ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

トロッコ問題と功利主義

今日のヤフーの記事で次のようなトロッコ問題についての記事があり、ツイッターで少しバズっていた。(現在この記事は削除済み)

headlines.yahoo.co.jp

times.abema.tv

 

この授業の目的は

授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。 

 とのことだ。

 

 トロッコ問題とは次のような事例である。

今、トロッコが暴走している。そのレールの先には5人の作業員がおり、そのまま進むと5人は轢き殺される。 ところで、あなたの目の前にはレバーがある。レバーを引けばレールの分岐点でトロッコの進行方向が変わり、5人は助かる。一方で、その変更後のレールの先には1人の作業員がおり、レバーを引き方向転換させるとその1人が轢き殺されることになる。

さて、あなたはどうすべきか、という問題である。

 実はこの問題には別のタイプの問題もある。

同じように、今度は列車が暴走している。線路の先には5人の人々がおり、そのまま列車が進むと5人は轢き殺される。今あなたは線路の上の橋にいる。橋には重たい荷物を背負った太った人がいる。この人を線路に突き落とせば、その人に列車がぶつかり、太った人がブレーキとなって列車は止まり、5人は助かる。しかし太った人は死んでしまう。

さて、あなたはどうすべきだろうか。この事例を太った人問題としよう。

 トロッコ問題でも太った人問題でも、人数のみが問題であるなら、多数を助けるためにレバーを引き、太った人を突き落とすべきである。しかし人数だけが問題ではなさそうである。少なくとも、太った人を突き落とすのは間違っているように思われるし、人によってはレバーを引くことも間違っていると感じるかもしれない。

 トロッコ問題は様々な使われ方がされるが、その主要な目的は、功利主義と義務論の説明のためである*1。これを有名にしたのはマイケル・サンデルの授業(と本)だろう。

 

 

 


マイケルサンデル ハーバード講義 第一回 第二回

 

 さて、トロッコ問題でレバーを引き、太った人問題で太った人を突き落とすのは、功利主義的な判断である。功利主義とは結果を重視する立場で、結果的に多くが助かることを正しいことだとする。一方でレバーも引かず太った人も突き落とさないのは義務論的な判断である。義務論とは、行為の正しさは、結果とは関係なく、その行為がある規範にしたがっているか否かに関係しているとする立場である。レバーを引き太った人を突き落とすのは人を殺すことであるからどちらも間違っている。したがって、このように見解が分かれる。

 

 ……というように説明されるのだが、私はこれに疑問を感じる。これが功利主義や義務論を説明することを目的として用いられるならある程度は問題ない。だがこのような極端な思考実験によって単純化されるのはいささか問題だろう。サンデルの授業では、このあとさらにこれらの諸立場を検討し深めていくという作業がなされる。しかしトロッコ問題や太った人問題のみがだされ「これが功利主義で、これが義務論です、以上!」というように終わってしまうのは非常に問題である。

 以下では少しだけ功利主義への誤解を解いていきたい。

 

 一般的に周知されている功利主義理解として、レバーを引き、太った人を突き落とすのは功利主義的に正しいことだとされる。だがそれは正確には微妙だと私は考えている。 

 功利主義はたしかに結果を重視する立場であるが、それは結果のみを重視する、というのとは異なる。より正確に言えば、直接的には結果のみを考慮する立場であるが、間接的には結果のみを考慮する立場ではない。この違いは重要である。直接的にと間接的にが意味するのは次のようなことである。

 例えば、私たちの多くはお金を欲しているだろう。だが、お金をただ集めても意味がない。私たちの究極的な目的は、お金を使用することである*2。私たちがお金を欲しているのは、そのお金を使って、欲しい物を買い、したいことをするためである。したがって、本当に気にしているのはお金ではなく、その使用先である。このとき、お金はその使用先のために使うことができるという意味で、手段的に良いものである。この「手段的」が「間接的」の意味するところである。そしてその使用先、つまり私たちがお金を使って買いたい欲しい物や、したいことが、それ自体で良いものであり、直接的に良いものである。

 功利主義に戻ろう。功利主義は、直接的には結果のみを重視する。だが、間接的にも結果のみを重視するわけではない。結果を良くするために、行為それ自体や性格、人格なども間接的に(手段的に)重視する。

 このことを太った人問題で考えよう。もし誰かが太った人問題と同じ状況にいたとして、その人が躊躇なく太った人を突き落としたとしよう。その人は道徳的に良い人格の持ち主だろうか。倫理学的にはこれをというときがあるが、その人は徳のある人だろうか。明らかにそうではない。おそらくその人はサイコパスか何かだろうと私たちは考えるはずである。実際、心理学的研究が示すのはそのようなことである。 

実際には、既存の研究において"功利主義的"であると示されてきた反応の多くが、サイコパス傾向・合理的エゴイズム・道徳的な罪を甘目に見る態度において主要である特徴・姿勢・道徳判断と強く結び付いているのであり、それは功利主義の倫理の核心であるより大きな幸福への公平な配慮と劇的に反対しているのだ。

「私が功利主義者ではない理由」 by ジュリアン・サバレスキュ - 道徳的動物日記

さて、こうしたサイコパス的性格は功利主義的に望ましいだろうか。つまり、サイコパス的性格の持ち主が増えることは、結果的に世界を良くするだろうか。明らかにそうではない。そしてそうでないなら、サイコパス的性格の持ち主が増えることは、功利主義的に(も)間違っている。これが意味するのは、太った人問題で、義務論的にはもちろん、功利主義的にも「突き落とさないべきだ」となることがありうる、ということである。

 トロッコ問題も同様である。レバーを躊躇なく引き、1人が死ぬことに何のためらいもない人は道徳的に善い性格の持ち主だろうか。そうではないだろう。そういう性格を持つのではなく、もっと徳のある性格を持つべきだろう。そしてこれは功利主義も認めるところである。したがって、功利主義は、レバーを引かないことをなすべきことと判断することがありうる*3

 このように、一般的な功利主義理解は、少しだけずれていると私は考える。*4

 

功利主義以外の話を含め、トロッコ問題に関する入門的な本としては以下の本がおすすめである。

 

 

功利主義の入門書としては以下の二つがおすすめである。 

 

また功利主義のより詳細な説明は以下で行っているので、興味のある人は見てみてほしい。

mtboru.hatenablog.com 

mtboru.hatenablog.com

*1:元々は倫理学者P・フットの論文とトムソンの論文で提出された問題であり、説明のために作り出されたものではない。

*2:お金それ自体を集めて貯蔵することを目的としている人もいるが、ここではそれはおいておこう。

*3:これらの「ありうる」は非常に重要で、太った人問題にしろ、トロッコ問題にしろ、その問題設定の如何では、レバーを引き、突き落とすことが正しい選択になる場合もある。これは、功利主義が行為の本質から道徳的評価をするのではなく、状況依存的にどれが正しい行為なのかが変わるからだと私は考える。

*4:ここで一つ補足する。こうした問題を通して「考えることが大切で、答えをもとめているわけではない」とか「このような問題に答えはない」とかいう意見がある。前者に関してはある程度譲歩するとことはある。こうした問題を通して考えることはたしかに重要だからである。だが後者には異議を唱えたい。道徳に答えがあるのかないのかというのはメタ倫理学という分野において真剣に議論されている。その中にはもちろん、道徳には答えがないという立場もあれば、いいや答えはあるんだという立場もある。前者は道徳的非実在論とよばれ、後者は道徳的実在論と呼ばれるが、こうした議論があることを知れば、「答えなんてない」とは簡単には言えないはずである。入門書としては佐藤岳詩『メタ倫理学入門』, 勁草書房がおすすめである。