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読書メモと勉強したことのまとめ。

道徳的自然主義者になる方法(2/5)

 

前回の記事↓

mtboru.hatenablog.com

 

0 はじめに

 前回の記事では自然主義とはどのようなものなのかの説明を行った。本記事ではメタ倫理学において自然主義を取る動機について説明する。

 1節で、道徳についての三つの問題、スミスの「道徳の中心問題」とマッキーの実在論批判、道徳的事実のテトラレンマをみていく。これによって自然主義を取る動機が説明される。2節で、ムーアの自然主義的誤謬を説明し、ムーアからの批判をどのように回避するかを説明する。3節でまとめる。

 一つ注意点がある。ここでは実在論を取るならばどのように議論をすすめるべきかを検討する。ただし、この実在論自然主義ー非自然主義に無関係な立場として考える。

 

1 道徳の奇妙さ

本章では、道徳に関する3つの問題について説明し、それらをどのように回避すべきかを検討する。1.1節でスミスの「道徳の中心問題」を、1.2節でマッキーの実在論批判を、1.3節で(「道徳の中心問題」の現代版である)道徳的事実のテトラレンマを説明する。そして1.4節で、これらの問題をいかにして回避すべきかを検討し、自然主義実在論を取るべきだということを述べる。

1.1 スミスの「道徳の中心問題」

 スミスは『道徳の中心問題』(スミス 2006)で、今日のメタ倫理学がなぜこれほどまでに見解の不一致があるのかを次のように説明する。

 私たちの考える道徳については二つの特徴がある。一つ目は、道徳は客観的で実在論的だということである。例えば「嘘をつくことは不正か」「飢餓救済のために募金すべきか」など、これらの道徳的問題について議論する時、私たちは何らかの一つの答えを出そうとしている。
 二つ目の特徴は、道徳的判断は動機づけを伴うと考えられているということである。例えば、私とあなたがヴィーガンになるべきかどうかを話し合い、その結果、ヴィーガンになるべきだ、という結論に至ったとしよう。その後レストランに行き、私が牛肉のステーキを頼んだとしたら、あなたはどう思うだろうか。もし私がそれについて「ステーキを食べたい欲求が大きいから」、「意志が弱いから」などと言い訳をしなかったとしたら大きく困惑するだろう。なぜなら「あなたはさっき、ヴィーガンになるべきだってことに同意したじゃん!」と思うだろうからである。少し考えてあなたは、私は「ヴィーガンになるべきだ」と誠実に判断していなかったと思うことだろう。しかし私は次のように言うのである。「道徳的にヴィーガンになることが正しいのは理解した。でも、私がヴィーガンになる理由が私にはまだない。だからヴィーガンにはならない。」このように言われたら困惑が大きくなるに違いない。このことは、もし私が道徳的判断を誠実に下したならばその判断に動機づけられるはずだ、と考えられているということである。*1

 ところで、人間の心理的事実について標準的な見解として、「信念」と「欲求」は区別される、というものがある。「信念」とは世界のあり方について思っていることであり、これには真偽が問える(日本語の通常の意味での信念ではないことを注意)。「地球は丸い」や「1+1=2である」と思っていること(信念)には正しいか間違っているかを問えるだろう。欲求はそうではない。欲求は世界のあり方について正しく思うことを目的としていない。欲求はむしろ、世界が欲求に合わせて変わるようなことを望む心的状態である。そして信念と欲求の大きな違いは、前者は動機づけを伴わないが、後者は動機づけを伴うことである。「ラーメンは麺類である」という信念によってラーメンを食べようと動機づけられることはない。一方で「ラーメンを食べたい」という欲求は、私たちにラーメンを食べるよう動機づけるだろう*2。信念と欲求にはこのような違いがある。

 ここまでがスミスの整理だが、最後に安藤による補足を説明する(安藤 2019, p.249)。さて、道徳的判断は判断主体の外部の(つまり道徳的判断によって持つであろう動機づけ以外の)動機づけとは独立になされるはずである。これは当然の要請だろう。道徳的判断が私たちの心的状態についての判断ではなく、私たちの心的状態とは独立している世界の客観的事実についての判断ならば、私たちの動機づけと関係しているはずがないからである。

 以上のことをまとめると、ここに矛盾が生じる。1つ目の特徴は、道徳は実在論的であるということであり、すなわち、世界には客観的な道徳的事実が存在するということである(道徳的実在論)。また、私たちは議論や反省を通じて世界の道徳的事実に関する事実を認識し、道徳的判断を行い道徳的事実に関する信念を持つ(認知主義)。2つ目の特徴は、道徳的判断は動機づけを伴うということである(道徳的判断の動機づけの内在主義)。ところで、信念と欲求は区別され(動機づけのヒューム主義)、そして道徳的判断は信念を持つことである。他に欲求などによる動機づけがなければ(道徳的判断の独立性)信念だけで動機づけを伴わないはずだから、道徳的判断も動機づけを伴わないはずである。しかしこれは動機づけの内在主義と矛盾する。

 整理すれば次のようになる。

  1. 私たちの道徳的判断は、信念を持つことである。(認知主義)
  2. 道徳的判断は必然的に動機づけを伴う。(道徳的判断の動機づけの内在主義)
  3. 信念と欲求は区別され、信念だけでは動機づけを与えない。(動機づけのヒューム主義)
  4. 道徳的判断は、その外部にある動機づけとは独立になされうる。(道徳的判断の独立性)
  5. 道徳的判断は信念を持つことであり、かつ、それ自体で(既存の欲求から派生的にではない形で)動機づけを伴う。(1, 2, 4より)
  6. 信念だけでは動機づけを伴わない、かつ、動機づけを伴う。(3, 5より)

6は矛盾しているので、前提1~4のいずれかを否定しなければならない。これがスミスのいう「道徳の中心問題」である。これを回避するためにはどうしたら良いだろうか。当然、前提のどれかを否定すればよい。しかしどれも否定し難い。まず2の動機づけの内在主義は、私たちの道徳実践の例を見てみれば分かる通り、これを否定するのは非常に反直観的である。そして3も否定し難い。客観的な実在論を維持したいならば1も4も否定できそうにない。ではどの立場を否定すべきだろうか。それは1.4で確認する。*3

1.2 マッキーの道徳実在論批判

 次にマッキーの道徳実在論批判を説明する(マッキー 1990)。彼の『倫理学』は「客観的な価値は存在しない。」という刺激的な文から始まる著書で、第一章で道徳の客観的な実在を批判している。マッキーの道徳実在論批判は

  • 相対性からの論証(the argument from relativity)
  • 奇妙さからの論証(the argument from queerness)

の2つから成り立っている。まず前者を簡単に説明する。相対性からの論証は次のような論証である。

  1. 道徳的判断は文化や個人ごとに異なる。(道徳的判断の相対性)
  2. もし客観的に道徳がないならば、文化や個人ごとに道徳的判断が異なる。
  3. 1, 2より、客観的な道徳は実在しない。

これは実在論一般への批判になっており、自然主義であっても非自然主義であっても応答しなければならない。だがこの論証は少し弱い。まず第一に、この論証はアブダクションの形になっているので、前提すべてが正しくても結論が正しいとは限らない。したがって私たちは前提1のよりよい説明となるような前提2を探せばいい。第二に、そもそも前提1が経験的仮説に過ぎない。実際、おそらく何らかの普遍的に同意される道徳的判断は存在するだろうから(例えば「無実の人を自分の快楽のために殺すことは不正である」や普遍化可能性など)、相対性からの論証は今後の人類学や道徳心理学などの研究、あるいは規範倫理学の行く末次第でその効力も変化するだろう。

 マッキー自身も述べるように、道徳実在論批判の核は奇妙さからの論証の方である。奇妙さからの論証は形而上学的な部分と認識論的な部分に分かれる。 

 さて、もし客観的価値が存在するとしたら、それらはこの(基本的に)自然的なこの世界の中に、自然的なものとは全く違う指令的な性質を持つ不思議な実体、性質、関係が存在することになるだろう。一方で、(基本的に)自然的な私たちがそれらの不可思議な実体を知る方法は五感による通常の知覚とは全く違ったものになるだろう。一つの考え方は、ムーアに代表されるように、私たちはそのような不可思議な実体を道徳的知覚ないし道徳的直観によって知覚するのである、というものである。だが、そんな知覚はどのようにして可能になるのか(認識論的な部分)。その上、その奇妙な知覚によって知覚される実体は、私たちに対して指令的な性質、つまり、私たちを動機づける性質を持っている。だがそんな奇妙な実体がこの自然的な世界に存在するだろうか(形而上学的な部分)。

 問題点を整理すると次のようになる。

  1. 私たちの道徳的な営みは、世界に存在する道徳的な実体や性質を知覚し、そしてその知覚によって動機づけられるようなものである。(認知主義+動機づけの内在主義)
  2. 1より、もし道徳的な実体や性質が存在するなら、それは私たちに対して指令的な性質、つまり私たちを動機づけるような性質を持っている。
  3. だが、(基本的に)自然的なこの世界に、指令的な性質、つまり私たちをそれ自体で動機づけるような性質を持った実体は存在しないのではないだろうか。
  4. 2, 3より、道徳的な実体や性質は奇妙なもの(queerness)である(そしてそんなものは存在しない)。(形而上学的批判)
  5. もし仮にそのような奇妙なものが存在するとしても、(基本的に)自然的な私たちはそれを通常の仕方で知覚することはできない。もしそれを知覚しているならば、例えば「ある特殊な直観」によって知覚している、などと説明しなければならないが、それでは不十分である。(認識論的批判)

私たちはこれにどう対応すればいいだろうか。マッキーは一つの道を検討している。それは、この批判を回避するのではなく、他の非自然的な実体も道連れにすることである。

例えば、リチャード・プライスによれば、ロックやヒュームのような経験主義者が説明できないのは、単に道徳的知識だけではない。本質、数、同一性、多様性、個体、慣性、実体、
(中略)
力、因果関係等についてのわれわれの知識や観念(idea)でさえ説明できないと論じている。(マッキー 1990, p.44)

おそらくここから帰謬法によってマッキーの奇妙さからの論証を回避しようとしているのだが、マッキーはこの批判について、ほとんどのものは経験主義的な用語で説明可能だという見立てを立てている(特に根拠を述べているわけではない)。そしてもし説明不可能なものがあるとしたら、それは「この論証の標的に含まれる」(p.45)ので、結局、そのように道連れにされてしまうということである(そしてそれは、マッキーにとって問題にならない)。

1.3 道徳的事実のテトラレンマ

 スミスの道徳の中心問題と似たような問題として、道徳的事実のテトラレンマがある。以下では安藤(2019)の整理を参考にして説明する。*4

 さて、道徳は私たちに行為理由を与えるように思われる。つまり、私が道徳的にある行為φすべきなら、必然的に、私にはφすべきもっともな理由(good reasons)がある。もっともな理由とは、その理由を無視するのは不合理であるということである。例えば、私がお金を欲しているなら、私には(他に方法がないなら)働くべきもっともな理由があるだろう(そうしないのは不合理である)。道徳も同様に、私が募金すべきならば、私には募金するべきもっともな理由がある(そうしなうのは(実践的に)不合理である)ように思われる。このような立場を道徳的合理主義とよぶ。このような立場がカントの考えに近いことは明白だろう。

 次に、私にそうすべきもっともな理由があるなら、私はそうするよう動機づけられるだろう。私がお金を欲しているならば、私には働くべきもっともな理由があり、そしてそれゆえに、働こうとする動機づけが生じるはずである。もちろん、このとき意志の弱さなどによってそのように動機づけられないかもしれない。したがってここでは、合理的熟慮によって動機づけられる、という立場として考える。これを理由の内在主義とよぶ。

 ところで、スミスの道徳の中心問題で確認したように、動機づけのヒューム主義はもっともらしい立場であった。動機づけのヒューム主義を合理的熟慮に関連して述べ直すと次のようになる。もし私が合理的熟慮を行ったとしても、合理的熟慮は信念の改定に関わっているのであって、欲求(非派生的欲求)の改定に関わっているわけではない。具体的に考える。私は今、お金がほしいという非派生的欲求(根本的な欲求)を持っており、宝くじを買えばお金が増えるという信念を持っているとしよう。このとき私は宝くじを買いたいという派生的欲求を持つことになるだろう。だが合理的熟慮によって、宝くじを買えばお金が増えるという信念は誤っており、働くことによってお金を貰えるという信念を持つことになったとしよう。すると私は、宝くじを買いたいという派生的欲求を改定し、働きたいという派生的欲求を獲得するだろう。だがこのとき、お金がほしいという非派生的欲求は変わらない。つまり、合理的熟慮によっては非派生的欲求は変化しない。これが動機づけのヒューム主義と合理的熟慮の関係である。

 さて、最後は道徳の独立性である。道徳の独立性は、私が道徳的に何をなすべきかは、私が現に持っている動機づけから独立している、という立場である。これは道徳的判断の独立性とは違うものである。道徳的判断の独立性は私の道徳的判断が私の(外部の)動機づけから独立しているというものであって、道徳の独立性は道徳的事実が私の動機づけから独立しているというものである。

 以上の立場をそれぞれ定式化する*5

道徳的合理主義(moral rationalism):私が道徳的にいってある行為をなすべきであるならば、必然的に、私にはそれに即して行為すべきもっともな理由(good reasons)がある(=道徳の要求を無視することは不合理・反理性的である)

理由の内在主義(reasons internalism):もし私にある行為をなすもっともな理由(good reasons)があるならば、必然的に、私はそれに即して行為するよう合理的熟慮によって動機づけられることが可能でなくてはならない

動機づけのヒューム主義(motibational Humeanism):合理的熟慮は根本的には信念の改定に関わっており、新たな動機づけを無から作り出すことはできない。したがって、私がある行為に合理的熟慮によって動機づけられることが可能であるならば、必然的に、私はそれに(たとえば目的ー手段関係的に)関連する動機づけを現に有しているのでなくてはならない

道徳の独立性:私が道徳的にいってある行為をなすべきか否かは、私(を含む人々)が現にどのような動機づけを有しているかとは独立の事柄である

 以上の立場はどれももっともらしい。ところで、理由の内在主義と動機づけのヒューム主義から次の立場が導かれる。

理由のヒューム主義(reason Humeanism):もし私にある行為をなすもっともな理由(good reasons)があるならば、必然的に、私はそれに(たとえば目的ー手段関係的に)関連する動機づけを現に有しているのでなくてはならない

これでテトラレンマの準備が整った。テトラレンマは次のように発生する。

  1. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、私にはφすべきもっともな理由がある。(道徳的合理主義)
  2. もし私にある行為をなすもっともな理由があるならば、必然的に、私はそれに(たとえば目的ー手段関係的に)関連する動機づけを現に有しているのでなくてはならない(理由の内在主義+動機づけのヒューム主義=理由のヒューム主義)
  3. 私が道徳的にいってある行為をなすべきか否かは、私(を含む人々)が現にどのような動機づけを有しているかとは独立の事柄である(道徳の独立性)
  4. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、私は関連する動機づけを現に有していなければならない。(1と2より)
  5. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、関連する動機づけを現に有していなければならないが、一方で道徳的にφすべきか否かは私が現にどのような動機づけを有するか否かとは独立でなければならない。(3と4より)

5は矛盾している。1~3の全てが正しいなら、(「道徳的にいってφすべき」という)道徳的事実があるということから矛盾が生じるのだから、道徳的事実は存在しないという道徳的非実在論の立場を取らなければならない。実在論を取りたいならばこの立場には立てないので、その場合も前提のいずれかを否定しなければならない。

1.4 三つの問題の自然主義的回避

 ここまでで問題は明らかとなった。まずスミスの「道徳の中心問題」は次のような問題であった。

  1. 私たちの道徳的判断は、信念を持つことである。(認知主義)
  2. 道徳的判断は必然的に動機づけを伴う。(道徳的判断の動機づけの内在主義)
  3. 信念と欲求は区別され、信念だけでは動機づけを与えない。(動機づけのヒューム主義)
  4. 道徳的判断は、その外部にある動機づけとは独立になされうる。(道徳的判断の独立性)
  5. 道徳的判断は信念を持つことであり、かつ、それ自体で(既存の欲求から派生的にではない形で)動機づけを伴う。(1, 2, 4より)
  6. 信念だけでは動機づけを伴わない、かつ、動機づけを伴う。(3, 5より)

そしてマッキーの奇妙さからの論証は次のようなものであった。

  1. 私たちの道徳的な営みは、世界に存在する道徳的な実体や性質を知覚し、そしてその知覚によって動機づけられるようなものである。(認知主義+動機づけの内在主義)
  2. 1より、もし道徳的な実体や性質が存在するなら、それは私たちに対して指令的な性質、つまり私たちを動機づけるような性質を持っている。
  3. だが、(基本的に)自然的なこの世界に、指令的な性質、つまり私たちをそれ自体で動機づけるような性質を持った実体は存在しない。
  4. 2, 3より、道徳的な実体や性質は奇妙なもの(queerness)である(そしてそんなものは存在しない)。(形而上学的批判)
  5. もし仮にそのような奇妙なものが存在するとしても、(基本的に)自然的な私たちはそれを通常の仕方で知覚することはできない。
  6. 5より、もしそれを知覚しているならば、例えば「ある特殊な直観」によって知覚している、などと説明しなければならないが、それでは不十分である。(認識論的批判)

最後に、道徳的事実のテトラレンマは次のようなものであった。

  1. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、私にはφすべきもっともな理由がある。(道徳的合理主義)
  2. もし私にある行為をなすもっともな理由があるならば、必然的に、私はそれに(たとえば目的ー手段関係的に)関連する動機づけを現に有しているのでなくてはならない(理由の内在主義+動機づけのヒューム主義=理由のヒューム主義)
  3. 私が道徳的にいってある行為をなすべきか否かは、私(を含む人々)が現にどのような動機づけを有しているかとは独立の事柄である(道徳の独立性)
  4. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、私は関連する動機づけを現に有していなければならない。(1と2より)
  5. もし私が道徳的にφすべきならば、必然的に、関連する動機づけを現に有していなければならないが、一方で道徳的にφすべきか否かは私が現にどのような動機づけを有するか否かとは独立でなければならない。(3と4より)

以上の三つのすべてを回避しなければならない。ではどうすればいいのか。

 スミスの道徳の中心問題では

  • 認知主義
  • 道徳的判断の動機づけの内在主義
  • 動機づけのヒューム主義
  • 道徳的判断の独立性

のいずれかを否定しなければならず、一方で道徳的事実のテトラレンマでは

  • 道徳的合理主義
  • 理由の内在主義
  • 動機づけのヒューム主義
  • 道徳の独立性

のいずれかを否定しなければならない。ではどれを否定すればよいだろうか。

 ぱっと見たところ、動機づけのヒューム主義を否定すればどちらの問題も回避できるように思われる。だが動機づけのヒューム主義を否定するということは、関連する欲求がないにも関わらず、信念を持つだけで動機づけるようなことが起こらなければならない。これはあまりにもっともらしくない*6。また、認知主義を否定して非認知主義に立つことによっても、どちらの問題も回避できる。道徳の中心問題はもちろん、道徳的事実のテトラレンマにおいても、非認知主義では道徳判断を信念ではなく非認知的心理状態(例えば欲求など)と考えるので、この立場では道徳の独立性を否定できる。だが非認知主義を取るということは道徳の実在性をほぼ無意味にしかねないので、(客観的)実在論を取りたい我々としては非認知主義を採用することは避けたい*7

 では道徳の独立性を否定する(つまり道徳的事実が私たちの動機づけと関連している)とどうなるのだろうか。道徳的事実が、私たちが現に有している動機づけと関連しているというのはもっともらしくないのではないだろうか。そうではない。もし私たちが現に有している動機づけから出発して、合理的熟慮によって、最終的に同じ動機づけに到達することができるならば、それは主観主義的だが非相対主義的なものになる(スミス 2006)。この立場は、同時に道徳的判断の独立性も否定できるので、どちらの問題も回避できる。これはなかなか嬉しい立場である。だが、合理的熟慮によって、私たちの全てが最終的に同じ動機づけに到達することが可能なのだろうか。そうは思われない。実際、この提案をしているスミス自身はそのことを積極的に示していない(それがもっともらしいだろうということを説明しているに過ぎない)。さらに、最終的に同じ動機づけに到達したとして、それは道徳的な動機づけを構成しているだろうか。つまりスミスが示さなければならないのは、実際に動機づけ群が収束し、さらにその収束した動機づけ群が道徳的にもっともらしいことの二つである。これは非常に困難な説明のように思われる。もちろん他にも取れる方法はあるが、ここでは道徳の独立性、道徳的判断の独立性を否定する戦略も取らないことにしよう。

 最後に、理由の内在主義について考えてみる。もちろん、理由の内在主義も否定しがたい。私を動機づけることが不可能にも関わらず、私にとってもっともらしい理由になるとはいかなることなのか。それは、意志の弱さやその他の妨害要因がなにもないにもかかわらず、合理的熟慮によって動機づけを獲得することが不可能なような、もっともらしい理由が存在するということである。それはもはや、私にとって何らもっともらしい理由にはなっていないのではないだろうか。本記事では詳細な議論を避けることにし、理由の内在主義を取る方針で進める。*8

 となると、もはや私たちに残されているのは

  • スミスの道徳の中心問題において、道徳的判断の動機づけの内在主義の否定
  • 道徳的事実のテトラレンマにおいて、道徳的合理主義の否定

の二つである。このことは何を意味するのか。第一に道徳的性質はもはや指令的な性質を持たず、私たちにもっともらしい理由を与えることはない。したがってこれは奇妙でもなんでもなく、マッキーの奇妙さからの論証を回避できることを意味する。第二に、道徳的事実や道徳的性質が何ら奇妙でない性質ならば、この(基本的に)自然的な世界に位置づけることが期待できるのではないだろうか。つまり、自然主義実在論へと私たちは誘われるのである。

 

2 ムーアの未決論法と自然主義的誤謬

 では私たちは自然主義実在論を取るべきなのだろうか。ここでメタ倫理学史上最も有名な批判の一つである、ムーアの未決論法(Open Question Argument)および自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)を検討する。ここでは佐藤(2017;pp.93-101)とMiller(2013; ch.2)を参考にして説明していく。そこでまず素朴な自然主義という立場から見ていく。

2.1 素朴な自然主義と未決論法・自然主義的誤謬

 素朴な自然主義は、「善」や「正しい」などの道徳の用語は、自然的な用語の単なる言い換えである、という立場である。例えば古典的功利主義であれば、「善」とは「快」であり「悪」とは「苦」である。そして「正しい」とは「快を増大させる行為」である。このように私たちにとって身近で自然的な実体や性質に言い換え可能であるということによって、「善」や「正しい」という道徳的な実体ないし性質がマッキーの言うような奇妙なものではなくなる。

 この立場を批判したのがムーアである。ムーアは『倫理学原理』で、このような立場は「自然主義的誤謬」を犯している、というのである。このことを示すために彼は未決論法という批判を行う。次の問いを考えよう。

山田は独身者である。ところで、山田は結婚していないか。

この問いは馬鹿げており無意味な問いに思えるだろう。当然この問いに対してはイエスと答えるはずである。もしこの問いに対して肯定的に答えないなら、おそらくその者は「独身者」や「結婚」の意味を理解していない。したがってこの問いは答えが確定しており、閉じた問いであるといわれる。このような閉じた問いで用いられている用語は全く同じ意味であり(独身者=結婚していない人)、言い換え可能である。このとき、用語や述語の意味のみからこの問いが正しいかどうかがわかる。このように用語や述語の意味のみによって正しくなるような(「独身者は結婚していない」というような)命題を「分析的に真」な命題、あるいは「独身者」と「結婚してない人」は分析的に等価であるという(イメージとしては、用語や述語の意味を分析するだけで同じ意味だとわかる、という感じである)。

 一方で次の問いはどうだろうか。

山田は独身者である。ところで、山田には恋人がいないのか。

この問いに対して全員が肯定的に答えるわけではないだろう。独身者であっても恋人がいる可能性はある。この問いの答えを確定するには、実際に山田に恋人がいるのかいないのかを調べる必要がある。よって、この問いは先程と違い、問う意味がある。この問いは用語や述語の意味のみによって正しくなるような問いではないので、「分析的に真」ではない。そしてこの問いは先程の問いとは違って答えが確定的ではなく、開かれた問いであるといわれる。このような問いでの用語や述語は同じ意味ではなく(独身者≠恋人がいない人)、したがって言い換え可能ではなく、分析的に等価ではない。

 では次の問いはどうだろうか。

この行為は快を増やす。ところで、この行為は善いだろうか。

この問いに対して肯定的に答える人も否定的に答える人もいるだろう(少なくとも、独身者の例よりはすんなりと肯定的に答えることはないはずである)。もしそうならば、これは「分析的に真」ではなく、開かれた問いであり、したがってここで登場する用語や述語は同じ意味ではなく、分析的に等価ではない。(つまり、快≠善)

 素朴な自然主義によれば、例えば「快」と「善」は言い換え可能であり、同じ意味なのであった。だがムーアのこの議論(未決論法)によれば、「快」と「善」は同じ意味ではない。もし未決論法が正しいなら、素朴な自然主義は同じ意味ではないはずの「快」と「善」を同じ意味だと定義する点で自然主義的であり、自然主義的誤謬を犯しているのである。この論法は「善」を何らかの形で定義しようとする試み全てに対して当てはまるので、定義主義的誤謬ともよばれている(佐藤 2017;p.99)。

 議論を整理すると次のようになる。

  1. 任意の述語について、その述語と「〜は善である」が分析的に等価(同じ意味)であるとする。
  2. ところで、ある用語や述語動詞が分析的に等価(同じ意味)である用語や述語(例えば「独身者」と「結婚してない人」)ならば、それらが同一かどうかを問うのは無意味であり、閉じた問いである。
  3. だが任意の用語や述語について「〜は善であるか?」という問いは答えが確定しておらず、有意味であり、開かれた問いである。
  4. 有意味な(開かれた)問いならば、それらの述語同士は分析的に等価(同じ意味)ではない。(2の対偶)
  5. 3, 4より、任意の述語と「〜は善である」は分析的に等価(同じ意味)ではない。
  6. 1と5は矛盾する。

もしこの議論が成功しているなら、「〜は善である」と分析的に定義する全ての試みが失敗することになる。したがって素朴な自然主義も失敗することになる。

 ムーアはこの議論から「善」は定義不可能だとし「善は善である」と開き直る。そして「善」はそういった自然的なものに置き換えられないのだから、非自然的なものである、というのである。だが私たちは(存在論的)自然主義を取るのだから、この方法で回避することはできない。

2.2 未決論法と自然主義的誤謬の回避

 ではこの批判をどのように(自然主義的に)回避すればいいだろうか。*9

 まず考えられるのは、論証の3を否定するやり方である。なるほど、たしかに一見すれば開かれた問いのようにみえる。だが実は閉じた問いであるかもしれない(つまり分析的に等価であるかもしれない)。ではなぜ開かれた問いに見えるのか。それは私たちが道徳の用語や述語についてよく理解していないからである。したがって私たちは、前提1が説得的であることを示すことによって3を否定し、この議論を棄却することができる。また「私たちが道徳の用語や述語についてよく理解していない」という理由から、2と4も否定できる。もし述語同士が分析的に真であっても、それについての問いが無意味であるとは限らない。スミス(2006)の例を用いて説明する。例えば「赤」という用語の分析を考える。私たちは「赤」という用語を不自由なく使っているが、しかし「赤」とは何か、どのような意味なのか、ということについて答えることは難しい。したがって、もし「赤」についての分析が得られたなら、おそらくそれは私たちにとって有意味であるはずである(でなければ、概念分析一般は無意味なことをしていることになる)。つまり、分析的に等価であるような述語同士についての問いであっても、私たちの無知・無理解が原因で、有意味な場合がある。したがって有意味な開かれた問いように見えて、実は有意味だが分析的であるということは十分にありえる。したがって4を否定できる。

 別の道として、そもそも「善」を分析的に定義するという方法を自然主義者はとらなくてもいい、というものがある。これはムーアの開き直りと何が違うのだろうか。例えば「水はH2Oである」という命題を考える。「水」の意味をいくら分析しても「水素原子が2個と酸素原子が1個が共有結合した分子」などという意味は出てこないだろう。しかし「水はH2Oであるか?」という問いには(化学的な知識があれば)誰でも「そうだ」と答える。科学的な発見によって水とH2Oが同一のものであるということが判明し、今に至るから、私たちはこれらが同一であると理解しているのである。このように分析的に等価でなくとも、使われている用語や述語の指示対象が同一であり、それゆえ真であるような命題を総合的に真な命題という。総合的に真な命題は用語に含まれる意味だけで真か偽かは確定しないが、他の何らかの事実によって真だと確定できる。したがって「水はH2Oである」は用語の意味だけでは真かどうか決まらないので分析的に真ではないが、水とH2Oが同一であるという事実を示すことによって真であることを確定できるので、総合的に真である。そしてこのようなことが「善」や「正しい」などの道徳の用語や述語にも成り立ち、それらを自然的な何かと同一であると述べることができる。そしてそのやり方は、非分析的な(つまり総合的な)ものになり、経験的探求によって明らかにされるのである。

 以上のやり方は、前者は分析的に、後者は総合的に、「善」を何かしら自然的なものに置き換えようとする試みである。このように置き換えようとする試みを還元といい、この立場は還元主義という立場にまとめることができる。

 還元主義があるのだから、もちろん非還元主義もある。それは「そもそも「善」は「善」である」とムーアのように開き直ることである。だがそれだと「善」は非自然的なものになってしまうのだった。そこで自然主義的非還元主義者は「「善」は「善」だが、それは自然的なものである」という方法をとる。そして「善」を分析的(かつ非還元的)に説明するやり方と、「善」を総合的(かつ非還元的)に説明するやり方の2つに分かれる。

 まとめると、未決論法と自然主義的誤謬の回避の仕方として、結局次のようにわかれる。

  • 還元主義(道徳的性質を自然的な何かに置き換える(還元する) )
  • 非還元主義(道徳的性質は自然的な何かに置き換えられないが、それでも自然的なものとして存在する)

以上が、ムーアの未決論法と自然主義的誤謬の自然主義的回避の方法である。

 

3 まとめ

 1節では、スミスの道徳の中心問題、マッキーの実在論批判、道徳的事実のテトラレンマを検討した。道徳の中心問題は

  • 認知主義
  • 道徳的判断の動機づけの内在主義
  • 動機づけのヒューム主義
  • 道徳的判断の独立性

のいずれかを、道徳的事実のテトラレンマでは

  • 道徳的合理主義
  • 理由の内在主義
  • 動機づけのヒューム主義
  • 道徳の独立性

のいずれかを否定することで回避できるが、道徳の中心問題では2つ目の道徳的判断の動機づけの内在主義を否定することで、道徳的事実のテトラレンマでは道徳的合理主義を否定することで、全ての問題を回避するのだった。そしてこの回避方法の採用は、自然主義実在論へと向かうことになる。

 2節では、ムーアの未決論法と自然主義的誤謬を検討し、その回避方法として還元/非還元主義的な分析的/総合的自然主義という4つの立場があることがわかった。

 

 次回の記事の内容について簡単に説明する。私たちは三つの問題を回避するために、道徳的判断の動機づけの内在主義と道徳的合理主義を捨て、動機づけの外在主義と道徳的反合理主義を取ることになった。しかし、これは問題のある回避方法ではないだろうか。というのも、前者について、スミスが述べているように、私たちの道徳的判断は動機づけを伴っていないとおかしいと直観的に思われるからである。1節の冒頭で示されている例を以下に再度示す。

二つ目の特徴は、道徳的判断は動機づけを伴うと考えられているということである。例えば、私とあなたがヴィーガンになるべきかどうかを話し合い、その結果、ヴィーガンになるべきだ、という結論に至ったとしよう。その後レストランに行き、私が牛肉のステーキを頼んだとしたら、あなたはどう思うだろうか。もし私がそれについて「ステーキを食べたい欲求が大きいから」、「意志が弱いから」などと言い訳をしなかったとしたら大きく困惑するだろう。なぜなら「あなたはさっき、ヴィーガンになるべきだってことに同意したじゃん!」と思うだろうからである。少し考えてあなたは、私は「ヴィーガンになるべきだ」と誠実に判断していなかったと思うことだろう。しかし私は次のように言うのである。「道徳的にヴィーガンになることが正しいのは理解した。でも、私がヴィーガンになる理由が私にはまだない。だからヴィーガンにはならない。」このように言われたら困惑が大きくなるに違いない。このことは、もし私が道徳的判断を誠実に下したならばその判断に動機づけられうるはずだ、と考えられているということである。

この説明は直観的に妥当だろうと思われる。それどころか、道徳という概念を理解しているものなら誰であれ、人々は(意志の弱さなどがないなら)道徳的判断に動機づけられるはずだと理解しているかもしれない。また道徳的合理主義について、これを否定することも(一部の人々にとって)受け入れがたいものである。この立場では、道徳が私たちにそうすべき理由を提示すると考える。そしてそれは規範性の問い、つまりwhy be moral?問題に回答することができることを意味する。道徳的合理主義を否定するということは、道徳は私たちにもっともらしい理由を与えないことを意味し、したがって私たちは道徳的に行為する理由を失うことになる*10。道徳にそこまでの重要性を見いださない人にとって、これはどうということはないだろう。だが、道徳は非常に重要なもので、それを守るべき理由がほとんど全ての人にあるはずだと考えるある種のモラリストにとって(私もある種のモラリストであるわけだが)、道徳的合理主義を否定したくないのはもっともである。

 次回の記事では、道徳的判断の動機づけの内在主義と道徳的合理主義を批判し、動機づけの外在主義および道徳的反合理主義が正しいということを示す。そして第四回と第五回で、2節で提示した4つの自然主義の方法を検討していく。

 また別の記事で、道徳的合理主義を否定しない方法も検討する予定である。

参考文献

  • 安藤馨(2013)「規範的談話の意味論:意味論的相対主義と不同意問題」
  • 安藤馨(2019)「道徳的非実在論」, 蝶名林亮ら『メタ倫理学の最前線』, 勁草書房, pp247-289
  • 太田紘史(2019)「我々は客観主義者なのか?―メタ倫理学への実験哲学的アプローチ」, 蝶名林ら(2019), pp.319-343
  • 鴻浩介(2016)「理由の内在主義と外在主義」, 『科学哲学』第49号(2), pp.27-47
  • 佐藤岳詩(2017)『メタ倫理学入門』, 勁草書房
  • 杉本俊介(2019)「行為の理由についての論争」, 蝶名林亮ら(2019), pp.101-126
  • スミス・M(2006)『道徳の中心問題』(樫則章ら訳), ナカニシヤ出版
  • マッキー・J・L(1990)『倫理学 道徳を創造する』(加藤尚武ら訳), 哲書房
  • Miller, A.(2013) Contemporary Metaethics: An Introduction 2nd edition, Polity
  • Finaly, S. and Schroeder, M.(2017), "Reasons for Action: Internal vs. External",  in Zalta, E.(ed.) Stanford Encyclopedia of Philosophy( https://plato.stanford.edu/entries/reasons-internal-external/ [2019年9月16日閲覧])

*1:ところが、このスミスの2つの道徳の特徴は今となっては怪しい。第一に、私たちは道徳を客観的で実在論的だとは考えていないかもしれないからである。これは太田(2019)を参考。第二に、私自身がそう考えるからであるが、誠実に道徳的判断をしているが、道徳に動機づけられない人というのは確実にいる気がしてならない。私が実際に議論した相手の幾人かはそうであったように思う。ゆえに、スミスのこの2つの特徴の記述は微妙と言わざるを得ない。

*2:それが結果的に実際に行為することにならなかったとしても、それは単に他の動機づけが強かった(例えばダイエットしたいという別の欲求に負けた)に過ぎない

*3:ちなみに、スミスの回避方法は特殊で、これらのどの立場も否定せず、それぞれの立場が何についての立場なのかということを明らかにし、各立場を修正し、トリレンマ(テトラレンマ)を回避する。
 欲求についてのヒューム的見解として、欲求は合理性とは無関係であるという考えがある。ヒュームのよく知られた議論で、自分の指が怪我するより世界の破滅を欲求することはなんら合理性(理性)に反しない、というものがあるが、スミスが否定するのはまさにこれである。つまり、合理性に何らかの(道具的合理性における規範以上の)規範を導入することで、合理的行為者であれば信念の改定によって新たに欲求が生じ、欲求が動機づけを与える、ということである。そしてスミスは、合理的であるならば、道徳的判断によって動機づけが生じるとして道徳的判断の動機づけ内在主義を維持しつつ、しかし動機づけはあくまで信念の改定による非派生的欲求の改定によって新たに生じるとされるので、動機づけのヒューム主義にも抵触しないことになる。
 これを理由に基づいて言えば、道徳的判断の動機づけ内在主義は規範理由についての主張であり、動機づけのヒューム主義は動機づけ理由についての主張になる。そしてスミス自身は、動機づけ理由のヒューム主義を維持しつつ、規範理由の反ヒューム主義(規範理由はそれだけで動機づけに因果的に関係する)という立場をとることになる。以上に見たように、スミスの方針は、道徳的判断の動機づけ内在主義と動機づけのヒューム主義の修正にあると考えられる。それぞれの立場が別々の理由に関する主張である以上、ここに矛盾は生じず、道徳の中心問題を回避する。
 本記事ではこのような動機づけ理由と規範理由の区別は行っていないが、次の記事でその区別を行おうと考えている。

*4:他の参考文献としては Reasons for Action: Internal vs. External (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*5:安藤 2019; p.251f、ただし一部の用語を変えている。

*6:もちろん、動機づけの反ヒューム主義は可能である。そのような立場では、例えば信念のように真偽を問えるが同時に動機づけるような心的状態として信求(besire)というものを提案する。

*7:もっと積極的な議論として、非認知主義がもっともらしくないことを示すこともできる。ただしその議論を追うには私の力量不足なので、ここでその説明はできない。

*8:理由の内在主義と外在主義については本記事を含む一連の記事で取り扱わない予定である。内在主義と外材主義の争点について、詳しくは鴻(2016)や杉本(2019)を参考。

*9:以下の説明はスミス(2006)と佐藤(2017)を参考にした。

*10:もちろん、行為者が道徳的に行為したいというような道徳的フェティシストならば、道徳は彼にもっともらしい理由を与えることができるだろうし、道徳体系内部では理由は与えられていると考えられるだろう。しかしそうした欲求を持たなかったり、道徳体系外部からみたとき(そんな事が可能なら)、私たちは道徳から理由が与えられなくなる。これは私たちが求めているような道徳像ではないのではないだろうか。