ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

語「種差別」を巡って

1 はじめに

「種差別 speciesism」という単語が生まれて40年以上が経過した。英語圏ではそれなりの広がりを見せており、哲学や倫理学ではもちろん、社会科学においてもわれわれの種差別的偏見や種差別的バイアスの研究が徐々になされつつある(e.g. Everett 2019)。しかし、以下でみていくように、「種差別」という語や種差別概念が正確に理解されているとはいいがたい(Albersmeier 2021)。そうした中、Hortaの「種差別とは何か?」(Horta 2010)を皮切りに、「種差別」を定義しようという試みがいくつかなされている。本稿では「種差別」の歴史を簡単にみたあと(2、3節)、近年の「種差別」の定義を巡る論争を整理し、望ましい「種差別」の定義を提示する(4節)。

 本稿では種差別という語を表す場合に「種差別」という表記を用いる。また以下では「種差別」の使われ方、定義のされ方を概観していくが、本稿ではHortaとAlbersmeierによる区別を用いる(Horta and Albersmeier 2020)。かれらは「種差別」を2つの軸で分類する。

  • 記述的定義と評価的定義
  • 広い定義と狭い定義

ここで記述的定義では、「種差別」という語を、事実として動物種間での扱いが異なるということにのみ言及しその是非を含意しない語として定義する。一方評価的定義では、その異なる扱いが不当であるということも含意するように定義する。評価的定義であっても記述的な内容を含むため、純粋に評価的であるのはありえない。また広い定義では、種差別の根拠や理由を問わず動物種間で扱いが異なることを意味し、狭い定義では何らかの根拠(例:種が違う、能力に差があるなど)に基づく異なる扱いであることを要求する*1

2 R・RyderとP・Singerの「種差別」

「種差別 speciesism」はRichard Ryder による造語である(Ryder 1992; 1998)。Ryder は自身の著書で次のように「種差別」を提示した。

I use the word ‘speciesism’ to describe the widespread discrimination that is practised by man against the other species, and to draw a parallel between it and racism. Speciesism and racism are both forms of prejudice that are based upon appearances.
私は「種差別」という語を、人による他の種に対して行われる広範囲の差別を記述するために、そしてそれ[種差別]と人種差別をパラレルにえがくために用いる。種差別と人種差別は、両方とも、見た目に基づく偏見の形態である。(Ryder 1975, 16. ただし入手困難であったため Albersmeier (2021) より引用)

 この引用とRyderの自伝(Ryder 1992)より、「種差別」という語は初めからヒトと非ヒト動物との異なる扱いに対して否定的な意味合いを持って導入されており、評価的定義であることが伺える。またこの時点から人種差別とのアナロジーが念頭におかれていることがわかる。

 またRyderは、種差別には2つの意味があるとする(Ryder 1998)。第一の意味は、非ヒト動物の何らかの能力等に言及し、彼女ら/彼らを差別することを正当化しようとする主張に対する意味である。もう1つの意味は、そのような言及無しに、彼女ら/彼らがヒト種ではないというだけで差別が正当化されるという主張に関する意味である。Ryderは後者の種差別を「厳格な strict 種差別」と呼ぶ(Ryder 1998, p.320)。これらはどちらも何らかの理由に基づくという点で狭い定義である。

 次に Peter Singer の『動物の解放』での定義をみてみよう。

“a prejudice or attitude of bias in favor of the interests of members of one’s own species and against those of members of other species”
自身の種の構成員の利益を支持し、そして他種の構成員の利益には反対する、偏見ないし偏った態度(Singer 2015, p.41. 訳文には戸田(2011)を参考にした。)

この定義には「差別」という語は含まれず、「偏見」のみが引き継がれている。つまりSingerにとって「種差別」はもっぱらわれわれの認識、態度のことであり、理論や実践ではないのである(理論や実践に関しては、種差別的理論、種差別的実践と呼ぶことはできるだろう)(Albersmeier 2021)。この定義には差別の根拠が含まれていないので、広い定義になっている。また「利益」に関する偏見であることが言及されており、Singerが提示する倫理原則(「利益に対する平等な配慮」)を考えると、これが道徳に関連する偏見であることが伺える (Albersmeier 2021)。

 ここで、「偏見」という語は否定的な意味合いを帯びているので、Singerの定義にも否定的なニュアンスがあると思うかもしれない。しかしSingerは最近の論文で、種差別を「定義を変えずに種差別を擁護することは可能である」(Singer 2016, 強調原文)としている(もちろんSingerは、その擁護は失敗するという立場である)。このことから、Singerは記述的で広い定義をしていることが伺える。

 「種差別」という語を広めたSingerが、Ryderとは異なる仕方で使っているのは皮肉なことかもしれない(Singerは記述的に広く、Ryderは評価的に狭く)。しかし両者ともに種差別が実質的に不当であると考えている点で一致している。
以上が、「種差別」という語を作り、そしてその周知に貢献したRyderとSingerの「種差別」の定義である。次節では、彼らの定義以降、現在ではどのように「種差別」が説明されているかをみていく。

3 RyderとSinger以後

現在の「種差別」の使用法を調査するのは困難であるが、いくつかの説明を見てみよう*2。まずOxford English Dictionaly(OED)は「種差別」を以下のように説明する。

Discrimination against or exploitation of certain animal species by human beings, based on an assumption of mankind's superiority.
人類の優越性の前提に基づく、人間による特定の動物種に対する差別または搾取

この説明は、Singerの定義よりRyderの定義に近いが、「人類の優越性 mankind's superiority の前提に基づく」という表現がはっきりしない。これがヒトの認知能力一般などに言及しているのであれば、Ryderのいう第一の意味の「種差別」である。しかし「人類」という種に属すこと自体が優越性をもつのであり、それを根拠に差別しているという解釈もあり得る。この場合は、Ryderの言う第二の意味、すなわち「厳格な種差別」にあたるだろう。だがどちらにせよ、何らかの理由に基づくという点で狭い定義である。

 ところで、OEDの定義には「搾取 exploitation」が含まれている。これはヴィーガニズムの文脈でよく見かける表現である。例えば英国ヴィーガン協会の「ヴィーガニズム」の定義は、次のようになっている。

"Veganism is a philosophy and way of living which seeks to exclude—as far as is possible and practicable—all forms of exploitation of, and cruelty to, animals for food, clothing or any other purpose; and by extension, promotes the development and use of animal-free alternatives for the benefit of animals, humans and the environment. In dietary terms it denotes the practice of dispensing with all products derived wholly or partly from animals."
ビーガニズムとは衣食その他あらゆる目的による動物の搾取と虐待を、現実的で可能なかぎり暮らしから一掃しようと努め、ひいては人間・動物・環境のために、動物を使わない代替選択肢の開発と利用を促す哲学と生き方である。食事法としては、全体もしくは一部が動物に由来する産物を全て排する習慣を指す。(訳文は井上のブログ記事(井上 2021)から引用、強調は引用者)

この定義を翻訳した翻訳家の井上は、自身のブログで動物倫理に関する用語集を公開している。そこでの種差別の定義は以下のようになっている。

動物の権利論者リチャード・ライダーの創作語。種の違いを根拠に動物の道徳的価値を序列化する態度。生物界における人間の優位性を問い直す概念として生まれた。

 ここでは「種の違いを根拠に」と「態度」という表現が用いられている。前者はRyderの言う「厳格な種差別」に該当するだろうが、後者はSingerの定義の「偏見」に近いものになっている。また「差別」という表現は用いられずに説明されている。

 また、日本の動物倫理学者の田上孝一は次のように種差別を説明する。

種差別というのは、人間以外の存在を人間ではないというだけで差別する、人種差別と同じ論理構造の理論と実践である(田上 2018

 同じところで田上は、人種差別を「人種差別というのは、白人をただ白人であるという理由だけで非白人よりも優遇するとする、非合理な理論と実践である」として、そのアナロジーによって種差別を説明する(田上 2018)。田上の説明に特徴的なのは、「種差別」が理論と実践の双方を含むものとして説明されている点である。またRyderやOEDと同じく、「種差別」を「差別」によって説明している。

 井上と田上の定義は、どちらも何らかの理由に基づく異なる扱いであると説明しており、狭い定義になっている。また井上の定義ではわからないが、田上の定義は評価的定義になっていることが伺える(人種差別を「非合理な理論と実践である」とし、それと同じ論理構造と述べているため)。

 最後に、哲学文献における使い方を調べたものとして、Jaquetの簡易的な調査がある(Jaquet 2019)。Jaquet(と2人の同僚)はPhilpapersで検索をかけ、69本の論文を集め、そこでの「種差別」の使い方を調べた。結果として5本以下が(否定的な)評価的使用、少なくとも19本は中立的、他は不明であり、全体として記述的に使われていると結論付けている。

 ここまでで「種差別」がどのように使われて・定義されているかわかったので、次にどのように使われる・定義されるべきかを検討しよう。

4 「種差別」をどう定義すべきか?

1節での「種差別」のHortaとAlbersmeierよる分類軸を再度記す。

  • 記述的定義と評価的定義
  • 広い定義と狭い定義

また前節までの分析から、もう1つの分類軸を追加することにする。

  • 「差別」を用いた定義と用いない定義

これは、Ryder、OED、田上の定義には「差別」が用いられている一方で、Singerと井上の定義には「差別」が用いられていないことによる。本章では以上の3つの軸で、それぞれどちらの定義を用いるべきかを検討する。私がここで擁護する「種差別」の定義は評価的かつ広いかつ「差別」を用いた定義である。そして最終的に次のように定義する。

種差別(単純版)とは、特定の種に属さない者に対する差別である。
Xに対する差別とは、Xに対する不当に比較的悪い配慮または扱いである。

 

4.1 記述的定義と評価的定義

この区別での選択は最も論争的である。これは、そもそも「差別 discrimination」という語自体に、記述的な使用と評価的使用がある事に起因する(Altman 2020)。例えば「赤ん坊に選挙権を認めず、成人に選挙権を認めるのは差別である」という文での「差別」は記述的だろう(「しかし不正ではない」と文を続けられるだろう)。一方で、こうした用法を認めない人もいる。そのような人々は、上記の文での「差別」の使用は(これが不当なら)誤りであり、例えば「区別」や「異なる扱い」というように、より記述的な言葉を用いるべきだと主張する。

 ここでこの論争に決着をつけることはできない。しかし、仮に「差別」の記述的な使用を認めたとしても、「人種差別」や「性差別」にまでそれを認める人は少ないのではないだろうか。実際、「種差別」を記述的に使うSingerでさえ、「人種差別 racism」の評価的な力を受け入れ、記述的な場合には「人種的差別 racial discrimination」を用いるとしている(Singer 1978, p.186)。たしかに「人種差別」を記述的に使うのは心理的に憚られるだろう。一方で、3節でも見たように「種差別」を記述的に使うことはたやすい。

 では、これからはどのように用いるべきだろうか。HortaとAlbersmeierは人種差別とのアナロジーから、「種差別」に関しても評価的に用いるべきだと主張する(Horta and Albersmeier 2020, sec.5)。仮に「人種差別」と「種差別」とで異なる使い方をするならば、それは人種差別を種差別より深刻な問題として捉えているという意味で「メタ差別 metadiscrimination」であるとする(Horta and Albersmeier 2020, sec.4)。

 これに対してJaquetは「種差別」を記述的に用いるべきだと主張する(Jaquet 2019)。Jaquetは上記のアナロジーを支持する議論を以下のように整理する。

  1. 種差別は人種差別とのアナロジーで定義されるべきである。
  2. 人種差別は定義上不正である
  3. よって、種差別を不正なものとして定義すべきである

Jaquetは次に、この議論に対する2つの批判を検討する。

  • 人種差別と種差別では、その評価的特徴を引き継ぐだけのアナロジーが成立しない
  • 人種差別は定義上不正になるわけではない

第一の批判に対してアナロジー支持者は、人種差別と種差別の記述的特徴の類似性のみを認めるという戦略を取ることで、アナロジーの成立範囲を狭めることができる。この戦略は、実は魅力的であるとJaquetは論じる。というのも、ほとんどの倫理学者が評価的特徴が記述的特徴に付随することを認めており、これが成立するのであれば、記述的特徴にアナロジーが成立するならば評価的特徴に関してもそれが成立すべきであると主張できるからである*3。したがって、アナロジー支持者は第一の批判を退けられる。

 Jaquetは一方で、第二の批判に関しては「人種差別」は記述的に用いられることがあると主張し、これを支持する。既に述べたように、「種差別」を記述的に用いるSingerでさえ「人種差別」を評価的に用いるのだから、この議論は説得的ではないかもしれない。しかしJaquetは、「人種差別」の評価的意味は意味論のレベルにあるのではなく語用論のレベルであると主張する(Jaquet 2019, p.453f)。例えば「私は人種差別主義者だが、それがどうした? I am a racist, so what?」という文は概念的に混乱しているのではなく、(非定義的で)実質的な道徳的誤りがあるのである。Jaquetによれば、われわれが「人種差別」という語を用いるときはほとんど否定的に使うが、実際にはそれは語用論のレベルであって、意味論のレベルではない。

 Horta and Albersmeier (2020) や Albersmeier (2021) は「種差別」を評価的に定義すべきだと主張しているが、Jaquet のこの議論に対する直接の応答を含んでいない。Albersmeier (2021) は人種差別とのアナロジーとは異なる観点から「種差別」の評価的定義を擁護している*4が、しかし人種差別とのアナロジーの議論は「種差別」の記述的な定義の擁護にも使えるため、Jaquetの議論に対して反論しなければならない。

 ここで、Jaquetの議論に対して少なくとも2つの反論が考えられる。第一に、Jaquetに反対して、「人種差別」は定義上不当なものとして使われているという見解を擁護することである。だがこれはうまくいかないだろう。実際、「人種差別」も「性差別」も、そして「差別」も記述的に使われることがある(例:「私は人種差別主義者だが、それがどうした? I am a racist, so what?」)。それらの用法を、概念的に混乱しており言語的に間違った使用法であると主張することは困難である。したがってこの形の批判は、少なくとも多くの作業を必要とすると考える。

 そこで第二の応答は、仮に「人種差別」の記述的な用法を認めたとしても、これからは「人種差別」も評価的に使うべきであると主張することである。この応答では、アナロジーの議論の前提2を次のように書き換えることになる。

  1. 「種差別」は「人種差別」とのアナロジーで定義されるべきである。
  2. 「人種差別」を不正なものとして定義すべきである。
  3. よって、「種差別」を不正なものとして定義すべきである

Jaquetは推論の妥当性を認めるだろうから、この応答が成功するかは前提2の真偽にかかっている。もはや「種差別」の評価的定義の是非は、「人種差別」の評価的定義の是非に依存する。しかしこれは逆の議論も可能である。つまり、「種差別」が評価的に定義されるべきならば、「人種差別」も評価的に定義されるべきである。上に述べたように、Albersmeier (2021)はアナロジーとは異なる観点から「種差別」の評価的定義を擁護している。したがって、Albersmeierの議論が成功しているならば、「種差別」と「人種差別」の両方を評価的に定義すべきであると主張できる。

 また、Jaquetは「種差別」の記述的な定義を別の議論によっても擁護している。それは、「種差別」が不当であるかどうか未決である間に、それを定義上不当にしてしまうのは議論を大幅に制約してしまう、というものである(Jaquet 2019)。Albersmeierはこれに対して、「種差別」に代わって記述的な用語として「種中心主義 speciescentrism」を提案している (Albersmeier 2021)。この言葉がAlbersmeierの意図通りに普及すれば、Jaquetの懸念を払拭できるだろう。

 以上の議論から、Jaquetの「種差別」の記述的な定義を擁護する2つの議論は成功していないと考える。しかしこれでは評価的定義の消極的擁護でしかない。積極的な擁護としてはHort and Albersmeier (2020) と Albersmeier (2021) によるものがあるが、ここで私は別の議論として、字面効果 lexical effect を考慮すべきだと主張する。字面効果とは、その言葉(文字)自体のもつ(非認知的)効果である(Cappelen and Dever 2019, ch.7)。例えば、仮に「人種差別」を話し手が記述的な意味で用いようと意図したとしても、「人種差別」という語が否定的な感情を喚起するという字面効果を無視することはできない。同様に「種差別」も「差別 -ism」という言葉を含んでいる点で、字面効果を避けることは困難である*5。日本語においては特にそうだろう。そうだとすれば、初めから意味論のレベルで否定的意味合いを含意させる方が、つまり定義に否定的意味合いを含ませる方が、われわれのコミュニケーションをより円滑にするだろう。それゆえ、「種差別」の定義は評価的定義であるべきである*6

 以上のように、「人種差別」とのアナロジーが成立しており、また字面効果を考えれば、「差別」関連の用語を評価的に定義するべきである。そうすることによって「差別」を用いた規範的議論や、非難などの営みをより円滑に行うことができるだろう。


4.2 広い定義と狭い定義

次に広い定義と狭い定義について検討する。広い定義は、種差別的扱いに理由や根拠を求めない定義であり、狭い定義は理由や根拠を求める定義である。後者の例としては「厳格な種差別」(種の違いだけに基づく)がある。

 2節と3節で概観したように、既存のほとんどの定義は、何らかの根拠を求めている点で狭い定義である。だが Horta(2010)やHorta and Albersmeier(2020)は、広い定義の使用を擁護している。かれらによれば、定義に含まれる特定の理由に基づかないが、種の区分とほぼ対応するような異なる扱いを種差別として扱えないからである。

 例えば人種差別を次のように定義したとしよう。

人種差別とは、ある人種の構成員であることだけを根拠とした、その人種の構成員に対する不当に不利な扱いである

この定義では、例えば黒人は白人より知的に劣っているという理由から黒人を不当に不利に扱うような差別的扱いを「人種差別」と呼べなくなる(それは「知能差別」とでもなるだろう)。しかし直接的に人種を理由としていないだけでそうした差別を「人種差別」と呼べなくなるのは望ましくない。そして前節での人種差別と種差別のアナロジーがここでも成立するのであれば、「種差別」に関しても同様に考えるべきである。

 ここで修正案として、根拠の条件を広くするという方向性を考えることができるだろう。しかしそもそも、「人種差別」や「種差別」によって何を含め、何を含めたくないかを考えるべきである。差別は必ず何らかの理由に基づいて行われるだろう。その理由の種類が異なるからといって、結果的に不利に扱われる対象(属性)が同じであるにもかかわらず、一方を「○○差別」とよぶことができ、他方を「○○差別」とよぶことができない、というのは望ましくない。差別は、理由ではなく、誰が結果として不当に不利に配慮される・扱われるのかによって定義されるべきである。したがって、われわれは「種差別」に広い定義を採用すべきである。


4.3 「差別」を含む定義と含まない定義

 次に「種差別」を「差別」によって定義すべきか否かを検討する。この問いは「差別」によって定義すべきであることが自明であると思われるかもしれない。しかし実際のところ、「種差別」を最も周知したSingerの定義では「種差別」とは「偏見ないし偏った態度」なのである。

 Hortaは「差別」によって定義すべきか否かを検討し、あまり自明ではないと論じている(Horta 2010)。Lippert-Rasmussenが『差別の倫理学のラウトレッジハンドブック』の「導入」で述べているように、「差別とは何か?」という問いの答えは全く自明ではない(Lippert-Rasmussen 2018)。「差別」の本質が明らかになってない以上、「種差別」を「差別」によって定義すると「種差別」が何であるかが不明瞭になりかねない。「差別」を便宜的に定義するのでもない限り、「種差別」を「差別」によって定義するのは論争的である(Horta 2010)。

 しかし、これは日本語において特に厄介な問題である。「種差別」は英語では ‘speciesism’ であり、どこにも「差別 ‘discrimination’」が含まれておらず、少なくとも文字通りには「差別」ではない。しかし日本語訳は「種差別」となっており、「差別」であることは自明であるように思われてしまう。これは「人種差別 racism」や「性差別 sexism」も同様である。ここでこの問題を解決するのは困難であり、実質的な解決には「差別」に関する哲学的検討を待たなければならないだろう。したがって、ここでは Horta (2010) で示唆された方針にしたがって、「差別」を便宜的に定義し、これによって「種差別」を「差別」によって定義することにする。ここで便宜的に定義される差別は、差別の理論の様々なものと整合的なものでなければならない。


4.4 「種差別」を定義する

以上、4節全体の議論を踏まえ「種差別」を定義する。ここまでで得られた結論はほぼHorta and Albersmeier (2020) と等しいため、かれらの定義を示し、それをここまでの議論に合わせて少し改変する。

 Horta and Albersmeier (2020) は、「種差別」を単純版と詳細版にわけ、それぞれ次のように定義する。

Speciesism(simple) is the unjustified comparatively worse consideration or treatment of those who do not belong to a certain species.
種差別(単純版)とは、特定の種に属さない者への不当に比較的悪い配慮または扱いである。

Speciesism(elaborated) is the unjustified comparatively worse consideration or treatment of those who are not classified as belonging to a certain species (or group of species) whose members are favored, or who are classified as belonging to a certain species (or group of species) whose members are disregarded.
種差別(詳細版)とは、その構成員が有利にみられるような特定の種(または種のグループ)に属すると分類されていない者、またはその構成員が不利にみられるような特定の種(または種のグループ)に属すると分類されている者への、不当に比較的悪い配慮または扱いである。

単純版は曖昧さと不十分さがあるため、哲学的な議論においては詳細版の定義を参照することが望ましい(Horta and Albersmeier 2020)。しかし日常的に用いる場合には単純版で十分である。また、どちらの定義も前節までで示した「評価的定義」と「広い定義」の双方を満たしていることを確認しよう。どちらの定義にも「不当に」が含まれており、またその配慮や扱いの理由についての言及がないので、評価的かつ広い定義になっている。

 前節までの説明になかった点として、この定義には「比較的 comparatively」が含まれている。これは、差別は誰かと比較して悪く配慮されるか扱われることを含むことに起因する(Altman 2020; Horta and Albersmeier 2020; Lippert-Rasmussen 2014, p.16)。*7

 4.3節で議論したように、われわれは「種差別」を「差別」によって定義したい。そこで「差別」を、便宜的に「不当に比較的に悪く配慮するか扱うこと」と定義することで、これを少し改変する。したがって「種差別」の定義は次のようになる。

種差別(単純版)とは、特定の種に属さない者に対する差別である。
Xに対する差別とは、Xに対する不当に比較的悪い配慮または扱いである。

種差別(詳細版)とは、その構成員が有利にみられるような特定の種(または種のグループ)に属すると分類されていない者、またはその構成員が不利にみられるような特定の種(または種のグループ)に属すると分類されている者に対する、差別である。
Xに対する差別とは、Xに対する不当に比較的悪い配慮または扱いである。

 

5 まとめ

本稿では2節で「種差別」の起源を、3節で現在の使用法を簡単に概観した。また4節で「種差別」をどのように定義すべきかを検討し、本稿での「種差別」の定義を示した。

 最後に、こうした定義をすることの意義を述べる。言葉の意味は人間の言語使用の中で変遷するものである。そして言葉の意味は、それを定義しただけで簡単に変えられるようなものではない。したがって、「哲学」が言葉の意味を定義するのは無意味だと思われるかもしれない。たしかに、すでに一般的に使われるようになった言葉にはそうかもしれない。しかしまだ普及していない単語に関しては、少なくともその使用の初期に決定的に影響を与えることができる。そして最初期の意味が、その後の変遷でも影響を与えるはずである。この点で「種差別」は、シンガーがこれを普及してから40年以上が経過するが、いまだ日本において普及していない哲学専門用語である。この状況で哲学ができることは多数ある。本稿での「種差別」の定義は、その試みの1つであり、これは広く「概念工学」および「概念倫理学」の実践の1つだろう(Cappelen and Dever 2019, ch.5; Burgess and Plunkett 2013)。種差別概念を適切に設計することにより、動物倫理の議論を円滑にし、日常的な種差別批判・非難の実践を整え、社会科学における種差別的バイアスの分析などにより貢献できるようにすることができるはずである。それゆえ、少なくとも「種差別」に関して、哲学には多くの仕事がまだ残されていると考える。

*8

参考文献

  • Albersmeier, F. (2021). Speciesism and Speciescentrism. Ethical Theory and Moral Practice.
  • Altman, A. (2020), Discrimination, The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Edward N. Zalta (ed.), URL = <Discrimination (Stanford Encyclopedia of Philosophy/Winter 2020 Edition)>.
  • Burgess, A., & Plunkett, D. (2013). Conceptual ethics. Philosophy Compass, 8(12), 1091-1101.
  • Cappelen, H., & Dever, J. (2019). Bad language. Oxford University Press.
  • Everett, J. A. C., Caviola, L., Savulescu, J., & Faber, N. S. (2019). Speciesism, generalized prejudice, and perceptions of prejudiced others. Group Processes & Intergroup Relations, 22(6), 785–803.
  • Horta, O. (2010). What is speciesism?. Journal of agricultural and environmental ethics, 23(3), 243-266.
  • Horta, O., & Albersmeier, F. (2020). Defining speciesism. Philosophy Compass, 15(11), 1-9.
  • Jaquet, F. (2019). Is Speciesism Wrong by Definition?. Journal of Agricultural and Environmental Ethics 32, 447–458.
  • Lippert-Rasmussen, K. (2014). Born free and equal?: a philosophical inquiry into the nature of discrimination. Oxford University Press.
  • ― (2018) The philosophy of discrimination: an introduction. In The Routledge Handbook of the Ethics of Discrimination, Routledge, 1-16
  • Ryder, R.D. (1975) Victims of science. The use of animals in research. Davis-Poynter, London
  • ― (1992) An autobiography. Between the species 8(3):168–173
  • ― (1998) Speciesism. In: Bekoff M, Meaney CA (eds) Encyclopedia of animal rights and animal welfare. Fitzroy Dearborn, p 320
  • Singer, P. (1978). Is racial discrimination arbitrary? Philosophia, 8, 185–203.
  • ― (2015) Animal Liberation. Vintage Digital.(戸田清訳(2011)『動物の解放 改訂版』人文書院、底本は2009年版)
  • ― (2016). Why Speciesism Is Wrong: A Response to Kagan. Journal of Applied Philosophy, 33(1), 31-35.
  • 井上太一, (2021) 「ビーガニズムの定義」(url=https://vegan-translator.themedia.jp/posts/12743587?categoryIds=907374[閲覧日:2021/03/25])
  • ―, 「用語集」(url=https://vegan-translator.themedia.jp/pages/1413368/page_201711100753[閲覧日:2021/03/25])
  • 田上孝一, (2018) 「楽しく学ぶ倫理学 第19回  種差別主義批判から動物の権利へ」(url=http://www.britannia.co.jp/column/2018/11/425/[閲覧日:2021/03/25])

*1:追記(2021-07-22):狭い定義は、いわゆる直接的差別であり、広い定義は直接的差別と間接的差別のどちらをも含むものとして理解されるかもしれない(Altman 2020)。しかし狭い定義の内実によっては直接的差別ではない可能性もあるため、完全に一致するわけではないだろうと考える。

*2:20世紀の哲学において「種差別」の定義、特徴づけは様々に行われてきたが、それらをすべて概観することはできない。詳細はHorta (2010) や Albersmeier (2021)をみよ。

*3:ここで「性質Aが性質Bに付随する」とは「AはBに依存している」、言い換えれば「Bが変化することなしにAが変化することはありえない」という意味である

*4:Albersmeierは、「種差別」を記述的に定義することで何も失わないのは、非ヒト動物は道徳的に何ら重要ではないと考える人々のみであり、それ以外の人は何らかの損失を被るだろうと主張する。すなわち、そうでない人にとっては何らかの損失を被るのである。我々のほとんどはそのような立場ではないから、評価的に定義すべきだろうと主張する。

*5:私の観測範囲では、あまりヴィーガニズムにコミットしない人でもそうであるようである。

*6:ただしこの議論を認めると、Albersmeierの「種中心主義 speciescentrism」にも字面効果を認めることができるだろう。

*7:ここには含まれていない別の条件として、分析系の差別の哲学に見られる「社会的顕著性」との関係が気になる人がいるかもしれない(Albersmeier 2020; Lippert-Rasmussen 2014)。種差別においてこれは少し厄介な問題であると私は考える。非ヒト動物のうち、いわゆる家畜化された者らの集団は社会的に顕著な集団としてカウントできるだろう。それ以外、特に人里から離れた野生に住む者たちを社会的に顕著な集団として扱えるかは、私には直観的ではない。とはいえ、鳥獣保護法に見られるように、野生に住む者たちに関する諸法は存在しているし、関連して狩猟や「害獣駆除」等の人間の諸活動を考えれば、かれらが社会的顕著集団としてカウントされる余地があるのはたしかだろう。

*8:本稿は、動物倫理サークルであるASの雑誌に掲載予定の記事を、ブログ用に修正したものである。