ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

種差別に対しても一貫した態度を取るべきか

注意事項が二つある。

  1. 筆者は一貫性を絶対に優先すべきだとは考えない。物事には文脈があり、ある点で一貫することはより悪い帰結をもたらす可能性があるからである。
  2. 本記事の主目的は、種差別を重要視してない・例外扱いする人々に再考を促すことである。倫理的ヴィーガンの溜飲が下がることを予想しているが、それは主目的ではない。

 

「すべての差別に反対する」といわれるとき、その「差別」には、ホモサピエンス内の差別が想定されていることがほとんどである。もしそうなら、それは欺瞞的だと私は思う。なぜなら、種差別をはじめとして、非ヒトに対する差別がありうるからである。非ヒトへの差別の中でも現状特に問題なのは種差別だと私は考えているので、以下ではこれを例に考える。

種差別とは、ある生物種のメンバーに対する差別である。例えば、工場畜産と呼ばれる農業形態は、そこにいる非ヒト動物たちに多大な苦痛を与えている。だが、もしホモサピエンスに対して同様のことが行われていたとしたら、それは全く許容できないだろう。もし一方を許容し他方を許容しないならば、それはホモサピエンスとそれ以外の動物とで差別しているため、これは種差別と言える。*1

なぜ種差別は不正なのか。ここでは二つの理由を考えよう。

第一に、ホモサピエンスだけが倫理的配慮に値し、非ヒト動物は配慮に値しないとする倫理的基準を設ける試みはどれも失敗する。例えば知的能力を基準としよう*2。その場合、一定の知的能力に満たないホモサピエンスを排除してしまう。一方、ホモサピエンスすべてを含めようとすれば、一部の非ヒト動物も含まれることになる。例えば苦しみを感じる能力を基準にすると、それには非ヒト動物も含まれることになる。苦しみではなく「尊厳」という基準を持ち出しても、なぜホモサピエンスにだけ尊厳があり、非ヒト動物には尊厳がないのかを説明することは難しい。こうしたことからも、ホモサピエンスと非ヒト動物を区別する倫理的基準を設けることは難しい*3

第二に、非ヒト動物も一定の倫理的配慮に値すると考えたとしても、ホモサピエンスの方がより倫理的配慮に値すると主張することもまた難しい。例えば、知的能力によって、倫理的配慮のヒエラルキーがあるとしよう*4。明らかに、ホモサピエンスの内部でも倫理的配慮のヒエラルキーが生まれる。ホモサピエンス内での差別に反対するのであれば、倫理的配慮のヒエラルキーを擁護するのは難しい*5

以上の理由から、ホモサピエンス内での差別が不正であるなら、種差別もまた不正であると考えるべきである*6

冒頭の言葉に戻ろう。「すべての差別に反対する」といわれるとき、私はそこに種差別も含めるべきだと考える。そこで、この言葉通りに一貫した行動を取ることを考えてみよう。

例えば、特定の企業の製品に対する不買運動を考えよう。ある企業が特定のSOGI*7の人々を不当に低い賃金で働かせていたとしよう。そして、それをやめる見込みもないとしよう。これは性差別であり、批判すべきことである。そこで、運動の一環として不買運動を行うとしよう*8

ここで、他の差別への一貫性を考えよう。あなたが一貫性を気にするなら、人種差別や障害者差別を行う差別的企業の製品に対しても不買運動を行うべきだと考えるだろう。だが、種差別的企業の製品はどうだろうか。ここで種差別的企業と言って意味するのは、例えば、不必要な動物実験を行なっていたり、動物性の原材料を含む製品を販売したりする企業のことである。あなたはこのような種差別的企業の製品について不買運動を行うだろうか。種差別について考えたことがないなら、これまで行なったことはないだろう。しかし、一部の倫理的ヴィーガンや種差別に反対する人々は、例えば動物実験を不必要に行なっている企業の商品を買わないようにしている。私も、例えば化粧品の商品開発のために動物実験をやめてない企業から化粧品を買わないことにしている。私はヴィーガンなので、動物性製品全般も購入していない。

別の例を考えよう。例えば、障害者差別に対して反対の態度を取らないSNSアカウントについて考えよう。このSNSアカウントは、障害者差別につながるような発言を行い、またそのような情報の共有を行い、肯定的な反応をしているとしよう。あなたはそのようなSNSアカウントをフォローしたり友達になったりすべきでなく、またそのようなアカウントの情報を(何のコメントもなく)共有すべきでないと考えるとしよう。

他の差別への一貫性を考えれば、あなたは、人種差別的、性差別的SNSアカウントについても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。では、種差別的SNSアカウントに対してはどうだろうか。種差別的SNSアカウントとは、例えば、非ヒト動物の死体を使った(つまり肉)料理の画像をアップしたり、種差別を助長するような記事を共有したりするようなアカウントである。一貫性を考えれば、このようなアカウントに対しても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。

以上の議論から、次のような主張を導き出せる*9

もし「すべての差別に反対する」ならば、種差別に対しても反対すべきである。

また、一貫性を考えれば、他の差別に対する態度を、種差別に対しても同様に取るべきである。

以上が本記事の結論である。

 

もしあなたがこれまで種差別について全く知らなかったら、アニマルライツセンターやPEACEの記事をいくつか読むといいだろう。

arcj.org

animals-peace.net

 

特に、PEACEのツイッターアカウントは推奨できる。

twitter.com

 

*10

*1:工場畜産や動物実験の悲惨さについては、ピーター・シンガー『動物の解放』やゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』を参照されたい。

*2:私はこの基準は間違っていると思うが、ここでは例として検討している。

*3:注意して欲しいが、私は、事実として、ホモサピエンスとそれ以外の非ヒト動物が「同じである」とは言ってない。ホモサピエンスと非ヒト動物は異なる生物種に属する生物であり、当然、さまざまな違いがある。私がここで言いたいのは、倫理的にいって、原理的に重要な違いがあるのかないのか、という点である。そして、私はないと考える。

そのような違いを見つけることが不可能だとは言わない。だが、この試みはほぼ失敗する運命にあると思う。ホモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別するには、系統学的証拠を基準にするしかないだろう。しかし、なぜその系統学的関係が倫理的に重要なのか全くわからないので、倫理的に重要な違いを系統学的に決めるのは難しい。しかしそれ以外の方法でモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別することは非常に困難だと思う。

*4:もちろん、知的能力という基準は間違っていると私は思う。

*5:もちろん、ここで、ホモサピエンス内でのなんらかの「差別」を認めれば、非ヒト動物を倫理的配慮のヒエラルキーで下に位置付けることは可能だろう。しかし、ここでも、個別の事例では、一部のホモサピエンスは一部の非ヒト動物よりも下に位置付けられる可能性がある。例えば、知的能力を基準にすれば(もちろん、私はこの基準は間違っていると思うが)、生まれたばかりのホモサピエンスの赤子は、成長した一部の類人猿より知的能力の点で劣るだろう。

*6:こうした議論をおこなっているのが動物倫理である。動物倫理については以下の本が読みやすいだろう。ただし、私自身はどちらの本の立場に対しても同意していない。

*7:性指向と性同一性:Sexual Orientation and Gender Identity

*8:不買運動をすることが倫理的に正しいかどうかは議論の余地があると思う。いってしまえばケースバイケースであるが、さまざまな理由を考えながら行うべきことだろう。

*9:私は、一つ目の主張に関しては賛成している。二つ目の主張に関しては、「他のことが等しければ」という条件のもとで同意する。だが、無条件に擁護するのは難しいと思う。

*10:私自身も、動物倫理に関連するブログ記事をいくつか書いているので、参照されたい。

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com