Chappell, Richard Yetter (2015). Value Receptacles. Noûs 49 (2):322-332.
功利主義は、人々を交換可能な幸福の容器として扱っているとか*1、人格を分離できてないだとかの理由で、誤った立場であると批判されてきた。この論文ではこの批判の四つの解釈を示し、あるタイプの功利主義はこれらすべての解釈で批判を回避できると論じる。四つの解釈は次の通り。
- 置き換え可能[replaceable]であるとする
- 個人間の厚生を比較可能であるとする
- 人々の利害を[個別に]気にするのではなく、[その総和である]功利性(効用)を気にしている*2
- 価値の容器として扱っている(個人の利害を、集約された善への交換可能な[fungible]手段として扱っている)
大まかに、1と2には価値論的応答を行う。3には理由の議論から応答する。4にはトークン価値という概念を導入して応答する。
第一に、置き換え可能批判は、人々の諸経験がどうパッケージ化されて別々の人生になるのかに意味を見出してないという批判である。特に死の悪さを、将来の善い経験が少なくなるという点で悪いとしか思っていないのが問題であるとされる。
だが功利主義は、人生の計画を価値論に組み込むことで、ある人の死の悪さを、将来の善の減少だけではなく、その計画の中断として積極的に負価値的なものとして扱える*3。
第二に、厚生の比較可能性について検討する。これは、正確な[厚生の]値の割り当てができたあとに、完全に等しい二つの選択肢(二人が瀕死でどちらだけしか助けられないとか)があり、一方にわずかな価値を追加するだけで[それ以外のことを考慮せず]追加された方の選択肢を選択すべきだとしてしまう、という批判である。
功利主義からの応答の一つは、それらの比較を「大まかに等しい」(Parfit, 1984)や「同等[on a par]」(Chang, 2002)とすることで、多少の変化に対して反応しないようにすることである。だが、そもそも正確な値の割り当て[微小な追加的価値による選択肢ランキングの変化]がなぜ不道徳になるのかわからない。「比較可能[comparable]」であることは「交換可能[fungible or interchangeable]」であることを意味しない。
第三に、功利性だけを気にしているという批判について検討する。これは、誰かを助ける理由は、その個人の利害のためではなく、功利性[幸福総和]を理由として助けるという説明になってしまう、という批判である。
たしかに、これは一部の功利主義(功利性基本主義)には当てはまる。だが筆者は厚生主義的功利主義[welfarist utilitarianism]を採用する。これは、(例えば)ある快楽が善いのはまさに、それを経験する個人にとって善いからである、とする立場である。よってこの立場では、集約的善を第一に気にするのではなく、個人にとっての善を第一に気にする。そして、行為の理由の源泉・根拠は、個人の利害である[集約的善ではなく]。
第四に、個人を価値の容器として扱っているという批判を検討する。なぜこれが批判になるのかを明確にする。一つの理解は、交換可能であることは道具的価値しかもたない印であるからである(例:千円札5枚と五千円札1枚は交換可能である)。そのため、個人を内来的[intrinsic]価値をもつ対象として扱う必要があるが、功利主義にはそれができない、という批判として理解できる。適切な理論ならば、もし内来的価値をもつ個人のどちらかを選ばなければならない場合、ここでの適切な反応は選択肢の間でアンビバレントな感情を持つことである、ということを説明できるはずである。しかし、功利主義にはそれはできないとされる。
ここで、以下のような区別を認められるだろう。
- 等しく重い最終的価値を与える一対の選択肢
- 文字通り同じ最終的な価値を提供する一対の選択肢
1の例は、優れた絵画と、同じように優れた彫刻のどちらを保護するかという場合の選択である。2の例は、同じ絵画のどちらを保護するかという場合の選択である。ここでトークン価値という考えを導入してこれらの例を考えよう。その場合、2の場合では同じトークン芸術作品の一方を保護するので、どちらも同じトークン価値を持つ。しかし、1の場合は、同じ重みを持つが異なるトークン価値を持つといえる。
トークン価値を認めた場合、優れた絵画と優れた彫刻のどちらを保護するかという選択で、行為者がアンビバレントな感情を持つことを適切に説明できる。よって、優れた絵画と優れた彫刻を交換可能なものとしては扱ってない。諸個人もそれぞれ異なるトークン価値を持つと考えられるため、交換可能なものとして扱われないことになる。
よって、トークン価値というアイデアを認める功利主義、すなわちトークン多元的功利主義であれば、人々を交換可能なものとして扱わないため、価値の容器または交換可能なものとして個人を扱っているという批判は当てはまらない。
以上より、四つすべての解釈で、交換可能性の批判は成り立たないことが示された。*4
*1:このメタファーを有名にしたのはP・シンガーだろう。本論文でも言及されている。
*2:これは「人格の分離ができてない」という批判に対応する解釈だと思う。
*3:こんな応答が功利主義に許されるのか、功利主義は快楽説または選好充足説をとるのではなかったのだろうか、という疑問があるだろう。
功利主義は厚生主義[welfarism]をとっており、ある個人にとっての善(個人的善、福利[well-being])のみを非道具的価値として扱う。だが、この個人的善が快楽または選好充足であると限定する必要はない。客観的リスト説とよばれる立場を取っても、それが福利であるなら、功利主義に留まることができる。また、ローカルな福利と人生全体について評価する際の福利を区別できる。快楽説の中にも人生全体で福利を考える論者(Bramble 2016)が存在することを考えれば、功利主義がこうした立場を組み込むことは(難しいだろうが)可能である(Brambleが功利主義を取るかどうかは不明だが)。
Ben Bramble, A New Defense of Hedonism about Well-Being - PhilPapers
*4:このような理解をしても、功利主義が命じる行為は結局同じではないか、という批判は可能だろう。だが、そのような反論は問題を全く別のものにしている。この論文で扱われている「個人を幸福の容器として扱っている」という批判は、どのような選択をすべきかについての批判ではなく、「功利主義はそのように個人を扱うのだ」という功利主義の解釈の問題だからである。