ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

帰結主義化(SEP4節, Portmore 2022)

Portmore, Douglas W., "Consequentializing", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2022 Edition), Edward N. Zalta & Uri Nodelman (eds.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/fall2022/entries/consequentializing/.
plato.stanford.edu

前半の記事はこちら。
mtboru.hatenablog.com


4. 帰結主義化への反論(Objections to Consequentializing)

4.1 行為帰結主義には、ユニークに説得的なところはなにもない(There Is Nothing Uniquely Compelling about Act-Consequentialism)

最善の選択(Best Option):道徳的に最善の選択、つまり、道徳的問題の観点から最善の選択を実行することはあなたにとって常に道徳的に許容可能である

  • これは説得的だが、行為帰結主義に固有のものではない。ほとんどの道徳理論はこれを是認してる。そこで

最善の結果(Best Outcome):最善の結果をもたらす選択を実行することはあなたにとって常に道徳的に許容可能である

  • これは間違いなく行為帰結主義に特有のものだが、説得的ではない。
    • 例えば、特定の間違ってる行為タイプが最善の結果をもたらすかもしれない
  • 「説得的アイデア」は行為者中心制約を支持する人にも説得的であるものでなければならない。

相対的に最善(Best-Relative-to):あなたに相対的に最善である結果(outcome that’s best-relative-to you)をもたらす選択を実行することは常にあなたにとって道徳的に許容可能である

  • だがこれ[best-relative-to]は、純粋に理論的な概念で、それを含む主張を事前に理論的に把握することは不可能であると思われるので、前理論的には説得力を見いだせない
  • 別の者はその代わりに

欲求すべき最大の理由(Most Reason to Desire):あなたがその結果を欲求する最大の理由をもつとき、あるいは言い換えれば、あなたが欲求すべき、または他の選択可能なものより選好するのがあなたにとって適合的である、そういう結果をもたらす選択を実行することはあなたにとって常に道徳的に許容可能である

  • これは功利主義と倫理的エゴイズムの魅力の源泉を掴んでいる(M. Schroeder 2007: 290)
    • 功利主義も倫理的エゴイズムも、広義には行為帰結主義であり、これにコミットしてる
      • 倫理的エゴイストが、行為者は常に自分自身がより快楽的な効用を得ることを好むべきだとするのに対し、功利主義者は、行為者は常に全体としてより快楽的な効用があることを好むべきだとするのである。
  • だが行為帰結主義は、何を選好するのが正しいかではなく、何をするのが正しいかについての理論である。
    • ただ、フットについては、説得的アイデアは「欲求すべき最大の理由」だと好意的に解釈できる
      • これは、より良い事態よりも悪い事態を選ぶことは決して正しいとは言えないという彼女の主張と結びついてる
      • そして彼女は、最良の結果という概念を把握できないと主張して、これを退けようとした
    • 問題は、より良い事態よりも悪い事態を選好することが決して正しいとは言えないというフットの考え方が間違っていること。
      • Drier:「より良い状態よりもより悪い状態を選ぶことは、完全に理解可能であり、かなりもっともらしい」
        • 例:私があなたの安全よりも私の子どもの安全を選好し、逆にあなたが私の子どもよりもあなたの子どもの安全を選好することは、完全に理解可能で、かなりもっともなこと
  • 以上のように、「欲求すべき最大の理由」は説得的だが、行為帰結主義に特有ではない。
    • 帰結主義化をする際に、この[帰結主義化しようとしてる]非帰結主義的理論を「欲求すべき最大の理由」と両立させる結果のランキングが存在することを示して帰結主義化を行うので、非帰結主義者はそれを自説に利用すればいい(Sachs 2010: 261)
  • だが、説得的アイデアが「欲求すべき最大の理由」のようなものであるとするならそうだが、説得的アイデアが、行為帰結主義において、その行為の当為的状態の根拠についての主張を含むのだとすれば、この反論は機能しない
    • Sachsの反論が成功するには、説得的アイデアが、行為帰結主義における行為の当為論的地位についての根拠を含むものであるなら、[単に両立していること以上のものになり、非帰結主義理論には利用できなくなるので、]非帰結主義理論は使えない
  • つまり

当為的状態の根拠を選好する理由(Reasons for Preferring Ground Deontic Statuses):ある行為の当為的状態は、その行為の結果を、他の利用可能な選択の結果よりも選好する行為者の理由によって根拠付けられている。その結果、他のすべての利用可能な選択より選好すべき(または選好するのが適合的な)結果をもたらす選択肢を実行するのはその行為者にとって常に道徳的に許容可能である。*1

  • これは倫理的エゴイズムにも功利主義にも共通しており、かつ、行為の目的論的概念(意図的な行為は世界をある方向に向かわせることを目的としているという考え)を受け入れる人にとって魅力的
    • 自分が達成したいと思うべき目的を最も良く達成するであろうことをするのは許容されているだろう
  • これが説得的でないという人もいる(Paul Hurley (2018))が、それは熱心な帰結主義化論者にとってのみ問題になってるだろう

4.2 常識道徳のいくつかの鍵となる特徴は帰結主義化されえない(Some Key Features of Commonsense Morality Cannot Be Consequentialized)

  • もっともらしい非帰結主義のすべてを帰結主義化できるわけではないという人がいる (see, e.g., Brown 2011)
    • これは、表記的帰結主義化論者とプラグマティック帰結主義化論者の両方にとって問題だが、熱心な帰結主義化論者には問題ではないかも。
  • 表記的帰結主義化論者とプラグマティック帰結主義化論者は、以下のテーゼにコミットしてる

外延的等価テーゼ(Extensional Equivalence Thesis):すべてのもっともらしい非帰結主義的理論について、すべての可能世界において、その理論がもたらす当為的評決の集合と全く同じ集合をもたらす行為帰結主義的対応理論が存在する。(Dreier 2011: 98)

  • Campbell Brown (2011)は、帰結主義化論者は禁止ジレンマ(利用可能なすべての行為が許容不可能)に対応できないと主張
    • ここでの対応は2つ
      1. 行為帰結主義者がそのような評定に対応できないことを認めつつ、そのような評定を含む非帰結主義理論はあり得ないと主張(see Dreier 2011: 105–6)
      2. 行為帰結主義はこれを受け入れられる
        • 結果の循環ランキングを受け入れる (Peterson 2010: 158)
          • AがBを、BがCを、CがAを上回る場合は、すべて許容不可能
  • 熱心な帰結主義化論者にとっては、結果として生じる行為帰結主義的対応理論が功利主義と標準的バージョンの非帰結主義の両方よりも全体的に優れていることだけで十分。全部に対応する必要はない。
    • 説得的な帰結主義を生み出すことが目的である熱心な帰結主義化論者は、ありえない結果のランキングをもたらすような帰結主義を生み出すフット的手続きを取らない
  • 熱心な帰結主義化論者は別の手続きを採用:整合主義的手続き(Coherentist Procedure)(Portmore 2011: 113)
    • 共外延的になるような結果のランキングをただ採用するだけではない
      • ある行為が他よりも道徳的により善い if and only if その結果は他の結果より上位にあるが、それは、以下のように修正してそうなる。つまり、それぞれ他の結果、および私たちの様々な背景信念に照らして、「ある結果が他より上位かどうか」についての私たちの前理論的判断と、「その結果を生み出す行為は他の結果を生み出す行為よりも道徳的により善いかどうか」についての私たちの前理論的判断の両方に照らして修正する。
        • 広い反照的均衡に至るまでそれを行う
        • その過程では、非帰結主義理論の当為的評決の一部を拒否するかも
  • 評価的なランク付けは、私たちが何を欲求・選好すべきかに関わるものであるので、熱心な帰結主義化論者が主張するには、ある結果が他の結果を上回るという判断は,行為者が他の結果よりも一方を選好すべき(あるいは行為者に適合的)という判断に過ぎない
    • 例:自分の子どもを救うべきであると多くの人は考えてる。そこで、二つのグループがあり、大きなグループと小さなグループで、小さなグループに自分の子どもが含まれている時、[例えば]私は Sergio が後者を救うことを選好すべき、と直観的に判断するだろう。しかしそれはSergioがそうすべきだということとは無関係である[なぜならそれはSergioの子どもではなく、私の子どもだから]
      • Sergioが大きなグループを救うべきだが、それにもかかわらず、私はSergioが小さいグループ(つまり私の子どもを含むグループ)を救うことを選好すべきである
      • となると、この前理論的判断を修正するよう求めるかもしれない
    • 帰結主義化において、ランキングを作る中で、前理論的直観的判断を否定する場合と、帰結主義化を諦める場合がある。
    • しかし、それでも、結果として得られる行為帰結主義的対応説は、功利主義や標準的な非帰結主義の両者よりも直観的にもっともらしいと言えるかもしれない。
  • とはいえ、ほとんどの非帰結主義理論の当為的評決に対応する必要はあるだろう
    • しかも「説得的アイデア」を犠牲にせずに。もちろんそれは「説得的アイデア」が何かに依存する
      • 説得的アイデアが「最善の結果」の場合は、非帰結主義の当為的評決の修正が多くなるだろうから、多くの熱心な帰結主義化論者は他のアイデアを選ぶ(「相対的に最善」とか)

4.3 行為帰結主義的対応理論はギミック的(Act-Consequentialist Counterpart Theories Are Gimmicky)

  • 対応する帰結主義理論は、ギミック的な行為帰結主義であり、したがって、それはありえないという人もいる(see, e.g., Nozick 1974: 29)
    • フット的手続きの場合はそうだろう。ad hocに見える
  • だがこれは、表記的帰結主義化論者にもプラグマティックな者にも問題はない。ギミック的でも良い
  • 熱心な帰結主義化論者にとっては問題だが、整合主義的手続きを取ればギミック的ではない

4.4 行為帰結主義的対応理論は説明的に不十分(Act-Consequentialist Counterpart Theories Are Explanatorily Inadequate)

  • 熱心な帰結主義化にとっての別の問題は、ギミック的ではないにしても、説明的に不十分だというもの
    • 多くの者が「当為的状態の根拠を選好する理由」を採用し、特定の結果を選好する理由があると考えてるが、他の者はそうではないとか投げてる
    • 例:熱心な帰結主義化論者は、Abeが約束を破ることの許容不可能性は、彼が約束を守る結果を好むべきであるという事実に基づいていると考えるのに対し、かれらは、Abeが約束を守る結果を好む理由は、彼が約束を破ることが許容不可能だという事実に基づいていると考える[つまり理由が逆転してる]
  • 熱心な帰結主義化論者は、説明を逆転させてるのは非帰結主義者の方だと主張(see, e.g., Portmore 2011: chap. 3, especially 78–82)
  • Stephen Emet (2010) and Christopher Howard (2021)などは、対応する帰結主義理論の方が説明的に不十分だと主張
    • 説得的アイデアを「当為的状態の根拠を選好する理由」のようなものとし、熱心な帰結主義化論者は、ある種の当為的評決に対するもっともらしい根拠を諦めざるを得ないと主張
      • 例:マフィアが「6人目を殺さないと5人の無実の他人を殺す」と信頼に足る脅しをかけてきた状況でも、殺人を犯すのは間違っているという当為的評決(C. Howard 2021: 728)
        • 熱心な帰結主義化論者は、潜在的犠牲者が単に手段として扱われないことを要求する価値を持ってるというもっともらしい見解を否定しなければならず、代わりに、あなたという行為者が、自分自身の手を汚さないということに対する自己中心的かつ自分に甘い選好をもつべきであるという、もっともらしくない見解を受け入れなければならないと主張
        • 潜在的被害者を単なる手段として扱うことを控える理由は、[潜在的な被害者]の価値にその源があるので、[あなたが]ある結果を他よりも選好する理由からは導き出されない、と主張
  • しかし、この推論は誤り。AがBから、そして[Bが]Cから派生することはありうる
  • 行為帰結主義者は、結果の評価ランクが当為的地位に説明的に優先してることにはコミットしてるが、態度(例:尊重)の当為的地位に対して説明的に優先してるということにはコミットしてない
    • 人が目的だということ、またはその事実が結果の評価的ランクに説明的に優先してることを妨げない
      • よって、熱心な帰結主義化論者は、あなたには人を尊重する義務があり、この義務は、人を単なる手段として扱わないことを選好する義務を生じさせる、と主張できる*2
  • マフィア事例での許容不可能性の根拠が、究極的には、それ自身の目的としての価値であると認めるなら、かれらはカント主義にコミットすることになる、と反論されるかも
    • だがそうならない。違いは以下の通り
      • カント主義:行為の究極的な正しくする特徴(right-making feature)は、人間性への適切な尊重を示すこと
      • 行為帰結主義:行為の究極的な正しくする特徴(right-making feature)は、その結果が他の利用可能な結果より上回られてないこと
        • よって行為の当為的地位だけが、ある結果が他の結果を上回るかどうかを決める
          • そのランクの決定において、目的として、手段として扱う云々というのを主張できる
  • 道徳理論は、行為の正・不正にする特徴(making feature)をどう考えるかで区別されるのであって、その究極の根拠(ultimate rationale)をどう考えるかによって区別されるわけではない。
    • ここで功利主義的神学的主意主義を再度考えよう。この立場では、究極的な正しくする特徴(right-making feature)は神の意志に合致することであり、そして神は私たちが善を最大化することを意志するので、行為が義務であることの究極の根拠(rationale)はそれが最善の結果を生み出すということ*3
      • なぜかというと、ある行為の結果が最善であるということは、なぜ(完全に善良な)神が、行為者がそれを実行することを意志しているのかを説明するから。
    • だが功利主義的神学的主意主義は行為功利主義のライバルである。なぜなら、行為の究極的な正しくする特徴(right-making feature)は神の意志に合致してるかどうかであって、その結果がほかの結果を上回るかどうかではないから。
  • 具体的な中身について(行為者中心制約とか)話すことはあるが、ここまでの応えで、説明不十分に対する応え方がわかっただろう

4.5 「すべての利用可能な代替案を上回る結果を持つ」というのは「実行されるべき」とは等価ではない(“Has an Outcome that Outranks Every Available Alternative” Isn’t Equivalent to “Ought to Be Performed”)

  • 表記的帰結主義に対してだけの反論として、第二の前提の方、つまり、共外延的なら単なる表記上の変種であるという、そういう強い意味で等価であるというものへの反論を見ていく
  • まずこの前提は、例えば、帰結主義と非帰結主義の表現は、一気圧で沸騰する水の分子の平均運動エネルギーについて、100 degrees Celsius/Fahrenheit、のどっちで表現できるかの違い、程度の表記の違いにすぎないというもの
    • 重要なのは、Dreierの言うactive ingredients(有効成分)だけであって、ラベル付の表現ではない
    • Dreierによれば、ある行為を行うべきだとするものは、当為的地位に寄与する結果の特徴である
  • この考えの擁護の1つは、Ewingのように「善さ(the good)」を「what ought to be brought into existence, other things being equal」という意味だと主張すること
    • そうなると非帰結主義者は「best」という言葉の意味を間違って使ってるだけだということになる。
      • だがこれは早急すぎ。
  • Dreierはそこまで早急ではない。
    • 私たちは善い結果についての前理論的概念を持ってる限りで、その具体的内容は、私たちが何を選ぶべきかという概念から切り離すには、あまりにも弱く、薄い
    • そのため、Dreierの考えは、Footにならって、私たちはwhat we ought to doについての考えから独立した、(結果に適用される)善さの概念を持ってない、というもの(S. A. Schroeder 2017: 1482)
      • 行為の結果がほかをoutrankする、という概念は、実行されるべき行為という概念から離れることはできない*4
  • これを疑う理由の1つは、[Dreierの]行為者がある行為をなすべきかどうかがwhether its outcome outranks every available alternativeに依存するという理論とは別に、行為者がある行為をなすべきかどうかはwhether the outcome of the best option in which the agent performs it outranks every available alternativeに依存するという理論があるから。*5
  • Jacksonの例を考えよう
  • もし私がある時間 t に両腕を上げれば、素晴らしいことが起こるだろう。
  • もし私が t にどちらの腕も上げなければ、そしてもし右腕は上げるが左腕は上げなければ、問題ない
  • もし私が左腕を上げるが右腕を挙げなければ恐ろしいことが起こる
  • もし私がtの時点で左腕を上げるなら、私はtの時点で右腕を上げないだろう。
  • 私は t の時点でどちらかeitherの腕を上げるか上げないか、完全に自由である。
  • 前述のすべてが、問題の時点で私に確実に知られていると仮定しよう。
  • 一部の理論家によれば、tで左腕を上げることの結果は、どちらの腕もあげないというavailable alternativeに負けるので、私は左腕を上げるべきではない。
    • ここにはomnists と actualistsが含まれる
  • 別の理論家は左腕を上げるべきだとする。それは、その結果はt時に左腕を上げないことに勝るが、t時に左腕を上げるという最善の選択肢、つまり、t時に両腕を上げるという選択肢の結果は、利用可能なすべての選択肢を凌駕しているから
    • ここにはmaximalists と possibilistsが含まれる
    • 両手を上げると素晴らしい結果になり、そのoptionには左腕を上げることを含意するので、左腕を上げるべき
  • これは、「the notion of an act whose outcome outranks every available alternative」が、「the notion of an act that ought to be performed」から離せることを意味する
    • [Dreierとここでの理論の]2つの理論はすべての利用可能な結果の順位付けについては同意しているが、すべての利用可能な選択肢よりも結果が優れている行為が常に実行すべきものでなければならないかについては意見が異なる
    • omnistとactualistは、ある行為を行うべきものとするための有効成分は、その結果があらゆる利用可能な代替案を凌駕することであると主張(Dreier)
    • maximalists (と possibilists)は、有効成分は、その行為を行う際の最良の選択肢の結果があらゆる利用可能な代替案に優越することであるとする
    • もちろん、Dreierはこの二つが等価だと主張できるが、そうすると、結果の順位付けの方法について非常にありえない主張をどちらかが受け入れているとuncharitablyに主張することになる(Nair 2020)

5. Conclusion

省略

*1:「その結果」以降はMost Reason to Desireとほぼ同じ。それ以前のところがポイントっぽい

*2:そう主張するのはいいけど、その説明優先順位に問題がないのか気になる。

*3:making featureとrationaleの区別が難しい。ここでのrationaleは、その結果のランキングの中身についてのものであり、right-making featureはそもそもランキングに沿って決められるというところに対応?

*4:ここは複雑になってる。原文で、the notion of an act whose outcome outranks every available alternativeと、the notion/concept of goodnessと、the notion of an act that ought to be performedの3つの概念があり、Schroederはgoodnessをoutcome outranks every available alternativeに結びつけてるが、それがどれくらい自明なのかわからない。

*5:行為を実行すべきだということについて、前者は、ある結果が他の利用可能な別の結果をoutrankすることだとし、行為者は、ベストオプションの結果であるかどうかであるとし、そしてそのベストオプションというのは、行為者がそれを実行することが他のオプションをoutrankするからだとする。たぶん、alternatveが its outcome なのか outcome of best option in which the agent performs it なのかの違い、っぽい。