ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

快楽主義とは何か?そもそも快楽とは何か?

 

本記事は福利の理論としての快楽主義と、快楽それ自体について扱う記事である。私が最近の論文をいろいろ読んで、かなり複雑な状況になっていて大変だなと感じたので、その備忘録と整理のためにこの記事を書いた。

本記事はまず快楽とは何かについて整理する。次に福利の理論としての快楽主義の定式化を行い、その利点と欠点について述べる。

快楽や快楽主義に関する日本語で読める本としては成田(2021, 第三章)が最も詳細なものである。また森村(2019, 第1章)も入門として参考になる。安藤(2006, sec.5.2.2)や、今福(2020)と米村(2017)も参考になる*1

 

快楽の本性

感覚的快楽と態度的快楽、内在主義と外在主義

まず快楽とは何か。快楽の例を考えてみよう。例えば「セックス・ドラッグ・ロックンロール」を思いつく人がいるかもしれない(Mason, 2007)。他にも、おいしい食べ物を食べたときの感覚、好きな映画を見た後の感傷に浸っているときの感覚、ゆったりとリラックスしているときの感覚などが考えられる。私はここで「感覚」という言葉を共通して使っているが、こうしたことは、快楽とは何らかの感覚であることを示唆する。これを感覚的快楽と呼ぶことにする。

しかし、快楽は感覚に限定されるものではないかもしれない。例えば、服を試着して似合っていて嬉しいと思うとき、あなたは「快楽」という感覚を感じているのではなく、似合っているということに対して肯定的に思っているだけのように思われる。あるいは、友人と楽しく話してるときに友人が少し席を外したときに、ふと「楽しいな〜」と思うとき、これも感覚というより、友人と会話しているということ自体に対して肯定的に思っているだけのように思われる。このような肯定的に思っているという態度それ自体を「快楽」と呼んでもいいのではないだろうか。このような快楽を態度的快楽と呼ぶことにする。

近年の快楽に関する議論で中心的なトピックの一つは、この二種類の快楽についてである。ここでの問いは大きく二つある。

  1. 感覚的快楽や態度的快楽を、まさに快楽にしている特徴は何なのか
  2. 感覚的快楽と態度的快楽は一方が他方に還元されるのか、それとも還元されないのか

1の問いへの答え方によって2の問いへの答え方も変化する。1の問いに答える立場は大きく三つあり、さらに下位区分もある(e.g., Lin, 2020; van der Deijl, 2019)*2

  1. 内在主義(または現象的理論):ある経験を快楽的にしているのは、その経験がもつ特定の現象的要素(phenomenology)である
    1. 特異的感覚説(distinctive feeling)(Bramble, 2013; Smuts, 2011):特定の現象的要素とは、経験に共通する特異的な感覚のことである
    2. 快楽的トーン(hedonic tone)(Crisp, 2006; Labukt, 2012):すべての快楽に共通する感覚は存在しないが、それらは快楽的トーンを共有しているという仕方で現象的に類似している
  2. 外在主義(Feldman, 2004; Heathwood, 2006, 2007):ある経験を快楽的にしているのは、その経験と関係がある肯定的態度(欲求など)である*3
    1. 経験感じ方説:その経験の感じ方(the way the experience feels)に対する肯定的態度が、その経験を快楽的にしている
    2. 経験全体説:その経験に対する肯定的態度が、その経験を快楽的にしている
  3. ハイブリッド説(Lin, 2020; Pallies, 2021):ある経験を快楽にしているのは、その経験が持つ特定の現象的要素とその経験と関係がある肯定的態度である

下位区分の中でもさらに分かれるのだが、さしあたり大きく三つの立場があると思えば十分である。ハイブリット説は置いとくとして、内在主義と外在主義を感覚的快楽と態度的快楽に当てはめてみよう。

  • 感覚的快楽と態度的快楽の内在主義:感覚的快楽と態度的快楽を快楽にしているのは、その感覚や態度がもつ特定の現象的要素である。
  • 感覚的快楽と態度的快楽の外在主義:感覚的快楽と態度的快楽を快楽にしているのは、その感覚や態度と関係がある肯定的態度である

感覚的快楽の内在主義、態度的快楽の外在主義はわかりやすいと思われる。態度的快楽の内在主義では、何らかの態度に伴う経験が特定の現象的要素を持っているときに、その態度は快楽になる、といった具合に態度的快楽を説明する。また感覚的快楽の外在主義では、ある感覚(または感覚を感じているということ)に対して肯定的態度をもっているときに、その感覚を快楽にする、といった具合に説明する。

これを本節最初の例に当てはめてみよう。

  • 内在主義
    • 感覚的快楽:おいしいものを食べたときの感覚を快楽にしているのは、その感覚がもつ特定の現象的要素である
    • 態度的快楽:友人と話すことに対する「楽しいな〜」という態度を快楽にしているのは、その態度を抱くときの経験がもつ特定の現象的要素である
  • 外在主義
    • 感覚的快楽:おいしいものを食べたときの感覚を快楽にしているのは、その感覚に対する肯定的態度(これはおいしいという態度)である
    • 態度的快楽:友人と話すことに対する「楽しいな〜」という態度を快楽にしているのは、その態度が肯定的態度から(部分的に)構成されているからである

明らかに違う説明をしていることがわかるだろう。そしていずれも何らかの点でもっともらしいと思われる。一方で、あなたが快楽を経験しているとき、それはその経験がもつ現象的要素、例えば、その心地よさであったり、激しい高揚感であったり、そうしたものがまさにその経験を快楽的にしていると思われる。他方で、その経験に対して全く肯定的に思えないのだとしたら、どうしてそのような経験があなたにとって快楽であると言えるのだろうか。あなたがその経験に対して肯定的に思うからこそ、その経験は快楽であると思われる。

2の問い(還元についての問い)を考えよう。上の例での説明からもわかるように、内在主義では態度的態度を感覚的快楽に還元しやすい。例えば「態度的快楽とは、ある態度に伴う感覚のことであり、その感覚はそれを快楽にするような特定の現象的要素をもつ」というような仕方で還元的に説明できる。これは非還元的な仕方での態度的快楽の内在主義的な説明とは異なる。これらを並べると以下のようになる。

  • 態度的快楽の内在主義的説明(非還元):ある態度を快楽にしているのは、その態度を抱くときの経験がもつ特定の現象的要素である
  • 態度的快楽の感覚的快楽への還元:態度的快楽とは、ある態度を抱くときに伴う感覚のことである
    • 感覚的快楽の内在主義的説明:ある感覚を快楽にしているのは、その感覚もつ特定の現象的要素である

態度的快楽の内在主義的説明(非還元)の場合、態度的快楽とはあくまでも態度のことである。一方で、態度的快楽を感覚的快楽に還元した場合、態度的快楽とはその態度に伴う感覚のことであり、態度ではない。そして感覚的快楽に還元された態度的快楽を内在主義的に説明することになる。もちろん、感覚的快楽を態度的快楽に還元しつつ内在主義的に説明することは可能である。例えば以下のような立場は、循環した説明に見えるかもしれないが、論理的には可能である。

  • 感覚的快楽の態度的快楽への還元:感覚的快楽とは、ある感覚を経験しているという事態に対する態度のことである
    • 態度的快楽の内在主義的説明:ある態度を快楽にしているのは、その態度を抱くときの経験がもつ特定の現象的要素である

以上のように、現状では快楽の種類として感覚的快楽と態度的快楽の二種類が特定されており、一方が他方に還元されるかどうか、それとも独立して存在しているかどうかは論争的である。還元に関する議論にはこれ以上立ち入らず、次に内在主義と外在主義の問題点について見ていく。

 

内在主義と外在主義の問題点

以上のように快楽の本性について、大きく内在主義と外在主義に分かれるが、どの立場が正しいのだろうか。まず内在主義によくある批判として異質性問題(heterogeneity problem)というものがある*4。本節冒頭の例を再度考えよう。「セックス・ドラッグ・ロックンロール」に加え、おいしい食べ物を食べたときの感覚、感傷に浸っているときの感覚、リラックスしているときの感覚などがあるが、これらすべてに共通する現象的要素が果たしてあるのだろうか。これらの感覚はすべて違って感じられるため、共通している部分はないように思われる。ではそのように全く違う感覚をすべて「快楽」と呼ぶことはできないのではないだろうか。これが異質性問題である。

外在主義は異質性問題を回避する。ある経験を快楽にしているのは、それに関係する肯定的態度にほかならないから、経験に共通した現象的要素がある必要はない。ある感覚や経験が快楽なのは偶然的である(Feldman, 2004)*5

では内在主義はどうやって異質性問題を回避するのか。まず内在主義の中でも快楽的トーン説は容易に回避する。ここではCrisp(2007)の議論を検討しよう。Crispの快楽的トーン説によれば、私達が経験する特定の感覚は確定体(determinate)としての快楽であるが、それらを快楽としてひとくくりにできるのは、その快さが確定可能体(determinable)としての快楽であるからである。

確定体・確定可能体について色を使って説明しよう。私達は赤さの感覚や青さの感覚のような個々の色の感覚を経験できる。赤さの感覚や青さの感覚は全く違った経験だが、それでも色の感覚という点で共通している。このとき、赤さの感覚や青さの感覚は、色の感覚に対して確定体になっており、色の感覚は、赤さ・青さの感覚に対して確定可能体になっている。確定体・確定可能体は相対的なものである。例えば、赤さの感覚は、深紅の感覚や真朱の感覚に対して確定可能体であり、色の感覚に対して確定体である。

Crispの議論に戻ろう。感覚的快楽はたしかに異質な感覚の集まりであるかもしれない。だがそれらを快楽としてひとくくりにできるのは、個々の感覚は確定体としての快楽でありつつ、それらの感覚は確定可能体としての快楽を共有しているといえる。よって、個々の感覚的快楽が異質なものだとしても、それらをすべて快楽だといえるので、異質性問題は解決される。Bramble(2013)は色のアナロジーが成立しないことを論じているが、ここではその成否は検討しない。

特異的感覚説ではどうか。特異的感覚説は異質性問題を直接解決する必要がある。なぜなら、それらに共通の特異的な感覚があると主張するからである。異質性問題に対して、Smuts(2011)、Bramble(2013)、米村(2017)は、私達の内観や記憶に頼った想起に対して、それらが十分に信頼できるものではないとして批判する。異質性問題を指摘する際に、私達は過去の経験を想起しているが、その想起は信頼できるものではなく(カーネマン, 2014, 第5部)、またそもそも、私達は内観によって自身の経験を十分に認識できない可能性がある(Schwitzgebel, 2008)。もしこのような主張が正しければ、異質性問題が内観や想起に頼ったものである限り、異質性問題は問題ではなかったことになる。

 

次に外在主義の問題を見ていこう。外在主義には、一体性(togetherness)(Pallies, 2021. cf. Bramble, 2013; 今福, 2020)という、ある特定の経験はその経験の本質からして快楽であるようなものを説明できないという問題がある。例えばオーガズムの経験を、快楽と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろうか。ただ、実は私にとってはオーガズムの経験が本質的に快楽的だとは全く思えない(それが快楽でないことを現に経験した記憶がある)。そこで、オーガズム以外の経験、例えば、ゆったりとリラックスしているときのあの落ち着いた感覚は、本質的に快楽的だとは言えないだろうか。いずれにせよ、一部の感覚はその本質からして快楽であると思われる。しかし、外在主義が正しい場合、その感覚に対する態度によってその感覚が快楽になったりならなかったりするため、本質的に快楽的であるような感覚を説明できない。

外在主義の別の問題はエウテュプロン的問題(Pallies, 2021)である。つまり、ある経験が快いから肯定的態度を向けているのか、肯定的態度を向けているからその経験が快いのか。直観的には明らかに「経験が快いから肯定的態度を向けている」と言いたい。だが外在主義は「肯定的態度を向けているからその経験が快い」と言ってしまう。外在主義はこれを説明しなければならない。これに対してHeathwood(2007, sec.6.4)は、これはそんなに反直観的ではないと反論している。例えば「もしAがマッサージによって引き起こされた感覚を感じたいと思っていなかったら、その感覚は快楽の感覚ではなかっただろう」という反事実条件文はそこまで反直観的ではないだろう。そうであれば、この問題はそこまで問題ではない。

 

内在主義も外在主義も長所・短所がある。また近年はハイブリッド説も出てきており、最有力といえるような立場はなさそうである。また、ここまで見てきた議論のほとんどは、おおよそ内観と直観に頼った議論になっているが、近年は、心理学的知見や心の哲学を明示的に参照した議論がチラホラと出てきている(e.g. Aydede, 2018; Pallies, 2021)。今後はこれらの分野を参照しながら快楽の本性について検討すべきだろう。

快楽の本性はここまでにして、次に快楽主義について見ていく。

 

快楽主義

快楽主義とは何か

快楽主義の定式化は厄介な問題である。例えばMoen(2016)*6による定式化を見てみよう。快楽主義は以下の二つのテーゼからなる。

P1:快楽は内来的に(intrinsically)価値的であり、苦痛[pain]は内来的に負価値的である。

P2:快楽以外の何物も内来的に価値的でなく、苦痛以外の何物も内来的に負価値的ではない。

この定式化には二つの問題がある。第一に、このテーゼのうちP2の定式化に問題がある。P2は快楽を含む複合体(快楽を含む人生や可能世界)に内来的価値がないことを示唆するが、快楽主義者はそうは言いたくないはずである(Feldman, 2004, sec. 2.1)*7。第二に、快楽や苦痛の量等によって私達の福利の水準がどの程度になるのかが不明なままである。

そこで次にFeldman(2004)による定式化を見てみよう。

デフォルト快楽主義(DH):

  1. すべての快楽のエピソード[出来事]は内来的に善い;すべての苦痛のエピソード[出来事]は内来的に悪い
  2. ある快楽のエピソードの内来的価値は、そのエピソードに含まれる快楽のヘドン[仮想的な量の単位]の量と等しい;ある苦痛のエピソードの内来的価値は、そのエピソードに含まれる苦痛のドロー(dolor)[仮想的な量の単位]の量と等しい
  3. ある生の内来的価値は、その生に含まれる快楽と苦痛のエピソードの内来的価値によって完全に決定され、それは、ある生が別の生より内来的により善いのは、その生における正味の快楽の量が他方の生における正味の快楽の量よりも大きいとき、かつそのときに限る、という仕方でそうである

この定式化は先程のMoenの定式化の問題を回避している。P2のニュアンスは条件2で拾いつつ、複合体の内来的価値に関する問題を含まない。また価値の大きさに関しても条件3で説明している。

だがこれには三つ問題がある。第一に、これが歴史的にデフォルトの快楽主義であるのはそうかもしれないが、条件2や3が量によって定式化されているのに不満があるかもしれない。例えばミル流の質的快楽主義はDHと相容れない。そのため、快楽主義をより広く定義したい。第二に*8、快楽主義が福利の理論であるかどうかよくわからない。福利(well-being)の理論とは、ある個人にとっての善さ(good for)(の少なくとも一部)に関する理論であるから、誰にとっての善さなのかを明記したい。第三に、ある生の内来的価値が単なる正味の量によって決定されるというのは狭すぎる。快楽主義を特徴づける上では、快楽の量の分布によって生の内来的価値が変化することを許容したい。

そこで私は次のように定式化したい。

福利に関する最小限の快楽主義(MHW: Minimal Hedonism about Well-being):

任意の快苦主体Sについて、

  1. Sのすべての快楽のエピソードはSにとって内来的に善い;Sのすべての苦痛のエピソードはSにとって内来的に悪い
  2. Sのある快楽のエピソードのSにとっての内来的価値は、そのエピソードに含まれるSの快楽によって完全に決定される;Sのある苦痛のエピソードのSにとっての内来的価値は、そのエピソードに含まれるSの苦痛によって完全に決定される
  3. Sの生のSにとっての内来的価値は、その生に含まれるSの快楽と苦痛のエピソードの分布によって完全に決定される

ここで快苦主体とは、快楽や苦痛をもつことができる主体のことである。DHでの条件2から私のMHWの条件2への変更点は、あるエピソードの内来的価値を、それが含む量に限定しないようにすることである。条件3の変更も同様で、量に限定せず、また分布の形状を限定しないようにしている。

このMHWは一部の複雑な形態の「快楽主義」を含みつつ、他の「快楽主義」を排除している。例えば、Bramble(2016)の快楽主義は、快楽の多様性が生の内来的価値に影響を与える理論である。DHと異なり、MHWは単なる量によって生の内来的価値が決まるとはしてないため、Brambleの快楽主義はMHWと両立する。しかし、例えばFeldman(2004)が提示している真理調節的内来的態度的快楽主義(Truth-Adjusted Intrinsic Attitudinal Hedonism)は排除される。この立場では、エピソードの内来的価値を、態度的快楽の対象である命題の真偽に応じて調整する。例えば、偽の命題に対する態度的快楽の内来的価値を割り引く、といった仕方である。だがこれでは、快楽のエピソードの内来的価値が、態度的快楽の対象である命題の真偽にも影響を受けるため、快楽によって完全に決定されないことになる。

私はFeldmanのような立場を「快楽主義」と呼ぶのにためらいがあるが、こうした立場も含むように定式化することもできる。おそらく次のようになる。

福利に関する最小限かつ広義の快楽主義(MWHW: Minimal Wide Hedonism about Well-being):

任意の快苦主体Sについて、

  1. Sのすべての快楽のエピソードはSにとって内来的に善い;Sのすべての苦痛のエピソードはSにとって内来的に悪い
  2. Sのある快楽のエピソードのSにとっての内来的価値は、そのエピソードに含まれるSの快楽によって少なくとも部分的に決定される;Sのある苦痛のエピソードのSにとっての内来的価値は、そのエピソードに含まれるSの苦痛によって少なくとも部分的に決定される
  3. Sの生のSにとっての内来的価値は、その生に含まれるSの快楽と苦痛のエピソードの分布によって少なくとも部分的に決定される

MWHWはMHWの条件2と3における「完全に決定される」の「完全に」を「少なくとも部分的に」に変更したものである。実はこれはまだ問題があるのだが*9、これ以上は探求しない。

 

快楽主義を定式化するだけでも苦労があることがわかるだろう。これに加えて快楽の本性についても様々な立場が可能なため、快楽主義は非常に多様性な立場を包括しているといえる。そんな多様な快楽主義一般に対する利点と欠点を以下で紹介する。

 

快楽主義の利点と欠点

快楽主義の利点はいくつかあるが、最も代表的なものは、少なくとも一部の快楽が内来的価値をもつことをほとんど誰も否定しないということである。その一方で、他の立場によって想定される欲求充足や、客観的リスト説によく含まれる友情、知識などは、それら自体が内来的価値をもっているかどうかで議論されており、論争的である。

もう一つの代表的利点は、理論の単純性である。とはいえ、上で見てきたように快楽の本性、快楽主義のいずれにしても複雑な状況になっており、とても単純とは言い難い。それでも、快楽と苦痛以外のことについて考える必要がないということ、また基本的には快楽と苦痛だけによって福利水準が決まるので必要な存在者の種類が二種類だけであるという点で単純であるといえる。

では快楽主義の問題点はなにか。典型的な批判の一つは「偽りの快楽」と呼ばれるものである。例えば、あなたは友人Aと楽しく過ごして、快楽に満ち溢れた人生を過ごしている。しかし、友人Aは実はあなたのことを非常に嫌っていたとする。あなたの人生の価値(つまり福利)はこれによって低下すると思われる。「偽りの快楽」の核となる直観は、私が信じていたことは実は偽であった、という点にある。快楽主義は当人の主観に徹底的に基づくために、こうした客観的な要素を組み込むことができない。

また、快楽漬けにされた人生が最も福利水準が高いものになってしまうという問題もある。快楽だけで充満している人生を最も良い人生にしてしまうのは誤りであり、私達はもっと様々なものに価値を見出している、ということである。はっきり言って、そこで想定される「快楽漬け」の人生を批判者は正しく想像できてないのではないかと私は思うが、いずれにせよ、快楽主義は何か言わなければならないとは思われる。

快楽主義に対する批判は他にも様々にあるが、それらの批判に対する答え方は、そこで採用する快楽の本性についての立場によって全く異なる。例えば「快楽漬け」批判に対して、内在主義を取る場合には、あくまでもその感覚に関する現象的要素から反論しなければならない。一方で外在主義を取る場合は、そうした「快楽」とされる感覚に私達が肯定的態度を抱けないなら、そのような人生は「快楽漬け」などではない、と反論できるかもしれない。例えば薬で幸福感を感じ続けさせるような人生を想定した時に、その人がその感覚に対して肯定的態度を抱けないなら、そのような生はそもそも「快楽漬け」ですらなく、福利水準は低いと言えるだろう。

 

快楽主義が一定の支持を得ているのは確かであり、また理論として非常に多様である。とはいえ他の立場よりも支持者は少なく、理論的に探求されてない領域がまだまだある。また、おそらく心理学や心の哲学の知見を最も参照しやすい立場であると思う。今後、快楽主義が福利の理論として成功するかは、福利に関する哲学的な探求だけでなく、心の哲学や、快楽と福利に関する科学的な探求にもかかっているといえる。

 

参考文献

Aydede, M. (2018). A Contemporary Account of Sensory Pleasure. In L. Shapiro (ed.), Pleasure: A History (pp. 239–266). Oxford University Press.

Bramble, B. (2013). The distinctive feeling theory of pleasure. Philosophical Studies, 162(2), 201-217.

Bramble, B. (2016). A New Defense of Hedonism about Well-Being. Ergo, an Open Access Journal of Philosophy, 3(4), 85–112.

Crisp, R. (2006). Hedonism reconsidered. Philosophy and Phenomenological Research, 73(3), 619-645.

Feldman, F. (2004). Pleasure and the good life: Concerning the nature, varieties, and plausibility of hedonism. Oxford University Press

Heathwood, C. (2006). Desire Satisfactionism and Hedonism. Philosophical Studies, 128(3), 539–563.

Heathwood, C. (2007). The reduction of sensory pleasure to desire. Philosophical Studies, 133(1), 23–44.

Labukt, I. (2012). Hedonic tone and the heterogeneity of pleasure. Utilitas, 24(2), 172-199.

Lin, E. (2020). Attitudinal and phenomenological theories of pleasure. Philosophy and Phenomenological Research, 100(3), 510-524.

Mason, E. (2007). The nature of pleasure: A critique of Feldman. Utilitas, 19(3), 379-387.

Moen, O. M. (2016). An Argument for Hedonism. The Journal of Value Inquiry, 50(2), 267–281.

Pallies, D. (2021). An honest look at hybrid theories of pleasure. Philosophical Studies, 178(3), 887–907.

Schwitzgebel, E. (2008). The unreliability of naive introspection. Philosophical Review, 117(2), 245–273.

Smuts, A. (2011). The feels good theory of pleasure. Philosophical Studies, 155(2), 241-265.

van der Deijl, W. (2019). Is pleasure all that is good about experience?. Philosophical Studies, 176(7), 1769-1787.

安藤馨. (2006). 『統治と功利』. 勁草書房.

今福亮. (2020). 快楽の本性についての外在主義が抱えるジレンマ. 『名古屋大学哲学論集』, (2020), 61-74.

カーネマン, D. (2014). 『ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?』. 早川書房.

成田和信. (2021). 『幸福をめぐる哲学: 「大切に思う」ことへと向かって』. 勁草書房.

森村進. (2018). 『幸福とは何か』. 筑摩書房.

米村幸太郎. (2017) 「欲求か快楽か、快楽だとしてもどのような快楽か?」. 若松良樹編. 『功利主義の逆襲』. ナカニシヤ出版, 35-56.

*1:

*2:既存の論文での分類はほぼこの通りになっているのだが、どうして「経験」に焦点があたっているのかよくわからない。特に態度的快楽の場合、快楽として想定されているのは命題的態度それ自体だが、意識的経験なしに命題的態度をもつことは概念的には矛盾してないため、快楽という現象を説明する上で経験に限定するかどうかは中立的にするべきだと考える。そこで出来事を用いて「ある心的出来事を快楽的出来事にする」という仕方で定式化する方法が考えられる。これは「出来事」という存在者を要求するが、その程度のコミットメントは許されるだろう。

*3:以下の外在主義の下位区分はvan der Deijl(2019)によるもので(van der Deijlはラベルを付けてないが)、van der Deijl以外の論文ではほとんど区別されていないが、私は重要な区別だと思う。例えば、van der Deijlが指摘するように、Smuts(2011)の外在主義批判は経験感じ方説の外在主義には当てはまらない。

*4:以前の私は勘違いしていたのだが、異質性問題は快楽主義の問題ではなく、快楽の本性に関する内在主義の問題である。それゆえ、福利の理論として快楽主義に納得がいかない人であっても、快楽の本性について内在主義を取るなら、いずれにせよこの問題に対処する必要はある。

*5:米村(2017)は、異質性問題は外在主義をも悩ますとして外在主義を批判している。もし外在主義者が肯定的態度として複数の種類を認めるなら(喜ぶ、満足するなど)、そうした様々な心的態度を「快楽」としてひとくくりにすることがどうして可能なのか、ということである。私はこれは微妙な批判だと考えている。というのも、外在主義はこれに対して内在主義と同様の仕方で答えられるからである。例えば、内在主義の快楽的トーン説のように、個々の具体的な態度(喜ぶ、満足するなど)は確定体の態度であり、それらは「肯定的態度」という確定可能体としての態度を共有しており、肯定的態度こそが快楽である、などと反論することができるからである。この動きが内在主義にできて外在主義にできない理由はないだろう。加えて、もし異質性問題が内在主義と外在主義のどちらをも悩ます問題であるなら、たとえ快楽主義を取らないとしても快楽の本性それ自体は誰にとっても問題であるから、誰であれ解決しなければならないというだけのことであり、外在主義のみに対する批判にはならない。

*6:Moenのこの論文は以前のブログ記事で紹介した

mtboru.hatenablog.com

*7:ここはわかりにくいかもしれないが、内来的価値という概念によってそうする必要がある。内来的価値の標準的理解は、おおむね(1)それ自体で価値的であるような価値、または(2)内的性質によって価値的であるような価値、という二つのいずれかの仕方で理解される。(2)で理解した場合には、複合体内部に快楽が存在する場合、その複合体は快楽的であるという内的性質によって価値的になっているため、複合体は内来的価値をもつとしなければならない。また(1)の理解でも、それ自体が快楽を含んでおり、そしてそれによって価値的であると理解できるため、快楽を含む複合体は内来的価値をもつとしなければならない。

*8:この問題はFeldmanの本の最初に扱われ、議論の範囲が限定されているためにこの定式化に表れてないだけなので、この批判はFeldmanにアンフェアだとは思う。

*9:本来は「Sの生のSにとっての内来的価値は、その生に含まれるSの快楽と苦痛のエピソードの分布によって完全に決定される」としたいが、そうするとここで含めたい真理調節的内来的態度的快楽説を含められない。なぜなら快楽と苦痛のエピソードの分布によっては決まらないからである。一方で、ここでの定式化では、快楽や苦痛が一切ない人生であっても別の何らかの価値がある場合にその生に内来的価値があることを許してしまう。そのため、あくまでも快楽主義と呼ぶからには、快楽と苦痛を必要条件として含めるような定式化を目指したい。