ボール置き埸

私が興味を持ったことに関して述べるブログです。基本的に自分の考えをまとめ、記録することが目的です。長文の記事ばかりになると思います。もし批判等あればコメントをお願いします。※ルッキズム関連の記事について、今は少し考え方が変わっているので、昔の私の考え方だったというように思ってください。

行為功利主義と規則功利主義(シリーズ:功利主義を掘り下げる3)

 

mtboru.hatenablog.com

 

行為功利主義と規則功利主義をめぐる簡潔な説明は以下で行っている。

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0 はじめに

功利主義の一般的な理解は「行為が正しいのは、その行為が他の行為と比べてより善い帰結を生み出すとき、そのときのみである」というものだろう。これは行為功利主義と呼ばれる形態の功利主義である。行為功利主義功利主義批判のやり玉にあげられることが多く、典型的な「功利主義批判」のほとんどは行為功利主義に対するものである。

 だが功利主義の取りうる立場は行為功利主義だけではない。その最も代表的な代替案が規則功利主義である。規則功利主義は次のように定式化される。(これは粗雑な定義であり、再度定式化する)

規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。 
  2. ある規則体系が最適規則体系であるのは、その規則体系が他のどの規則体系と比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生welfare)をもたらすとき、そのときのみである。

行為功利主義との最も大きな相違点は、行為の評価の仕方である。行為功利主義において、行為は「その行為が他の行為と比べてより善い帰結を生み出す」かどうかで評価される。つまり行為は、その行為の帰結の観点から直接的に評価される。一方で規則功利主義では、行為は「最適規則体系に該当する行為である」かどうかで評価される。つまり、行為は規則から評価され、規則が帰結の観点から直接的に評価されることになり、評価は二段階に分かれる。

 規則功利主義は行為功利主義によくある批判を回避できるという点で支持されることが多い。例えば「行為功利主義では、最大善を生み出すためなら、嘘をついたり約束を破ったりしてしまう」という批判があるが、規則功利主義では「最大善を生み出すことができるとしても、嘘をついたり約束を破ったりすることは最適規則体系で禁止されていることなので、してはならない」としてこの批判を回避できる。これは直観に適っているという点で非常に魅力的だと主張されることが多いし、実際、規則功利主義を取る動機として直観との整合性を第一にあげる哲学者もいる(Hooker 2000、ただし、Hookerは規則功利主義ではなく独自の規則帰結主義を採用している)。

 だが、規則功利主義は正しいのだろうか。そして行為功利主義は間違っているのだろうか。このことを検討することが本記事の目的である。

 本記事の構成について説明する。1節では、上で示された規則功利主義をより具体的に定式化し、規則功利主義の2つの形態を示す。また規則功利主義の魅力を説明する。1節の最後では、よく混同される間接功利主義と規則功利主義の違いについても説明する。2節では規則功利主義の検討を行い、規則功利主義は魅力的でないことを示す。3節では行為功利主義の検討を行う。よくある批判を回避できるかを中心に検討し、行為功利主義が規則功利主義と比べて魅力的であることを示す。4節で以上の内容をまとめる。

 なお、日本語で読める規則功利主義の説明や検討は、安藤(2007 第2章, 2017)や永石(2014)で読める。

1 規則功利主義とは何か

本節ではまず、規則功利主義の順守版と受容版の2つの形態を説明する*1。次に規則功利主義の魅力を説明する。最後に間接功利主義と規則功利主義の違いを説明する。

1.1 2つの規則功利主義

先ほど示した規則功利主義 rule-utilitarianismを再度示す。

規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。 
  2. ある規則が最適規則体系であるのは、その規則体系が他のどの規則体系と比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生welfare)*2をもたらすとき、そのときのみである。

この定義のうち2の「その規則が他の規則と比べてより善い帰結をもたらすとき」が問題含みである。規則それ自体が我々の物理的世界で何らかの事態を引き起こすことはありえない。何らかの事態を引き起こすことができるのは物理的実体(つまり身体を持つ我々)である*3。したがって、規則がもたらす帰結は我々の行動を媒介として評価されなければならない。このとき、素朴に考えれば2を「全ての人がその規則に従ったfollowingときに、他の規則と比べてより善い帰結をもたらすとき」と変更するだろう。したがって次のように定式化できる。

 普遍的順守規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。
  2. ある規則が最適規則体系であるのは、全ての人がその規則体系に従って行為したときに、全ての人が他のどの規則体系に従って行為したときと比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生)をもたらすとき、そのときのみである。

だが普遍的順守規則功利主義には強力な批判が存在する。それは、この立場では行為功利主義act-utilitarianismに崩壊collapseしてしまうのではないか、という崩壊論法である。崩壊論法には主に3つの形式があるが(Hooker 2000, ch.4.2)、そのうちの一つをここで説明する*4*5

「いかなる場合でも嘘をついてはならない」という規則を考えよう。素朴には、この規則は最適規則のように思われる。しかし、例えば友人が人殺しに追われていて、私の家に逃げ込んできたとしよう。そこに人殺しがやってきて、友人が家に逃げ込んだかどうか尋ねる。ここで私が嘘をつけば、人殺しは別の場所を探しに行くだろう。しかし真実を言うか、黙ってしまうと、人殺しは中に無理やり入って友人を殺すだろう。ここで私は嘘をつかなければならないように思われる。したがって最適規則は「嘘をついてはならない。ただし、嘘をつかないことで友人が危険にさらされるのなら、嘘をついてもよい」となるだろう。しかし他にも例外はありそうである。そうすると「嘘をついてはならない。ただし、A、またはB、またはC……の場合は、嘘をついてもよい」というのが最適規則になるだろう。これはごくわずかな個々の事態にしか当てはまらず、結局、行為功利主義と変わらないことになってしまうのではないだろうか。

つまり、規則に例外を次々と追加していき長く複雑な規則を作りだせば、その規則が当てはまる状況下では確実に最大善を生み出すことができるだろう(それゆえ、それは最適規則体系のうちの一つの規則だろう)。しかしそれは行為功利主義が命じるところと何ら変わらないのではないか。

 この崩壊論法が本当に成功しているかは後で検討するとして、歴史的には、この批判に対しては「従う」の部分を「受容する accept」に変更することで対応されてきた。したがって次のような規則功利主義になる。

  普遍的受容規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。
  2. ある規則が最適規則体系であるのは、全ての人がその規則体系を受容して行為したときに、全ての人が他のどの規則体系を受容して行為したときと比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生)をもたらすとき、そのときのみである。

ここで「受容する」は、その規則に従うことを内面化することを意味する。内面化とは、規則に従うことに動機づけられ、もし従うことに失敗したなら罪悪感を感じ、また他者が規則違反をしているところを見かけたら嫌悪感を感じたり非難をしたりするようになることである(Hooker 2000 ch.3.2)。

 このような変更によって上述の崩壊論法を避けることができる。なぜなら、長く複雑な規則を内面化することは不可能であるし、仮に受容できたとしても、実践上でそれに従うことは非常に難しいだろう(実際の状況下において、どの規則がその状況に当てはまるかを判定するのに非常に時間を要し、したがってまったく現実的ではないので、そのような規則は最適規則体系のうちにはない)からである。

 以下では主に受容型の規則功利主義に焦点を当てて説明するが、本節での残りの議論は順守型の規則功利主義にも当てはまる。

1.2 規則功利主義の魅力

規則功利主義の魅力は何だろうか*6 。第一にして最大の魅力は、道徳的直観との一致である。行為功利主義が道徳的直観に反するとされ数多くの批判にさらされてしまうのに対し、規則功利主義は道徳的直観に反するようなことにはならないとされる。行為功利主義では、例えば我々の道徳的直観「約束はいつでも守られるべきである」や「我々の絶対的権利は侵害されてはならない」などを正当化できないとされる。というのも、約束を破ったり権利を侵害することが、そうでない行為と比べてより善いなら、約束を破ったり権利を侵害したりすることが(最善なら)正しい行為である、と評価するからである。だが規則功利主義では、例えば「我々の絶対的権利は侵害されてはならない」という規則の普遍的な受容(順守)は、そうでない規則の普遍的な受容(順守)と比べてより善い帰結を生むだろうから、そうした規則に従って行為することは正しいと評価することができる。当然、例外的な状況下では規則に従わないことがより善い帰結を生み出すときはあるが、規則に従わないことは不正な行為であると評価するので、規則功利主義は直観と一致した評価ができる。*7

 だがそうであるなら、初めから直観主義的な立場でいいのではないか、という疑いがあるだろう。しかし規則功利主義の魅力は、そうした多数の直観を統一的に説明することができるところにある。(素朴な)直観主義はただ単に直観を羅列するにすぎず、なぜそうした直観が正しいのかを説明できない。一方で規則功利主義は、諸直観がなぜ正しいのかを、規則の普遍的な受容(順守)という観点から説明することができる。我々は「なぜそれらは道徳的に正しいのか」を知りたいのだから、この意味で規則功利主義は(素朴な)直観主義よりも魅力的である。

 また、直観が不明瞭な、あるいは各人の間で直観が一致していない問題領域に関しても、規則功利主義は正しい行為を説明できる。例えば中絶論争や安楽死の問題などで、全ての事実に関して両陣営で同意があったとしてもなお、直観の不一致によって解決できない場合がある。規則功利主義はそうした場合でも、規則の普遍的な受容(順守)の観点から正しい行為を説明できる。この点は行為功利主義にも見られる魅力だが、それは規則功利主義にも生きているといえる。

 最後に、規則功利主義は直観という点以外でも行為功利主義よりも魅力的だと言われる。例えば行為功利主義では、上に見たように、少しでもより善いなら嘘をついたり約束を破ったりすることを(それが最善なら)正しいと評価する。しかしそうした行為は、我々の期待効果を失わせると批判される。期待効果は「太郎なら○○という状況下では△△するだろう」という期待によって生み出される効果である。行為功利主義では約束を破ったり嘘をついたりすることが容易になされてしまうので、こうした期待効果を望めず(功利計算によっていつ破られるかわからないので)、我々の互いの信頼関係を築くことができないとされる(行為功利主義が本当に期待効果を見込めないかどうかについては3節で議論する)。一方で規則功利主義では、たとえその時はより善い行為を選択できるとしても、規則に従うことが要求されるので、信頼関係を壊すことにはならない。*8

 ここまでの議論で規則功利主義が魅力的に見えているなら幸いである。最後に、よくある誤解として、規則功利主義と間接功利主義の違いを述べて2節に移る。

1.3 間接功利主義と規則功利主義の違い

規則功利主義はすでに説明した通りだが、これは間接功利主義と同じではないかとよく言われる。間接功利主義は前回の記事で詳しく説明した。

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直接功利主義(Direct Utiritarianism): 功利主義的枠組み(功利原理)を選択の決定原理(意思決定原理)とする。

間接功利主義(Indirect Utiritarianism):功利主義的枠組み(功利原理)を選択の評価基準とする。

間接功利主義において功利原理は、意思決定基準ではなく評価基準として用いられる。規則功利主義では、意思決定は規則に照らして行われるので、功利原理は意思決定の際に用いられていない。したがって規則功利主義は間接功利主義と同じではないだろうか。

 だがそうではない。意思決定の度に最適規則体系を功利原理を用いて考え、その最適規則体系に従う、という意思決定手続きを行っている行為者を考えよう。この行為者は最適規則体系に該当する行為をするので規則功利主義者だが、意思決定の度に功利原理を用いているので、直接功利主義者である。

 逆に、意思決定が経験則にしたがって行われているが、行為の正/不正の評価はその行為の帰結の観点から功利原理によって行われると考えている行為者を考えよう。この行為者は経験則に従っているが、この経験則は規則功利主義における最適規則体系とは全く異なる。規則功利主義において、規則はその規則の普遍的な受容(順守)の観点から評価されなければならない。しかし、個々人の日常の実践の中で身に着けてきた経験則が、そのような過程を経て評価されている場合はほぼないだろう。仮に、評価してみたら偶然にも最適規則体系のうちの規則であった、などということは論理的には可能だが、(少なくともそのままでは)最適ではない場合がほとんどだろう(経験則は個々人で多様であり、同じ状況に対して異なる行為を命じることは十分にありえるだろう)。するとこの行為者は、意思決定の度に功利原理を用いていないので間接功利主義者だが、最適規則体系に従って行為していないので規則功利主義者ではない。

 したがって、間接功利主義と規則功利主義は独立した立場であるといえる。*9

 

2 規則功利主義の問題点

本節では規則功利主義の問題点を検討し、規則功利主義が応答できるかを検討する。2.1節でよくある批判を取り扱い、規則功利主義の洗練を行う。2.2節で洗練された規則功利主義に関する問題を扱い、そのままでは維持できないことを示す。2.3節でまとめる。

2.1 よくある批判

ここでは3つのよくある批判を検討し、規則功利主義の洗練化を行っていく。

2.1.1 崩壊問題

まず崩壊問題にとりかかる。崩壊問題は受容版の規則功利主義では回避できるのだった。では順守版の規則功利主義では回避できないのだろうか。

 次の例を考えよう。*10

AとBは付き合っている。しかしデートの前日にお互いに連絡が取れず、当日の行き先がわからないとする。ここでそれぞれの選択肢は「映画館に行く」か「遊園地に行く」かどちらかである。互いの観点からは、相手がどちらに行くかは全くわからないとする。二人の厚生総量は以下の表で与えられているとする。

    B
    映画館に行く 遊園地に行く
A 映画館に行く 10 0
遊園地に行く 0 6

ここで、AとBにとって最善の帰結は、どちらも映画館に行くである。しかし行為功利主義では両者に「映画館に行け」と命じることはできない。なぜなら相手の行動の情報が一切ないため、決定的な行為指導action-guidanceができないからである。別の記事で検討したような期待値主義を取った場合、行為の正しさはその期待値がどのようになるのかに依存する。だがここで相手がどちらに行くかわからない場合、確率をどう割り振るべきか不明瞭であり(等しく割り振るべきか、厚生総量に比例して割り振るべきか、……)、決定的な行為指導ができない。そして事実主義を取るならなおのこと、相手が実際に取った行動によって自身の行為の正しさが決まるので、デート当日にならないと行為の正しさが分からない。要するに行為功利主義では、相手の出方がわからない場合に決定的な行為指導ができない場合があるということである。

 しかし順守版の規則功利主義ではそうならない。「互いに連絡が取れず相手が何を選択するかわからない場合、各選択ペアのうち互いの利益の総和が最大になるような選択ペアにしたがって選択せよ。」という規則が普遍的に(AにもBにも)順守されている場合を考えよう。この規則をこの例に適用すると、AもBも映画館に行くという選択が規則に該当する。それゆえ、AもBも映画館に行くことが可能となり、見事に映画デートを成功させることができる。規則功利主義では、ある規則が最適規則かどうかを考える際にある種の理想化を行うため、実際には相手の情報を利用できなくても決定的な行為指導ができる場合がある。 *11

 以上の考察から、順守版の規則功利主義も行為功利主義に崩壊しないことが確認できた。しかし順守版の規則功利主義は他に様々な問題を抱えているため、以下では受容版の規則功利主義に焦点を当てて議論することにする。

2.1.2 ルール崇拝問題

規則功利主義の魅力として、少しでも多く善を生み出すために規則を破ることを禁止すると説明した。だが、まさにこの点が問題ではないだろうか。最初の例で示したように、嘘をつかないと友人が人殺しに殺されるとしよう。この場合は明らかに、我々は嘘をつくべきだと思われる。どんな場合でも規則に従って行為しなければならないのならば、それは単なる「ルール崇拝」であり、非常に問題があるだろう。では規則功利主義はこの問題をどう説明するのか。

 ここで「いかなる場合でも嘘をついてはならない」などという例外のない規則は最適ではない、と応答することができる。そして受容版の規則功利主義では例外を多く追加していくことはないのだから、行為功利主義に陥ることはないし、例外だらけの規則にはならない。Hookerが提案しているのは「災いを防ぐ preventing disaster」場合には別の命令を下す規則である(Hooker 2000)。こうした例外程度なら受容可能だろう。したがって上記の例では「嘘をついてはならない、ただし、嘘をつくことによって災いを防ぐことができるなら、嘘をつくべきである」という規則になり、この規則を用いれば上記の例に対して直観と合致した結論を出せる。

 注意しなければならないのは、この判断は行為功利主義的なものにはなっていないという点である。行為功利主義では、厚生がほんの少しでもより多ければそのように行為するのがより善い(最大化されるなら正しい)とする。規則功利主義における最適規則体系が、そのようにわずかに厚生が多い程度で規則を破ることを例外として認めるとは到底考えられない。なぜなら、そうした些細な善が少し多い程度で規則を破ることを認めると、期待効果の問題、すなわち相手が規則を守るという期待が得られず、規則を守るという信頼を築くことができないという問題があるからである。それゆえそうした規則は最適規則ではない。一方で「災いを防ぐ」という例外条項ならば、そのようなことは起こりそうにない。「災い」は現実にはめったに起こることはないから、そのような規則が受容されている世界で、我々は基本的に人が規則に従うことを期待できるからである。

 だが、何が「災い」なのか、また結局のところ「災いを防ぐ」条項が追加されただけの規則を崇拝しているにすぎないのではないか、といった疑問が浮かぶだろう。これらについては2.2節で論じる。

2.1.3 部分順守問題

規則功利主義において規則の評価は「全ての人が受容(ないし順守)した場合」にどうなるかを検討することで行われる。だがなぜ「全ての人」なのか。

 その根拠の一つをカントの普遍化原理に求めることができる。

汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ。*12

普遍化原理と順守版の規則功利主義との類似性は明らかである。普遍化原理はそのままではあまり魅力的ではないが、「もしみんながそれをしたらどうなるか?」という問いが、我々の道徳実践と結びついているのは明らかだろう。

 しかし「全べての人が受容した場合」のままでは、いくつか現実的でない例に陥る。その一つとして、現実的には確実に規則を受容しない/できない人が存在するということである。例えばサイコパスのような人は実際には規則を受容することはないだろうし、赤子や重度の認知症の人などは(複雑な)規則を受容するということがそもそもできない。しかしもし「全ての人が受容した場合」の帰結を評価するままでは、このような例外的な人に対応する規則を作ることができなくなる。

 もう一つは刑罰である。もし道徳的な規則が全ての人に受容されたなら、刑罰の意義がほぼないだろう(「受容する」ことが、その規則を内面化することだったことに注意しよう)。したがって「全ての人が受容した」世界では刑罰をわざわざ作ることは無駄にコストがかかり、廃棄されなければならないだろう。だがこれでは現実が悲惨なことになってしまうのは明白である。

 以上のことから、「全ての人が」という部分を「圧倒的多数の人々が」と変更する方策がとられてきた。再度、受容版の規則功利主義を定式化すれば次のようになる。

  一般的受容規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。
  2. ある規則が最適規則体系であるのは、圧倒的多数の人々がその規則を受容して行為したときに、圧倒的多数の人々が他のどの規則体系を受容して行為したときと比べても、少なくともより善い帰結(より大きな厚生)をもたらすとき、そのときのみである。

では圧倒的多数とはどれくらいか。Hooker(2000)が提案しているのは人口の少なくとも90%以上である。Hooker自身も認めているようにこれは恣意的な数値であり、いずれ解決しなければならない問題だが、ここではひとまず人口の90%以上と理解しておこう。

 以上、些細な問題として3つ考えてきた。崩壊問題は順守型でも回避でき、ルール崇拝問題は「災いを防ぐ」という例外条項の追加によって回避できることがわかった。そして「全ての人」ではなく「圧倒的多数の人々」が受容した場合を考えることで、反直観的な結果を回避できることがわかった。次に、こうして洗練された規則功利主義にどのような問題があるのかを見ていく。

2.2 洗練された規則功利主義の問題点

ここでは直前に示した「一般的受容規則功利主義」を念頭に置いて、その問題点を指摘し、この立場が維持可能かどうかを検討する。

2.2.1 要求性の問題:規則功利主義の場合

規則功利主義への代表的な批判として、次のようなものがある。

a, b, c からなる 3 人社会を考えよう。a が食糧不足による飢餓状態にあり、b, c は同じくらい十分に余剰の食料を有しているとする。a が生存のために 10 単位の食料を必要としており、またそれ以上の食料も不要だとしよう。「余剰な食料を有しているものは他者の生存に必要な食料を応分に負担して供給せよ」という規則を考える。この状況で、b と c はそれぞれ 5 単位の食料を―――それよりも多くもなく少なくもなく―――拠出すべきことになるだろう。だが、仮に b が 5 単位の食料を拠出する一方で、c がこの規則に従わず、食料の拠出を拒んだとしよう。このままでは a は苦痛に満ちた餓死を迎えることになってしまう。b はどうすべきだろうか。(安藤 2017, p.2)

規則功利主義者は、「災いを防ぐ」という例外条項で対処できる、と主張するだろう。したがってbは、cが何もしていないので、災い=aが餓死することを防ぐために、aに余剰食糧を与えなければならない。

 だがこれは危ない一歩を踏み出している。こうした事例が何度も続くことを考えよう*13。そのたびにbはaに対して余剰食糧を提供しなければならないのだろうか。もしそうなら、bは自身が食料を必要とするようになるまで、延々とaに余剰食糧を提供しなければならないことになる。悪いのはどう考えてもcなのだが、cが規則を順守しないことによって、bに多大な負荷がかかってしまっている。

 このようにbに不当なほどの義務が要求されるのだとしたら、そのような規則を圧倒的多数の人が受容するのは非常に難しいのではないだろうか。受容は内面化であったことを考えれば、この規則が圧倒的多数の人に受容されるということは、そのような多大な負荷のかかる規則を圧倒的多数の人が内面化することを意味する。だがこれは現実的に不可能だろう。受容される規則は、ある程度ゆるい規則でなければならないのである。したがって、ここで受容されるであろう最適規則は「余剰な食料を有しているものは他者の生存に必要な食料を応分に負担して供給せよ。ただし、災いを防ぐためなら応分以上に負担して供給せよ。ただし、それが負担になりすぎるのであれば供給しなくてもよい。」となるだろう。この程度の複雑さなら何とか受容できそうである。だが、もしこの規則が受容されたならば、負担になりすぎる段階に到達した場合、bは余剰食糧を供給できるのにも関わらず、bにはaに余剰食糧を供給する義務がないことになる。当然、aは餓死を迎えることになる。

 ここでbはどうすべきだろうか。規則を無視してなお、食糧を供給すべきだろうか。ここで、規則が供給することを許容していることは重要である(「供給しなくてもよい」であるから)。だが許容では不十分かもしれない。bにはまだ余剰食糧がある。規則功利主義者があくまでも功利主義者であろうとするなら、ここでbは余剰食糧を供給しなければならないのではないだろうか。しかしそうした規則を受容させる道は既に絶たれている。

 次の問題を検討した後、再度この問題の解決策を探ることにする。

2.2.2 「災い」をどう判断するか*14

規則に「災いを防ぐ」という例外条項を加えることで、たしかに最適規則体系は行為功利主義に陥ることなく、「災い」を防ぐことに成功しているように見える。

 ここで規則功利主義における行為の評価手順を考えよう。まず圧倒的多数の人が規則体系を受容しているという理想的な世界を考え、最適規則体系を見つけ出す。次に、規則体系内のどの規則が当該の事態に該当するのかを判断する。見つけ出された規則には「災いを防ぐ」という例外条項が含まれている。ではその際の「災い」の判断はいかにして行われるのか。

 厚生総量に訴えかける以外に方法がないだろう。というのも、規則功利主義において、(規則の)帰結の善悪はあくまでも厚生総量によって評価されるからである。もし「災い」が厚生総量以外の何かで判断されるのならば、それはもう別の評価基準の導入にほかならず、功利主義以外の何かである。*15

 したがって、規則功利主義はあくまでも、「災い」を厚生総量に訴えて評価しなければならない。ここで、規則功利主義における行為の正しさの評価がどのようにして行われるかをもう一度考える。最適規則体系がすでに見つけ出されているとしたら、評価手順は次のようになる。

  1. 当該の状況下に関する規則はどれなのかを、最適規則体系から見つけ出す。
  2. その規則の非例外条項に該当する行為をすることで、帰結の厚生総量が非常に悪いかどうかを判断する。(「災い」の判断)
  3. もし悪いなら、規則に戻って「災い」の例外条項を参照し、それに該当する行為かどうかを判断する。
  4. もし悪くないなら、規則に戻って非例外条項を参照し、それに該当する行為かどうかを判断する。

2の判断が「災い」の判断であるが、これは規則功利主義にとって厄介なステップである。規則功利主義の定義を再度記す。

  一般的受容規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。
  2. ある規則が最適規則体系であるのは、圧倒的多数の人々がその規則を受容して行為したときに、圧倒的多数の人々が他のどの規則体系を受容して行為したときと比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生)をもたらすとき、そのときのみである。

ここではすでに最適規則体系を見つけ終えているので、問題となっているのは1である。1を素直に読めば、行為の正しさは最適規則体系に該当するかどうかによって評価される、となるだろう。ここに功利原理の出る幕はない。功利原理による評価は、最適規則体系を見つけ出す際にのみ許されるのである。

 しかし、上記の評価手順を見ると、行為の評価をするためにある帰結が「災い」であるかどうかを判断しなければならないが、その「災い」の判断は、行為の帰結を厚生総量によって評価することを要求してしまっている。

 問題は明らかである。行為の評価をするために規則に一致するかどうかの判断が行われるが、「災い」条項の導入によって、規則との一致の判断それ自体が、行為の厚生総量による評価を要求していることになってしまっている。もしそうだとするなら、なぜ初めから行為功利主義を採用しないのか、と問われるだろう。

2.2.3 規則功利主義の取りうる選択肢

上記までの問題を整理する。

 2つの問題が存在する。まず要求性の問題である。「災い」条項の導入によって規則功利主義は不当な義務要求をすることになってしまうのだった。そのような規則を受容することはできないため、これを避けるために「負担が大きくない限り」という例外条項をさらに付け加えなければならなかった。このことは、当初「災い」条項の導入によって意図していた「災いを防ぐこと」が達成されなくなることを意味している。

 もう一つの問題は、「災い」条項の導入によって、行為の評価を規則に訴えるにあたって、行為の帰結の厚生総量にも訴えなければならないのだった。そうであるなら、なぜ初めから行為功利主義を採用しないのかが問題となる。

 どちらの問題も「災い」条項の導入が起因している。したがって、ここで規則功利主義者に可能な選択肢は次の通りである。*16

  1. 行為功利主義へと移行する。
  2. 「災い」条項を拒絶し、義務論的な開き直りをする。
  3. 「災い」条項以外での「災い」の回避を探り、規則功利主義を維持できる形にする。
  4. 「災い」条項を認め問題を引き受けつつ、規則功利主義を維持できる形にする。

1と2は別の立場への移行にほかならない。したがって規則功利主義が生き残るには3と4しかない*17。しかし我々はこれらの道を取るのではなく、1の道、すなわち行為功利主義に移行して、問題に対処することにする。

 

2.3 2節のまとめ

 本節では規則功利主義の検討を行った。2.1節では規則功利主義にまつわるよくある問題を片付け、一般的受容規則功利主義という形に規則功利主義を洗練させた。2.2節では洗練された規則功利主義に関する2つの問題を扱い、問題を回避するには行為功利主義や義務論に移行するか、なんとかして問題を回避する方法を探るという道しかないことを示した。次節では行為功利主義を検討する。

 

3 行為功利主義の検討

本節では行為功利主義を検討する。まず3.1節で、行為功利主義に向けられるよくある批判を説明する。3.2節で、行為功利主義がそれらに対してどのような応答が可能かを検討する。

 ここで一度、行為功利主義について簡単に定式化しておくのが有意義だろう。

行為功利主義:ある行為が正しいのは、その行為が他のどの行為と比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな厚生)をもたらすとき、そのときのみである。

「シリーズ:功利主義を掘り下げる」の今までの2つの記事で検討してきたように、我々は客観的期待値主義と間接功利主義を採用している。したがってここで検討する行為功利主義は、客観的期待値-間接-行為-功利主義である。

3.1 行為功利主義の問題点

ここではラザリ=ラデクとシンガー(2018)にならって、行為功利主義の問題点を3つとりあげる。

3.1.1 要求性の問題:行為功利主義の場合

一つ目は要求性の問題である。これは規則功利主義の方でも取り上げたが、要点をいえば、不当unreasonableなほど道徳的義務を要求demandingしすぎるということである。

 ラザリ=ラデクとシンガーの議論(2018, pp.92-96)を見てみよう。世界には絶対的貧困に苦しんでいる人が数多くいる。もし寄付金が集まって、効率的に使用することができるなら、そうした人々の苦しみを取り除くことができる。ところで、絶対的貧困の人々と比べて私たちは非常に裕福な暮らしをしている。我々が限界まで生活を切り詰めれば、ある程度の余剰のお金が生まれるだろう。こうしたお金を自分のため、あるいは家族やパートナーのために使用することは正しいことだろうか。もし我々が、そうしたことに使うことなく寄付したならば、別のことに使用した場合より、明らかに厚生の総和が大きいだろう。それゆえ行為功利主義は、我々に娯楽のほとんどを認めず、寄付を迫るのではないだろうか。*18

 もしそうだとするなら、これはあまりに要求しすぎているのではないだろうか。ここで義務と超過義務supererogationの区別を用いて説明する。超過義務は「義務以上の義務」とも呼ばれ、実際には義務ではないが、それをしたら賞讃されるようなものである。この例では、ある程度までの募金は義務かもしれないが、一定以上に厳しい寄付の要求は超過義務のように思われる。だが行為功利主義では超過義務の居場所はどこにもない。厚生を最大化させるのであれば何であれ義務である。

3.1.2 特別な関係にある人への義務の無視

行為功利主義では特別な関係にある人への義務を無視するという批判がよくある。これは家族や友人、パートナーなどへの義務である。

 例えば親は、自分の子どもに対して、養育全般に関して特別な義務があるだろう。しかしそのような特別な義務は、他の家の子どもに対しては持っていないだろう。

 しかし行為功利主義の定義には、そのような特別な義務を含んだ記述が一切含まれていない。行為功利主義は、その行為が善(厚生)を最大化するかどうかのみによって行為の正/不正を評価するのだから、特別な義務の居場所はどこにもないように思われる。これは非常に反直観的である。

 ここで先ほどの要求性の問題とあわせて考えると、問題はさらに深刻である。要求性の問題は、世界のどこかで苦しんでいる人々への寄付を要求していた。自分の子どもへの(生きるのに必要な分を上回る余剰な)投資を寄付に回すことができるなら、その方が善(厚生)の総和をより大きくすることができるとしよう。すると親は、自分の子どもに対して余剰投資をせず、遠くの貧しい人々への寄付を道徳的に義務づけられているかもしれない。自分の娯楽のための余剰を寄付に回すのはまだ納得ができるかもしれないが、親のそうした特別な義務までをも無視し、最低限の投資にとどめて他すべてを寄付に回さなければならないのはあまりにもっともらしくないだろう。

 こうした問題は行為功利主義の不偏性impartialityにあるといわれることがある。不偏性とは、人々を偏りなく平等に扱うことである。これは素朴にはもっともらしいように思えるが、以上に見たように、我々は特別な関係にある人に対して重みづけているので、我々は偏ったpartial扱いをしている。

3.1.3 行為の過剰な許容性

最後の問題は、行為功利主義はありとあらゆる行為について、それを許容する場合がある、という批判である。例えばある人を拷問することが最善であるとしたら、そこでは拷問することが道徳的に正しいと行為功利主義は説明する。嘘をついたり約束を破ることも同様に、それが最善であれば、そうするのが道徳的に正しいとする。行為功利主義は、いかなる場合でも不道徳で許されない行為だと我々が直観的に思っていることを、そのような行為でも道徳的に正しい場合があると主張する点で、何かがおかしいのではないだろうか。

 これに関連した問題は規則功利主義の魅力を説明するところでも述べた。

例えば行為功利主義では、上に見たように、少しでもより善いなら嘘をついたり約束を破ったりすることを正しいと評価する。しかしそうした行為は、我々の期待効果を失わせると批判される。期待効果は「太郎なら○○という状況下では△△するだろう」という期待によって生み出される効果である。行為功利主義では約束を破ったり嘘をついたりすることが容易になされてしまうので、こうした期待効果を望めず(功利計算によっていつ破られるかわからないので)、我々の互いの信頼関係を築くことができないとされる(行為功利主義が本当に期待効果を見込めないかどうかについては3節で議論する)。

最後の部分で述べたように、以下ではこれらの問題に行為功利主義がどのように対応できるかを検討していくが、その前に規則功利主義による回答を見ておく。

3.1.4 規則功利主義による回答

以上、3つの問題点を取り上げたが、規則功利主義がこれらの問題を回避できるということを見ておくのは有意義だろう。

 まず要求性の問題は、そうした過剰な要求をするような規則を受容することは不可能だという点で回避できる。すでに説明したように、規則功利主義では逆に、そうしたことを回避すること自体が功利主義的ではなくなるという問題があるが、しかし回避できることは確かである。規則功利主義からはある程度の寄付が要求されるくらいであり、その程度は、我々が規則をどれほど容易に受容できるか、その受容コストにかかっているといえる。

 特別な関係にある人への義務についても同様である。特別な関係にある人への義務を無視するような規則の受容は困難である。我々はすでに偏った関心を持っている。友人、家族、パートナー、あるいは同じ国民に対して、そうでない人に対してより強い愛着を持っている。こうした愛着を所与とすれば、完全に不偏的な規則の受容は非常に困難である。それゆえ、そうした規則が最適規則体系に位置付けられることはなく、むしろ、特別な関係にある人への義務を特徴づける規則が採用されるだろう。仮に我々が不偏的な愛着を持つことができるとしても、それは非常に希薄な愛着になってしまうだろう。そうした場合、我々は身近な人への特別な義務へと動機づけられるどころか、寄付へと動機づけられることも困難になりかねない。何より、周りの人間との円滑な関係を築くことが難しくなるかもしれない。こうしたコストや受容コストを考えれば、不偏的な規則が最適規則体系に位置付けられるとは考えにくい。

 最後の行為の過剰な許容性の問題にも答えられる。まず、我々が許容できないという行為のほとんどについて、そうした行為を許容するような規則は厚生を最大化するような規則ではないだろう。したがってそれらの行為を禁止するような規則が最適規則になるだろう(もちろん、「災い」条項があることによってある程度の許容性はあるが、それは「過剰」ではないだろう)。また既に述べたように、約束や嘘をつかない事を規則とし、それに従うことを強く要求することによって、期待効果を見込むことができる。そうすることでこうした規則を維持でき、信頼関係の下で円滑に物事を進ませることが可能となる。

 以上のように、規則功利主義は行為功利主義の主な問題を全て容易に回避できる。しかしすでに論じたように、規則功利主義は維持できないか、少なくとも大きな改良が必要である。したがってここで規則功利主義に戻ることはできない。我々はこれらの問題に対して、行為功利主義の観点から回答しなければならない。

3.2 行為功利主義による回答

3.2.1 要求性の問題への回答

まず要求性の問題について、いくつかの回答を考えることができる。

 第一に、実際にはそこまで要求されることはないだろう(シンガー(1999)、ラザリ=ラデク, シンガー(2018)、Bykvist(2009))。たしかに、我々自身の娯楽を限界まで制限し、余剰のすべてを寄付することは正しい場合がある。だがそれを長期的に続けていくことは不可能である。おそらくどこかで心身に影響を及ぼし、継続することができなくなるだろう。それゆえ我々は、通時的に継続できる範囲で制限し、余剰を寄付すべきだ、といえる。*19

 だが、仮に第一のことが正しいとしても、それでもなお要求が厳しすぎることは考えられる。継続できるギリギリとはいったいどれくらいだろうか。当然、人それぞれでことなるだろうから一概には言えないが、少なくとも、自身の娯楽の大幅な制限は必須だろう。ではこれをどう回避すればいいだろうか。

 第二に、不正であることと非難に値することとを区別できる(シンガー(1999)、ラザリ=ラデク, シンガー(2018)、Bykvist(2009))。この区別は前回の記事ですでに議論してあるが、これによって、行為功利主義者は「たしかに、寄付が不足していることは不正である。しかし十分に寄付しているなら、それが不正であったとしても、非難に値するわけではない」と答えることになる。我々はもしかしたら、この2つを混同して検討しているかもしれない。それゆえ、これら2つを分けることで、自身の反直観性がどちらからきているのかを明確に把握できるようになるだろう。そしてもし「非難に値すること」の方からその反直観性が来ているのだとしたら、それは的外れな批判であることになる。*20

 第三に、道徳的理由は他の理由に対して優越的overridingではない(Bykvist(2009))。我々は様々な行為理由を持っている。代表的なものとして、合理的(利己的)理由、道徳的理由、法的理由などがある。メタ倫理学において、道徳的理由は優越的であるとされることがある。ここで優越的理由とは、以下のような理由である。

優越性overridingness

全てのことを考慮したなら、道徳的理由は他のいかなる種類の理由よりも優越する。

(Bykvist(2009 p.101) )

しかし我々は、道徳的理由の優越性を否定する立場に立つことができる。するとどうなるか。我々はたしかに、非常に厳しい行為をする道徳的理由を持っている。だがその道徳的理由は、全てのことを考慮したとしても、我々の行為理由において優越しない。我々は他の様々な非道徳的理由(自己利益や、特別な人への配慮をする理由など)を持っており、全てのことを考慮した際には、それらの理由が道徳的理由に優越する場合があるだろう。したがって、我々はたしかに道徳から非常に厳しく要求されているのだが、我々はそうする行為理由を優越したものとみなしていないのである。我々が過剰な要求を反直観的に思うのは道徳的理由の優越性にあるのであって、それが誤りであるなら、そもそも我々は要求に従う優越的な理由を持っていないことになる。*21

 第四に、功利主義がこのように非常に高い要求をするのは、現に世界が非常に悪く、我々はいつでもその改善に貢献できるゆえである(ラザリ=ラデク, シンガー(2018))。おそらく1世紀以上前の時代では、遠くの貧しい人に効果的に貢献できる方法がなかったかもしれない。もしそうならば、その時代ではこうした過剰な要求はなされなかっただろう。だがいまや、我々はいつでも改善に貢献できるし、その貢献度を容易にモニターできる。我々の住む世界は非常に悪いが、しかし、改善のための手段を容易に選択できるのである。部族道徳的な直観を持つ我々には、このような世界で道徳的に生きるのは大変困難なものとなるだろうが、そうした世界である以上、我々には多くの要求がなされるのである。

 まとめると

  • 心理的に継続できる範囲での要求に制限される
  • 非難に値することと不正さの区別
  • 道徳的理由の優越性の否定
  • 現実のこの世界の悪さ

という回答が行為功利主義から可能となる。*22

 ここまでで明らかなように、私自身は、要求性の問題にはある程度の開き直りが必要だと考える*23。なぜ「道徳が要求しすぎている」などということが理論的な問題として扱われなければならないのか。それはその批判者の怠惰ではないのか。自分の生活を切り詰めてまで道徳的に生きたくないという(無意識的な)わがままに、我々は耳を貸す必要はないのではないだろうか。

3.2.2 特別な義務の無視への回答

上記の要求性の問題への回答から、ここからの2つの問題への回答法もある程度見えてくるだろう。まずは特別な関係にある人への義務の無視の問題について回答していく。

 第一に、遠くの見知らぬ人と身近な人とを比べて、どちらの人をより適切に気にかけることができるだろうか。当然後者である。要求性で見たように、遠くの人への寄付の義務は残ったままであるが、その上で、身近な人の方が上手く気にかけることができるという心理的事実を利用することで、ある程度の重みづけが結果的に支持されるだろう(シンガー(1999))。

 また、上手く気にかけられるだけでなく、実際にそうした役割分担をした方がうまく行くだろう。例えば、私が自分の子どもと他人の子どもとを偏りなく見ていたとしても、他の親もそうする保証はどこにもない。現に他の人はすでに自分の子供の面倒を見ているのであって、私がわざわざ気に掛ける必要はない。したがって現実の状況を所与とすれば、我々は自分の子どもの面倒に特に関心を持つ理由がある。仮に現状からの改革が視野に入ったとしても、誰もが不偏的に関心を持つような社会より、ある程度の役割分担がなされている方が分業によって結果的に望ましいだろうから、行為功利主義は、誰もが不偏的に関心を持つような社会設計を目指すことはないし、正当化もしないだろう。ただし、完全に偏った見方は望ましくない。そうした態度より、ある程度の不偏的な視点を持ち、寄付をはじめとして、世界中で問題となっていることに対してできるところから実践をしつつ、自分の住んでいる地域や身の回りの人の問題を中心に目を向け行為しようと動機づけられる方が、結果的に厚生の総和を最大化するだろうと私は考える。

 第二に、我々の多くは、特別な関係にある人との親愛なる関係を築くことに幸せを見いだしている(シンガー(1999)、ラザリ=ラデク, シンガー(2018))。家族や友人、パートナーと深い関係を築くことは、我々の福利well-beingを構成する重要な構成要素である。もし我々が不偏的な関心を持とうとしたら、これらの福利が失われ、ひいては厚生が大幅に減るだろう。もちろん、その際の厚生の増減を検討しなければならない。そうした不偏的な視点を持つことによる貧しい人の厚生の増加分と、我々の厚生の減少分を比較しなければならない。おそらくバランスの取れるところがあるはずであり、そこでは、ある程度の偏った見方と、一方で不偏的な視点も持つことがより善いかもしれない。

 以上のように、我々は、ある程度の偏った見方と、不偏的な見方とを共存させることが望ましいように思われる。そんなことが可能なのだろうか。その1つの方法として、ヘア(1994)の二層レベルの思考法を採用することができるだろう。ヘアの二層理論は、我々の思考を直観レベルと批判レベルにわけ、普段は直観レベルでの思考で判断しつつ、そこで問題が生じた場合に批判レベルに移る、というものである。このような考え方を採用すると、直観レベルの思考では偏った見方を持ち、批判レベルの思考では不偏的な視点に立つということが望ましいかもしれない。

 第三に、ここでも同じように、ある程度の開き直りが必要である。我々の部族的な道徳的直観の悲惨さはグリーン(2015)が説明するまでもなく良く知られていることである。それゆえ、我々の部族的な道徳的直観を修正すべきだということは避けられないように考える。

3.2.3 行為の過剰な許容性の問題への回答

最後に過剰な許容性の問題に回答する。ここでは問題を

  1. どんなに惨い行為でも、場合によっては許容し、正当化する
  2. 期待効果を見込むことができない

の2つに分ける。まず前者の問題には、たしかにその通りだが、むしろ、どんな状況でも許されない行為があるという方がよほどもっともらしくない。ラザリ=ラデクらの次のような例を考える。(ラザリ=ラデク, シンガー(2018, p.112-114)の例を少し改変して短くして用いている。)

ある宗教的信念によって、世界中の人を苦しませながら殺すことが世界救済への道だと信じている人がいる。この人が、実際に世界中の人を苦しませながら殺すことができる時限爆弾を起動させたとする。この人をなんとか捕まえることができ、様々な説得や対話を行ったが、解除コードを教えてくれない。爆発時刻がもう少しのところまで迫っている。ここで、もし彼を拷問したらほぼ確実に解除コードを言うだろういう個人プロファイルが得られたとする。

ラザリ=ラデクらによれば、最初の直観的な反応をいったん横に置き「(われわれの信ずるところでは、真剣に考える人なら誰もが)このような状況下では拷問が正当化されるという結論に至るだろう。」(ラザリ=ラデク, シンガー(2018, p.114))

 ラザリ=ラデクらの主張は楽観的すぎるように思うが、しかし、いかなる状況下でも許されない行為タイプの存在を、少なくとも私は全く信じることができない。もしそのような行為タイプの存在を主張して功利主義を批判するなら、むしろ、そのような行為タイプが本当に存在するのか、存在するとしたらなぜ許されないのか、と問い返せばいいだろう。

 また、行為功利主義者はいつでも功利原理にしたがって帰結を評価し、意思決定をしている、というような批判を受けるが、それは前回の記事で検討したように誤りである。我々は経験則を重く見る。日常生活の中で功利計算を行うのは極めて不正確なものになりがちであり、それよりも、それまでの時点である程度うまく行っていることがわかっている経験則を重く考え、基本的に経験則に従って行為するのが良い場合が多いだろう。したがって、いかなる状況でも許されない行為について、行為功利主義者はその行為についての経験則を重く考え、ほとんどの場合は許されないと判断するだろう。

 ここで規則功利主義と比較したときの利点は、経験則の例外的状況に対して理論的に容易に答えられることにある。例えば規則功利主義の「災い」条項のようなことを、行為功利主義はどのように説明するのかを考える。すると、行為功利主義にとって「災い」を考えることは理論的に何の問題もないため、規則功利主義にある問題(「災い」の判断を組み込むことが理論的に困難という問題)をもっていない。素直に、客観的には功利原理によって評価すればいい*24

 だが意思決定手続きに功利原理を持ち込むなら、結局のところ、2つめの問題である期待効果の問題を解決できないのではないか、という疑いがある。これに対しては、経験則をそれ自体として評価するような傾向を持つことが結果的に望ましいだろう、と答えることができる(Bykvist(2009))。約束を破る機会に出会う度に功利原理に照らして判断するようでは、期待効果を見込めないのはそうである。だが我々は間接功利主義を取るのだから、意思決定手続きに功利原理を用いる必要はない。むしろ我々は、経験則をそれ自体として評価する傾向を持ち、経験則を維持させることによって、互いの信頼関係を築き上げ、より善い帰結をもたらすことができるだろう。したがって行為功利主義者の意思決定手続きには、経験則をそれ自体として扱うような手続きが存在するだろう。

 もう少し具体的に説明する。例えばダイエットしている人を考えよう*25。その人は目の前のいくつかのケーキについて「1個くらいなら食べても大丈夫」と思っているかもしれない。実際、1個だけ食べたくらいならほぼ影響はないだろう。だがその一歩を踏み出せば、ずるずると食べ続け、結局何個も食べてしてしまう。我々の心理的傾向から考えて、最初の一歩を踏み出さないことが重要であり、それゆえ経験則はそれらを防ぐ役割を持たなければならない。もしそこで、ダイエットの当事者が「このルールは経験則だから……」と思ってしまっては経験則に動機づけられなくなってしまう。したがって、我々は経験則をそれ自体として重く見るようにならなければならない。これは、経験則をそれ自体として評価させる行為功利主義的なアプローチの1つである。これによって規則功利主義でいうところの「規則」を、行為功利主義の中でも実践上で経験則として位置付けることが可能となることを示している。これによって期待効果を行為功利主義によっても十分に見込めることが分かるだろう。

 しかし経験則をそれ自体として重く見すぎてしまうと、結局のところ規則功利主義と実践が変わらないのではないだろうか。経験則を破ることが少しでもより善い場合に、行為功利主義では(それが最善なら)その行為を正しいとするのだが、実際の我々は経験則を重く見すぎてしまったばかりに、正しい行為を行うことができないのではないだろうか。

 まず理論的な問題として、我々が実際には正しい行為を選択し損ねたとしてもなお、その個別の行為それぞれは正しいといいうる。間接行為功利主義では「正しいright」ことと「なすべき ought」ことを区別できる。なぜなら、「正しい」は客観的な評価基準に関わるのに対し、「なすべき」ことは意思決定手続きに関わるからである。これは事実主義に立てばよりわかりやすいだろう。事実主義において、行為の正しさは常に行為実行後の実際の帰結から判断される。一方でなすべきことは行為実行前のこととして扱われる。したがって事実主義において「なすべき」ことは「正しいこと」とは異なる。客観的期待値主義でも類似の議論を提供できるだろう。それゆえ、間接行為功利主義において、我々は「そうすべきではない」かもしれないが、なお「そうすることは正しい」と主張できる。

 だがこれに違和感を感じる人もいるだろう。そこで実践的には次のように答えられる。たしかに、個々の行為のみを切り取って評価すればそれぞれは正しいかもしれない。だがその後に続く行為とその帰結までを考慮すれば、結果的には最善になっていないのではないだろうか。そして、そもそも、期待効果を望めないことによって最善にならないのなら、行為功利主義はそんな行為を正しいとはしないのである*26。行為功利主義を期待効果によって批判するためには、期待効果を必要とするが期待効果を望めず、しかし行為功利主義的に最善になるような事例を持ち出さなければならない。だがそんなことをしてしまうのは批判者自身にとってもデメリットである。期待効果なくして最善になるような事例では、そもそも期待効果を必要としないだろうといえるからである。

 

3.3 3節のまとめ

以上が、3つの問題に対する行為功利主義からの回答になる。要求性の問題には、そもそもそこまで要求することはないし、仮に要求するとしても、非難と不正さを区別して考えるべきであり、また我々はその要求に従う優越的な理由を持っていないかもしれないと答えることができた。特別な関係にある人への義務も、我々の心理的傾向からして完全に不偏的な要求はされないだろうし、我々の部族的な道徳的直観を考えれば、ある程度の不偏的な見方は必要であることがわかった。そして行為の過剰な許容性に対しては、そもそもいかなる状況でも許容されない行為タイプの存在が疑わしいと返答できることがわかった。期待効果を望めないという批判には、経験則それ自体を重く考えることで、規則功利主義の「規則」と同じような役割を果たしつつ、規則功利主義では困難である「災い」の判断を容易に提供できることがわかった。

 多くの議論が人間の心理的傾向に訴えるようなものであることが気になるかもしれない。これらの議論はより詳細な洗練化が必要であるし、その多くは経験的事実に依存してしまうのは否めない。しかし次節で述べるように、ここまで説明してきたアプローチは十分に魅力的であると私は考える。

 

4 まとめ

本記事での内容をまとめる。

 1節で規則功利主義の二つの見解として、順守版と受容版を説明した。またそこで規則功利主義の魅力を説明し、最も魅力的な点は直観との一致・説明力にあることを説明した。また間接功利主義と規則功利主義の違いも説明した。

 2節では規則功利主義の検討を行った。最初にいくつかの問題を扱って規則功利主義を洗練させたあと、その洗練された規則功利主義でさえ維持できないという結論に至った。そこでは「災いを防ぐためなら、規則に違反していい」という例外条項の導入によって、行為功利主義に急接近してしまい、なんら変わりないものになってしまったのだった。

 3節では行為功利主義の問題点を紹介し、それらの問題点への回答を検討した。これらの回答は根拠として弱いものもあれば決定的なものもあるだろうが、行為功利主義が全く取るに足らないわけではないことを示した。

 3節での回答からわかるように、行為功利主義において正しい答えを出すためには、経験的事実にかなり依存してしまうという点は強調されるべきである。行為功利主義において、世界や人間についてもっとよく知らなければ、我々は道徳判断を正しく下すことはできない。これは欠点だろうか。そうではないだろう。我々が正しい道徳判断を下すためには、より多くの知識を必要とすることは当然であり、むしろ、事実を良く知らないのに道徳的に正しい答えを出せるはずがない。おそらく、新たに得られた知見によっては行為功利主義の回答が大きく変わるかもしれない。しかしそれは行為功利主義の欠陥を示しているわけではなく、むしろ、行為功利主義は経験的事実に根ざした自然主義的な立場であることを示しているのである。

 本記事では行為功利主義と規則功利主義に焦点を当てたが、功利原理の評価対象は行為と規則だけではない。代表的な立場として動機功利主義や徳-功利主義などがある。これらの検討は別の機会に譲りたい。

参考文献

*1:実際には、他にも様々な形態の規則功利主義・規則帰結主義がある。それらの紹介は安藤(2007 第2章)、永石(2014)、Miller(2014)を参照。

*2:ここで「より大きな厚生」ではない評価基準で帰結を評価する立場を規則帰結主義として扱うことができる。ここで厚生welfareは主観的福利subjective well-beingであり、福利well-beingとは内在的個人的価値intrinsic personal valueである。価値に個人的価値でないものが存在するかどうか(例えば、誰も存在しない世界での美しい景色は価値を持つか?)、福利は厚生に尽きるのか(つまり福利は主観的福利しか存在しないのか)、などは価値論や福利論で議論されているところだが、ここでは詳細に扱わない。福利論については森村(2018)、価値論についてはSchloder(2016)を参照。残念ながら、分析系の現代的な価値論についての日本語文献は管見の限り一つもない(誰か知っていたら教えて欲しい)。福利論については本シリーズの別の記事で取り扱う予定である。

*3:ここで、規則が我々の行動に対して因果的に介入しているのだから、規則それ自体が何らかの事態を引き起こしているのではないか、という反論があるかもしれない。私自身は極端な物理主義的偏見に侵されているので、「規則」なる存在者が実在しているとは考えない(我々の集団的信念に還元されるだろうと考える)が、なんにせよ、規則それ自体が物体を動かすわけではないという点で、我々の行動を媒介として物理的世界に因果的に介入していることに変わりはない。

*4:他の二つは「最大善を生み出すよう行為せよ」という1つの規則のみで済んでしまうというものと、「嘘をついてはならない、ただしそれによって最大善を生み出せないなら、嘘をつくべきである」という例外条項に「最大善」を組み込むものである。どちらも次に見るような受容版の規則功利主義で回避できる。なぜなら、そのような規則の受容は不可能か、可能だとしても全く最大善を生み出せないだろうからである。

*5:ここでの例はカントの有名な嘘論文での例を用いてある。

*6:以下はHooker(2000, 2016)を参考にした。

*7:Bykvist(2009 ch.10)はこの点について、規則功利主義は直観の説明としておかしな説明をしていると批判する。例えば「約束を破ってはならない」という直観を考えよう。なぜ約束を破ってはならないのか、を説明するのが道徳理論の役割である。規則功利主義は「約束を破ってもよい」という規則は厚生を最大化させず、したがってそうした規則に従わないことが悪いから、と説明する。だがこれは奇妙ではないだろうか。なぜ道徳的に不正であることに関していちいち規則に訴えなければならないのだろうか。我々はそうした説明よりも、約束を破ることは「約束をしたということそれ自体によって」不正なのだという義務論的(直観主義的)な説明の方がもっともらしいと思うだろう。あるいは行為功利主義的に「相手を不快にさせ、厚生が最大化されないから」と説明することは一応は受け入れられる説明だろう。したがって規則功利主義は、道徳的な正しさや不正さの説明としてもっともらしくない、というのである。しかしDriver(2011 ch.4)が指摘するように、道徳理論の説明が「それ自体」を超えるものであることに特段の問題があるわけではない。単に我々の理解が素朴すぎるゆえにそうした説明をもっともらしいと思ってしまうということは十分に考えられる。さらに、Bykvistは行為功利主義がこの点で問題がないように考えているようだが、行為功利主義への多くの批判はそのことを示していない。もしBykvistのこの理由によって規則功利主義が認められないなら、生き残るのは我々の直観に気持ちの良い説明(おそらく義務論や直観主義のようなもの)のみであり、行為功利主義は認められないことになるだろう。

*8:期待効果の議論は以下のハーサニの論文が元になっているようだが、確認できていない。
Harsanyi 1993, “Expectation Effects, Individual Utilities, and Rational Desires”, B. Hooker (ed.), Rationality, Rules, and Utility: New Essays on the Moral Philosophy of Richard Brandt, Boulder, CO: Westview Press: 115–26.

*9:簡潔な説明として
間接功利主義と規則功利主義との区別がつかないって? - あなたのkugyoを埋葬する

*10:以下の例はBykvist(2009, ch.10)で用いられている例を改変したものである。

*11:以上の議論はBykvist(2009, ch.10)と安藤(2007, p.23f)を参考にして、安藤の説明を順守版の規則功利主義に適用したものである。

*12:カント, 「人倫の形而上学の基礎づけ」[野田又夫訳], 『カント』(1979), 中公バックス 世界の名著39, 中央公論社, p.263

*13:この批判はBykvist(2009, ch.10)を参考にした。

*14:本節の議論はDriver(2011 ch.4)を参考にした。

*15:当然、功利主義を捨て去って、規則○○主義とするのは可能である。実際、規則功利主義より(規則功利主義ではない)規則帰結主義の方が人気であるのは確かである。しかし、そもそも規則功利主義を取る動機は、功利原理という直観的にもっともらしい評価基準から出発することにあったのではないだろうか。もし他の評価基準を採用するなら、功利原理から出発する必要は何一つない。

*16:安藤(2017)をヒントにした。

*17:実際、Hooker(2000)は4に近い形を選んでいる。ただし、Hookerは規則帰結主義者であり、規則功利主義の回答として選んでいるわけではない。

*18:ここで「寄付は何の意味もない、無駄遣いされるだけだ」という批判がよくある。本記事の主な目的ではないため、ここで寄付の実際の効果についての議論はしない。ここではひとまず、寄付した分だけ実際に苦しみを取り除くことができると仮定しておこう。とはいえ、現代ではチャリティー団体の実際の影響(インパクト)を調査する団体があることや、実際に世界の貧困が減少していることを考えれば、この批判は正しくないと考える。「GiveWell」や「効果的利他主義」で調べてみるのがよいだろう。

*19:こうした回答は行為の極小主義と時点主義を取ると使えないだろう(行為の極小主義や時点主義の話は別の記事を参照)。通時的な「自己」などという存在を認めたくない我々としては行為の極小主義を取りたいので、繰り返しの寄付行為を複合行為として扱い評価する方針を取りたくない。問題となっているのはあくまでも個々の寄付行為なのであって、将来的な行為までを組み込んだ議論は、行為の極小主義を取る限り困難である。だが行為の極小主義をとっても、同時に歴史主義を取ることによってある程度の問題を回避できる。歴史主義を取れば、将来にわたるすべての有感存在の厚生総量を行為の評価に組み込むので、将来の私や寄付によって影響を受ける多くの人々も含めた有感存在の厚生を計算に組み込むことができる。さらに寄付行為のような、行為時点とその帰結までのタイムラグが大きい行為についても適切に評価できるかもしれない。

*20:こうした回答に違和感をおぼえる人がいるかもしれない。不正さと非難に値することとには、何らかの必然的な関係があるように思われる。これを説明する方法として、その不正な行為と非難との間に意図を媒介させることが可能かもしれない。ある行為が不正で、その行為者が行為の不正さを認識しつつ意図的に不正なことをしたならば、彼は非難に値するかもしれない。もしそうであるなら、行為功利主義者が寄付しないことは非難に値する一方で、行為功利主義に納得していない人(つまり不正さを認識してない人)は非難に値しないかもしれない。こうした非難や賞讃をめぐる議論は膨大な議論があり、ここで詳細に説明することはできないし、私の力量が全く足りないので、これ以上は扱わない。

*21:こうした立場は、先ほどの非難と不正さの区別以上に違和感があるだろう。我々が道徳を気にしているのは明白であり、そして道徳的理由は明らかに他の理由に優越する理由であるように思うだろう。こうしたことの検討は本記事で扱うことはできないが、いずれ別の記事で扱う予定である。

*22:追記(2020-06-08):もう一つの代表的な答え方として、功利主義は「最大化」を義務とするのではなく、「満足のいくsatisficing」だけの行為を義務とするのだ、という満足化功利主義による応答である。しかし私は、この「満足のいく」を恣意的でない形で示すことは困難だと考えるので、ここでは説明しなかった。

*23:なぜ「開き直り」が許されるのかは倫理学方法論として微妙な所である。私は、単に開き直って反直観性を受け入れるのは問題があると考える。直観は理論が誤っているかどうかを発見するのに有用であるのは確かである(いかなる直観とも整合的ではない理論は、おそらくどこかが間違っている)。しかし私は、理論の正当化の段階で、反直観的であることが、そのまま反証になるとは考えない。「開き直り」をする際に、反直観的であることを(暴露論法などによって)「説明し去る」ことができるなら、そうした「開き直り」は許されると考える。ここでの議論で「説明し去る」ことはしないが、行為功利主義はいずれ、経験的事実を用いて反直観的であることを無力化しなければならない。

*24:主観的には別の何らかの評価基準を用いて評価してもよい。「評価すること」それ自体が行為であることを考えれば、実際の我々が「評価すること」それ自体が評価されて、判断されなければならない。

*25:この例はBykvist(2009)での例を少し改変してある。

*26:当然、この回答は行為の極小主義と時点主義を採用する立場では回答が難しい。しかし難しいだけで、ある程度は可能だろうと思うが、まだ私の中では考えがまとまっていない。