本記事は、Cristopher Woodard (2019) Taking Utilitarianism Seriously, OUPの書評である。
Woodardの本書は、2022年時点でおそらく最も新しい功利主義に関するモノグラフ*1であり、ここ最近までの研究蓄積をもとに功利主義を積極的に擁護している。功利主義の魅力の一つは道徳哲学と政治哲学の問題をどちらも単一の理論で論じることにあるが、本書も両方の問題を扱っている。
本書評の構成は以下のとおりである。本書評は全体で2万字を超えているので、まず最初に本書の最も重要なところをまとめる。次に、本書全体の構成を説明し、各章の内容をそれぞれ説明する。最後に、本書に対するコメントを述べる。以下、断りがなければページ数は本書のページ数を表す。
より細かな論点、および補足は注に逃しているので、気になる人は参照されたい。
以下は本書の目次である。
- Introduction
- What Is Utilitarianism?
- What Is to Come
- Six Objections
- Pig Philosophy
- Abhorrent Actions
- Demandingness
- Separateness of Persons
- Politics
- Psychology
- Conclusion
- Basic Ideas
- Reasons
- Rightness
- Two Ways to Avoid Fragmentation
- Three Ways to Accommodate Fragmentation
- Utilitarian Theories of Reasons
- Conclusion
- Well-Being
- Philosophical Theories of Well-Being
- What We Know about Well-Being
- Alienation as Evidence
- Changing Values
- Discovering What Is Good for You
- Promoting Well-Being
- Conclusion
- Two Kinds of Reasons
- Act Consequentialism
- Pluralism
- The Minimal Constraint on Eligibility
- Rule Consequentialism
- Accepting the Willingness Requirement
- Narrowing Eligibility
- Conclusion
- Moral Rights
- The Concept of Moral Rights
- Existing Utilitarian Theories of Moral Rights
- A Broader Indirect Theory
- The Benefits of Respect for Moral Rights
- The Contingency of Moral Rights
- Conclusion
- Justice and Equality
- Distributive Justice
- Justice for Utilitarians
- Kinds of Equality
- Utilitarianism and Substantive Equality
- Known Expensive Needs
- Conclusion
- Legitimacy and Democracy
- Government House Utilitarianism
- Democracy as Eliciting and Aggregating Preferences
- Legitimacy and its Political Importance
- Utilitarianism and Legitimacy
- Should Utilitarians Be Democrats?
- Conclusion
- Virtuous Agents
- Reasons and Rightness
- Cluelessness
- Good Decision Procedures
- Praiseworthiness
- Virtue
- Conclusion
- Conclusion
忙しい人のために
本書の理論的に重要なところは第五章にまとまっている。Woodardは善から理由を、理由から正を説明するという説明関係を前提に、二つの規範理由が存在することを論じる。一つ目は行為に基づく理由であり、これは従来の行為功利主義が認めてきた理由である。二つ目は、これがWoodardの理論の特徴なのだが、パターンに基づく理由である。ここで「パターン」とは、任意のトークン行為の組み合わせから構成されるものである。行為者には、行為に基づく理由だけでなく、適格なパターンに参加することというパターンに基づく理由もある。
従来の行為功利主義への批判として、例えば「帰結を少し改善するためだけに約束を破るべきではない」ことを説明できないというものがある。もちろん行為功利主義側からも応答されてきたが、Woodardはパターンに基づく理由からこれを説明する。この例において、たしかに、帰結がさらに改善されるという意味で約束を破ることへのより強い理由があるが、それは行為に基づく理由である。一方、ここにはパターンに基づく理由もある。行為者は、<すべての人について、その人は約束を守る>というパターン(P)に参加することによって、パターンに基づく理由に基づいて行為することができる。P自体の善さは、その構成要素の各行為から生じる帰結の善さによって評価できる。功利主義においては、Pが生み出す福利によってPの善さが決まる。よって、このPに参加するパターンに基づく理由があるので、約束を守る理由があることを説明できる。
だが、パターンに何の制約もないならば、仮定より、あなたが約束を破れば帰結が改善されるので、ここでの最善のパターンは<あなた以外のすべての人についてその人は約束を守り、あなたは約束を破る>(P*)ということになってしまう*2。Woodardはこれを避けるために、パターンが適格(eligible)であるための制約を三つ設ける。ここで関係する制約は、そのパターンが「慣行(practice)」を構成している場合にのみパターンは適格である、という制約である。これによって、P*は慣行を構成しないので適格ではなく、このパターンに参加するパターンに基づく理由は存在しない。一方、<すべての人について、その人は約束を守る>というパターンPは、約束という慣行を構成するので、適格である。したがって、Pに参加するパターンに基づく理由があるといえる。
Woodardはパターンに基づく理由を用いて、道徳的権利、賞賛に値するという性質、徳などを説明する。パターンの適格性に関して大きな問題があると思うが(本記事の後ろの方で議論する)、少なくとも、今後の発展を期待できる功利主義ではあると思う。
また本書には、パターンに基づく理由にあまり言及しない議論がいくつもある。例えば、功利主義から実質的平等に関する直観をどのように説明するか、政治的正統性をどう説明するかなど、従来の功利主義的議論に新たな議論を追加しており、この辺りの議論はどういう功利主義構想でも利用できるだろう。またWoodardは反照的均衡を求める方法論を採用しているので、直観から大きく外れないように気をつけて議論しているのも、ほとんどの人にとって興味深い点だろう。
本書の内容
本書の構成をまず説明し、次に、各章の内容について概説する。
本書は全部で十章からなる。まず第一章で功利主義を特徴づけ、本書で論じられること、および本書でとる方法論(反照的均衡)が説明される。次に第二章で、功利主義に対して伝統的に向けられてきた六つの批判が紹介される。この六つの批判に対処できるかどうかが理論の試金石となる。これらの批判に対しては最後の第十章で答えられる。次に第三章では、善、理由、正の関係をどう扱うかが論じられる。ここまでは功利主義を論じるための準備を行なっているといえるだろう。
第四章と第五章が理論的に重要な章である。第四章では福利(well-being)について論じられる。Woodard自身は特定の福利論(例:快楽主義)にコミットせず、福利であるための必要条件を述べるにとどめている(詳細は後で説明する)。第五章が本書の理論的な中核となる章であり、Woodardの理由論が論じられる。上の「忙しい人のために」で述べたように、Woodardは二種類の理由(行為に基づく理由とパターンに基づく理由)があることを論じ、これをもとに以降の章が論じられていく。
第六章から第九章は各論であり、第六章で道徳的権利、第七章で正義と平等、第八章で正統性と民主主義、第九章で意思決定・賞賛/非難・徳が扱われる。最後に、第十章でまとめとして、第二章でみた六つの批判に答えていく。
第一章:導入
本章では、功利主義の特徴づけ、および著者が本書でとる方法論について論じられる。
まず功利主義の特徴づけは、A. Sen以来の特徴づけを引き継ぎ、三つの特徴にまとめられる。すなわち
- 帰結主義(consequentialism)
- 行為の正しさ、制度の正義、行為者の徳や悪徳といった倫理的現象を、結果(outcome)の善さ(goodness)という観点から説明できる
- 福利主義(welfarism)
- 福利(well-being)は非道具的価値(noninstrumental value)をもち、それ以外のものは非道具的価値を持たない
- 総和主義(sum-ranking)
- ある結果の価値は、その結果に存在する善(と悪)の総和である*3
また、Woodardが本書でとる方法論は反照的均衡*4である。功利主義者は反照的均衡を使わないイメージがあるかもしれないし、実際一部の功利主義者はそうなのだが(例:R. M. Hare、P. Singerなど)、功利主義者が反照的均衡を使えないわけではない。
第二章:六つの批判
第二章では、功利主義理論を評価するための試金石となる六つの代表的な批判が紹介される。六つの批判とその内容は以下のとおりである。
第一の批判は、価値に関する理論の不十分さについてである。功利主義は「豚の哲学」だと非難されてきたが、この批判は正確にはどういうものだろうか*5。この批判の興味深い解釈は、非道具的価値を福利に限定しているというものである。自由や自律、あるいは美の価値など、福利以外にも非道具的価値がありそうである。功利主義者(福利主義者)はこれらの価値を、福利の構成要素とするか、福利に(因果的に)貢献する道具的価値であるという仕方で説明しなければならない*6。
第二の批判は、功利主義者はある種の忌まわしい行為を道徳的に許容可能にしてしまう、という批判である。例えば、約束破りや人殺しを、帰結が少しでも改善されるがゆえに許容してしまうのである。だが、義務論者でさえ、例えば大きな災いを防ぐ場合など、忌まわしい行為を場合によっては許容するはずである。ここで批判者らが言いたいのはむしろ、あるタイプの行為に関して、功利主義者は何も道徳的制約を設けない、ということである。
第三の批判は、今度は逆に、行為の要求が高すぎるという批判である。例えば、可能な限り募金するべき、個人的プロジェクトを台無しにするような行為を要求する、などと批判される。
第四の批判は、人格(person)の分離を尊重しないという批判である。この批判の解釈は難しいが、功利主義にとって問題になる解釈は、利害の集約への批判というものである*7。つまり、功利主義は、福利の総和が同じであれば、その分布がどうであれ同じようにその帰結を評価するが、それはあり得ないだろう、という批判である。
第五の批判は、功利主義を政治領域で使うのは不適切だという批判である。政治的制度や決定には、互いに意見が異なる人々からなる集団に対して強制的に行われるという特徴がある。よって、ここには独特の規範的要請があり、道徳理論が提供する正しさの基準とは違うように思われる。この批判は、より具体的には、功利主義は正統性(legitimacy)について説明できない、といえるだろう。
第六の批判は、功利主義は人の心理学についてあり得ない主張をしているというもの。そもそも功利主義は心理学理論ではないのだから問題ないと思うかもしれない。しかし、満足のいく道徳的・政治的理論は、有徳な行為者の内面についての私たちの確信と一致したものでなければならないだろう。有徳な人の動機付けと相容れないような行為を要求する理論は道徳理論として失敗しているだろう。またこれに近い論点として、功利主義者は従来から意思決定手続きの基準と正しさの基準をわけ、功利主義は後者についての理論だとしてきた。しかしそれで説明が終わるのは不十分である。意思決定手続きがどういうものであるのか説明しなければ、行為指導を行うことができず、道徳理論としてやはり失敗していると思われる。
以上の六つの批判には第十章でまとめて応えられる。
第三章:理由と正しさの関係
本章では、善、理由、正しさ、その他の評価的概念の関係について素描される。予想されるように、ここでWoodardがとる構想は、善から理由を、理由から正を説明するというものである。
ここで問題になるのは、これらの概念は、観点的(perspectival)なのかそうでないのか、というものである。例えば規範理由は、何らかの関連する(relevant)観点から特徴づけられるのだろうか。それとも、どの観点にも関連づけられない(つまり客観的な)ものなのだろうか。同じく正しさ、熟慮、賞賛・非難についても同様の問題が生じる。とはいえ、少なくとも、熟慮、賞賛・非難のように、何らかの判断に関わるような行為は観点的だと思われるので、理由と正しさをどう扱うかが問題になる。さらに、功利主義者は諸々の倫理的現象を説明しようとする理論であるので、もし理由や正しさを非観点的だとした場合、それらと、熟慮や賞賛といった観点的な評価を必要とする現象の関係について説明しなければならない。
Woodardは、理由と正しさは非観点的であり、熟慮(あるいは意思決定)や賞賛・非難は観点的であるという立場をとる。これら二つの領域の関係は第九章で扱われる。
第四章:福利(well-being)
第四章では福利の必要条件が論じられる。Woodardは特定の福利構想(例:快楽主義)にコミットすることはせず、ある対象が福利であるための制約(必要条件)を議論している。本章のはじめで福利論の議論が整理され、大まかに、主観主義と非主観主義で対立があることが議論される。ここでいう主観主義とは「主体Sに関して、あるXがSの福利あるいは福利の構成要素であるのは、SがXを適当な状況で非道具的に価値づけるとき、そのときに限る」(p.67)というものである。
福利論の議論は非常に複雑で大変な状況であり、どの立場が正しいのか結論を出すのが難しい。しかし、私たちは福利に関する様々な知識や直観を持っている。そこでWoodardは、福利の必要条件だけを特定し、福利の形而上学的議論ではなく認識論的議論を検討していく。
Woodardが福利論に関して採用するのは、Railton*8の反疎外(anti-alienation)という制約である。反疎外制約とは、主観主義の定式化の必要条件(「そのときに限る」のみ)である。反疎外制約を採用する根拠は、非道具的に善であることがその人の価値づけや魅力に感じることと全く関係がないとは言い難いので、何らかの関係があるはずだ、という直観である*9。
Woodardはこの反疎外という制約を何が福利であるかの証拠として扱うことができると主張する。何かが福利の構成要素であるかどうかを検討するときに、それが疎外的かどうかを検討することで、福利の構成要素かどうかについての証拠をもつことができるようになる。このテストを反疎外テストと呼ぶ。
ところで、反疎外制約は主観主義の必要条件として定式化されるが、上の主観主義の定式中にある「価値づける(valuing)」と「適当な状況(right circumstance)」とはなにか。まず、「価値づけ」には、欲求なのか信念なのかその他なのかという論争がある。ここではさしあたり、価値づけの態度は多様だとしておくことができる。また「適当な状況」に関しては、情報に基づくか否か、価値観が変わる場合どうするかという問題がある。これらについて認識論的目的を考えると、まず情報に基づいてない場合はその福利を割り引くとしておけばよい。また価値観が変わるケースに関しては、未来の自分にとっての価値を、今の自分の観点から評価するのはおかしいので、その参照点は変わった後だろうとWoodardは論じている。
では、功利主義において反疎外テストはどのような意義を持つだろうか。反疎外テストを行うには、物事を実際に試してみて、自分の価値づけ態度がどうなるのかを知る必要があるし、また未来の自分にとって何が善いかを予測するために物事をいろいろ試して多くの経験を得る必要があるだろう。したがって功利主義的観点からは、人々が自分の福利について知り、福利を促進できるようにするために、反疎外テストを行うにあたって安心して物事をいろいろ試すことができる環境を用意する理由があることになる。つまり、物事を試す自由と、その安全を提供する理由がある。これは、自由と安全の重要性に関する認識論的な功利主義的議論である。
第五章:二種類の理由
本章が理論的に最も重要な章である。概略は上の「忙しい人のために」で述べたので、ここではパターンに基づく理由についてより詳しく説明する。
パターンに基づく理由(pattern-based reason)*10の存在は次のように定式化される。ここでパターンは任意のトークン行為の組み合わせである。
PBR 行為者Sが行為Xを行うためのパターンに基づく理由が存在するのは、行為者Sが行為Xを行うことが可能であり、適格な(eligible)行為パターンPにおいてXをすることがSの部分であり、そのパターンが善いとき、そのときに限る。(p.92)
Woodardはパターンに基づく理由が存在すると考える根拠を四つ挙げている。第一に、私たちは日常生活で、パターンに貢献する・しない理由を表明することがある。例えば、デモに参加するときにあげる理由はパターンに貢献する理由だろう。第二に、これは抽象的にはもっともらしい。第三に、これまで哲学者や経済学者などによって再発明され続けてきた(例:経済学の調整問題などで)。第四に、これは道徳的制約を、行為者相対的・時間相対的価値に訴えることなく説明できる。これだけでは根拠として不十分であるのはWoodard自身も認めており、ここでの目的はあくまでもこの考えに興味を持たせることだとしている。
PBRの定式中の「適格性(eligible, eligibility)」は、パターンに制約をつけるためのものである。この制約は、パターンを任意のトークン行為の組み合わせとしているので、何でもありになってしまうのを防ぐためのものである。Woodardは適格性について三つの制約を提案している。(1)パターンの各パーツ(構成行為)は他のパーツが実行されるならば実行されうる、かつ(2)パターンを実現するのに必要な他の行為者が協力する、かつ(3)そのパターンが何らかの慣行(practice)を構成している。ここで(1)と(2)の制約は独立した根拠が与えられているが、(3)は、前者二つだけでは不十分だという理由でアドホックに追加されている。
なぜ(3)の制約が必要なのだろうか。それは、(1)と(2)だけでは、行為功利主義と外延的に等価になりかねないからである。「忙しい人のために」で述べたように、帰結を少し改善するために特定の行為者だけが非規則的行為をすることを制限するには、その行為者だけが別の行為をするというパターンは適格ではない、としなければならない。Woodardは、通常の意味でのパターンは慣行に似ているだろうとし、そこからこの(3)の制約を追加している。Woodard自身、(3)の制約は狭すぎて適格にしたいパターンを適格にできないケースがあること、アドホックであることを認めている。あとで議論するように、この点がWoodardの功利主義の魅力を下げている。
以降の章は各論であるため、まとめて概説する。
第六章〜第九章:道徳的権利、正義と平等、正統性と民主主義、徳
第六章では道徳的権利の功利主義的擁護が議論される。予想されるように、Woodardはパターンに基づく理由から道徳的権利を擁護する(6.3-6.5節)。基本方針は次のとおりである。まず道徳的権利を有益なスキームから成ると考え、次にそのスキームを尊重することが適格なパターンであるとし、そのためその道徳的権利を尊重するというパターンに参加するパターンに基づく理由があるとする。しかし、適格なパターンは慣行を構成しているものだけなので、権利の存在を説明するために「権利の尊重」という慣行の存在に訴えなければならなくなり、循環的説明になってしまう。Woodardは権利という用語を用いずにこのパターンを正確に説明することでこの問題を回避している。例えば、拷問されない権利の尊重を、「あるパターンPは、人々が互いに拷問しないこと、およびある行為Xが拷問の例になるという事実を、Xを行うかどうかの熟慮を修了するのに十分な事実として扱うこと」という事実からなる、と説明する。カギ括弧内の説明に「権利」や「尊重」という語は含まれてないので循環的説明にはなっておらず、問題を回避できている*11。
第七章では分配的正義について議論される。まず、分配的正義を、利益と負担の分配に関連する人々の権利の尊重からなるものと解釈することを提案している。これによって、Woodardの功利主義では、分配的正義の問題を単なる福利総量最大化の問題から切り離すことができ、善と正義の問題を切り離すことができる*12。
次に、分配的正義の問題の中でも重要な平等に関して、Woodardは平等を四種類(形式的平等、個人への利害の平等、基本的道徳的権利の平等、実質的平等)に区別し、それぞれ功利主義から擁護できると主張する。まず最初の二つの平等は従来の功利主義的議論でも擁護でき、道徳的権利の平等の擁護は第六章の議論を用いることができる。残る平等の種類は実質的平等であり、これは、資源や福祉など、人々の生活の物質的条件に関わる平等である。
伝統的に功利主義者は限界効用逓減*13に訴えて実質的平等を支持する傾向にあるが、これだけでは不十分である。なぜなら、ある個人に関して限界効用が小さくなるとしても、個人間でその変化の割合が異なるからである。そのため、高価なニーズを持つ人(例:車椅子を必要とする身体障害者)からそうでない人への資源の再分配を功利主義は支持するかもしれず、実質的平等を支持できない。Woodardはこれに対していくつかの反論をしている。例えば、車椅子のニーズに関する議論は、障害者の福利レベルが低いこととと限界効用率が低いことを同一視してしまっているとする。移動に問題がある人は、同じ資源で福利度は低いかもしれないが、限界効用率まで低いわけではないし、むしろ、次の資源の増分で移動能力を大幅に向上させる車椅子が購入できるのなら、限界効用率は高いかもしれない。*14
第八章では政治的正統性(legitimacy)と民主主義の功利主義的議論がなされる。ここでの正統性は手続き的な正統性である。本章ではまず、功利主義が素朴にはテクノクラート的政治モデルを採用する可能性を高めることが論じられる。これはある種のエリート主義であり、Williamsの植民地功利主義への批判にもつながっていることが論じられる。この批判を回避するために民主主義を擁護したいが、功利主義の中に民主主義を見出すにはどうしたらいいのか*15。そこで用いられるのが正統性である。
Woodardの提案する手続き的正統性は、「それに従う人々が、不服従に対する制裁の脅威以外の理由でその決定に従う度合い」(p.176)、つまり、実際に人々がどれくらいその決定に従うのかという社会学的事実として「薄く」定義される。では、この正統性はどういう役割を持つのか。それは秩序維持のコストを削減することである。秩序維持のための強制はコストがかかるが、無秩序は人々に安全をもたらさない。そのため、事実上、人々は何らかの手続きを受け入れるようになり、それが正統性を持つようになる*16。
この正統性の下に、熟慮的概念としての民主主義を功利主義的に擁護できる。人々が民主主義的プロセスに参加し公開討論・投票することで、人々の選好情報を得ることができ、さらに意思決定者の多様性を生み出せるので、専門家による支配というテクノクラート的政治モデルを防げる。また現実に、現在の民主主義的社会に生きる人々は、社会的決定が民主的に行われなければ強制を恐れる以外にはその決定に従わないだろう。その意味で、正統性には民主主義が必要である。もちろん他の仕方*17で民主主義を擁護することもできる。重要なのは、以上のような民主主義の道具的擁護を複数用いることで、功利主義者は民主主義を支持できるということである。
第九章では、意思決定手続き(decision procedures)*18、賞賛に値する性(praiseworthiness)、徳(virtue)の説明がされる。まず意思決定手続きの機能は、意思決定者によって正しい行為を生み出すことであると仮定される。よって、善い意思決定手続きとはより正しい行為を生み出すような意思決定手続きであり、それは、その意思決定手続きが指定するタイプ行為の帰結全体から評価される*19。
次に賞賛に値する性について議論される。まず、伝統的な功利主義的議論を二つ検討しどちらも不満足であると判断される*20。ここでの要点は、賞賛することが適切であることと、賞賛することが正しいこととを論理的には分離することである。
賞賛の役割を考えてみよう。賞賛の習慣(パターン)Pがあり、これが福利を促進するとする。そこには二つのメカニズムがある。第一のメカニズムは、関連する規範に関する情報を伝達することで調整を助けることである。日常的にも、規範に従った行為は賞賛され、背いた行為は非難されるだろう。第二のメカニズムは、賞賛によって、人々は賞賛された行為を真似る(emulate)ようになることである。そして、賞賛と非難が無秩序ではこれらのメカニズムは成功しないので、ある程度体系的である。さらに、賞賛と非難の慣行がそこにあれば、それはパターンに基づく理由になる。以上のことから次のことが言える。通常、賞賛に値する特性を賞賛することは適切であり、また正しい。しかし異常なケース(例:暴君をしずめるために賞賛するなど)では、賞賛するのは不適切だが、正しい行為であるといえる。不適切であるのは、パターンに基づく理由がない行為だからであり、正しい行為であるのは、より善い帰結であるがゆえの行為に基づく理由があるからである。
最後に徳が説明される。まず功利主義からの標準的説明は、徳を善い性格特性だと特徴づけることである。しかし、これはDriverのケース:不器用なせいで、悪意があるが総じて善い行為をする人が有徳になってしまうので、この標準的説明には問題がある。Woodardはその後、Driverの提案する説明を退け*21、別の提案を行う:「ある特性が有徳であるのは、それが善い意思決定特性(一般に正しい判断につながるようなそれ)であり、賞賛に値する(賞賛と非難の良い実践の規範によって賞賛に値すると選ばれる)とき、そのときのみ、またそうだからこそである」(p.207)。上述した意思決定特性*22および賞賛に値する性の定義から、有徳な特性は正しい行為を引き起こす傾向があり、またその性格特性を賞賛する慣行は福利を促進するようなものであるだろう。よってこれは功利主義から逸脱した説明になってない。
第十章:結論
この章では第二章で確認した六つの批判への応答がなされる。ここまでの議論からほぼ応答できていることがわかるだろうが、簡単に説明する。
第一の批判:福利主義と総和主義に対する批判に関しては、これらの立場は抽象的にはもっともらしいこと、そして総和主義に対する実質的平等からの議論には応答できることを第七章で確認した。第二の批判:忌まわしい行為を許容すること(道徳的制約を説明できないこと)、および第四の批判:人格の分離を尊重できないという問題は、パターンに基づく理由によって応答される。どちらの問題も、帰結を少し改善するために誰かに大きな危害を加えたりコストを課したりすることが問題になっているが、パターンに基づく理由の存在によってそうすべきでないという道徳的制約を説明できる。第六の批判:功利主義は徳や善い意思決定手続きをもっともらしく説明できないという批判に対しても、パターンに基づく理由から説明されることを第九章でみた。第三の批判:要求しすぎるという問題は、パターンに基づく理由から行為することを正しい行為だとすれば、最も強い理由ではなくても正しい行為になるので、要求しすぎることがないと応答できる。第五の批判:正統性を説明できないという問題は、民主主義的手続きを功利主義は支持でき、そこにおいて、社会学的事実としての「薄い」正統性があるといえるので問題ないとされる。以上の六つの批判に応答できるという点で、Woodardの功利主義は致命的な欠点を持ってないといえる。
Woodardが述べるように、本書の目的は、ある特定の功利主義を積極的に擁護するというよりむしろ、功利主義一般に関して新たな関心を喚起し、これが真剣に考えるに値する立場であることを示すことである*23。以下で議論するように、評者はWoodard自身の功利主義に魅力を感じないが、しかし功利主義一般に関して関心を喚起する程度には魅力的だろう。
コメント
本書は功利主義の体系的擁護を行っており、道徳哲学と政治哲学の両方の問題を扱っている点で優れたものになっている。
Woodardはほとんど議論してないが、他の道徳理論と比較してみよう。まず義務論と比較すると、Woodardの功利主義は義務論者が想定するような道徳的制約を功利主義的に説明している。この点で、道徳的制約を直観以上に説明しないような素朴な義務論より有利な立場にある*24。次に徳倫理との比較では、人間本性などを持ち出さずに福利の促進の観点から徳を説明している点で、徳に関する別の説明を提供している。また、賞賛という慣行と善い意思決定特性という観点から徳を説明するので、どの性格特性が徳であるかを具体的に特定できるかもしれない。さらに、具体的な賞賛の慣行は文化相対的かもしれない一方で、福利の促進という客観的な観点から徳を説明するので、もしかしたら、徳の文化普遍性と文化相対性の両方をうまく説明できるかもしれない。
政治哲学における平等主義と比較してみよう。これはWoodard自身が述べているが、希少資源の分配において、極端に平等主義的にならず、一方で平等主義的でもあるという、私たちの複雑な態度を功利主義はうまく説明できる(第七章参照)。そのため功利主義は平等の理論としても魅力的である。
従来の功利主義者たちも批判に応答してきたが、本書はそこに新しい反論を付け加えるものとして評価できる。また反照的均衡を方法論として採用しているため、功利主義批判者たちが嫌がる「直観を否定する」仕方での反論がほとんど見当たらない点も優れているだろう。その意味で、本書は非功利主義者たちに、功利主義がどれほど魅力的な立場なのかを示そうとしていると言える。
しかし、本書の内容に関していくつか問題がある。以下では五つの問題点を指摘する。最初の三つはパターンの適格性の制約についての問題、後の二つは方法論的問題である。
問題点1:超義務(supererogatory)に関する直観をうまく説明できない
六つの批判の第三の批判、要求しすぎるという問題で、超義務が言及されているにもかかわらず、本書では超義務について全く説明がない。超義務の特徴づけは論者によって異なるが、基本的には、道徳的にいってオプションであり(要求されてない)、またもし実行したならば代替行為より特別に優れた価値を持っている行為である(Vessel 2010*25)。Woodardは注でVessel (2010)を参照しているが、特に議論をしていない。参照されてるVessel (2010)で指摘されているように、古典的功利主義でも超義務の一部を説明できる*26。
では、それ以上のことをWoodardはどうやって説明するのだろうか。一つのありうる方針は、パターンに基づく理由が最も強い行為と、行為に基づく理由が最も強い行為とが一致せず、かつどちらを選んでもいいとして、より他者に効用をもたらす行為を超義務とすることである。Woodardはここで行為に基づく理由に限定しなければならないだろう。なぜなら、超義務的行為を行うことは一般に難しく、そのため超義務的行為を部分として持つパターンは慣行を構成しないと思われるからである。もしかしたらこれで超義務をうまく説明できるかもしれない。
しかし別の問題もある。超義務的行為を行うことは一般に難しいという事実は、Woodardの賞賛に値する性についての説明と超義務の相性の悪さを示唆する。Woodardは賞賛に値する性を説明するにあたって、賞賛の役割を検討し、規範の伝達と模倣を促進するという二つのメカニズムを特定している。だが、模倣の促進というメカニズムと超義務の相性は悪い。超義務は、それを実行するために自己犠牲を払うなどのために一般に難しく、あまり簡単に真似しようと思えるものではない。私たちは超義務的行為や英雄的行為を真似しようと思うのではなく、むしろ賞賛するだけであり、例えば「とても真似できないけど、すごいね」という感覚を持つだろう。もしそうなら、Woodardの賞賛に値する性の説明は、超義務に関して私たちが持っている直観をうまく説明できない*27。
問題点2:パターンの適格性条件の一つをアドホックに説明している
本書の別の書評(Semrau 2020*28)でも指摘されているように、適格性の条件の三つ目、パターンが慣行を構成するときに限り、そのパターンは適格である、というのは問題がある。Woodard自身が述べるように、これは狭すぎるし、パターンを制約するためだけのアドホックな説明になっている。
おそらく、この制約の問題は行為功利主義以外の功利主義全般にとって問題となるだろう。Woodardは規則功利主義(規則帰結主義)をパターンに基づく理由から再記述しており、言及されてはないが、おそらく動機功利主義やその他の非行為-功利主義もパターンに基づく理由から再記述できる可能性がある*29。もしそうなら、非行為-功利主義にとってこの問題は厄介かもしれない。規則功利主義にとってはどのような理想化を制約として設けるかが問題であったし、Woodardの場合は理想化ではない別の制約を提案しているに過ぎない、となるだろう。そうだとすれば、これは非行為-功利主義にとって伝統的につきまとう厄介な問題の一例であることになる。解決するのは難しいかもしれない。
問題点3:保守的になる可能性が高い
(古典的)功利主義の特徴の一つは、人々の直観を否定し、ラディカルな主張を行うことができることにある。例えばBenthamは当時の時代背景にもかかわらず同性愛を擁護したし、BenthamとMillはどちらも女性の権利の初期の擁護を行なった*30。だが、Woodardは方法論として反照的均衡を採用したために、直観に沿った功利主義を主張することになっている。もちろん直観を否定する理論的資源はあるだろうが、それは伝統的な行為功利主義と比較すると頼りなく、どうしても保守的になってしまうだろう。
加えて、現在の慣行を構成しないパターンを適格としないので、その点でも保守的にならざるを得ない。例えば女性差別的特性を非難する慣行がないところでは、少なくともそこでは女性差別的特性は非難に値しないことになってしまう。
Woodardはこの問題に対して反事実的条件を使って対処しようとしている。例えば、ある特性は正しい行為を引き起こすのに有効であるが、まだその特性を賞賛する慣行がないとしよう。しかし、もしその特性を賞賛する慣行ができれば、全体の福利はより促進されるとしよう。もしそうなら、それは賞賛に値しないが、賞賛されるべきであり、もしそうなったら賞賛に値するようになるだろう。この応答の問題は、たとえ賞賛されるべきであったとしても、それはやはりその当時その場所では賞賛・非難に値する特性ではなかったとすることである。女性差別的特性の例でいえば、その当時その場所では、少なくともそれは非難に値しなかったとしてしまう。非相対主義的な直観を持つ人の多くはこの結論を避けたいだろう*31。
問題点4:倫理的諸概念を道具的にしか擁護できない
この問題は福利主義を支持する限り避けて通れない問題である。例えば、民主主義の功利主義的擁護はどれも道具的な擁護でしかなく、民主主義的プロセスそれ自体に非道具的価値を認めることはない。徳についても同様である。有徳になることで卓越性(excellence)を獲得することができるかもしれないが、福利主義者は福利とは異なるものとしての卓越性自体に非道具的価値を与えることはない。これは批判者らにとって不満足な結果ではないだろうか。私たちはそうした倫理的諸概念、諸事実に関して非道具的価値を認めたいのではないだろうか。
福利主義者にとってこうした批判は論点先取に見える。福利が非道具的価値であることを認める点で批判者と福利主義者は同じ立場にある*32。福利主義者はさらに、福利以外の価値の道具的価値を認めるので、その点で全く価値がないとするわけではない。一方、非福利主義者は福利に加えて他にも非道具的価値があると主張するが、もしそれに根拠がないなら、福利主義者に対する論点先取でしかない。単にそう思うと言っているに過ぎない。
だが、Woodardは反照的均衡という方法論を採用しているため、この直観的反論を無視することはできない。道具的価値しか持たないことの問題は、非道具的価値への貢献が文脈によって成立しない場合に、その道具的価値をもつ現象や事実を役に立たないとして否定してしまうことである。Woodardが反照的均衡を方法論として採用する限り、批判者らのこうした反直観論法を何らかの形で弱める必要がある。一方、反照的均衡を方法論に用いない行為功利主義者たちは、こうした反直観論法を直観の方を否定することで反論できる。この反論の仕方にも問題はあるだろう。しかし、反照的均衡を方法論に用いない人は、以上の問題が理論的問題であることを初めから拒否できる立場にあるという点で、Woodardとは異なる立場にある。
問題点5:重要な批判のいくつかを検討してない
この問題点の指摘は難癖に近い。Woodardは第二章で六つの批判をとりあげているが、著者自身も認めるように、網羅的ではない。一つの本ですべてを扱えるわけがないのでこれは仕方ないだろう。Woodardの議論が今後どのように発展すべきかへのコメントとして捉えてもらいたい。
まず、本書の注で言及されているように、人口倫理の問題(総和説か平均説かその他か)、非ヒト動物の扱いには功利主義特有の問題があるだろう。特にWoodardは総和説への支持を注で表明しているので、何かしら議論があってもよかったと思う。また、賞賛・非難についての説明はあるが、責任に関する説明がほとんどない。特に非難との関係がどうなっているかは何らかの説明が必要だろう。最後に、注ですら触れられてない問題として、適応的選好形成の問題がある。この問題は功利主義の問題というより、特定の福利論に限った問題かもしれない。だが、この批判は伝統的に功利主義に対して向けられてきたし、福利論の章などの注で言及されてもよかったと思う。
以上、五つの問題点を指摘した。最初の三つの問題はすべて、パターンの適格性の三つ目の制約、慣行を構成するという制約に起因しているように思われる。この制約は、Woodardの功利主義の最も根拠が乏しい点である。もっと紙幅を割いて議論してもよかったと思う。ただ、評者にはその制約は今のところ思いつかないし、反照的均衡を用いている限り保守的になるきらいがあるので、評者自身は行為功利主義に止まり続けたいと感じている。
とはいえ、本書には功利主義一般の擁護に参照できる議論がいくつかある。Woodardの功利主義に魅力を感じない功利主義者であっても読む価値のある内容になっていると思われる。
*1:一応、Mulganによる功利主義解説本もある。研究書としてはWoodardの本書が最も新しいと思われる。
*2:功利主義を少し知っている人なら、この問題が規則功利主義の行為功利主義への崩壊問題と同型であるのがわかるだろう。Woodardも、自身の理論と規則功利主義の相違を気にしている(5.4節)。簡潔に言えば、規則功利主義はパターンを理想化するが、Woodardの功利主義はパターンを理想化しないため、規則功利主義とは異なる立場である。
*3:Woodard自身が注意するように、この総和主義の特徴づけでは集計に関する平均説が除外されている。人口倫理では総和説と平均説の違いは重要であり、Woodard自身は総和説に魅力を感じているようである。しかし本書では人口倫理について全く触れられず、また人口が変わらない場合は総和説と平均説に違いはない(平均は総和を頭数で割ったものなので、頭数が変わらないなら総和と平均で各帰結の評価ランキングは変わらない)ので、本書ではこの違いは扱われない。
*4:反照的均衡の探索とは、事例に対する直観のうち確信の持てるものを残し、それらを説明できる理論を探索し、探索する中で、場合によっては理論か直観のどちらかを修正しながら、直観を整合的に説明できる理論を探索する方法である。
*5:素朴な解釈は、素朴な快楽主義への批判である。だがもしそうなら、功利主義者はより洗練された快楽主義をとるか、あるいは快楽主義を放棄するだけでこの批判を回避できる。
*6:功利主義に特有の問題は、福利を説明する際に循環にならないように注意しなければならないことである。例えば、サディストが残酷で不正な行為から快楽を得れば得るほど、サディストの行為は功利主義によれば善くなってしまう、という批判がある。この批判に対処するために、残酷な行為から受け取る快楽を福利から除外するという方針を功利主義者は取れない。なぜなら、功利主義は福利から正しい・不正な行為を説明する理論なので、残酷な行為を同定する前に福利論を構築しなければならないからである。
*7:別の解釈は、功利主義は人格の利害を交換可能なものとして扱うという批判である。しかしこれは誤解であるとWoodardは論じる。功利主義は各人の福利をそれぞれ究極的な善として扱うことができ、また行為の理由の源泉もそれぞれ別個のものであると言いうる。功利主義はある人にとって善くなることが別の人にとって悪くなることに無頓着ではない。
*8:Railton, P. 2003b. ‘Facts and Values’. In P. Railton, Facts, Values, and Norms: Essays toward a Morality of Consequence. Cambridge: Cambridge University Press, 43–68.
*9:この反疎外制約に対する反例はBramble (2016)を参照
Bramble, B. 2016. A New Defense of Hedonism about Well-Being, Ergo, 3, 4: https://doi.org/10.3998/ergo.12405314.0003.004
*10:パターンに基づく理由は、そのパターンに参加する(その部分になる)理由なので、あくまでも単一の行為者にとっての理由であり、集団行為者にとっての理由ではない。
*11:循環的説明を回避したとしても、結局のところ、そうしたスキームが既に存在していなければ、つまり、道徳的権利の尊重があるところでしか道徳的権利を擁護できないことになる。Woodardはこの問題に対して二つの対処法を提案している(6.5節)。第一の応答は、あらゆる時代と場所ですべての人が道徳的権利をもっているなんてことはないことを認めることである。しかしこの応答だけで終わらせては反直観的すぎるだろう。そこで第二の応答は、上記のようなスキームが尊重されていなかったとしても道徳的権利を尊重するといえるとすることである。例えば、人々は通常、拷問になるという事実を、そうしないことの決定的な理由として扱うだろうから、拷問行為を控えるという意味で、拷問を受けない道徳的権利を尊重していると言いうる。
*12:この解釈の難点とその応答が7.2節で行われているが、評者にはあまり明るくないトピックなので、ここでの解説は控える。本文を参照されたい。
*13:限界効用逓減とは、ある資源を得た時の効用の上昇幅(限界効用)は、資源が多くなるほど小さくなる傾向にあるというものである。例えばある人に、お腹が空いているときにりんご一個を与えるのと、すでにりんごを何個も食べてお腹いっぱいのときにりんご一個を与えるのとでは、前者の効用の上がり幅の方が大きいだろう。これが限界効用逓減の法則である。以下の児玉による解説も参照のこと:http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/marginal.html
*14:また関連する問題として、希少資源に関しての議論もされている。ここでの平等主義に関する問題は、一方では個人の属性(人種や性)によって違いをもたらすべきではないという直観、他方で、純粋に生理学的な違いのために希少資源を分配する際に一方を優先することを認めるという直観の両方を説明することである。まず前者の直観は、反差別政策が一般に効用を促進するとして擁護できる。加えて、多くの場合私たちは個人の福利に関して無知であり、また個人の差異を追跡するコストを踏まえると、人々を平等に扱う政策を採用することが最善だろう。それでも、既知の差異であり追跡のコストが低いなら、福利促進の観点から希少資源を誰かに優先的に割り当てる理由がある。したがって功利主義は上記の二つの直観を説明できるとされる。
*15:最初の擁護として、民主主義の認識論的役割(人々の選好情報を集約すること)についての功利主義的議論が紹介されている。これはテクノクラート的政治モデルでも役割を果たすが、表明された選好と福利の距離は遠く、また他にもさまざまな困難があることが論じられる。
*16:正統性自体は非規範的性質であり、事実的に説明されるため、その正統性自体を功利主義的に説明することはない。しかし、もしこうした社会学的事実が広く受け入れられることが何らかの利益につながるなら、その利益を生み出すことに貢献するパターンに基づく理由が追加され、功利主義的に擁護できる。
*17:(J. Bentham由来の)権力の分散と制約のため、あるいは(J. S. Mill由来の)民主主義的プロセスへの参加によって自分とは違う人と出会うことによる教育的価値による擁護など。
*18:Woodardは意思決定手続きを、意図的に一歩一歩行うときに参照する意思決定規則と、行為をもたらすあらゆる心理的プロセスである意思決定特性の二つに区別している。
*19:Woodardは、私たちはトークン行為の正しさについて無知であるが、タイプ行為の帰結全体に関して合理的信念を持てることによって、意思決定手続きを評価できると議論している(9.3節)。まず、帰結を遠くまでとるなら、歴史の終わりからしかトークン行為の正しさを遡及的に評価できない。まして歴史の終わりにいない私たちには、トークン行為の正しさを遡及的にすら評価できない。そうだとしても、意思決定手続きがタイプ行為を選択するなら(意思決定手続き一般はトークン行為のためのものではない)、タイプ行為の帰結全体を評価できれば、意思決定手続きを評価できることになる。そしてタイプ行為の帰結全体については、そのタイプに属するトークン行為間の類似性から、一方のトークン行為の目に見える帰結から、他方の同じタイプに属するトークン行為の目に見えない帰結が似ていると合理的に信じることができ、そのためにタイプ行為の帰結に関して合理的に信じることができる。よって、あるタイプ行為の帰結全体について(真かどうかはともかく)合理的な信念を持つことができるとされる。
これは評者の考えだが、そこまで強いことを言う必要はない。Woodardが参照しているBurch-Brown (2014)では、中心極限定理と大数の法則から考えて、行為間の帰結が打ち消しあい、信頼できる程度の期待される帰結を推測できるという議論をしている。タイプ行為の帰結を推測するために必要十分なのは、トークン行為の繰り返しによって一定の値に帰結の福利量(あるいは功利性)が収束するということである。その収束メカニズムを私たちが知る必要はほぼないだろうし、トークン行為の帰結が類似していることなども知る必要はほぼないだろう。ただ、それらを知ることによって、よりよく帰結を推測できる可能性があり、その意味で役には立つだろう。
Burch-Brown, J. M. (2014). "Clues for consequentialists". Utilitas, 26(1), 105-119.
*20:第一の立場は、賞賛が善い行為、性格特性、動機に向けられている場合にのみ適切であると主張する立場であり、これは価値ある特性を賞賛に値する性に同定する立場である。この立場ではDriver(2001)のケースを説明できない。そのケースとは、悪意のある不器用な人は他者に危害を加えることを意図しているが、不器用なために、結局は総じて善いことをする人である。この人は明らかに賞賛に値しないはずだが、善い行為を生み出す傾向を持っているために第一の立場ではこの特性への賞賛を適切にしてしまう。第二の立場は、その特性を賞賛するのが正しい行為であるとき、その時に限り、そのためにその特性は賞賛に値する、というもの。だがこれは、賞賛に値することと賞賛することが正しいことを完全に結びつけてしまう点で誤りである。私たちは時に、何らかの理由で、賞賛に値しない人を賞賛することが正しいことがある(例:脅されている)。
Driver, J. 2001. Uneasy Virtue. Cambridge: Cambridge University Press.
*21:Driverは徳を「(現実の世界において)体系的でないよりも、より多くの善を生み出す性格特性」と定義する。これはDriver自身のケースを説明できるが、Driver自身が指摘するように、背景環境の安定的特徴のせいで体系的に優れた効果を生み出す性格特性を徳であると判断してしまうという問題がある。反例となる具体的なケースは入り組んでいるので、本書かあるいはDriverの著書を参照されたい。
*22:行為をもたらすあらゆる心理的プロセスのこと。注17を参照。
*23:安藤(2007)もほぼ同じ目的だったと言える。
安藤馨(2007)『統治と功利』勁草書房
*24:道徳的制約をより統一的原理で説明できることは規則功利主義の利点でもある(Hooker 2000)。
Hooker, B. (2000). Ideal code, real world: A rule-consequentialist theory of morality. Oxford University Press.
*25:Vessel, J.-P. 2010. ‘Supererogation for Utilitarianism’. American Philosophical Quarterly 47: 299–319.
*26:効用の総和が等しい帰結をもたらす選択肢が二つあり、一方は自己犠牲的で利他的、他方は利己的である場合、功利主義のもとではどちらを選ぶのかはオプションだが、前者を超義務として扱うことが理論的に可能である。
*27:もちろん、従来の行為功利主義的な応答として、超義務などないと反論できるかもしれない。だがWoodardは反照的均衡を方法論として用いているので、この仕方で反論することを基本的に避けなければならないだろう。
*28:Semrau, L. 2020, Christopher Woodard: Taking Utilitarianism Seriously. J Value Inquiry 54, 663–668. https://doi.org/10.1007/s10790-020-09742-5
*29:Woodardは、パターンをトークン行為の任意の組み合わせとしているのだが、途中で動機づけ状態からも構成されるとしている(p.126, p.132)。評者が見落としてない限り、パターンの定義に動機づけ状態は含まれていないはずである。しかしもし含まれているなら、動機功利主義を次のように再記述できると思われる。すなわち、ある行為者に関して、その行為者の各四次元スライスの動機づけ状態の任意の組み合わせからなる動機づけパターンを想定し、そのパターンの一部になるというパターンに基づく理由があり、その理由からなされる行為を正しいとするような立場である。
*30:
*31:非難に値する性が全く規範的性質を帯びてないなら問題ないかもしれない。そうだとすればそれは人文社会科学によって説明される事実に過ぎないからである。しかしWoodardは賞賛・非難の適切性を説明するために賞賛・非難に値する性を用いているので、このように逃げることはできない。
*32:福利は「〜にとって善い(good for)」という種類の価値の一つだが、この種類の価値に対する懐疑論がある(Hurka 2021)。よって、すべての哲学者が福利概念を(少なくとも基礎的なものとして)認めるわけではない。
Hurka, T. 2021, "Against ‘Good for’/‘Well-Being’, for ‘Simply Good’", The Philosophical Quarterly, 71, 4, pqaa078 https://doi.org/10.1093/pq/pqaa078