が工場畜産での豚の扱いを認めるということになる
  • Boeyの倫理へのアプローチをどう分類したらいいか正確にはわからない
    • どう分類しようとも、彼女が会話[conversation]を個人的なものにしている
      • 何者であるか、何者でありたいかについて自分自身と対話するよう、私たちに促している
  • 著者自身は、原理を経てその含意を考慮するという仕方で倫理をするのがしっくりくる。その構造と順序に魅力がある
    • 対照的に、Boeyは、アイデンティティに焦点を当て、人生について物語る方法で倫理を行うよう呼びかけている
    • 彼女のアプローチでは、他人のために倫理を行うというプロジェクトを諦めている。
      • 彼女のアプローチは明らかに一人称的観点であり、自分自身のために、自分について推論している
  • 著者自身の倫理のやり方には何らかの価値があると思われる
    • 倫理は、共有できる理由を探しながら一緒に行うプロジェクトである
      • そのゴールは、互いに納得できる基準に基づいて、他者との共生を考えるすべての人に賢明だと思われる道徳的指針を打ち立てること
    • しかし、これは倫理の唯一の概念ではないし、追求する価値のある唯一のものでもない
    • Boeyはもっと個人的な選択肢を示している。
      • ある意味で彼女は、今知っていることを知った上で、ポークチョップを同じように見ることができるかと問いかけている
      • これは自己吟味[self-examination]の倫理であり、理想に向かう志[aspiration]である

*1:私は別のブログサイトで、これに関する功利主義的議論を紹介している。

あなた1人だけがヴィーガンになっても無意味なのか?——菜食を巡る個人消費の影響と倫理的実践

上記の記事での議論の前提と、Fischerの功利主義的議論の前提の立て方が異なることに注意されたい。どちらが標準的なのかはあまり自信がないが、Fischerの方が標準的かもしれない。