ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

マイノリティのための功利主義

 タイトルが形容矛盾ではないかと思う人がいるかも知れない。おそらく、功利主義とは「最大多数の最大幸福になるような行為や規則が道徳的に正しい」というマジョリティのための考えのように思われているからだろう。現代のマイノリティは最大多数の最大幸福のために切り捨てられた人々である、ということがよく言われる。私はこれは誤りであると考える*1功利主義はマジョリティのための道徳ではなく、マイノリティを含めた全ての有感存在のための道徳であるということを述べたい、これが本記事の目的である。

 とはいえ、いきなりその説明に入らず、まず世間一般で理解されているような功利主義理解から改めて説明する。

 ここで簡単にマジョリティと多数派の違いについて説明する。ジェンダー学やフェミニズムなどの文脈において、マジョリティは単に多数派を意味する言葉ではない。もちろん多数派という意味で使われることもあるが、基本的には社会的強者、権力関係的に強者であるような人々を指して使われることが多い。例えば、男性と女性の人口はほぼ同数だが、男性はマジョリティで女性はマイノリティである、というように使われる。本記事でもそのような意味で使う。単に多数派を意味するときは、多数派、多数などと明示的にわかるように使う。

 

功利主義はマジョリティのためのものか?

 まず最初に、功利主義はマジョリティのための道徳かどうかを検討する。結論を言えば、否である。ベンサムやミルといった功利主義者が当時マイノリティを擁護するような制度論や道徳観を打ち出したことは(功利主義界隈では)有名である。例えばミルの『女性の解放』は当時の男尊女卑的な社会を強く批判し、女性に参政権を与えるべきだ、というような当時としては先進的な主張をしたことで有名である。

 またベンサムの『三部会構成の考察』において、彼は「フランスの「貴族階級」は「いかなる利点によっても埋め合わされることのできない」不整合を生み出してきている。」と述べている*2。また女性の参政権について、ベンサムもミルと同様に『フランス憲法典草案』にて女性の参政権も認めるように主張している*3

 これらの考えや主張は彼らの人格ゆえのものなのだろうか、それとも功利主義的な考えによるものなのだろうか。安藤(2007)は後者だと述べ(p.ii)、キムリッカ(2005)も同様のことを述べている。キムリッカによれば、功利主義はその当時において、貴族社会を批判する考えとして非常にラディカルな考えであった。功利主義はその性格からして、少数者のみが優遇され多数派が抑圧されているときにこそ真価を発揮する考えなのである。

 

功利主義は多数派のためのものか?

 ここまでは、比較的誤解なく理解されている功利主義的考えだろう。問題はここからである。キムリッカ (2005)の指摘によれば、功利主義は現代ではもはやラディカルな考えではない。功利主義が活き活きしていたのは「社会の大部分が多数派(農村や労働者階級)を犠牲にして、少数の特権的エリートを利するように組織されていた時代であった。」しかし公民権運動以後の「緊結の政治的問題の多くは、歴史的に抑圧されてきた少数派ーアフリカ系アメリカ人、ゲイ、先住民、障害者ーの権利に集中してきたのである。」このような時代である現代ではもはや、功利主義がこれらの人々を守る方向に主張することは自明ではない(p.69)。功利主義は多数派が権力を握っているような現社会では保守的にならざるをえない。そのようにキムリッカは批判する。これは一般的な功利主義理解とほぼ同様の見解だと思う。

 本題に入る。このキムリッカの、そして一般的な功利主義理解は正しくない。まず歴史的事実の確認から入る。

 ベンサムは女性の参政権についても述べていたが、同時に男性同士の同性愛行為の擁護を行ったことでも(功利主義界隈では)有名である*4。当時のイングランドでは男性同士の同性愛行為は犯罪とされ死刑とされていた。しかしベンサムはこれを批判した。彼の議論を簡潔に言えば、同性愛者の性行為は誰にも迷惑をかけることはなく、これを否定し犯罪だとするのはおかしなことである、というものである。「同性愛行為に反感を覚え苦痛を感じる第三者は偏見に基づいて同性愛行為を不道徳で、法的に規制すべき行為として考えているだけであり、矯正すべきは当の第三者の偏見の方であるとベンサムは言う。」*5。このように、歴史的にいって功利主義は、多数派の偏見や先入観によって少数派を抑圧することを不当だとし、むしろ少数派の利益を尊重するものである。

 同様にして、ベンサムの「1人は1人として数え、1人以上には数えない」という言葉に集約されるように、功利主義は平等主義的な側面を持っている。板井 (2017)によれば、「最大多数の最大幸福」は集計主義的な意味ではなく、もっぱら分配的な側面も持ち合わせていたというのである。「ベンサムの最大多数の最大幸福という統治目的はあらゆる人々への幸福の平等な分配を意図したものである」(p.103)。

 功利主義は、現状の社会における各個人の持つ嗜好や偏見を所与として功利計算するわけではない。それらの嗜好や偏見の改変も含めて、どのような社会であれば最大多数の最大幸福が達成されるかを考慮する。そしてこの”最大多数”を世間一般の理解で捉えてはならない。最大多数は文字通り最大多数であり、功利計算の範囲は全ての有感存在を含めるので、最大多数からこぼれ落ちる人々はいないのである。

 以上のことから、功利主義はその誕生初期からして、少数者を抑圧することが必然的なわけではないし、むしろキムリッカや世間一般の理解とは真逆であることがわかるだろう。功利主義は多数派の幸福のためなら少数派の犠牲は仕方ない、少数派の抑圧は正当化される、などという思想ではない。

 もう少し、多数派のためのものではないことを述べておく。功利主義はよく経済学と絡められて資本主義の基礎だとか、あるいは政治制度の多数決主義と同じような扱いを受けるが、これらも誤りである。前者について、たしかに功利主義は効率や利益を重視する側面がある。しかしそれを究極的に重視しているわけではない。仮に資本主義によって少数の裕福な人々のみが幸せになっているような社会であれば、功利主義は当然そのような社会を否定し、改変すべきだと主張するだろう。後者について、功利主義は多数派のためのもので、多数決主義や民主主義と似ているように思われがちであるが、そんなことはない。仮に民主的決定や多数決による決定が最大多数の最大幸福ではないような決定になっているとしたら、もちろん功利主義はそれを批判する。これは功利主義が先程の偏見や先入観の改変も視野に入れた社会変革を考慮していることを考えれば当然と言えるだろう。多数派の偏見によって少数派を抑圧するような多数決主義的政治決定を行うような社会は、功利主義にいわせれば不当な社会である。したがって、功利主義は資本主義の基礎ではないし、まして多数決主義ですらない*6

 功利主義は、多数派のマイノリティはもちろん、少数派のマイノリティの幸福も考慮し、それら全てを最大化しようとする考えだということが理解されたと思う。功利主義は少数派を切り捨てて多数派の幸福を最大化するような考え方ではない*7

 

功利主義は自国民のためのものか?人間のためのものか?

 最後に、もっと過激なことを述べさせていただく。功利主義は自国民に限定されて適用されるのだろうか。そして人間だけのためのものだろうか。そうではない

 功利主義によれば、社会全体の幸福を大きくし、不幸を少なくすることが道徳的に正しいことになる。ところで、この幸福や不幸は同じ社会に属する人間や人間それ自体に限定されるものではない

 現代の最も著名な功利主義者であるピーター・シンガーの次の動画は、同じ社会、国に属しているか否かということが道徳的に関係する、ということを真っ向から否定する。

 

 また、次のベンサムの言葉が示しているように、功利主義の功利計算の範囲は人間に限定されるものではない。

問題は彼らが理性的に考えられるかということでもなければ、話すことができるかということでもなく、馬や犬が苦痛を感じることができるかということなのである。

人間と動物を比較したとき、人間がマジョリティであることは現状の工場畜産などを考えれば自明だろう*8功利主義は人間の幸福のみを最大化すべきだという考えではない。幸福や不幸をもつ、快苦を感じる有感存在全ての幸福を最大化し不幸を最小化すべきだという考えである。これが反直観的だと考える人もいるだろう。それについては私のブログの下の記事で述べているので、そちらを確認していただきたい。

mtboru.hatenablog.com

 

参考文献

  • 安藤馨. (2007). 『統治と功利』, 勁草書房
  • 板井広明. (2002). 「ベンサムにおける快楽主義の位相とマイノリティーの問題 [『男色論』 を中心にして]」. 『社会思想史研究』. 社会思想史学会年報/社会思想史学会 編, (26), 62-74.
  • 板井広明. (2017). 「古典的功利主義における多数と少数」, 若松良樹編(2017), 『功利主義の逆襲』, ナカニシヤ出版, pp.87-117
  • 小畑俊太郎. (2005). 「フランス革命ベンサムの政治思想」,45巻, vol.2 東京都立大学方学会雑誌, pp.151-210
  • 土屋恵一郎. (2012). 『怪物ベンサム: 快楽主義者の予言した社会』
  • 松嶋敦茂. (2016). 『功利主義は生き残るか』, 勁草書房
  • キムリッカ・W. (2005).  千葉眞、岡﨑晴輝ら訳, 『新版 現代政治理論』, 日本経済評論社
  • Lacey, Nicola. (1998). "Bentham as Prot-Feminist? or An Ahistorical Fantasy on 'Anarchical Fallacies'," Current Legal Problem, Vol.51, pp.441-466 

 

2023/12/25 一部表現を修正

*1:そもそも、現代の政治は功利主義を前提にしていない。もし仮に功利主義を前提にしているなら、もっと異なる社会になってたはずである。

*2:小畑 2005

*3:これはメアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』よりも数年早く、そして独立になされている。レイシーはこのようなことからベンサムを「原-フェミニスト proto-feminist」と位置づけている(Lacey 1998)。

*4:英語で書かれた最初の同性愛擁護論とも言われている

*5:板井 2017: p.105。板井 (2002)も見よ。

*6:ここまでの説明は非常に雑な説明だと言わざるをえない。特に前者の資本主義との関連については、たしかに、パレート以前の経済学において功利主義が経済学の基礎となる考えになっていたことはある。ある時期から効用の個人間比較の不可能性が叫ばれ始め、特にパレートによるパレート最適などの概念が提出された後は、経済学において功利主義は身を潜め始めたと言える。例えば松嶋(2016)など参考。

*7:そうだとしても、論理的には切り捨てることが最大幸福になる場合があるのではないか、と批判されるかもしれない。だが私達は何の話をしているのだろうか。私達は現実のこの社会がどうあるべきなのかの話をしているのであり、論理的に可能な社会について話をしているわけではない。したがって、哲学パズルとしてそのような論理的可能世界における社会がどうあるべきかを考察するのはいいが、それをもって功利主義を論駁することはできない。どのような思想であっても、反直観的な帰結が生じるように論理的に可能な状態を想像することはできるだろう。功利主義だけがこの点で批判されるのは不公平というものだろう。
 しかし、この批判の回避の仕方は都合が良すぎると思う人がいるかもしれない。別のありえた社会では別の道徳が正しい、というような相対主義を取るのでなければ、やはり功利主義は別のありえた社会でマイノリティを切り捨てるような判断を正しいとする考えであり、したがって反直観的で間違っている、と思うかもしれない。もしそう思うのであれば、ここでヘアの二層理論的に答えるのでも構わない。ヘアの二層理論についてはこのブログの他の記事で取り扱っているので、それを確認してほしい。

*8:詳しくはP・シンガー『動物の解放』など、あるいは私のブログの他の記事を参考