ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

動物園の倫理的是非(ドゥグラツィア『動物の権利』より)

以下は

  • デヴィッド・ドゥグラツィア著、戸田清訳(2003)『動物の権利』, 岩波書店

の「6 ペットと動物園」(pp.119-142)の、動物園についてのまとめです。 

引用の下線部は全て著者(ドゥグラツィア)の強調傍点です。

 動物園をここでは「主に娯楽、教育、科学研究の目的で動物を展示する」施設と定義する(p129)。

 動物園は動物を展示する施設であるが、その動物は元々野生動物であり、それを捕獲し、収容生活に送りこむことによって始まる。捕獲については動物園が直接で行うこともあるが、しばしば取引で買い取る場合もある。捕獲から動物園にたどり着くまでに、動物たちは「かなりの無視や虐待を伴うことが多い。」(p.129)そしてその旅路の途中で、多くの動物は死ぬことになる。また動物を捕獲するにあたって家族を殺す場合があり、例えばチンパンジーの子どもを捕獲するにあたってその母親を殺すこともあった(今は規制?)。

 一度捕獲すれば繁殖によって増やすことが可能になる。特に絶滅の恐れがある動物に関しては、その動物の繁殖が動物園の看板になることもある。(絶滅危惧種の動物の繁殖の倫理的是非については後に論じる)

 動物園と一言に言ってもその質は様々で、極少数の動物をケージに入れている(およそ動物園とは言えないような)「動物園」もあれば、一方で(アトランタ動物園やサンディエゴ野生動物公園などのように)「展示する動物の種類数が少なく、動物に大きなスペースを与え、ときには動物の自然の生息地をかなり忠実に―ただし危険の大半は除いてー再現しようと努めている」動物園もある(p.130)。「「最良の動物園」に今日見られる傾向は、ケージから自然生息地に近いものへ移行し、動物園を刑務所との類似点を少なくして「バイオパーク」のようにしていくことである。」(p.130)

 

 野生動物を捕獲することは倫理的に許容できないように思われる。上で示したように、捕獲にあたって多くの(脊椎)動物は、その旅路で「苦痛、恐怖、不安、苦しみを動物に与えると想定してよいであろう。」特に社会的な動物の場合は、群れや家族と引き離されることによる悲しみなども考慮しなければならない。「これらの危害を考慮に入れると、動物を野生状態から捕獲することに反対すべき非常に強力な道徳的根拠がある。」(p.131)

 ではこうした捕獲による危害を正当化するだけの理由が動物園にはあるのだろうか。以下、動物園の目的を

  • 娯楽
  • 科学研究
  • 教育
  • 種の保存

に分けて考える。まず、娯楽は、動物が道徳的地位を持たないと言うなら正当化可能であるが、そうではないのだから、正当化はできないだろう。*1

 次に科学研究について、これは主に人間のための研究と動物の行動などを研究することによって間接的に動物の利益になる場合があるが、そのどちらも、ほとんどは動物園に依存した研究ではない。したがって動物園である必要性はないので、捕獲の必要性もなく、正当化されない。

 次に教育について、これは主に人間のためであるが、私たちが動物についてより知識を得て、彼らに関心を持ち、環境保全や種の保存に重要性を感じることができるならば、間接的に動物の利益になるだろう。しかし本当に動物の利益になるかは定かではないし、様々な映像コンテンツなどがある現代において、動物園の必要性は明らかではない*2。そしてなにより、一部の動物園はそのような教育的正当化が可能な程度に動物の福利を考慮してない。また、動物園はすでに数多くあるし、数多くの動物が捕獲されているのだから、これ以上の捕獲は必要ではないだろう。よってこの理由による捕獲の正当化は難しい。

 最後に種の保存について、これは異議がないかもしれない。実際、種の保存は重要だと考えている人は数多い。だが、本当に種の保存は重要なのだろうか。種が存在しなくなることは、が危害を受けるということを全く意味しない。これは意味的におかしなことを言っている。危害を受けるのはあくまでも各個体なのであって、種それ自体が危害を受けるわけではない。種の絶滅は生態系に影響を与えるかもしれない。この場合にはなるほど、生態系に存在する各個体に影響が出るから種の絶滅は問題だと言える。だが、絶滅しそうな種の数少ない個体が動物園にいる場合、その数少ない個体の絶滅がどのようにして自然の生態系に影響を与えるだろうか。与えないだろう。
 では種を保存し、繁殖させ、野生に帰す場合はどうなるのか。ほとんどは失敗しているとはいえ、いくつかの成功例はある。もし仮にその成功例の全てが望ましいとしても、それを凌駕する失敗例があるなら、結果的に種の保存は正当化されないかもしれない。したがって種の保存のために野生動物を捕獲することにも強い疑問がある。そしてなにより、種の保存のより良い手段は「人間による環境破壊を減らすことである。」(p.135)

 以上のことから、野生動物の捕獲を正当化することはほぼ無理である。では例外はあるか。捕獲によって、野生より(そしてその旅路での危害を凌駕するほどの)動物園での快適な生活があれば、正当化されるかもしれない。しかしこれについても、旅路での危害を考慮すれば、その捕獲対象はそのような危害の影響が少ない「いわゆる「下等な」種にかかわるものになりそうだ。」(p.135)

 

 では次に、今動物園にいる動物たちを、これからも飼育すべきだろうか。いい餌を与えられ、病気もなく、安楽であるような環境を考えよう。ただしその環境下では、他の同種の動物がいないか極少数で、非常に退屈したものだとしよう。これは一般的な動物園のケージ内を考えれば十分である。そのような環境下では「彼らは退屈しており、運動不足で、身体的、心的な能力を発揮する機会もまったくない。」(p.136) もちろん野生では危険が伴うが、その分、退屈なことはない。したがって動物園での彼らの生活では基礎的ニーズの条件は満たされていないので、正当化できない。
 基礎的ニーズは、彼らの生活におけるニーズであり、例えば食事や快適な空間はもちろんのこと、上に述べたような身体的、心的な能力の発揮も含む。

 もちろん、野生においても様々な苦痛があるのだから、動物園でそれを避けさせることは彼らにとって利益である。だがそれだけをもって正当化できるわけではない。そうした野生での苦痛を取り除いた上で、野生での生活と同等の環境を提供できるならば、正当化できるだろう。

 では、基礎的ニーズを満たしていない、あるいは野生での生活と同等の環境を提供していない動物園はどうあるべきか。まず、それらを満たすことが、提供することができる動物園はすぐにでも実行すべきである。そして「これらの条件を満たすために十分改善できない、あるいは改善する意志のない動物園は閉鎖すべきである。」(p.138)

 動物園をボイコットするだけではそれらの動物園を閉鎖するに至らないだろうから、立法化が必要である。おそらく、正当化できる動物園は少数の非常に優れた公立動物園だけである。そうした動物園は大きくて自然に近いだろうから、動物を傍で見ることは難しい。そのため「正当化できる動物園のひとつのしるしは、双眼鏡を訪問客によく貸し出す方針をとっていることであろう。」(p.140)

 もう一つ、一般的な動物園では、おそらく動物園で動物を見ることによって「動物を道徳的地位をもつ存在として尊重する態度を滋養する責任」をもつことはできない(p.140)。なぜなら、娯楽のために(あまり配慮されない形で)展示されることによって「動物がわれわれ人間のために存在すると人々が考えるように仕向けることが多い。いろいろ考えてみると、適切な態度を滋養する最良の方法は、動物の自然な生息地をできるだけ再現することであろう。」(p.140f)

*3

*1:私としては「利害をもつ動物が道徳的地位を持つか持たないか」ということは議論に値しないと思う。我々はそのようなところにいないのだから。ただし「動物はどれくらいの(またはどのような)道徳的地位を持つのか」ということは議論に値すると私は思うが、これは「道徳的地位を持つとはどういうことか」という議論とセットにして行われるべきであり、人間の道徳的地位も同時に問われるべきだと私は考える。

*2:この点について私は懐疑的で、やはり「本物」を見るにまさるものはないのではないかと思う。だがそうだとしても、それが動物園を正当化する理由になりはしないし、そうした映像化技術の発展が無駄だとも思わない。

*3:こうしたドゥグラツィアの結論に関して、私はほぼ異論はない。これは功利主義的にも同様のことだからである。動物園に関する一つの問題点としては、肉食動物の餌として工場畜産によって生産された肉が用いられる場合である。理想的な動物園において、動物の福利に配慮できているならば、これは本末転倒だろうと私は思う。したがって何らかの形で彼らの餌を提供しなければならない。その解決法の一つとして培養肉が考えられるが、これがどれほど現実的に実現可能で、倫理的に正当化されうるのかは不明である。