ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

帰結とは何か(シリーズ:功利主義を掘り下げる1)

シリーズ:功利主義を掘り下げる

 私はこのブログで、功利主義について入門的な記事を書いた。

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

本記事(およびこれ以降のシリーズの記事)はこれらの記事の発展的内容を扱う。*1

 シリーズの予定は次の通りである。本記事はこの内一番上の記事である。

ただし、これらの記事の数、内容、順番、は今後変わる可能性が高い。

*2

0 はじめに

 功利主義(utilitarianism)は三つの特徴を持つとされている。そのうちの一つが帰結主義(Consequentialism)である*3帰結主義とは、結果のみを考慮する立場である。よく勘違いされるのだが、帰結主義功利主義ではない帰結主義には功利主義以外にも様々な立場があり、その中で功利主義が最も有名であるにすぎない。

 帰結主義と聞いたとき、私たちはこれに対してどういうイメージを持つだろうか。結果のみを考慮する、と聞くと「結果さえよければなんでもいい」と私たちは考えがちである。しかしこれはほとんど誤りである。この誤解を解くこと、そして結果のみを考慮するといっても様々な立場があることを説明し、検討するのが本記事の目的である。1節で帰結主義内部の大きな2つの立場を分類し、それぞれ検討する。2節で時間軸上でいつが帰結になるのかについて説明する。3節では2節での説明を踏まえ、1節での帰結主義内部の立場をそれぞれ再考する。4節でまとめる。

 

1 帰結主義と結果主義(期待値主義と客観主義)

 まず、帰結主義についての倫理学者らの説明を確認する。

「帰結」とは結果のことだが、「結果主義」と書かないのは、功利主義はいわゆる「結果主義」ではないからだ。「何にせよ結果がよかったのだから、その行為は正しかったのだ」と行為を事後的に評価するのが結果論だ。それに対して帰結主義は通常、「こう行為するとこういうこと、こういうことが結果として起きるだろう」という事前の予測に基づいて、行為の正しさを評価するものである。(児玉聡(2012), 『功利主義入門ーーはじめての倫理学』, pp.54, 55, 筑摩書房)

功利主義帰結主義であるが、しばしば「結果よければすべてよし」と皮肉をこめて言われるような結果主義とは一線を画する。功利主義とは主として、これから行う行為をどうするべきかを考察する。したがって帰結とは、行為をしようとしている時点で予見される帰結を指すのであって、なされた行為を事後に振り返り「予見されてはいなかったが、現実に起こった結果がよかったからこの行為はよかった」と回顧的に評価するものではない。(奥野満里子(2014), 『シジウィックと現代功利主義』, p.4, 勁草書房)

このように、功利主義についての文献では「結果的にどうなりそうか」に注目していることがわかる。しかし、帰結主義のとりうる立場には結果主義的なものもある。

 ここで用語を定義する(ただし、後に別の定義を行う)。ここからは帰結主義・結果主義ではなく、期待値主義・客観主義という用語で説明していく(Prospectiveの定訳がないので期待値と訳したが、以下の注で説明しているように、これは限定的な意味で訳している)。

期待値的帰結主義(Prospective Consequentialism)(以下、期待値主義)*4:その行為者の観点から見て、選択後の善の期待値が大きいほど善く、小さいほど善くない。また、善の期待値が最大であるものが最善の選択であり、最善の選択をすることが正しい選択である。*5

客観的帰結主義(Objective Consequentialism)(以下、客観主義):客観的に見て、選択後の善が実際に大きいほどその選択は善く、小さいほど善くない。また、最善の選択をすることが正しい選択である。*6

簡単のために、以下では行為の選択について、そして善=幸福として考える。また、期待値がよくわからない人はネット等で調べていただきたい。ここでは期待値について理解している前提で話を進める。

 期待値主義は、行為前の時点でとりうる各行為について、どの行為が善いか悪いかを判断する立場である。これは私たちが普段どのように行為すべきかを考えるときに行っていることだろう。客観主義はそうではない。実践的には*7、行為後にその行為が正しかったのかどうかを判断することになる。簡単な例で考えよう。

ジルは医師で、彼女の患者ジョンのための正しい治療を決定しなければならならない。ジョンは、些細ではないが軽微な皮膚の疾患がある。ジルは3つの薬剤A, B, Cからどれかを選ばなければならない。文献を慎重に考察したところ、ジルは次の結論に至った。薬剤Aはこの状態を改善する可能性が非常に高いが、完全には治せない。薬剤BとCのいずれか一つは完全に治すが、もう片方は患者を殺すことになる。ジルはどちらが殺してしまう薬なのか知ることができない。ジルはどうするべきか。ここで実際には、Bが完全治療薬、Cが殺人薬だとする。

*8

 客観主義によれば、ジルはBを投与すべきである。期待値主義によれば期待値が最大の選択をすべきであるから、期待値を計算しなければならない。ここで、完全に治療した場合の幸福を100、改善した場合を70、死んだ場合を-1000としよう。Aを投与するときの期待値は70×1.0=70であり、BかCを選んで投与する期待値はどちらも100×0.5+(-1000)×0.5=-450であり、期待値主義によればあなたはAを選んで投与すべきである。したがってもしBを選んで投与すれば、それで患者が完治しても、期待値主義では不正で、客観主義では正しい行為だということになる。では、客観主義と期待値主義のどちらが正しいだろうか。直観的には期待値主義が正しいと思うだろう。私たちは実際にはBが完全治療薬だと知ることができないのだから、そんな博打を打つようなことをすべきではないと思うのではないだろうか。

 

1.1 期待値主義の検討

 しかし、ことはそう単純な話ではない。期待値とは得られる値とその値の得られる確率の乗算の総和だが、ここでいう確率はどのような確率なのだろうか。確率概念は大きく分けて2つある。主観確率客観確率である*9客観確率は精確なサイコロの目がどれも1/6で出るというときの確率である。主観確率はその主観の信念*10の度合いである。ある人がサイコロの目は5が50%の確率で出て、ほかは全て10%の確率で出るという信念を持っていたら、その人から見ればサイコロの目の出る主観確率はその通りになっている。

 完全に主観的な確率で期待値を計算するとしよう。ここでジルは文献の調査中に占い師を訪ね、Bが完全治療薬であることの確率は99%だと聞かされていたとしよう。そしてジルはそれを完全に信じ込んでいる。ここでBを選ぶ期待値を計算すると、100×0.99+(-1000)×0.01=99-10=89、となりAを選ぶ期待値(70)よりも大きくなり、Bを選ぶべきとなるだろう(そして患者は完全に治る)。しかしこれはあまりに不合理にみえる。合理的に考え事実を正しく知っていれば、確率は五分五分だという信念を持つだろう。これは客観確率に接近している。したがって、期待値主義を取るにしても、この場合は客観確率を考えるべきだと言えるだろう。しかし、一体どこまで合理的に、客観的に考えなければならないのだろうか。*11

 ジルにはマークという信頼できる先輩がいる。マークにBとCの薬剤について聞いてみたところ、Cが完全治療薬だということ聞き、それを信じることにした。その理由は、マークがCを実際に使って患者を完全に治療したからであり、そのデータも見せてもらったからである。このとき、ジルが合理的に考えたときの確率はどのようになるだろうか。当然、マークとそのデータを信用するならば、Cが完全治療薬である確率を高く見積もるだろう。だが実は、マークはBとCを逆に認識しており、データも逆になっており、実際にマークが投与したのはBだったとしたらどうだろうか。ジルの観点から見れば、Cに依然として高い確率を与えているが、これらの事実をすべて知っている私たちの観点(客観的な観点)からはBが確実に完全治療薬だということになる。ではジルはどうすべきなのだろうか。このとき客観的な観点を採用すべきだとするなら、それはもはや客観主義と同じである。あくまでも期待値主義を取るならば、BとCに五分五分の確率を見積もりAを投与するか、あるいは合理的な思考を経た上で確率を(Cが完全治療薬である確率を高く)見積もりCを投与するか、どのような確率を認め、どのような確率を認めないかを確定しなければならないだろう。ここで一旦、期待値主義の検討を止め、客観主義の検討に移る。

 

1.2 客観主義の検討

 客観主義の魅力点は、客観的な観点から見て正しい選択をするべきだというまさにその点である。期待値主義は選択者の観点から見て最善の選択を、それが実際に最善でなくとも正しい選択とするが、客観主義は実際に最善である選択を正しい選択だとする。この点は客観主義の強みだろう。

 だが、問題点は大きく2つある。1つ目は、私たちは客観的な事実を全て完全に知ることができない、ということである。規範倫理理論が備えるべき条件はいくつかあるが、そのうちの一つに「『べし』は『できる』を含意する」というものがある。できないことについて「べし」ということはできない。したがって、私たちが「〜するべき!」というときには、実際にそうすることができなければならない。これが正しいならば、客観主義はできないことを「べし」といっており、この条件に反するので間違っている立場になる。

 だが、客観主義はこれに応答できる。客観主義は、選択時に選択できない選択肢について「それを選択すべし」とはいわない。たしかに客観的な事実を知ることはできないが、それはどれを選択するのかを考えている時の話であって、実際に選択できないのとは違う。客観主義それ自体は、客観的な事実を知らなければならないということを要求しない。知らなくても問題はない。また現に、ジルはBかCのどちらが完全治療薬かを知ることはできないが、どちらについても選択すること自体は可能である。したがって、このように「できる」を捉えるならば、客観主義はこの問題を回避できる。

 もう一つの問題について考える。客観主義と期待値主義において、私たちがその選択が正しいかどうかをいつ判断するのだろうか。期待値主義では選択前の期待値計算が終わり比較するタイミングである。しかし客観主義では、実際にどうなったかを見るまでその選択の正しさを(実践的には)評価できない。仮にBを投与したとしよう。Bによって患者はたしかに治ったが、実は副作用があり、1年後になくなったとしよう。投与後の完治時にはBを選ぶことが正しい選択であったと評価されていたはずだが、一年後にこの評価が覆されることになる。したがって一年後になるまで正しく評価できない。これをさらに拡大していけば、宇宙の終わりまで選択の正しさの評価ができないことになるだろう。私たちは道徳について常日頃から評価を下しているが、その評価を下すことができなくなるのだから、これは非常に問題である。客観主義はこれをどう回避すればいいだろうか。

 客観主義のとりうる道は二つ考えられる。一つは行為の帰結の範囲を因果的に制限してしまうことである。因果的に非常に離れているようなところの帰結は、もはやその行為だけの問題ではなく多数の原因から成立しているだろう。そのときその帰結は、その行為の帰結といえるだろうか。少なくとも直接的な帰結には思えない。したがって、この因果連鎖をどこかで断ち切り(あるいは因果連鎖が長引くほどその影響を割り引き)、それによって宇宙の終焉まで帰結がわからず評価できないというのをある程度回避できる。だが、この道は非常に険しそうに見える。

 もう一つの道は開き直ってしまうことである。なるほど、行為の評価は宇宙の終焉までできないが、それがどうしたというのだろうか。ある時点の行為が歴史的にずっと後にまで影響を残すというのは考えられるし、実際歴史の教科書に載っているような選択はそれである。宇宙の終焉時点から振り返ってみてその行為を評価することの何がおかしいのだろうか。この回避の仕方は、一貫性という意味で、因果的に帰結の範囲を制限する一つ目の道より険しくはない。

 

2 時点主義と歴史主義*12

 客観主義と期待値主義の問題から一旦離れて、本節では関連する問題を考察する。ここで次のようなモデルを想定しよう*13。何らかの選択を行うたびに世界が分岐していくと想定する。つまり図にすれば図2.1のようになる。

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図2.1 分岐時間モデル

ここで各m_nは各選択時の世界の状態を意味している。m_0では選択肢が2つあり、その選択に応じてm_1あるいはm_2の世界の状態に変化する。また、この選択の積み重ねによって辿った経路が、後の世界から見た歴史となる。また各m_nの下に書かれているのは、その世界の状態における効用(の期待値)の大きさである。効用はここでは幸福のようなものと考えればよい。以下では帰結主義一般ではなく、効用を用いて功利主義的に考えることにする。もちろん、これは帰結主義一般にも拡張できるだろう。

 さきほどまでの検討を踏まえて、このモデルにおいて私たちはどういう選択をすべきかを考える。今、私たちはm_0にいるとしよう。ここでの選択で移行可能な世界はm_1とm_2である。m_1とm_2を比較するとm_1のほうが効用が大きい。したがってm_0においてはm_1に移るような選択が望ましい。次にm_1では、m_4の方が効用が大きいため、m_4に移るような選択が望ましい。ここまでで得られた効用の総量は10+10=20である。ただし注意しなければならないのは、m_1からm_4での移行では効用を大きくしたわけではなく、効用の現状維持に過ぎない。したがって最終的な効用の大きさとしてはm_4の効用すなわち10となる。しかし、それは最善=正しい選択である。

 だが、図2.1を見ればわかるように、最終的な状態としてはm_5の世界の状態が最も望ましい。その上、m_0→m_2→m_5という経路を経れば、得られた効用の総量は5+20=25で最大である。したがって、m_0→m_2→m_5という選択が最も望ましいのではないだろうか。

 ここで次のように立場が分かれる。選択後の世界の状態のみを考え、その世界の状態が最善であるような選択をすべきであるという考えがある。これを時点主義という*14。一方で、選択後の未来の世界の取りうる状態も考慮し、宇宙の終焉から見て最善の経路を通るよう選択すべきであるという考えがある。これを歴史主義という*15。時点主義によればm_0→m_1→m_4という選択が最も望ましく、歴史主義によればm_0→m_2→m_5という選択が最も望ましい。私たちはどちらの立場を取るべきだろうか。

 時点主義はいくらか反直観的である。時点主義では選択直後の世界の状態しか考えないので、原則的に直近の未来しか考慮しない。これでは時間をかけて世界を改善しようとするような選択は望ましくないことになるし、現時点の各人の選好に非常に依存するだろうから、例えば差別的な思想が一般的な世界ではその差別思想を所与としてそれを変えるような選択ができなくなる可能性が高い。したがって歴史主義が望ましいように見える。

 だが、歴史主義の問題もすでに前節で示されている。客観主義の2つ目の問題、宇宙の終焉時点までその選択が正しかったかどうか評価できないというものと似ている。歴史主義では宇宙の終焉時点から遡って経路を確定していくのだから、結果的に宇宙の終焉から評価するのと同じようなことになる。もちろん開き直ることは可能である。客観主義と歴史主義をセットにして考える限り、この問題を回避するには開き直る以外はないように考える。

 そこで、客観主義と時点主義をセットにして考える。この場合、たとえm_0における選択がm_1、m_2における選択やm_1、m_2以降の世界の効用に影響があったとしても、その影響を一切無視して、m_0からm_1、m_2に移ることによって得られる効用のみで評価することになる。こうすれば、宇宙の終焉まで選択の評価ができないという客観主義の問題点は回避される。だが、そのためだけに時点主義をとるのはアド・ホックなものだろう。時点主義のメリットか、歴史主義のデメリットを別に提示しなければならないように思われる。

 ではそのようなものはあるのだろうか。その前にまず、時点主義のデメリットを解決しておこう。先ほど時点主義の問題点を指摘したばかりだが、要するに、直近の未来の効用しか考慮しないため最終的に望ましい世界にたどり着けない可能性があるということ、これが時点主義の問題だった。だが時点主義でもこの問題をある程度回避することはできる。ここで、各世界において選択によって得られる効用を考える。例えばm_0からm_1に移る場合、得られる効用は10である。一方でm_0からm_2に移る場合、得られる効用は5である。この得られる効用というのは、m_0の時点では実際には得られてないが、m_0における選択によってm_1ないしm_2に移るときに得られるものである。したがって、m_0はそのような効用の得られる傾向ないしポテンシャルを持っているといえるだろう。つまりm_0は最大で10の効用を得られる傾向をその世界の状態に内包している。これをm_1、m_2にも当てはめれば、各世界はそれぞれ得られる効用の傾向を持っていることになる。これを「功利性」とするならば、功利性とは、選択によってどれだけ効用を変化させるかという傾向性ということになる*16。ここで、善を効用の大きさではなく功利性の大きさと考えるのであれば、時点主義においてもその先の世界の状態を間接的に組み込むことができ、時点主義特有の直近の未来しか考慮しないという問題をある程度回避できるだろう*17

 時点主義をデメリットを解決できたので、次に歴史主義のデメリットを考える。歴史主義をとる場合、私たちは最善の経路を通るように選択すべきであった。つまり、私たちはm_0において、移った先での選択も考慮しなければならないことに気づく。つまり私たちが考えるべきは、m_0から移る選択+移った後の選択のセット、複合選択(行為)である。このように考えるのであれば、私たちがいかなる選択をすべきかを考える時、その選択の後の選択まで含めて現時点の選択を考えなければならないことになる。これを拡張していけば、私たちはいかなる人生を生きるべきかという極大選択(極大行為)を考えて、それを分解して得られる選択をすべきことになるだろう。つまり、現時点での選択を考えるのに人生の生き方という極大選択(行為)を考えなければならないのである(行為の極大化主義)。これを回避したいのであれば、複合選択(行為)を考慮せず、極小行為(このモデルでは各世界の移動時の単一の選択)のみを考慮するとすればいい(行為の極小化主義)。これはまさに時点主義そのものである。おそらく私たちは時点主義の方を望ましいと考えるのではないかと思う。もちろん、この複合行為を受け入れて、正しい人生の生き方から分解された選択をすべきだ、という立場は可能だが、あまり魅力的ではないだろう。もちろん、魅力的か否かという観点のみでしか判断できないわけではないが、複雑になるのでこれ以上検討しない。また複合行為にまつわる問題は他にもあるが、ここでそれらには立ち入らず、元の客観主義と期待値主義の話に戻るとしよう。*18

 

3 再び、期待値主義と客観主義

 ここまでの考察をまとめる。

  • 客観主義によれば、実際に最善となる選択をすることが正しい選択である。
    • ところが、客観主義では、(実践的には)選択の評価を事後的にしか行えない。さらにその事後は宇宙の終焉になりかねない。したがって(実践的には)選択の道徳的評価を宇宙の終焉まで行うことができない。
    • この問題は、時点主義を採用することで回避できる。時点主義を採用すべき他の理由は、複合行為に関する反直観的な帰結を回避することである。
  • 期待値主義によれば、選択者の観点から見て善の期待値が最大であるような選択をすることが正しい選択である。
    • ところが、期待値の計算をするときに、確率がいかなる確率であるかが問題である。
    • 完全に主観的な確率では、占いなどによる信念も含めた確率となり、あまりに不合理であった。それゆえ、合理性や客観性を導入して極端に主観的な確率を排除することができる。
    • だが、どの程度まで合理的で客観的でなければならないのかが確定できない。

客観主義の問題点が解決されたことがこのまとめからわかるだろう。私たちは客観主義と時点主義を採用することによって、選択の道徳的評価が宇宙の終焉までわからないという問題を回避できるのである。一方で期待値主義では、どの程度の合理性や客観性を必要とするかの問題が未解決のままである。この理由を恣意的でない形で提示できるだろうか。この問題は一旦そのままにしておこう。

 客観主義と期待値主義にまつわる問題をもう一つ考える。1節でのジルの例では、あくまで客観的にはA, B, Cのそれぞれの薬剤がどのような薬剤なのか確定していた。あくまで一部の事実を知らない選択者からみてどの選択をすべきかを考えると確率に頼ることになるのであって、客観的には確率を考慮する必要がなかった。だがサイコロの目のように、客観的な視点であっても確率を考慮しなければならない場合がある。ジルの例を次のように変更しよう。

ジルは医師で、彼女の患者ニックのための正しい治療を決定しなければならならない。ニックは、些細ではないが軽微な皮膚の疾患がある。ジルは2つの薬剤A, Bからどれかを選ばなければならない。文献を慎重に考察したところ、ジルは次の結論に至った。薬剤Aはこの状態を改善する可能性が非常に高いが、完全には治せない。薬剤Bは完全に治す可能性を秘めているが、確率的に副作用を伴い患者を殺すことになる。ジルはどうするべきか。

1節との変更点を確認しよう。Aについてはそのままであるが、今度はCがない。問題はBである。Bは確率的に完治させるか副作用で死んでしまうかのどちらかである。これはすべての事実を知っていても確率的な問題となるだろう*19。この場合、客観主義はどうなるのだろうか。

 ここで客観主義を二つに分けなければならない。一つは事実主義(factualism)であり、実践的な問題だけでなく理論的にも事後的に選択の評価を行う立場である。これは冒頭に述べられていた結果主義と全く同じである。もう一つは客観的期待値主義であり、期待値主義を取りつつ、そこで用いる合理性や確率の客観性については完全な(関連する諸事実をすべて知り、誤りのない合理的思考を瞬時に行うことが可能であるような)理想的な合理的主体を想定し、その主体から見た期待値を計算し、最大のものを正しい選択とする。これら二つの立場は、1節でのジルの例ではどちらもBを選ぶべきだとする。だが今回の例では、事実主義の場合、Bを選んで投与し、後に実際に副作用がなければBを選んだことは正しく、副作用があれば正しくなかったという評価になる。一方で客観的期待値主義では、あくまで期待値主義の立場に立つので、期待値主義同様、選択前の期待値を計算し、その時点で正しい選択が決まる。仮にBを投与する期待値が最大だったとしたら、後に副作用が出ても、Bを選んだことは正しい選択だったのである*20

 これで、客観主義と期待値主義の対立は、実際には事実主義と期待値主義との対立だということになる。さらに期待値主義の内部で、主観的か、客観的か(その中間か)で分類される。これによって元の問題、期待値主義はどの程度合理的・客観的であるべきかを検討できるようになった。では、私たちはどの立場を取るべきなのか。

 まず主観的期待値主義について、これは1節で検討したように、行為者がどれだけ不合理な信念を持っていたとしても、その信念に基づいて期待値を計算しそれによって最善の行為を決定し、(たとえそれが客観的には明らかに間違いでも)そうするのが正しい、というのはあまりに不合理でもっともらしくない*21。したがって主観的期待値主義は合理性などの何らかの制限を行わなければならないが、それを恣意的でない形で行うのは困難だろう*22*23

 次に客観的期待値主義について、これは非常に魅力的な立場だと私には思われる。私たちはすべての事実を知ることは実践的にはできないが、論理的には可能である。しかし未来については確定的には論理的に知りえない*24。この違いは大きい。この立場にたてば、理想的な合理的主体であれば正しい選択を行えるのであるから、原理的には正しい選択を選択する前に決定できる。主観的期待値主義では実際の最善の選択を正しいとは言えず、以下に見るように事実主義は説得的ではないため、これらの問題を回避している客観的期待値主義は魅力的である。

 事実主義では正しい選択を選択前に知ることは原理的にできない。正しい選択かどうかは全て事後的にしか判断されないからである。だがこの点を持って事実主義を批判するのは論点先取だから、これで事実主義を取らないということにはならない。ここまでの議論では単に客観的期待値主義のほうが直観的に合っており、説得的・魅力的だろうということしか言えない。ところで、事後的にしか知りえないとしても、事実主義と時点主義を採用することによってその評価は選択後にすぐに判断されるようにすることができるのだった。事実主義と歴史主義を採用すると宇宙の終焉まで選択の評価が行えないが、これとは対象的である。
 だが、事実主義と時点主義の同時採用は別の問題を生む。本節のジルの例を再考しよう。薬剤Aを投与すればある程度治り、薬剤Bを投与すれば確率的に完治し、確率的に副作用によって死亡する。ところで、この副作用が1時間後に起こったとしよう。1時間後が近ければ何日後でも何年後でも構わない。ここでの問題は、薬剤Bの投与によって世界の状態が変化したが、その後副作用が起こるまでにも当然何度も選択が行われており、世界は多数に分岐しているということである。副作用が起こる頃には、投与した時点の世界から時間的な隔たりがある。時点主義によれば選択直後の世界の状態でのみ選択の評価を下すから、時間的に隔たってしまっている時点で仮に副作用が生じても、その時点の世界の状態は行為の評価に無関係である。つまり、事実主義をとっているにもかかわらず、行為によって因果的に引き起こされた時間的に隔たった事態を一切考慮しないことになるのである。1.2節で客観主義の魅力点として説明したように、事実主義のメリットは実際に最善である選択を最善の選択とし、正しい選択であると評価できることである。私達は副作用も含めて実際の帰結と考えるので、それを考慮できない時点主義を採用してしまうことは、事実主義のメリットが失われることを意味する。したがって事実主義は時点主義と非常に相性が悪いと考える。だが歴史主義を取れば問題点は明らかで、選択の評価が宇宙の終焉まで行えないのである。これを開き直って受け入れるか何らかの形で回避するのでもない限り、事実主義は説得的ではない*25

 実践的な問題もある。私たちがどの行為を選択すべきかを考える時、結局のところ期待値やその他の選択前に利用できる情報を用いて考える他ない*26。事実主義はこの点で私たちの実践的営みを全く考慮していない。この点は事実主義を取らない強い理由となるだろう*27。一方で期待値主義でも、客観的期待値主義では実践的な問題を伴う。私たちはどこまでも合理的になれるわけではないし、全ての関連する事実を知ることもできない。したがって実践的には正しい選択を知ることがほぼ不可能である。だがすでに述べたように、もし関連する事実を知ることができ理想的に合理的なら正しく選択できるという点は強調されてもいい。私たちは道徳の実践にあたってできる限り合理的にかつ関連する事実を正しく認識し、道徳判断を下すべきである。主観的期待値主義はこの点を無視する。どれだけ誤った信念に基づいていようとも非合理的であっても、その人が(期待値的帰結主義に照らして)正しいと思っていることに基づいて判断されたことは正しいのである。一方で客観的期待値主義では、正しく選択できるよう私たちは努力するべきだという私たちの直観をすくい取る。私たちは理想的な合理的主体を目指して努力し、その上で誠実に道徳判断を下すべきだろうから、客観的期待値主義はこの点で直観に一致するのである*28

 ここまでの考察により、私は客観的期待値主義を取るのが最も説得的だろうと結論する。

 

4 まとめ

 改めて簡単にまとめる。1節で私たちは、期待値主義と客観主義について検討した。期待値主義とは選択者の観点からみた期待値が最大のものが正しい選択であり、客観主義とは実際に最善になる選択が正しい選択であるとした。期待値主義においてはその確率の概念について問題があり、主観確率から客観確率までのどこで設定すべきなのかが問題であった。客観主義では、その選択の評価が宇宙の終焉まで(実践的には)下せないという問題があった。

 2節では、時点主義と歴史主義について考察した。時点主義はいくらか反直観的だが、これは「功利性」の概念を導入することで回避でき、歴史主義は客観主義と同じ難点を抱えていることがわかった。そこで、時点主義と客観主義を組み合わせることで客観主義の問題点を回避できるように見えた。

 3節では、客観主義をさらに検討し、その結果、事実主義と客観的期待値主義に分類されることを確認した。その上で、事実主義と時点主義の組み合わせは一見魅力的だったが、これは事実主義の魅力を削ぐものだった。したがって事実主義と歴史主義を組み合わせる他なかったが、これも魅力的ではなかった。そして客観的期待値主義が魅力的であることを確認した。

 シリーズ第一回目からかなり重たい内容になってしまった。複合行為の問題や確率の哲学的問題など、いくつかの難しい問題も検討できていない*29。結果的に客観的期待値主義をとることになったが、期待値主義一般の問題として、それが確率と絡んでくるので、おそらく(道徳的)運の問題とも絡むのだろうが、私の理解不足でそれも検討できていない。他にも検討できてないことが多数ある。

できる限りわかりやすく述べたつもりだが、もし質問・批判等あれば、ブログのコメントやツイッター等にお願いしたい。

 

補論 時点主義と行為の極小化主義が含意すること

 江口(2007)による、安藤(2007)の時点主義・極小化主義の含意することについての整理を以下に引用する。(「いとわしき結論」は別の機会に論ずる。参考:D・パーフィット『理由と人格』, 第Ⅳ部)

  1. 安藤の提案する功利主義では、一定の時点での選択肢について、直近の次の時点での厚生全体どうしが考慮の対象となる。
  2. 「厚生」もその時点でその感性主体が味わっている快楽のみを指す。
  3. 極小化主義のもとでは、新たな感性主体を増やすといった複雑で通常長い時間がかかる行為は、より基本的な極小行為へ分解され考慮される。
  4. それゆえ、それらの極小行為のそれぞれの時点では、考慮の対象になっている認識主体(たち?)は新たな感性主体を生じさせることについて快を味わうことがない。
  5. したがって、選択主体はどのような時点でも新たな感性主体を生じさせる選択を行なう必要がない。(もっとも、仮想的に極小時間で感性主体が生産されるならば、功利主義はそれを比較検討しなければ ならないが、現実にはありえない。)
  6. よっていとわしき結論は回避される。→ 結果的に安藤版功利主義は先行存在説とほぼ等しい。これはおそらく功利主義者には good news。うまくいっていることを願う。

これが何を意味するかといえば、理想主体(事実を知り合理的に思考できる存在)にとってかつ弱い意味での(消極的)反出生主義である。5の括弧内や安藤(2007, p.122)自身が明記しているように、例えばボタンを押すだけで新たに幸福な有感存在を存在させられるならばボタンを押す(出生)という選択を取るべき可能性を排除できない。よってこれは純理論的に出生主義でも反出生主義でもない(功利主義なのだから当然である)。また結局のところ、実践的には私たちは極小行為を考えて行為するわけではなく複合行為を考えて行為するしかないので、妊娠・出産のような複合行為を行うことになる可能性を否定できない。ただ重要なことは、理想主体は(客観的には)妊娠・出産という複合行為を行うよう義務付けられず他の行為をするよう義務付けられる(したがって結果的に妊娠・出産が行われない)ということである。

 安藤の場合は名宛人が統治者(公務員)という統治功利主義なので、個人道徳としてどうなるかは不明であるが、本記事での議論をそのまま使うことは可能だろう。

  

追記(2019-10-02):主観主義理論に関するコメント

 次のような批判をいただいた。

占い師を信じるジルはできる限り合理的(主観)にかつ関連する事実を正しく認識(主観)し、道徳判断を下したのではないでのですか?

それともこの行為を正しいとすること(薬の選択)でなにか問題が生じるのですか?

これについて少し検討したい。まず「合理性」について、「合理性(主観)」というのはよくわからないが、おそらく二通りに考えられる。まず考えられるのは、「合理性」は人によって意味が異なるという合理性の相対主義的な考えである。もう一つは当人が自身は合理的だと(主観的に)思うならばその人は(客観的に)合理的である、というような考えである。しかしこれらは私たちの合理性観と一致しないのではないだろうか。私たちが誰かを「合理的だ」と判断する時、私たちは「その人にとっての合理性に照らして、合理的だ」などとは考えないし、「その人は自分のことを合理的だと思っているから彼は合理的だ」という判断を下しているわけでもないだろう。したがって合理性の意味は(このような意味で)相対主義的でも主観的でもないと私は考える。

 ここでの合理性はひとまず認識論的合理性として考える。つまり、真なる信念を獲得を目指す合理性である。*30

また、「関連する事実を正しく認識(主観)」というのもよくわからない。認識はもとより主観的な意味でしかないので、わざわざ「認識(主観)」と書く理由がわからない。また「正しさ」つまり真理は客観的に問えるものであって(真理の実在論的な考えを前提においている)、主観的なものではない。

 さて、ジルが占いについて信じることは、他人から見て(この「合理性」によれば)非合理的であると考えるのは正しい。なぜなら、占いによる信念は誤った信念であり(信念には真偽が問える)、さらに、信念の獲得方法は全く真理に近づかないので、認識論的に非合理的である。もちろんジル自身は「私は正しい信念を持っており、合理的に行為している」と思っているかもしれない。しかしそれは客観的には誤った信念であり、不適切な信念である。占いについての誤った信念を持つことはこの意味で(認識論的に)非合理的である。これで私が想定している(そして多くの人が認めるであろう)合理性の問題はある程度解消されただろう。

 次に、私は本記事で次のように主観的期待値主義を批判した。

まず主観的期待値主義について、これは1節で検討したように、行為者がどれだけ不合理な信念を持っていたとしても、その信念に基づいて期待値を計算しそれによって最善の行為を決定し、(たとえそれが客観的には明らかに間違いでも)そうするのが正しい、というのはあまりに不合理でもっともらしくない。

だがこの批判は、主観的期待値主義者が「合理性の条件は必要ない」と開き直るなら、たしかに論点先取になっている。これについてはコメントが正しい。私は単にもっともらしくないといっているに過ぎないのだから、ちゃんとした批判をするならば別の論拠を提示しなければならないだろう。ではそれはいかなる根拠か。

 ここで考えられる一つの批判として、普遍化可能性による批判が考えられる。普遍化可能性をとりあえず次のように定義しておこう。

普遍化可能性:ある状況Cにおいて行為者Xφすべきならば、Cと普遍的性質を同じにするような状況C'においても、任意の行為者はφすべきである。

要するに(道徳的に関連する意味で違いがないような)同じような状況でなすべきことは行為者が誰であれ同じである、というのが普遍化可能性である。普遍化可能性はほとんどの倫理学者が道徳概念に認めているところであるし、私たちのほとんどもこれを認めるだろう。では、主観的期待値主義はこの要請を満たすだろうか。主観的期待値主義では、期待値に影響する範囲で異なる信念体系を持つ二人の行為者について、それぞれにとってなすべきことが変わりうる。これは普遍化可能性を満たさないのではないだろうか。

 主観的期待値主義がこの批判を回避する方法はある。それは普遍的性質に行為者の信念体系も含めることである。まったく同じ信念体系を持つ二人の行為者を想定すれば、主観的期待値主義でも彼らのなすべきことは同じだとすることができるからである。だが、もし信念体系の如何によってその行為者のなすべきことが変わるのだとしたら、それは次のような問題を引き起こすと考える。

 ジルの事例において、先輩のマークもここに参加させる。この事例において、Bが完全治癒薬で、Cが死んでしまう薬であった。ここでジルは、占いによってBが完全治癒薬だという信念を持っている。一方でマークは自身の実験によってCが完全治癒薬だという信念を持っている。したがってジルは「Bを投与すべきだ」と判断し、マークは「Cを投与すべきだ」と判断している。ここでのジルとマークの判断はまったく違うものだが、どちらも真なる道徳判断をしていることになる。さらに、ジルはマークに対して「Cを投与すべきでない」と反論し、マークはジルに対して「いや、Bこそ投与すべきでない」と反論したとしよう。すべての事実を知っている私たちから見れば、ジルが正しく、マークは誤りである。だが彼ら自身にとっては自分の判断が正しいことになる。これは奇妙ではないだろうか。私たちは客観的にジルが正しくマークが誤りであると思わないだろうか。マークの信念体系がなんであれ、彼の判断は間違いだと思わないだろうか。しかし主観的期待値主義では、マークの判断は彼にとって正しいのである。

 これでもまだ、もっともらしくないという批判に過ぎない。したがって主観的期待値主義は「その通り、マークの判断は彼にとって正しいのだ」とまた開き直ることができる。では他にどのような反論が可能だろうか。

 マークの信念体系は一部間違っていることが客観的にはわかっている。そしてマークは次のような推論を通して、自身の道徳判断を行っている。

  1. 行為者の信念に照らして関係者の福利(の期待値)が最大である行為が、その行為者にとって道徳的に正しい行為である(主観的期待値功利主義)
  2. 今、Bは完全治癒薬である可能性が高い(マークの信念)
  3. 完全治癒薬を投与することは、関係者の福利を最大化することである(マークの信念)
  4. 2, 3より、Bを投与することは関係者の福利(の期待値)が最大である行為である
  5. 1, 4より、Bを投与することがその行為者(マーク)にとって正しい行為である。

今、前提2の信念は誤りであることがわかっている。したがってこの論証は成立していない。つまりこの論証から結論の「Bを投与することはマークにとって正しい行為である」は出てこない。だとするなら、如何にして「Bを投与することはマークにとって正しい行為である」といえるのだろうか。

 とりうる方法は三つある。一つは純粋な主観主義(pure subjectivism)を採用する方法である。

純粋な主観主義:行為者Xが「行為φは道徳的に正しい行為である」という信念を持っている時、φは([tex;X]にとって)道徳的に正しい行為である。

こうすれば、論証とは別に「Bを投与することはマークにとって正しい行為である」といえる。しかしこの理論はもはや功利主義ではない。あくまでも功利主義を採用したいならばこの理論を採用することはできない。

 二つ目の道は、信念が実際に真であることを条件として導入し、あくまでも論証によって導出されるものだとすることである。だがこれは結局、何らかの合理性(理性)概念を導入しており、当初の批判で想定されていたような(帰結主義的枠組み以外の)条件を導入しない主観主義理論の採用ができなくなっている。したがってこの道も採用できない。

 そうして最後に残る道は、主観主義を「行為者の信念が誤っていようとも、その行為者の行為者の持つ信念体系が整合的であり関連する信念が真だと仮定した上で帰結主義的枠組みに照らしたときに正しいとされる行為が道徳的に正しい行為である」と修正する道である。これは二つ目の道とは異なる。二つ目の道は、あくまでも行為者に実際に正しい信念を持つことを条件としていたが、三つ目のこの道では仮定的なものに過ぎないからである。しかしこのような仮定的な想定のもとでの正しいとされる行為が本当に道徳的に正しい行為を示しているのかは全く定かではない。このような修正の理論的根拠を示す必要があるだろう。

 仮にそれを示すことができたとしてもまだ困難がある。今、信念が誤っているが推論が正しい場合を考察した。そしてその結果、信念が仮に真だとしたならばという条件をつけなければならなかった。であるならば、信念は正しいが推論が誤っている場合も考えられるだろう。前提は全て真だが、妥当な推論を行わずに獲得した信念は使い物にならないかもしれない。だがこれは厳しすぎる。妥当な推論のみが許されるなら帰納的な推論は全て否定されるからである。したがってここでは「行為者の持つ信念体系が整合的であり関連する信念が真だと仮定し、また結論を真とする良い推論をすると仮定した上で、帰結主義的枠組みに照らしたときに正しいとされる行為が道徳的に正しい行為である。」と修正することになる。

 ここまで来ると、当初想定していたような主観的期待値主義とはずいぶんと違ったものになっている。そしてこうした理想的な仮定的条件を付け加えなければならないなら初めから客観的期待値主義を取ればいいと考えるのは自然だろう。一方でこうした条件を付け加えない道を取るなら、今度は純粋な主観主義から批判されることになる。したがって主観的期待値主義は中途半端な立場にならざるをえない。

 

参考文献

  • 安藤馨(2007), 『統治と功利』, 勁草書房
  • 石垣壽郎, 「確率」, 廣松渉ら編(1998), 『岩波 哲学・思想辞典』, 岩波書店

  • 江口聡(2007), 「安藤馨『統治と功利』合評会」
  • 奥野満里子(2014), 『シジウィックと現代功利主義』, 勁草書房
  • 児玉聡(2012), 『功利主義入門ーーはじめての倫理学』, 筑摩書房
  • 森田邦久(2010), 『理系人に役立つ科学哲学』, 化学同人
  • Elinor Mason(2016), Objectivism, subjectivism, and prospectivism, The Cambridge Companion to Utilitarianism (Cambridge Companions to Philosophy)(pp.177-198). Cambridge University Press.
    Elinor(2016)では、期待値主義と客観主義に加えて主観主義(主観的帰結主義)も含めて、また賞罰や非難などと関連付けて論じられているので、本記事とは少し論じ方が違う。本記事は安藤(2007)をベースとしてElinor(2016)を参考に私なりに検討してある。

*1:以前は以下のように書いていたが、冗長妥当と判断し削除した。

私は、功利主義について説明するのはこれで十分で、あとは最後に書かれている参考文献などを読んでいただければいいと考えていた。功利主義について興味がある人、誤解している人、よく知らない人などには、私の記事を紹介することで事が済むとも考えていた。

 しかし、記事を書いてから半年以上経過し、これでは不十分だったと考えるに至った。私はTwitterでよく議論をするのだが、そのときに功利主義を持ち出すと、やれ「功利計算できない」だの「功利主義は検討するに値しない」だの「(功利主義者の)シンガーはナチス」だのと言われるし、Twitterで「功利主義」というワードで検索すれば、その誤解の多さといったらない。そしてそれらの一部は私のブログの記事でカバーできないことに気づいた。

 「シリーズ:功利主義を掘り下げる」は、こうした私の経験に基づいて、功利主義についてより深く掘り下げ、功利主義に対する無理解・誤解を晴らすこと、またそれを通して私自身が功利主義についてより理解を深める事を目的としている。

*2:追記2020-06-12:いろいろと勉強を進めていく中で、本記事をもっとわかりやすい構成にできるような気がしているので、いずれ別の記事として「帰結」についての記事を書くかもしれない。構成としては次のようなものを想定している。本記事では客観主義と期待値主義とし、さらに期待値主義を客観的期待値主義、事実主義と分ける構成になっているが、ちゃんと主観主義、客観主義、予期主義prospectivismをそれぞれ区別し、それぞれを定式化し、それぞれの利点・欠点を述べ、検討するのがいいだろうと考える。

*3:ほかは、厚生主義(Welfarism)、総和主義

*4:おそらく蓋然主義(probabilism)と同義。

*5:Elinor(2016, p.179)での定義は次のとおりである。

The right action is the one that best balances risk and good consequences.

正しい行為は、リスクと善の帰結が最も良いバランスである行為である。

この定義を見てわかるように、実際には期待値に限らない。例えば善の大きさと確率(リスクと善い帰結)がわかった上で、マキシミン戦略を取る方法もあれば、最高値戦略を取ることも可能である。一般的に言えば、善の見込み(prospect)が最大である帰結が最善の帰結であるとする、となるだろう。だが、ほとんどの場合は見込みを期待値で考慮すること、期待値以外の話を含めるとややこしいこと、の二点からここでは期待値に限定している。

*6:Elinor(2016, p.178)での定義は次のとおりである。

The right action is the one that actually would have the best consequences.

正しい行為は、実際に最も良い帰結である行為である。

*7:この限定は非常に重要で、後に見るように、客観主義は後に客観的期待値主義と事実主義に分かれる。そして事実主義のみが、実践的にも理論的にも、行為を事後的に判断する立場になる。

*8:原文は次のとおりである(Elinor(2016, p.181) )。今回の例は原文から少し改変してある。

Jill is a physician who has to decide on the correct treatment for her patient, John, who has a minor but not trivial skin complaint. She has three drugs to choose from: drug A, drug B, and drug C. Careful consideration of the literature has led her to the following opinions. Drug A is very likely to relieve the condition but will not completely cure it. One of drugs B and C will completely cure the skin condition; the other though will kill the patient, and there is no way that she can tell which of the two is the perfect cure and which the killer drug. What should Jill do?

元の引用先は
Jackson, “Decision-Theoretic Consequentialism and the Nearest and Dearest Objection,” pp. 462–463

*9:石垣(1998), 森田(2010)

*10:哲学的意味での「信念」であり、日常的な意味とはかなり違う。ここで「信念」はその人がある命題について真だと思っていること、となる。

*11:もちろん、道徳の主観主義の立場に立つならばこの立場は合理性を導入しない形が最も魅力的なものになるだろう。主観主義下で期待値的帰結主義を取ることがどれほど魅力的かはさておき、主観主義は動機付けの内在主義などの立場と相性がいいので、それらを保持したいのならば主観確率を期待値主義の考慮すべき確率とする理由になる。だが私は動機付けの外在主義に立つし、その他主観主義を採用するメリットもなく、また私自身の直観は明らかに客観主義的なものなので、主観確率を確率の主軸にすることは私には全く魅力的ではない。

*12:ここでの議論は安藤(2007)を参考にした。

*13:安藤(2007), pp.68, 69、ただし非常に簡略化・改変している。

*14:安藤(2007), p.71

*15:安藤(2007), p.71

*16:傾向性という考え方はベンサムに帰される。

*17:安藤(2007, p.73)はこれを、①歴史主義とほぼ変わらない、②価値論についてのアド・ホックな修正である、として別の回避方法を議論している。私はこの線でもある程度粘れるのではないかと考えているが、それはまた別の機会に考えたい。安藤の主張の通りで、おそらくこの説明では時点主義のメリットが消失するので、この路線は厳しい気がしている。だが、私自身は安藤の別の回避方法を採用できない(安藤のそれは態度的快楽説を取ることによって可能になるものである)ので、何らかの形でこの問題を解決しなければならないだろうと今は考えている。

*18:時点主義と歴史主義のどちらを取るのかや複合行為にまつわる問題などは安藤(2007)を参考。

*19:ここで物理的決定論のような立場を取ることによって、副作用があるかどうかも確定しているとするのは可能である。次に見るような客観的期待値主義を採用するならば、客観確率の存在にコミットすることになるわけだが、この客観確率の存在にコミットせずに決定論的な立場に立つならば、客観的期待値主義を採用することはおそらくできない。その場合取りうるのは、主観的期待値主義か、事実主義かのどちらかである。

*20:これを反直観的と捉えるかもしれないが、通常、ほとんどの薬には副作用があり、しかしその確率は非常に低いにすぎない(ので期待値の計算で無視できる程度に小さい)。もしこの例を反直観的とするなら、ほとんどの医者は不道徳なことをしていることになる。

*21:この批判は、そのまま直観主義に対しても当てはまる。直観主義においてはまさにその者が直観的に正しいと思ったことが正しい選択になるが、これはあまりに不合理でもっともらしくないと私は思う。直観主義を否定しなければならないことは私には自明だが、いずれ詳細な検討を行いたい。

*22:そしてそうした修正を施すことは、道徳における主観主義から遠ざかることを意味する。そしてそれは、当初主観的期待値主義を取るはずだった動機から離れていくのである。

*23:また主観的期待値主義では、当の選択者から(主観的に)見て期待値が最も大きい選択肢が客観的に道徳的に正しい選択である、とする。したがって、同一の状況下で、もし異なる選択者が別の事実を知っており主観的に見て期待値が最も大きい選択肢が異なるなら、客観的に道徳的に正しい選択が先ほどとは異なることになる。どうして選択者の知っている事実に依存して客観的に正しい選択が異なるのだろうか。私はこれに違和感を感じざるをえない(それは私が道徳の客観主義者だからなのだろうと思う)。

*24:もちろん、知り得るという立場もある。

*25:私自身は開き直ってもいいのではないかと思うので、事実主義と歴史主義のセットにも一定程度の魅力を感じている(し、2019/08/13時点ではむしろこっちを採用すべきではないかと考えつつある)。事実主義と歴史主義のセットと客観的期待値主義のどちらを採用するかは、直観か、あるいは他の哲学的立場(私見では時間論における永遠主義や現在主義などのどの立場に立つか)によって決定されるだろうと考える。時間論との関連は次で雑考程度に述べている。

雑考:時間と様相、事実主義と期待値主義 - 思考を垂れ流す、ただそうするだけのブログ

追記(2019-09-13):『統治と功利』を読み直し、事実主義と蓋然主義(期待値主義)のどちらを支持するかについて、別の議論を参照できることを知ったことをここに示しておく。その議論は第二章(と第三章)である。

*26:もちろんこれは帰結主義を前提とした場合である。

*27:もちろん、決定的な根拠にはならない。

*28:厳密には、一致する場合と一致しない場合とある。これは直接帰結主義をとるのか間接帰結主義をとるのか、さらに間接帰結主義をとったとしてもどのように考えるか、に依存する。これについては別の機会に論じる。

*29:複合行為については、シリーズの別の回で再度検討する予定である。

*30:元々は次のような記述だったが、ここで道具的合理性を持ちだすのは誤りだった。

ここでは合理性を道具的合理性と捉え、(道具的)合理性とは「行為主体の持つ欲求の充足を最大化するために適切な信念を持ち、また適切に行為する能力」と考えればいいだろう(し、これは多くの人が同意してくれるだろうと考える)

(もちろん、もっと濃厚な合理性概念(道徳的合理主義のそれ)も、チャーニアク(C・チャーニアク『最小合理性』(2009), 勁草書房)のような最小合理性を考えることもできるが、ここではこれで十分である。)