ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

子どもとは何か? Schapiro (1999)

Schapiro, T. (1999). What is a Child?. Ethics, 109(4), 715-738.

https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/233943

 

 大人と子どもの違いに関して2つの直観がある。第一に、子どもの意見は、大人の意見と同じような権威や道徳的意味をもっていない。第二に、子どもは、大人と同じようには、自身の行為に責任を持たない。

 この大人と子どもの区別を説明するアプローチは2つある。第一に、生物学的区別によって説明するアプローチであり、これは経験的問題である。しかし、これでは法的・道徳的な意味での身分(status)概念としての「大人」と「子ども」を捉えられない(例:「成人」は何歳からか?)。本論文は後者の意味での「子どもとは何か?」を哲学的に検討する。

 

 子どもと大人の区別を、パターナリズムの正当化の観点から考える。これは帰結主義的な正当化がなされることがあるが、カント倫理学では別の方法で正当化しなければならない。ではカント倫理学でこの問題にどう答えればいいのか。

 カントによれば、子どもは受動的市民である。政治的共同体の構成員であるが、通常の市民権に付随する自由の全範囲を享受する権利(例:投票の権利)を持たない。このような身分が許されるのは、大人は政治的共同体の中で独立して自らの選択によって行為するが、子どもはそうではなく、独立の規範からの逸脱という意味で依存的だからである。

 自分の選択によって行為するには、反省する能力、自分の行為計画を考える能力が必要である。もちろんこれは程度問題であるため、子どもから大人への連続した経路があるという直観が支持される。

 だが、身分概念としての「子ども」は、どこかの段階で「大人」の資格を得る人のことである。これをカントの「子ども時代は苦境(predicament)である」という考えから検討する。

 

 カントにおける自然状態から国家になるまでの発達に関する議論(4節)から類推して、子どもの発達について考えると、未発達の人間とは、自分自身をまとまった形、つまり統合された形にできていない人間のことである。統合には反省が必要であり、未発達な人間は、社会が規範的な不安定さ(自然状態)から脱するのと同じように、反省によって統一されていくことで自分自身になる。

 カントの考えでは、行為するには様々な動機づけの衝動間の対立を解決しなければならない。対立の解決は熟慮の働きによってなされるものであり、これは(対立を調停して行為する)権威をもつことになる。これが自律性であり、義務の源泉である。

 先述したように、カントによれば、子ども時代は苦境である。それは、自身の動機づけの衝動間の対立を解決する能力が未熟だからである。それゆえに、その苦境に対処するために、大人から子どもへのパターナリズムが許されることになる。

 しかし「子ども」から「大人」への移行では、行為と〔単なる一方的な強制による〕プロセスとの間のどちらともつかない揺らぎがある。この揺らぎに焦点を当てる概念が「遊び」である。子どもたちは遊びの中で、なりたい自分を熟慮的に「試着」している。子どもの遊びとは、自分自身になることである。そしてそれは、子どもの遊びにおいて、行為できる人の役を演じることである。これは熟慮的に「試着」する、リハーサルのような状態である。このことは、幼児だけでなく、思春期の「自分探し」にも当てはまる(自分自身を誰かにしようとしている)。

 この発達の度合いは成長によって変化し、発達に応じて、自分が権威を持つ領域が変化する。国家が自身の権利の及ぶ範囲でのみ国権(the rights of nation)を適用できるように、子どもも自分の「裁量の領域」で権威を持つ。

 ここでの大人の義務は、消極的には、子どもが自身の熟慮する能力を高めるのを妨げるような行為を控えなければならず(例:子どもを管理してはならない)、積極的には、子どもの苦境(自己を統合できないこと)を取り除き、子どもが子ども時代から抜け出し、独立する手助けをしなければならない(例:教育)。

 そのためにも、大人自身が自律性のモデルとなり、子どもたちが優れたモデルを「選択」できるようにすることが必要である。また、子どもが自分でルールを決められる場合には積極的にそれを認めるべきである。