ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

快楽主義の擁護(Moen 2016)

Moen, O.M. An Argument for Hedonism. J Value Inquiry 50, 267–281 (2016). https://doi.org/10.1007/s10790-015-9506-9

 

*1

 

快楽主義の定義

快楽主義[Hedonism]は二つの条件からなる。

  • P1:快楽[pleasure]は内来的に[intrinsically]価値的[valuable]であり、苦痛[pain]は内来的に負価値的である。
  • P2:快楽以外に内来的に価値的なものはなく、苦痛以外に内来的に負価値的なものはない

それぞれの条件に対する批判に答えることで快楽主義を擁護する。

 

P1(快楽は内来的価値をもつ)の擁護

快楽が内来的価値をもつことの直観的な擁護としては、ある行為をする理由に関して源泉に辿っていけば(「なぜそうするのか」を繰り返せば)、その先に快楽があると思われる、というものがある。とりあえずこれを認めたとしても*2、すべての快楽が価値的だといえるだろうか。そうではないという批判に応える。

道具的に価値的であるだけ

Pinaltoは、快楽の価値は「個人の福利増進活動を追跡するとともに、個人が自分の福利に貢献するものを追求する動機を与える経験的信号としての快楽の進化的役割」から考えて、道具的な価値だと主張する。

快楽の経験能力が生殖適正を高めるような行為をさせるために進化したのはそうだろう。しかしそれは、快楽が内来的価値をもつことと矛盾しない。

また、生殖適性が内来的価値を持つというのは考えにくい。例えば、あなたが精子を生産でき、精子バンクにあなたの精子だけを使うが、あなたを好きな時に拷問する、と要求されたとしても、あなたはその要求を飲まないだろう。

欲求の方が内来的価値をもつ

欲求充足説自体に色々問題がある[注1で紹介した本を参照のこと]。またそもそも、欲求の充足が善いのは、そのときに快楽を経験するからだと言えるかもしれない。つまり、説明が逆である。

邪悪な快楽と高貴な苦痛

シャーデンフロイデや、悪意のある快楽、サディストの快楽などは、内来的に価値があるとは思われない(邪悪な快楽)。また、不当な害を受ける人と一緒に苦しむことや葬儀で悲しむことは善いことかもしれない(高貴な苦痛)。

Feldmanは、快楽はそれに値する場合にのみ価値があるとして擁護している。

筆者の路線はより単純で、全体として価値があることとそれ自体(それ単体)で価値があることを区別することである。つまり、文脈の中で全体を評価することと、それだけを文脈から取り出して評価することとを区別する。例えば、苦痛は、あなたがその対象から回避するように仕向けさせるという点で良いが、このことはそれ単体で悪いことを否定しない。また、サディストの快楽は、それ単体では善いが、その快楽によって被害者をもっと害するので被害者にとって悪いかもしれない。

マゾヒストの存在など

反例になるようなケースが他にも三種類ある。

  1. モルヒネによる鎮痛や特定の頭部外傷に起因する稀な病状で、患者は激しい痛みを経験するにもかかわらず、その痛みを悪いものとして感じない。
  2. マゾヒストの存在
  3. 歯が抜けたときに、痛いのに動かしてしまう

素朴な回答は、特に説明なしに、それでもやはり内来的に負価値だということ。だが説明もできる。

「苦痛」には、典型的に見られる経験内容(鋭い、激しい、焼けつくようななど)、およびそれに伴う快楽的[苦痛的]トーンがある。しかし、上のケースでの「苦痛」には、典型的に見られる経験内容があるが、トーンが伴われてないかもしれない。

また、マゾヒストは特定の文脈の特定の苦痛を好むはず(性的な文脈で興奮している時だけとか)。その文脈では、その苦痛によって興奮が当てられ性的快楽がさらに加わるかもしれない。その場合、全体としては善いが、苦痛を分離すれば負価値的だろう。

三番目のケースには進化論的説明がある。損傷した部分を理解しようとした振る舞いとして解釈できる。実際、痛みが強くなればその行動を止めるはずである。

 

P2(快楽だけが内来的に価値をもつ)の擁護

まず、あるものが内来的価値をもつというのは積極的な主張なので、快楽以外に価値をもつものがあると主張する側に説明責任があることに注意しよう。その上で多元主義を検討する。

快楽以外にもさまざまな項目が提案されているが、その提案者らも気づいているように、その項目はそれぞれ、快楽を促進し苦痛を回避するのに役立つものとしてうまく説明される傾向がある。であれば、快楽以外に内来的価値のリスト項目を追加することへの批判が二つある。

第一に、オッカムの剃刀からいって、項目を増やすことに抵抗するさしあたりの理由がある。

第二に、多元主義は、各項目がそれ自体で内来的に価値があるなら、なぜ快楽を促進し苦痛を回避するのに役立つのかを説明しなければならない*3*4

第二の批判に対する多元主義からの応答の一つは、快楽を感じる能力が、それらの価値を追跡するからだというもの。つまり、物事は価値があるから快楽的である、と説明する。快楽主義はその逆の説明をする:物事は快楽的だから価値がある。

しかし多元主義からのこの応答には問題がある。価値が生殖適正を促進するのでもない限り、生物が価値を追跡する能力を持つとは考えにくい。よって、快楽は、価値を追跡するためのものではなく、生殖適正の促進を追跡するためのもののはずである*5

また、なぜ私たちが快楽以外に価値を見出すのかについては、快楽とその項目が繰り返し一緒に生じれば、それらを連合(学習)してしまうからであると説明できるかもしれない。

*1:快楽主義だけでなく、福利論一般に関しては以下の本を参照。

*2:かなり弱い議論だと思われるかもしれない。最終到達点が快楽である保証もまったくないし、仮にそうだとしても、他にもあるかもしれない。私はこのタイプの議論だけから快楽が、そして快楽だけが内来的価値をもつことを支持するのは相当難しいと考える。このタイプの議論と他の議論を組み合わせるのが有望だろう。

*3:いまいちよくわからないが、おそらく、快楽とは別にそれ自体で価値を持ってるなら、相関などなくてもいいはずなのに、どうして相関しているのか、ということが問題になるということだろう。

*4:これは快楽主義にとっても説明課題になる。あとで項目と快楽の関係が連合学習の観点から説明されている。

*5:おそらく、リストの他の項目も同様に生殖適正の促進を追跡するといえれば、快楽と他の項目とは擬似相関するので、その意味で、快楽とその他の項目との関係を説明できるかもしれない。だが、他の項目が、快楽と同程度に生殖適正をうまく追跡しているとは思えない。