書誌情報
Hardman, I. (pseudonym) In Defense of Direct Action. Journal of Controversial Ideas 2021, 1(1), 2; doi:10.35995/jci01010002.
https://journalofcontroversialideas.org/article/1/1/137/htm
本記事はこの論文の要約(本記事は1万字を超えている)。
本論文の目的は、「過激な」動物権利活動家の(一部の)直接行動(侵入、救出、破壊等)の擁護(1−4節)、および、さしあたり許容可能だとしてもすべきでない理由の簡単な検討(5節)である。
Introduction
- 人間が他人に深刻な危害を不当に与えることを防ぐために、非国家主体であっても強制力を行使することができる点については広く同意されてる
- しかし、その他者が非ヒト動物の場合はどうか
- 過激な動物権利活動家の一部は強制力の行使を支持しているが、種の平等主義を唱えるものでさえこれを直接支持する者は少ない
- 筆者は、動物に深刻かつ不当な危害を加える者に対して強制力を行使することは、さしあたり[prima facie](または一応[pro tanto])道徳的に許されると主張する
- 以下は筆者の議論
- 子犬が深刻かつ不当に害されることを防ぐために強制力を行使することは、さしあたり道徳的に許容可能である
- 子犬と他の哺乳類の間に道徳的に顕著な差はない
- したがって、哺乳類が深刻かつ不当に害されることを防ぐために強制力を行使することは、さしあたり道徳的に許容可能である
- 牛、豚、羊、ネズミなどの哺乳類が食用、衣服用、実験用の研究対象などにされる場合、ほとんどの場合、深刻かつ不当に害されることになる。
- そのため、牛、豚、羊、ネズミなどの哺乳類が食用、衣服用、実験用の研究対象にされるのを防ぐために強制力を行使することは、ほとんどの場合、さしあたり道徳的に許容可能である
- 以下では前提2と4は当然のこととし、前提1を議論する
Section One
- 前提1を擁護するために用語を明確にしておく
- 第一に「さしあたり道徳的に許容可能」を、[他に]優先する道徳的理由がない限り許容される行為を示すために用いる
- 「状況cにおいてある行為aがさしあたり道徳的に許容可能である」と言うことは、「Sがaをcにおいて実行することは、Sがaの実行を妨げる優先的道徳的理由を持ってない限り、道徳的に不正ではない」と言うことである
- 優先的道徳的理由[overriding moral reason]は、Sがcで行為することを要求されてる道徳的理由のことである
- 「状況cにおいてある行為aがさしあたり道徳的に許容可能である」と言うことは、「Sがaをcにおいて実行することは、Sがaの実行を妨げる優先的道徳的理由を持ってない限り、道徳的に不正ではない」と言うことである
- 第二に、「強制[coercion]」を「対象となる個人の能力または意思を変更する目的で、人格やかれらの財産に対して暴力を用いたり脅したりすること」として定義。
- この定義はここで規定しているだけのもの
- 強制の概念の分析には重要な哲学的文献があるが、その議論はここでは無関係なので、規定的定義を使う
- この定義はここで規定しているだけのもの
- この理由のために、「暴力」「脅迫」「深刻な危害」の分析や理論的定義も試みない
- 以下で述べる事例はパラダイムケースであり、限界的な事例で決着をつけるような定義を提供する必要はない。
- 強制の定義に財産に対する暴力を含めたのは、別の言語的議論を回避するため
- 一部の動物権利活動家は有感存在だけが暴力の対象になりうると考えているため、財産損壊は非暴力的活動だとしている。この考えに反対する人もいる
- 「暴力」の定義を議論しても、動物が深刻かつ不当に害されるのを防ぐために財産を破壊したりすることが道徳的に許容可能かどうかにはほとんど関係ない[ので、議論しない]
- 「強制的直接行動[coercive direct action]」によって検討中の暴力の形体を記述する
Section Two
- ノークロス(Norcross)は「子犬、豚、人間(Puppies, Pigs, and People)」*1において、チョコレートを奪われたフレッドを例に思考実験をしてる。要約すると
- 子犬を虐待をしていたフレッドは警察に捕まった。
- フレッドはチョコが大好きだが、交通事故のせいでチョコの味が変わってしまった。
- 子犬を虐待するとホルモンが分泌され、それによって味を感じられるようになった。
- 子犬が苦しむこと自体からは一切の快楽を得てない。
- チョコがなくても死ぬわけではないが、人生はひどく貧しいものになる
- ノークロスのこの事例を用いて、議論の第一前提を擁護したい
- 第一前提:子犬が深刻かつ不当に害されることを防ぐために強制力を行使することは、さしあたり道徳的に許容可能である
- ノークロスの事例は、フレッドの家に警察官がやってきて、逮捕している。これは強制力の行使
- 子犬に深刻かつ不当な危害を加えることを阻止するために、国家が人々に強制力を行使して妨害することができるはずだと考える人は、少なくとも一部の動物の利益を守るために強制力を行使できるという見解にすでにコミットしてる
- 前提1を擁護するには、深刻かつ不当な害を防ぐために非国家主体の強制力の行使が許容可能であることを正当化する必要がある
- 私人(民間人private citizen)による強制力の行使には強い想定があるが、この想定は、被害者が責任を負わず、同意もしていない重大な危害を防ぐ場合に覆される
- 例:人口密集地で酔っ払ったガンマンを民間人が強制的に武装解除し拘束することは許容可能だと私達は判断してるだろう
- 子犬でも同様。
- 例:人口密集地で酔っ払ったガンマンを民間人が強制的に武装解除し拘束することは許容可能だと私達は判断してるだろう
- 子犬でも同様なのを理解するために、ノークロスの思考実験の二つのバリエーションを考える
- F2:フレッドの隣人ジムは、フレッドの地下室から発せられる叫びを聞き、心配になってフレッドの地下室の窓を除くと、フレッドが子犬を小刀で切り刻んでるのを見た。ジムはフレッドの家に侵入し、フレッドを取り押さえ、警察に通報する
- F3:F2と同様だが、ジムは銃器を持っており、フレッドの家に侵入して「やめないと打つぞ」と怒鳴り、自分を縛り付けるようフレッドを説得し、警察を呼ぶ
- 子犬に差し迫った脅威を与えていたので、ジムの行動はさしあたり道徳的に許容可能であるというのが筆者の判断。読者もそうだろうと思う
- これを常識的道徳の前理論的判断とする
- この判断は、倫理理論から推論されてもないし事前コミットメントに依存してるわけでもないので、前理論的。多くの人が同じように判断すると期待できる
- このような判断のための知的足場になるような道徳理論は必要ない
- F2とF3でのジムの行動がさしあたり許容可能という結論は、広く共有され、自信を持って保持されてる道徳的態度の集合に埋め込まれてる限りで、常識的道徳の判断である
- これは個別のケースと行為タイプの両方に関わる
- 常識的道徳の観点からは、強制は、深刻で不当な危害の潜在的な犠牲者を守るために行使される場合には許容可能
- そして、子犬は守るに値すると考えられている
- 私達はこれらの常識的道徳の前理論的判断を用いて理論を評価する
- これらは議論の余地がないわけではないが、理論的構成要素であり、正確性の推定を支える
- F2とF3でのジムの行動が強制的であるのは明らか
- よって、F2とF3の私達の判断は、前提1の範囲に民間人の行動を含むという読み方を暫定的に正当化するのに十分
- しかし、仮に前提1が正当化されるとしても、それによって子犬への危害を防止するための強制がなんでもさしあたり道徳的に許容可能になるわけではない
- F2とF3のジムの行為は強制的な危害防止の必要性と相応性(相当性)について、常識的道徳の基準を満たしてる
- 対照的に、子犬の切断を防ぐために、恣意的に選ばれた為政者を殺す運動を行うことや、子犬を不当に害してる仕事をしている人の家族に対して極端な報復的暴力をふるうことは、道徳的に許容可能ではない
- 常識的道徳の許容する強制の種類には限界があるので、ここで別のケースを考える
- F4:F2,F3と同様にジムはフレッドの行為を目撃し、警察に連絡する。しかし警察が到着すると、警察官は、フレッドの行為を止めることはできないと告げる。研究・治療に使われる動物は動物保護法の対象外であり、フレッドはそのことを知っており、薬効成分抽出を目的に、薬効証明を医者からもらって子犬を害している。しかし薬効証明書は法的にも科学的にも問題があるので、警察はジムに対して、もしこの問題をさらに対処したいなら地区検察局に連絡してと伝えた。
- 翌朝、フレッドの出勤後、ジムは家に侵入し子犬を救出、フレッドの機材やファイル、研究ノートなど、子犬の切断をサポートするものをすべて破壊した。
- F4のジムの行動は明らかに強制的。
- 筆者はF4でのジムの行動が道徳的に許容可能であると判断しており、これが読者にも共有されていると期待する
- ジムが救助した子犬たちは、差し迫った脅威には直面していないが、彼の行為によって、近い将来の深刻かつ不当な被害を受けることを防いでいる
- また道具の破壊によって、将来調達される子犬の切断も未然に防いでいる
- 常識的道徳は、他人に深刻かつ不当な危害を加えるのに使用されるであろう財産をあらかじめ対象とし、必要かつ相応な自警主義にさしあたりの許可を与える
- F4についての判断を信頼しない人のために、別のケースを考える
- F5:ジムは、フレッドが今後数日間に開催される予定の地元の音楽祭で大量殺戮を行うつもりであるという明白な証拠を持っているとする。フレッドは地域の人々に愛され尊敬されている人物であるため、警察はジムが通報してもまともに取り合わない。そこでジムは、翌日、フレッドが仕事に出かけたあと、家に侵入し、大量殺戮に使えそうなものを破壊する。
- これは道徳的に顕著な側面においてF4とF5は類似。
- F5でのジムの行動がさしあたり道徳的に許容可能という筆者の判断を読者も共有していると期待する
- 要約:F2、F3、F4についての私達の常識的判断は、民間人が子犬に対する深刻かつ不当な害を防ぐために強制力を行使することはさしあたり道徳的に許容可能であるという主張を正当化する。
- 特に以下のことがさしあたり許容可能である
- (a)必要かつ相応な身体的暴力の行使
- (b)必要かつ相応な身体的暴力を用いた脅迫
- (c)差し迫ったかつ時間的に離れた、深刻かつ不当な危害の脅威から子犬を守るために財産を破壊すること
- 前提2[が正しければ、それ]より、このことは他の種類の哺乳類に対しても同様に真である
Section Three
- ケースF2,3,4は、筆者の議論の第一前提を支持する判断を引き出す
- だが、これらのケースは、論争的で一般的な結論を支持するには限定的すぎるという反論があるかも。
- どのケースでも、動物種、危害の目的、害が与えられる状況(setting)が同じ
- また人工的すぎるかも。
- こういった反論に対処できなければ、筆者の結論は覆される
- だが、これらのケースは、論争的で一般的な結論を支持するには限定的すぎるという反論があるかも。
- 本節ではこの二つの反論を取り上げる
- まずF2,3,4の種、目的、状況を変え、それでもF2〜4と類似していると主張する。それゆえ、同等の道徳的判断を引き出せるはずである
- 次に、人間の利益のために動物が深刻かつ不当に害された実際の事例(アイオワ・セレクト)を用いる
- 最後に、動物解放戦線(Animal Liberation Front)が行った強制的直接行動を検討し、これが時にはさしあたり道徳的に許容可能であることを示す
- フレッドが、子犬だけでなく、哺乳類でもホルモンを取れることを知ったとしよう
- F6:フレッドの隣人ジムは、地下室から苦痛の叫びを聞き、地下室を見たところ、リスを切り刻んでいた。ジムは地下室に入り、フレッドを取り押さえ、警察に通報した。
- F6もさしあたり道徳的に許容可能だと読者は判断すると期待する。これはF2-F4の判断が種特異的なものではないことを示唆している。
- リスにロバストな道徳的配慮をすることをためらう人がいるのは認識している。
- そのため、リスは子犬が持っているような道徳的性質を欠いていないことに注意すべき。
- 生理学的にはリスは子犬と同じくらい有感動物であるし、認知的に柔軟な生物である
- よって、リスへの道徳的配慮の拡張を否定する人には説明する責任がある
- そのため、リスは子犬が持っているような道徳的性質を欠いていないことに注意すべき。
- ノークロスが指摘するように、「子犬が他の動物より重要なのは、私達(人間)が子犬をより大切に思っているから」という反論がある
- この考えは、人間の特別な同情と関心の対象であることが、子犬がもつユニークな種類の道徳的地位を与える性質であるとする
- 人間の変わりやすい情動的感性に重要な道徳的区別を基礎付けることは難しいだろう
- またこれはエウテュプロンのジレンマに陥っている
- 人間が他の哺乳類よりも子犬を大切にする正当な理由はあるのか、ないのか
- あるのだとしたら、子犬の特別な道徳的地位は、人間の同情心によっては説明されない
- ないのだとしたら、特別に大切にする根拠がなく、根拠のない同情心は差別的扱いを正当化する理由にならない
- 次に目的を変える。ホルモンを得るのではなく、例えば毛皮のコート生産ならば、それを妨害するために強制力を行使するのはさしあたり許容可能である
- しかし重大な利益を生み出す場合はどうか
- F7:F2と同様だが、フレッドの目的が異なる。フレッドは引退した研究者であり、調査の結果、犬から分泌されるホルモンが、新しいがん治療薬の効能を高めるという仮説を立てた。これを検証したいが、フレッドはもう大学の研究室に入れない。このホルモンを研究してる人は他にいないし、説得もできない。
- フレッドの目的はがん治療を大幅に改善することで、また代替手段もない。
- それにもかかわらず、F7でのジムの強制的干渉は、さしあたり道徳的に許容可能である
- 間接的ではあるが、道徳計算に影響を与えるだろう。
- まず、フッドの目的自体によって、子犬に対する強制が妨げられないわけではない。人類のためになると信じて不正をすることはある
- これを理解するために、F5のケースで、大量殺戮の理由が、宇宙人による破滅的攻撃を防ぐ唯一の方法だからだとしよう。
- これは不合理な信念に基づいており、危害を正当化しない
- もしF7のフレッドの仮説が科学的合理性の基準を満たすなら、かれは同僚の研究者を説得できるはず*2
- しかしそうではないので、これはフレッドの信念が不合理であることを示す強い証拠になる。
- またジムが地下室を覗いて、フレッドがそのような合理的信念に基づいて行為してないと結論づけるのは正当化される
- これが正しければ、フレッドの目的が立派でも、F7のジムの強制的介入はさしあたり許容可能
- F7の結論にもかかわらず、それでもフレッドの研究が必要だと合理的に信じられるかどうかについての確信を直ちには損なわないような状況であればどうか[種、目的を変えたので、次は状況を変える]
- 次のケースを考える
- このケースでも、フレッドは良い理由なしに子犬に深刻な危害を加えている。フレッドが研究室で行っているという事実だけで、それが正当化されることはない。
- とはいえ、場所の変更によって、ジムの強制的介入の許容可能性について明確な見解にたどり着くのが難しくなっている。
- F8は、他にはない二つの重要な懸念がある
- 1:フレッドの実験が不正でない可能性
- 2:公的な(public)直観と代議士(representatives)に対する強制を用いるということの、その強制を用いることによってもたらされる(downstreem)社会的影響
- これらは第4節で議論する
- F8は、他にはない二つの重要な懸念がある
- いずれにせよ、F6-8で強制的介入がさしあたり許容可能だという結論は、F2-4のケースの一般化を支持する
- 種、目的、状況が異なっても動物の利益を守るために相応の強制力の行使がさしあたり許容可能である
- 次に実例と比較
- Iowa Select:2020年春、COVID-19のパンデミックにより、米国の食肉業界内で大きな市場の混乱が発生した。その結果、多くの養豚会社が、通常の方法では採算の取れない「余剰」動物を抱えた。Iowa Select Farms社は、いくつかの施設で余剰な豚を、換気停止[ventilation shut down]によって一括して皆殺しした。Glenn Greenwaldによれば、これは「畜舎の風通しをすべて遮断して蒸気を送り込み、内部の熱と湿度を高めて一晩で死に至らしめるものである。ほとんどの豚は何時間も苦しんだ後に死んだ。」
- このケースでの被害は量的に膨大で(何万匹の動物)、質的にもF2-8と同等。
- よって、筆者のF2-8のケースが、人間の利益のために動物を害する方法を代表しない、という反論を覆す
- 実際、多くのケースで、限界[marginal]利益を確保するのに、動物に長期に渡る大きな苦痛を不当に与えている
- Iowa Select Farmの慣行は、標準的な集約飼育農業の慣行と一致してる
- F2-8と同等に、Iowa Selectのケースでも、これを妨害するために必要かつ相応な強制力の行使はさしあたり許容可能だと判断するべき
- また、将来的な豚の獲得の阻止のために、予防的な財産損壊もさしあたり許容されると思われる
- またこれが畜産全体で行われているので、危害の防止のために強制力を行使することはさしあたり許容可能だというケースは多く存在すると考えるのは理にかなっている
- ここでそのようなケースを考える
- Elkton:動物解放戦線[Animal Liberation Front Communique]によると、この団体はElktonにあるScott Dean’s D&S Fox Farmに行き[侵入し]、檻を開けて狐を救出し、隣接した国立公園での新しい生活を送るチャンスを与えた。[檻を開けると]すぐに数匹が飛び出した。また日常業務を続けるための機械に損害を与えた。[全部で狐は13匹]
- このケースは、ALFの強制的直接行動が、さしあたり道徳的に許容可能であることを示す。
- これが本節の最も重要な結論
- ALFのなすことの一部は、対抗する考慮事項がないならば、道徳的に正当(licit)である
- 筆者はALFの行為のすべて・ほとんどが、さしあたり許容可能だという主張を擁護するつもりはない。それは事例の詳細による
- 強制が相応か、対象とされた個人がdefensiveな*3危害である可能性があるかどうかなど
- ここではその原則を同定する試みはしない
- 強制が相応か、対象とされた個人がdefensiveな*3危害である可能性があるかどうかなど
- 明らかに、傍観者はALFによって損害を受ける可能性はない
- また、工場畜産と取引のある人々に郵便爆弾を送ることも[その危害との比較で]相応ではない
- しかし、ここでの目的は、関連する制限原則を解明することではなく、必要かつ相応であれば、さしあたりは許容可能であることを示すこと
- この結論は控えめだが、極めて重要
- 一つには、過激な動物権利活動家が、常識的道徳を超えた原理、理論、またはイデオロギーにコミットしてるわけではないということを明らかにしているから
- さらにこの結論は、活動家が自分らの目的についてフランクかつオープンに対話することに従事する必要を示してる
- またこれは、国家が動物の道徳的地位を認識し、それによって法改正する必要があることを示してる。もし国家が守らないなら、一部の市民がさしあたり正当に、国家の代わりにそうすることになるだろう
Section Four
- 筆者は、強制的介入はF8でさしあたり許容可能だと主張する
- この主張には二つの反論がある
- 1:F8でフレッドが与えた害が、人間の実質的な利益をもたらしうる可能性が、遠いながらも、存在する。よって、その可能性がフレッドの行為を道徳的に正当化するのに十分なら、この結論は阻止される
- 2:大学などの公的機関に属する人々に対する強制力の行使は、社会的信頼と法の支配を損ない、破滅的結果をもたらす可能性があるため、包括的な禁止の対象である
- 本節ではこれらの反論に答え、F8での特定の主張を擁護し、公共につくしてる研究者や機関などに対する強制力の行使についての一般的懸念に対処することを目指す
- これらの懸念は、ALFの活動の多くが、研究室や研究者を標的にしてるので、特に目立ったものである。
- 最初の反論から取り組む
- F8でのフレッドの実験は助成金での研究プログラムの一部なので、彼の研究が人間に大きな利益をもたらす可能性があると信じるのは不合理ではないだろう
- そのため一部の人は、実験動物に深刻な危害を加えることを道徳的に正当化するには、重大な医療的利益を生み出すわずかな可能性があれば十分だと考えている
- もしフレッドのしていることがそうなら、F8でのジムの強制的介入は許容不可能であると思われる
- 常識的道徳は、他者が不当に害されていることを防ぐ強制的介入を道徳的に許容している
- 閾値の設定の問題には触れない。
- 動物実験の明示的な目的は、道具的に有益な知識を生み出すこと
- この点に同意する人にとって、ほとんどすべての動物実験がF8と極めて類似しており、よってそれらは不必要に深刻な害を与えている
- よって、動物実験を行うほぼすべての人はdefensiveな害を与えているだろうという見解への議論がある
- とはいえ、ここでさらに擁護するつもりはない。この見解が論争的なのは認める
- 動物実験の中には人間にとって重要な利益を生み出すのに必要だと合理的に考えられてるのもあるのは認める
- ここで強調したいのは、研究プロジェクトが動物に深刻かつ不当な危害を加えるものであるなら、強制的介入はさしあたり許容可能であるということ
- F8のフレッドが不正に行為していることに同意しても、ジムの強制的介入がさしあたり許容可能であるという提案に尻込みする人もいるだろう[第二の反論]
- 第二の反論によれば、かれらは公共のために働く機関(と個人)に対して強制力を行使すると非常に悪い結果になるのではないかと心配するから
- 法の支配、民主主義的規範、社会的信頼を損なう、など
- 第二の反論によれば、かれらは公共のために働く機関(と個人)に対して強制力を行使すると非常に悪い結果になるのではないかと心配するから
- 強制的直接行動が悪い影響を及ぼすと考えられる最も直接的な理由は、法の支配にコミットしている民主主義社会では、市民は実質的な道徳的・政治的な意見の不同意を解決するために、立法プロセスを使うから
- 民主主義社会は、合意された道徳的規範を支持し、非合法的な強制的介入のまれな使用を許容する(例:児童虐待に対する粗い正義)
- しかし、深刻で[意見が]分裂的な道徳的・政治的論争を「解決」する試みにおいて非合法な強制的介入を許容することは、深刻な形で不安定化するだろう
- それが公共のための機関ならなおさら
- 何らかの制限的な原則がない限り、公に奉仕する機関に対する強制的直接行動の使用は、暴力的反応や法律違反を誘発し、社会的信頼を損ねる危険性が高い
- この反論への返答
- まず、民主主義社会の構成員が、善を促進し、危害を防止し、正義を確実にするために、許容的に法に違反することができる条件の特定は非常に困難であることを認める
- しかし、大学の研究室等での動物に対する不当な危害を防止するために強制的直接行動を用いることが許容可能である、という主張が、このような理由によって特別な懸念があるとは考えない
- なぜなら、法律違反の許容可能性を擁護する者は、法の支配と基本的社会的信頼を維持する制限原理を見つけ、明示するという問題に取り組まなければならないから
- 例:社会的不正義に抗議する手段として、非暴力的な市民的不服従(定義的に非合法な直接行動)を用いることが広く支持されてるが、これも好ましくない影響を及ぼすことがありうる
- 市民的不服従が時に許容可能であることは、政治哲学者の間でデフォルトの立場である
- 例:アラバマ州バーミンガムでの人種隔離に抗議するための運動。運動によって、座り込みや爆弾を仕掛け、子供が殺されたなどのことが誘発したが、これ[運動自体]は正当な市民的不服従のパラダイム的事例
- 市民的不服従と強制的直接行動の道徳的違いは、直接行動が暴力的なこと
- しかし、身体や財産への攻撃は有害であるが、非暴力的な持続的運動はより深刻に悪いことがありうる。
- 実際、抑制された相応な強制力の行使よりも、市民的不服従のほうがより多くの人にとって有害である多くのケースを容易に想像できる
- フレッドを地面にねじ伏せ縛り上げること[強制的直接行動]と、彼の仕事場の前で一年間道路を封鎖する抗議活動[市民的不服従]とを比べる
- 抗議活動のほうが、フレッド以外の人にも深刻な悪影響を与えるだろうし、暴力的反応を引き起こす可能性を高めることにもなる
- 市民的不服従と強制的直接行動の別の道徳的違いは、法の支配に対する信頼を示すことかも
- この受容条件が満たされることで、市民的不服従という行動の表現力が強化される
- 制裁を受け入れることを公に示すその誠意を否定するのは全く簡単ではない
- また、法の支配自体に対する攻撃とも簡単には言えない
- 対照的に、強制力を行使する過激な動物権利活動家は、通常、サンクションから逃れようとするので、受容条件を満たさない
- これは法の支配に対して市民的不服従とは別の課題を示しており、明白で重大な道徳的相違があることを示すのか?
- 筆者はそう[明白で重大な違いがあるとは]思わない。
- しかし、仮に正当化された市民的不服従の行動が受容条件を満たさなければならないことを認めるとしよう
- それでもなお、市民的不服従と強制的直接行動は道徳的に違っており後者の全面的禁止の支持、を示さない
- 強制的直接行動の擁護者も、受容条件を使って、善のために法に違反することは法に違反した者が進んで罰を受ける場合にのみ許容可能だと認められる
- 擁護者は、動物権利活動家は任務が終われば罰を受け入れなければならない、と主張できる
- 筆者は受容条件を支持しないが、受容条件を認めれば道徳的な違いはない
- 以上より、市民的不服従を許容可能としながら、強制的直接行動を全面的に禁止するのは一貫してない
- 強制的直接行動の禁止をケースごとの文脈以前に結論づける強い理由は見当たらない。むしろ状況に敏感に反応する
- そして上で見てきたように、動物の虐待を含む状況では、必要かつ相応な強制的介入はさしあたり許容可能である
- 以上に述べてきたように、法の支配と社会秩序に損害を与える直接行動のもつポテンシャルは、その使用に反対するさしあたりの理由をもたらすことを筆者は受け入れる
- それを次節で検討する
- 筆者は[法の支配と社会秩序に与える損害という]それらの理由が優越する可能性はないと思いたい。
- しかし、強制的直接行動のさしあたりの許容性を排除する別の考慮事項がある。
- それらの理由が重いなら、それは賛成へのさしあたりの理由を優越する可能性はある
- それを次節で検討する
Section Five
- 動物権利運動における強制的直接行動の評価で、二つの問いが重要
- 1:動物のために強制的直接行動を行う人々の基本的目標はなにか
- 2:強制的直接行動はその目標を達成するための効果的方法か?
- もし即時的かつ実質的に動物への危害を減らすことなら、しばしば効果的手段だろう
- しかし、動物の権利という世界観を受け入れるよう他者を動機づけることや、政治的コミュニティを説得することが目的なら、強制力の行使が効果的である可能性ははるかに低いだろう
- 筆者は、ほとんどの動物権利支持者がこの二つの目標[他者を動機づけ、政治的コミュニティを説得すること]を共有してると推測している
- これらの理由から、動物権利活動家は、強制的直接行動の短期的な利益がそのコストを正当化できるかどうか検討しなければならない
- そして多くの場合、正当化できないと筆者は考える
- よって、動物権利活動家は、さしあたり許容可能な範囲であっても、以下の場合ではないなら強制的直接行動をすべきでない
- (a)それ[強制的直接行動]をすることで広範な動物権利運動に対するコストが小さいと考えるのが理にかなっている
- (b)それによって広範な運動が、その[強制的直接行動の]結果のコストを負担できるほど重大な危害を防ぐと考えるのが理にかなっている
- 筆者は、どのような直接行動が(a)または(b)を満たすかという問題を体系的に判断しようとはしない
- これらの条件を満たすものもあるだろう。
- 例:毛皮工場からの小規模な動物救出は、動物の数が少なく、財産への損壊も限定的なので、メディアに大きく取り上げられないから、(a)を満たすかも
- これらの条件を満たすものもあるだろう。
Conclusion
[省略]