ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

誤解される効果的利他主義(伊藤「「うつわ」的利他−ケアの場面から」での効果的利他主義批判の検討)

本記事では、伊藤編(2021)『「利他」とは何か』に所収されている、伊藤「「うつわ」的利他−ケアの場面から」での効果的利他主義批判を検討する。

 

 

結論から述べれば、伊藤は効果的利他主義について、良くて誤解しており、最悪の場合藁人形論法で批判している。伊藤がどのように効果的利他主義を誤解し、誤った批判をしているかを見ることで、効果的利他主義への誤解がなくなれば幸いである。なお、本記事では伊藤論考の主眼である「うつわ的利他」については触れない*1。また私はkindleで読んでいるため、引用する際はページ数ではなくセクションタイトルで参照する。

 

まず全体的な批判から述べる。伊藤はこの論考の中で、ピーター・シンガー*2には何度か触れているが、日本語で参照できるもう一人の重要人物であるウィリアム・マッカスキルには一切触れていない。効果的利他主義を論じる上でマッカスキルを外すのは全く理解できない。彼はCentre for Effective Altruism(効果的利他主義センター)および効果的利他主義のキャリア支援をする組織「80000 hours」の創設者であり、現在でも効果的利他主義ムーブメントを牽引している人物である*3。マッカスキルの効果的利他主義についての本の邦訳『<効果的な利他主義>宣言!』が出版されたのは2018年であり、伊藤の論考が載っている『「利他」とは何か』は2021年出版なので、目を通しているはずであり、意図的に避けているとしか思えない(あるいは本当に読んでないのかもしれない)。そして以下で述べるように、マッカスキルを参照しないことによる弊害が多数あると筆者は考える。

 

以下では具体的な議論に触れていく。

まず効果的利他主義の説明として、シンガーの本からの引用がなされている。以下でも引用しよう。

効果的な利他主義は非常にシンプルな考え方から生まれています。「私たちは、自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>をしなければならない」という考え方です。*4

伊藤はこれをすぐに功利主義につなげる。

自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>。ポイントは、「いちばんたくさんの」というところにあります。最大多数の最大幸福。つまりこれは「功利主義」の考え方です。*5

伊藤がマッカスキルを参照していればこんな雑な要約をしなかっただろう。マッカスキルの本の「はじめに」の注3で、功利主義と効果的利他主義の違いが言及されている。そこでの説明によれば、違いは三つある。第一に、功利主義は最大限にできることを要求するが、効果的利他主義では「あなたにできる最大限のよいことをしなければならないという道徳的な義務はない」*6。第二に、功利主義は人権概念を内在的には認めないが、効果的利他主義では「人々の権利を侵害することは認めない」。第三に、功利主義は幸福(well-being)が、そしてそれだけが内在的価値をもつとするが、効果的利他主義には「自由や平等など、幸福以外の価値観も認める余地がある」。*7

さらに伊藤は「効果的利他主義は、単に功利主義をとなえるにとどまらず、幸福を徹底的に数値化します」*8と述べている。そしてその例として、シンガーの本から盲導犬と目の病気についての例が出されている。

アメリカで盲導犬を一頭養成するのに必要な金額は四万ドルである、という数字があげられています。これは発展途上国でトラコーマという目の病気を四〇〇人から二〇〇〇人治療できる金額に相当します。ならば、アメリカ国内での盲導犬の養成よりも、発展途上国での治療のためにお金を払ったほうが、より多くの目の悪い人を助けることができる。つまり「より多くのいいこと」ができるので、発展途上国のトラコーマ治療のために寄付をしたほうが効果的である、と判断されることになります。*9

ここでの説明には二つの問題がある。第一に、効果的利他主義が幸福の数値化をしようとするのは概ね正しいことだが、それは「概ね」である。なぜなら、効果的利他主義が測定しようとしているものが幸福そのものだとは言えないからである。例えばマッカスキルの本で何度も参照される「質調整生存年(QALY)」は、健康である状態のときの生活の質(QOL)を100%としたときに、その生活の質と長さの掛け算で計算される指標である。例えば、QOLが70%で10年生きるとしたら、それは0.7と10をかけて7QALYとなる*10QOLと幸福はもちろん相関するだろうが、QOLは幸福それ自体ではなく、ましてや、QOL功利主義者がよく採用する快楽主義的・選好充足説的な幸福ですらない。さらに、マッカスキルが述べるように*11、「幸福を徹底的に数値化」することは必ずしも重要ではない。様々な慈善団体の活動のインパクトは全く違うものであり、ある程度の数値化さえできれば効果的利他主義の活動にとっては(現時点では)十分である。

第二の問題は、ここで出している例が伊藤の説明したいことに合致してないことである。この例は、症状として目が見えない・見えにくいという点で同じだが、その数が異なっている事例であり、幸福度の数値化は一切されていない。伊藤が幸福度の数値化を説明したかったのならば、数は同じだが異なる病気等についての例を出すべきだろう。

 

次に伊藤は、効果的利他主義が共感を(少なくとも共感に支配された行動を)否定しており(「共感を否定する「数字による利他」」)、またその背景には共感ではうまくいかない地球規模の危機に対応しなければならないことがあるという点を論じている(「背景にある「地球規模の危機」」)。また効果的利他主義に傾く背景的な動機についても検討している(「好かれる人になりましょう?」)。

 

ここまでが伊藤による効果的利他主義の概説である。これ以降、伊藤は効果的利他主義への批判を行う。ただし、伊藤の論考で効果的利他主義が扱われるのは途中までであり、また後半の議論が効果的利他主義をも対象としているかは曖昧であるため、以下では効果的利他主義を対象として批判していると思われる箇所について検討していく。

伊藤は効果的利他主義の問題点を三つあげている。第一に、利他的行動は寄付だけではないはずだが、数値化によってそれがもっとも効果的であるかのようにされている。第二に、数値化という価値観に問題がある。第三に、寄付は必ずしも寄付される側を幸福にしない。筆者は、これらすべての問題点が効果的利他主義への批判としてうまくいっていないか、または批判としてずれたものになっていると考える。以下で理由を説明する。

伊藤があげる第一の問題は、効果的利他主義では寄付ばかりが注目されてしまうというものである。たしかに、効果的利他主義は寄付重視している。だが寄付だけではない。これはシンガーの本(第5章)でさえも触れられていることだが、ここでもマッカスキルの本が参考になるだろう。例えばマッカスキルの本の第6章のタイトルは「投票が数千ドルの寄付に匹敵する理由」であり、投票が効果的利他主義にとって重要な活動の一種であることが示唆されている。さらに第8章では工場畜産についても触れられており、寄付だけでなく肉食を避けることの重要性も議論されている*12。またマッカスキルは第9章でキャリアプランについて触れている。伊藤は、効果的利他主義者はあたかも寄付金を稼ぐためだけにキャリアプランを考えているような書き方をしているが、マッカスキルは慈善組織への参加を初めから否定しているわけではないし、第9章の中で「非常に効果的な組織で直接働く」というセクションタイトルをつけて、それについて論じている。効果的利他主義はただ多額の資金を稼いで寄付するだけの活動ではないし、それだけが効果的であると強調するものでもない。

伊藤があげる第二の問題は数値化という価値観の問題である。ここの議論は筆者にはわかりにくかったが、おそらく伊藤は2つのことを問題にしている。第一に、多額の寄付をするために手段を選ばないことの問題、第二に、数値化による弊害を論じていると思われる。伊藤はこれらの問題点を論じるために、多額の寄付のために稼ぐために金融業に就く事例をあげている。金融業は、まさに利益(お金)の数値だけを見て動いていたがためにリーマン・ショックを引き起こしたとし、「こうした金融危機が再び起きれば、寄付のインパクトを一瞬でかき消してしまうようなネガティブな影響が、貧困国にもたらされるでしょう」*13と述べている。

伊藤がこの事例から引き出そうとしているのは、上に述べた通り、第一に多額の寄付をするために手段を選ばないことの問題、および第二に数値化による弊害という2つの問題だと思われる。だが、仮にそのような問題が効果的利他主義にあるとしても、その問題を議論する上でこの金融業の事例を用いるのは不適切である。まず第一の問題について、この事例は過去の金融業の失敗であり、効果的利他主義の失敗ではない。もし金融業という職種が実のところ効果的ではない(つまり、稼げるが、その寄付を上回る程度に世界を悪化させる見込みがある)ならば、効果的利他主義者はその職種にそもそも就かない。効果的利他主義者にとって重要なのはその見込みであり、効果的利他主義者は「金融危機が再び起きれば、寄付のインパクトを一瞬でかき消してしまうようなネガティブな影響」の生じるリスクも含めて評価する*14。もしそのリスクがその職種に就くことで稼いで寄付することによるインパクトの見込みを上回っており、より効果的な職種が他にあるならば、効果的利他主義者は別の職種に就くだろう。重要なのは確率を含めた評価である。

第二の数値化の弊害を論じる上でも、この事例を用いるのは不適切である。効果的利他主義が数値化しようとしているのは幸福度なりQOLなりを改善する活動のインパクトであって、利益を数値化しようとしているわけではない。またそのインパクトの評価も科学的なプロセス(ランダム化比較実験等)で行われる。数値化する対象もその方法も違うのだから、金融業を引き合いに出して「金融業が数値化によって失敗したのだから効果的利他主義もダメ」などという議論は成立しない。

伊藤があげる第三の問題は、寄付が必ずしも寄付される側を幸福にしないというものである。これを論じるために伊藤は、ハリファックスの『Compassion』*15を参照し、国際援助団体の支援が現地に十分に行き届いていないことを論じている。そして、ハリファックスの「真の利他性は魚の釣り方を教えること」という主張を引用し、魚を与えるだけでは悪しき依存を生み出すだけであり、そのため貧困国の支援においても、多額の資金を投入し病院や家屋、寺院を建てても意味がなく、「地元の労働者といっしょに、地元のリーダーの手によって、生活の再建が進むことが重要なのだ、とハリファックスは言います」と好意的に紹介している。

だがこの問題点も効果的利他主義には当てはまらない。ここの議論には効果的利他主義に関係した二つの問題と、それとは別の問題がある。まず効果的利他主義に関係した問題点として、第一に、そもそもこの事例が効果的利他主義の支援団体の話になっているのかどうか疑わしいことがある。効果的利他主義は、例えば慈善団体を評価している組織であるGiveWellなどを通じて、慈善団体が適切に活動しているかどうかを重視する。もしそうした組織がうまく機能していなければ、そのような組織への寄付はやめるはずである。実際そういう事例がマッカスキルの本の中でも紹介されている*16。第二の問題は、伊藤が(ハリファックスを参照して)例示してる「支援」は「病院」「家屋」「寺院」を建てることだが、効果的利他主義者が寄付する支援先のほとんどはそのようなものではない。ここでGiveWellが現在推奨している団体を見てみよう。

www.givewell.org

上から順に

  1. マラリア予防のための薬
  2. マラリア予防のためのネット(蚊帳)
  3. ビタミンA不足予防のためのサプリメント
  4. 子どもの定期的ワクチン接種のためのインセンティブ

となっている。いずれも深刻な病気による不健康や死を防ぐものであり、建物を建てるなどというものではない。伊藤は効果的利他主義の説明の際に蚊帳などに触れているにもかかわらず、ハリファックスを参照したいがために無理な議論をしてしまっている。

第三の問題は、効果的利他主義とは関係ないが、ここでハリファックスの「真の利他性は魚の釣り方を教えること」というのを無批判に引用していることである。このたとえは、あたかも地元の人々が魚の釣り方も知らない無知な人々であるという不当なイメージを作り出すものであり、修正すべき偏見である。Baber (2017)が論じているように*17、貧困に苦しむ人々にとっての問題の多くは無知や非合理性などではなく、お金がないことである*18。魚を与えるだけでは「悪しき依存を生み出すだけ」などという素朴な偏見を修正すべきである。(加えて、「たとえ」であっても「魚の釣り方」を教えるのは種差別的なものなので、そんなことを教えるべきではない*19)。

 

これ以降、伊藤は効果的利他主義から「数値化」という考えを抽出し、それと利他、管理や支配、ケアとの関係を論じている。その部分が効果的利他主義を対象とした議論なのかどうか定かではない。筆者はその部分の伊藤の議論にもあまり同意できなかったが、本記事の目的は効果的利他主義への批判に反論することだったので、ここまでで反論を終える*20

 

以上見てきたように、伊藤の効果的利他主義批判は、効果的利他主義に全く当てはまらないものである。伊藤は効果的利他主義を、良くて誤解しており、悪ければ藁人形論法によって批判している。こうした紹介のされ方は残念というほかない。

最後に、もしよかったら、私に投げ銭するつもりで GiveWell や Animal Charity Evaluators などに寄付してほしい。

www.givewell.org

animalcharityevaluators.org

 

効果的利他主義については以下のサイトも参考になる。 

www.eajapan.org

*1:一言述べておけば、効果的利他主義が主眼とする利他的行動は、伊藤が問題にしたい利他的行動とはカテゴリーが違っており、伊藤がどうして効果的利他主義を誤って紹介してまで批判した上で「うつわ的利他」につながる議論をしているのかよくわからなかった。

*2:

*3:効果的利他主義についての哲学的問題を論じた論文集の第一章で、マッカスキルは効果的利他主義の定義を行っており、その程度には中心的な人物である。

*4:シンガー (2015)『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』NHK出版. p.7

*5:「私にできる最大の善−−効果的利他主義

*6:効果的利他主義の定義は安定しておらず、マッカスキルの考える効果的利他主義はシンガーの定義から少し離れていると言ってもいいかもしれない。

*7:ただし、マッカスキルのこうした説明は少し雑であると同時に、これ以後の著作との一貫性がない。MacAskill (2019)での効果的利他主義の定義論文では、効果的利他主義での「善」は厚生主義的(welfarist)な用語によって暫定的に理解するとしているし、効果的利他主義の定義の中に人権の侵害を認めないなどというのは含まれていない。さらに功利主義が常に最大化を求めるわけでもない(e.g. Norcross, A. (2020). Morality by Degrees: Reasons Without Demands. OUP)。『<効果的な利他主義>宣言!』ではより万人に受け入れられるためにこうした説明を採用しているのだと思う。しかしいずれにせよ、功利主義と効果的利他主義は異なる立場である。だがこの誤解を伊藤にのみ帰するのはアンフェアだろう。功利主義と効果的利他主義の関係は多くの人々によって誤解されている。これには、私を含め効果的利他主義者の多くが功利主義を自称しているのも原因の一つだろう。

*8:「私にできる最大の善−−効果的利他主義

*9:「私にできる最大の善−−効果的利他主義

*10:同じくマッカスキルの本で登場する「幸福調整生存年(WALY)」での「幸福」(主観的な幸福度報告)は、哲学的には満足のいく測定方法ではないし、それで測定されているのが「幸福」なのかどうかも疑わしい。詳しくはマッカスキルの本の第一章注14を見よ。

*11:『<効果的な利他主義>宣言!』第二章

*12:この点については伊藤も、論考の最後でスナウラ・テイラーを参照しつつ、若干触れている。

*13:「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」

*14:もし金融危機による影響がそれほど甚大なものであるなら、それを防ぐことのインパクトも効果的利他主義者は評価したいと思うのではないだろうか。少なくとも私はそう思う。

*15:

*16:詳細はマッカスキルの本の第7章の「その慈善団体は追加の資金を必要としているか?」を見よ。

*17:Baber, H. E. (2017). "Is Utilitarianism Bad for Women?." Feminist Philosophy Quarterly 3, (4). Article 6. doi:10.5206/fpq/2017.4.6.

*18:適応的選好といった問題が絡む場合は、単にお金がないことだけが問題ではないし、他に様々な複雑な問題が絡んでいる。こういった問題についてはKhader, S. J. (2011). Adaptive preferences and women's empowerment. OUP.を見よ。

*19:テイラーを参照しておいて何の注釈もなしにこんなたとえを引用してしまうあたり、伊藤は魚の声に注意を払っておらず、ケアすることをしていないのだろう。

*20:伊藤は利他と支配などのことを論じており、見返りを期待しないような利他について論じている。効果的利他主義の「利他」はまさにそのような利他ではないだろうか。伊藤は数値化に注目しすぎたばかりに、効果的利他主義と自身の立場の(ある程度の)相性の良さに気づいていないと思う。