現代認識論の入門書で評価が高い(らしい)
D・Pritchard *What is this thing called Knowledge? (4th ed.)*
What is this thing called Knowledge? (What Is This Thing Called?)
- 作者:Pritchard, Duncan
- 発売日: 2018/04/03
- メディア: ペーパーバック
の第一部の読書メモです。
気になっている方もいると思うので(?)、読書メモ(とモチベ上げ)を兼ねて紹介します。私は認識論に関して戸田山『知識の哲学』しか読んでおらず、英語力も貧弱なので、読み間違ったところがあるかもしれません。その点についてはご指摘いただけると助かります。
本書は5部20章からできていて、各章は短く簡潔にまとまっています。章末には、その章の要約、練習問題、文献案内があり、とても親切な構成になっています。途中途中に関連するコラムがあり、これもまた面白く飽きが来ません。また英語も平易な方だと思います。(私は構文解釈に苦労することがたまにありましたが、全体的にほとんど一読で構文を理解でき、知らない単語を辞書を引いて読み進められました。)
以下では第一部を章ごとにまとめたものを紹介します。
- 1 Some preliminaries
- 2 the value of knowledge
- 3 difining knowledge
- 4 the structure of knowledge
- 5 rationality
- 6 virtues and faculties
- ここまでの感想
1 Some preliminaries
まず知識の種類として、命題知(propositional knowledge)と技能知(ability knowledge, know-how)が区別される。前者は命題を内容として持つ知識で、後者は命題として表現されない知識である。(技能知について明確な定義はなされないが、)技能知とは何らかの技能、例えば水のなかでの泳ぎ方(how to swim)を知っている、というようなものとして説明される。本書では命題知の方に焦点があてられる。(以下、断りがない限り「知識」で「命題知」を意味する)
次に知識の必要条件が検討される。その結果、知識には、実際にその内容が真(true)であること、それを信じていること(信念(belief)をもっていること)が必要だということが述べられる。実際にその内容が正しくないならその人はそれを知っているとはいいがたいだろうし(「月がチーズからできていることを知っている」というのは違和感がある)、その人が実際にそれを信じていないならその人はそれを知ってはいない。
しかし、知識と「真なる信念」との間にはまだ乖離がある。「真なる信念」は偶然に獲得される場合があるからである。「真なる信念」に何を付け加えれば「知識」になるのか、これが知識論、認識論の課題だと説明される。
そして本書では、この課題に取り組んでいく。しかしそれだけではなく、本書では、知識はどのように獲得され保存されるのか、科学的知識や宗教的知識とは何か、知識論を政治や法にどのように応用するか、そして懐疑論に対してどのように対処するか、が検討される。
また本書では真理について常識的な立場にコミットすることが説明される。常識的な立場とは、私たちが単に信じているかどうかによって真理は決まらない、ということである。
2 the value of knowledge
本章では知識の価値について論じられる。知識はどのような価値を持つのか、そして価値をもつとしたらそれはなぜなのか。
まず、真なる信念が価値を持つかどうかが検討される。一部の真なる信念は道具的な価値を持つだろう。というのも、真なる信念を利用することで、自分たちの目標を達成することができるかもしれないからである。例えば見知らぬ街で最寄りのレストランに行こうとしたとき、どのようにいけばたどり着くかについての真なる信念をもっていれば、実際にたどり着けるだろうからである。
しかし、真なる信念のすべてが道具的に価値があるわけではない。まず第一に、なんの役にも立たないような真なる信念があるだろう。第二に、それをもっていることによって課題を遂行できなくなる場合があるだろう。
では知識ならばどうか。一部の知識も明らかに道具的な価値を持つが、真なる信念と同様にすべてが道具的価値を持つわけではない。しかし直観的には、知識は真なる信念より何らかの意味で価値をよりもっている気がする。では、その違いは何か。
まず第一に、知識は真なる信念以上に道具的な価値を持つ。例えば偶然に獲得した真なる信念は、何らかの情報を入手することによって簡単に信念が改訂されてしまうおそれがある。一方で知識は、それに反する情報を入手したとしても、その情報が知識以上の信頼性がない限り簡単には覆されない。つまり、知識は真なる信念以上に安定したものである。
そして第二に、知識は非道具的価値をもっているように思われる。例えば知識のなかでも「知恵 wisdom」は、何かに有用であるからという理由なしに特別な価値をもっているように思われる。
3 difining knowledge
(ここから真面目に読書メモを取り始めました)
The Problem of the Criterion
知識の定義をしようとする場合、まず目の前の(知識があると呼ばれる)ケースの共通する物を見極めることから始めるのがいい。
しかし、そもそも知識の定義の基準(criterion)を知らずに知識のケースをどうやって認識するのか?知識の定義を決めて考えていくのも、基準を定めずに知識のケースを認識できると仮定することも、どちらももっともらしくない。
この問題は基準の問題として知られている。これについて2つの主張がある。
- 私は、知識の定義が何であるかをすでに知っている場合にのみ、知識の事例を識別することができる。
- 私は、すでに知識の事例を識別できる場合にのみ、知識の基準が何であるかを知ることができる。
この点についての争いは、認識論のプロジェクトの正当性について争いになる。
Mehodism and Particularism
現代での基準の問題はチザム Chisholm の研究に起因する。歴史的な哲学者は、先に知識の基準を知っており、そこから知識があるか無いかを特定しようとしていた。チザムはこれを「方法主義 methodism」とよび、代表例としてデカルトをあげた。
対照的な方法論は「個別主義 particularism」とよび、我々はこちらを採用すべきだと論じた。この立場は、知識の事例を正しく特定することができ、そこから基準を探るべきだという立場である。
方法主義の利点は、懐疑主義の誤りを仮定するところから始めなくていいことである(私たちが何を知っているかを前提に始めなくていいため)。しかし同時に、知識の個別の事例を知らずしてどうして知識の基準を把握しているのかがミステリアスであるように思われる。
チザムのこの批判に同意して、ほとんどの人は個別主義に立った。この立場の大きな利点は、知識の事例について識別できるというほうが、(何が知識の事例なのか識別できないにもかかわらず知識の基準を知っているということより)もっともらしい点であるが、懐疑主義からは、知識は仮定ではなく示されなければならないと主張される。
次のことに注意しよう、もし知識の基準が完全に明白であるなら基準の問題はあまり現実的ではないかもしれない、なぜなら、もしそれら(知識の基準)がそう(明白)であれば、方法主義のキーとなる仮定、つまり、いかなる知識の個別の事例について(単に知識の概念を反映させることによって)調べることと無関係に私たちが知識の基準が何であるかを知ることができるという仮定は、ほとんどもっともらしくないからである。しかし困難なことは、反映それ自体は利用可能な知識の基準についての単純な説明はないということを示している、ということである。*1
例えば、真なる信念という知識の明確な必要条件があることを考えれば、知識の個別の事例について知らずとも、基準について考えていい資格があるかもしれない。
しかし問題は、知識は、真なる信念以上のものを必要としていることであり、さらに、その必要条件はわからないので、この方法が原理的に可能だとしても、実際には有効ではない方法である。
Knowledge as Justified True Belief
第一章で、単なる真なる信念は不適切な方法で獲得できるので(そしてそれを我々は知識とは呼ばないだろうから)、知識が単なる真なる信念ではないことは述べた。
ではどういう必要条件があるか。これに対する自然な答えは、信念の正当化、つまり自分の信念が真であると考える良い理由good reasonsをもっていること、である。これは知識の古典的な説明で、三部構成 tripartiteと呼ばれる。
これは単純だが、もっともらしい分析であり、このように熟考するだけで難なく知識の基準を決定できうるかもしれない。
Gettier Cases
しかし問題は単純ではない。ゲティア Gettierという哲学者がこれに対する反例を提示している。
ここではゲティアの例とは別の例を用いる。ジョンは階段を下りて、ホールにある祖父の時計に「8時20分」と書かれているのを見て、「午前8時20分なんだな」という信念を持った。そして実際に8時20分だったので、それは真なる信念である。ジョンはいつも朝のこの時間に階段を下りるし、その時計は今まで正確に動いており、信頼性が高く、それゆえ彼が時計の時刻が正しいと考える良い理由をもっている(ので、それは正当化された真なる信念である)。
しかし、知らないうちに時計が24時間前に止まったとすると、彼は止まった時計をみて正当化された真なる信念を形成したことになる。これは古典的な知識の条件を満たしているが、ジョンは時刻の知識を欠いている(なぜなら止まった時計を見て得た真なる信念だから)。
もしジョンがもう少し早く階段を下りていたら時間について誤った信念を形成しているだろうし、時計がもう少し違った時間に止まっていても同様だろう。それゆえ、私たちは、知識は単に正当化された真なる信念ではないと結論付けることができる。
ゲティア問題には一般的な形式があるので、これを理解すれば無数に構築できる。それには三つの段階がある。
第一に、通常であれば誤った信念を持つ行為者を考える(この例では、止まっている時計を見る)。
第二に、行為者の信念が正当化されていることを確実にするために詳細を付け加える(この例では、時計は今までは通常通り動いていた)。
第三に、その例では、偶然にも、真なる信念を形成することになるようにする(この例では、ちょうど24時間前に時計が止まっていた)。
このようにしてゲティア問題をつくることができる。
Responding to the Gettie Cases
ゲティア問題への解決法は様々に提案されてきた、例えば知識を持つための前提が誤っていてはならないなど。しかしそうした「前提条件」が、ゲティア問題を解決するのに十分で、かつ、自らの持っている知識を十分に保持し続けることができる、そういう前提条件を見つけることは困難である。
例えば前提条件が全て正しくなければならない、などとすると、誰も知識を持てないようになりかねない。
その後とられた戦略は、世界に関する条件として「真理条件」以外の条件を付けたす方向だった。ここで世界に関しない条件は、「信念条件」と「正当化条件」である。
Back to the Problem of the Criterion
もはや知識の基準は明白なものではなく、そして知識の基準を明白に知らないのにも関わらず知識の事例について正しく識別できるというのはもっともらしくない。私たちはこれ以上進展できないように見える。
4 the structure of knowledge
Knowledge and justification
例えば、あなたの「地球は太陽の周りをまわっている」という正当化された信念を考えよう。では、何がこの信念を正当化しているのか。
信念の正当化は知識の十分条件ではないが、しかし正当化条件は知識の必要条件だと仮定するのはもっともである。しかしこの正当化の性質を調べるのは非常に困難である。
The Enigmatic Nature of Jsutification
上の問いに答える方法として、一つは、この「地球は太陽の周りをまわっている」という信念は正当化されていないというものであるが、これは(今までの議論を考えれば)もっともらしくない。
そこで、「地球が太陽の周りをまわっている」という信念を正当化するのは、別の正当化された信念「それは科学の教科書に書いてあり、科学の教科書に書いてあることは正しい」というものだとしよう。
だが「科学の教科書に書いてあるので正しい」という信念は何によって正当化されるのか。このような問いを続けていけば無限後退に陥る。
あるいは、「科学の教科書に書いてあるので正しい」という信念は「科学の先生が言っていることだから正しい」という信念によって正当化され、またその信念は「先生の言っていることは教科書に一致しているので正しい」という信念によって正当化されているとしよう。このように考えると、これは循環になっており、正当化として不適切である。
Agrippa's Trilemma
我々は以上の問題に対処するものとして三つの選択肢がある。
- 我々の信念は何によっても支持されていない
- 我々の信念は無限の連なる正当化によって支持される
- 我々の信念は循環的な正当化によって支持される
これはアグリッパのトリレンマ*2と呼ばれるもので、どの選択肢ももっともらしくない。
Infinitism
2の選択をする(最ももっともらしくない)立場を無限主義と呼ぶ。この立場は、無限の連鎖が正当化できない理由は明らかじゃないと(反直観的だが)主張する。
スペースの都合上、この立場について詳説はせず、他の(よりもっともらしい)二つの立場を見ていく。
Coherentism
3を選択し、循環的に正当化できるという立場が整合説(coherentism)である。この立場では、循環は大きな円を描いている場合に正当化でき、小さい場合はできないと主張するが、これは循環的な正当化は実際には正当化することができないという直観に反する。
だがこの立場は、私たちは実際に「ウェブ」つまりネットワークのような信念体系をもち、またそれが個別の信念を信じる根拠に関与しており、そして私たちの信念は私たちそれぞれのもつ一般的な世界観を反映している、という事実によって支持される。
例えば、地動説を信じている現代の私と天動説を信じている過去の人とを考えよう。天動説を信じている人の世界観を考えると、朝に太陽が昇るのを見て「地球が太陽の軌道の中心である」という彼の信念を裏付けるだろう。一方私は、同じことを見ても同じ種類のことは示されてないとなる。彼と私とでもっている信念のネットワークが異なることを考えれば、たとえ彼は間違っているとしても、太陽が昇るのを見ることによって彼の信念が裏付けられるのだと信じるのはまったくもって妥当なことである。
実際に信念がこのように形成されるということが事実だとしても、それによって形成された信念が正しいということにはならないし、(実際天動説がしばらく信じられていたことを考えれば)そのように信念を形成すべきだということにもならない。
しかし、他の立場のもっともらしくなさを考えると、このような仕方での正当化を理解するのに不可欠であり、整合説の動機はただ実用的なだけではない。次に第三の選択肢を見よう。
Foundationalism
基礎づけ主義と呼ばれるこの立場は、ある信念はそれ以上の信念によって支持されなくとも正当化されうるというものである。これは問題があるように見えるが、古典的な基礎づけ主義は、ある信念は自己正当化されているからそれ以上の正当化は必要ないのだと主張する。
基礎づけ主義の代表論者はデカルトであり、彼の主張によれば、自分の存在に対する信念は、まさにそれ自身で自己正当化しており、さらなる根拠を必要としないような信念であると主張した。
古典的基礎づけ主義の問題は、基礎となり得る自己正当化されている信念を見極めること、少なくとも基礎となる信念を不当に制約しない説明を提供することであるが、難しいのは、その制約は厳しくなければならなず、しかし制約が厳しいとその基礎となる信念の集合が小さくなってしまうことである。
例えば制約として、基礎となる信念は間違えようのない、無謬な信念であるというものを考える。
問題は、無謬な信念などほとんど存在しないことであり、仮にあるとしてもその種の信念は他の信念を支持する機能を持たないだろうと思われる。例えば数学的信念が、私の他の様々な信念を支持してくれるとは思えない。
これはデカルトの「私は存在している」という信念についてもいえる。この信念はいかにして私の他の信念を支持してくれるのか。この問題を解決する唯一の方法は誤りうる信念でも基礎となる信念になれるように制約を弱めることだが、しかしこれでは、その信念がまさに誤りうるために、それが基礎的信念であるかどうかわからない。ここにジレンマがある。制約を強くしてなんとかして他の信念の基礎に位置付けるか、制約を弱くして基礎的信念がなぜ基礎的信念なのかを説明するか。
以上のように、整合説や無限主義よりもある種の基礎づけ主義に訴えることがアグリッパのトリレンマの脅威をやわらげることは明らかではない。
5 rationality
Rationality, justification, and knowledge
合理的な判断(ex.証拠に基づく判断)と非合理的な判断(ex.コインの裏表による判断)との区別をいかにして説明するかは認識論者にとって重要な問題である。
直観的には、知識の候補は合理的な信念だけのように思われるし、ある信念が知識とみなされる理由の説明の一つは、その信念が合理的だからというものだろう。
また、知識の正当化に関して合理性は密接に関係しているように思われる。もし密接に関係しているなら、合理性が知識に必要であると考えることを正当化の観点から説明できる。
Epistemic rationality and the goal of truth
ここで我々が興味を持つのは認識論的合理性である。これは、真の信念の目標を目指す合理性の形態の一つである。
例えば今、誰かから逃げていて、唯一の逃げる方法は渓谷に飛び降りることだとしよう。ここであなたは自身の心理を理解しており、危険性を理解しているなら、飛び降りるために必要なコミットメントと集中力を持つことができないことに完全に気づいている可能性がある。そのような状況下であなたの目的が「自分の皮膚を救うこと」だとしたら、最善の行動は、(信念を作り出すなどして)危険をできる限り無視することだろう。*3
これは確かに(目標を達成するための最善の行動をしているという意味で)合理的なのだが、認識論的に合理的であるわけではない。これは自己欺瞞であり、真なる信念の獲得を目指してないからである。
我々が興味を持っているのは、行為よりも信念の方である。
認識論的合理性と非認識論的合理性は密接な関係がないわけではないが、第一の焦点は認識論的合理性の方である。
The goal(s) of epistemic rationality
認識論的合理性の概念が直面している問題の一つは、それがどのように真なる信念と関係しているかということである。
これを理解する明白な方法として、認識論的合理性は自分の真なる信念を最大化することを要求する、というものがある。そう考えると、真なる信念をできる限り多く持とうとするので、真実に到達するための良い方法で信念を獲得しようとするだろう。
しかし例えば、些末な真なる信念を多く持つことによってもこれは達成されるが、これはもっともらしくない。さらにでたらめに多くの信念を持つことによっても結果的に真なる信念を最大化することもできるが、これは多くの偽なる信念も形成することになり、ほとんど望ましくない。
後者の問題は、認識論的合理性を偽なる信念を最小化せよと要求すると考えることによって解決できるが、何も信じなければ最小化されるので、真なる信念もほとんど持たないことになる。
それゆえ、ここではこれらのバランスを取る方法を模索することになるが、これを具体的に示すのは難しい。*4
The (un)importance of epistemic rationality
些末な真なる信念を多く持つことの問題も忘れてはならない。これを解決する一つの方法は、実際にはここには何の問題もない、つまり些末な真なる信念をもつことは認識論的に合理的であるとすることである。些末な信念を多く持つことが認識論的に合理的であるというのがもっともらしくないのは、実のところ、認識論的合理性ではなく別の合理性にとって問題だからだ、と主張される。
これは認識論の重要性を矮小化しかねない。しかし、結局のところ、人生には真なる信念を獲得すること以外にも多くのことがあり、むしろそれらの方が重要かもしれず、純粋に真なる信念を獲得することに専念するような人生は望ましい人生ではないかもしれない。
だが、そういう認識論的合理性を否定する(つまり些末な真なる信念を最大化することは認識論的に合理的ではないと主張する)ことで、上の問題にバランスよく対応できる。例えば重要な真理はそれに関連して他の真理をたくさん産み出すので、そうした真なる信念を持つべき理由があると主張できる。
Rationality and responsibility
合理性と責任とには一定の関係があるように思われる。例えば、裁判官が何らかの判決を下すとき、それが証拠に基づいて行われたものなら賞讃されるものだが、コイントスによって決められたならそれは非難されるべきものだろう。
しかしこの関係は自明ではない。例えば、ある人は誤った認識論的規範epistemic normを教えられたとしよう。この人はコイントスをすることによって真なる信念を獲得できると教え込まれている。するとこの人にとって、コイントスをすることは全く正当なことであり、この人がコイントスによって信念を獲得しようとすることは責められたことではない。
可能な一つの選択肢は、この行為者は完全に認識論的に合理的であるとみなすことである。正しく認識論的規範を身に着けているのにコイントスをする人と、誤った認識論的規範を身に着けている人がコイントスをするのとでは、前者は非難されるが後者はそうではない。
ここで問題となっている認識論的合理性は義務論的deontic認識論的合理性と呼ばれるものである。つまり、自分の所持する認識論的規範に違反していない限り、彼は認識論的に合理的なのである。これは弱い認識論的合理性の概念である。
一方で正しい認識論的規範性を要求するのが非義務論的認識論的合理性である。この見解は正しくない認識論的規範に従って形成された信念は正当化されないという点で利点があるが、責任と認識論的合理性のつながりを説明できない。
Epistemic internalism/externalism
ここで、行為者の責任を認識論的合理性の観点から説明する(つまり義務論的認識論的合理性を認める)立場を認識論的内在主義、行為者の責任を認識論的合理性以外の観点から説明する(つまり非義務論的認識的合理性をとる)立場を認識論的外在主義とよぶ。
ここで(認識論全体に影響を及ぼす一般的な)問題なのは、行為者がもつ信念が合理的に保持されているかどうかに関して、認識論はエゴセントリックになるべきなのか(つまり、認識論的規範が正しいかどうかに無関係に、行為者が自身の信念に関してよい理由をもつことが正しい認識論的規範である)とするのか、そうではないのか(つまり、認識論的規範が実際に正しいかどうかを気にするのか)である。
「合理性」と「正当である」というのは日常的には一致する。ここから素朴には、認識的合理性は単に義務論的認識的合理性であるということになるが、しかしそうすると「知識」と「正当化された真なる信念」との間が大きく広がる(なぜなら、認識論的規範が実際に正しいかどうかを気にしないので)。
さらにこの観点からは別の問題もある。例えば小さな小さな子どもが適切な条件下でモノを見れば、それがそこにあるという知識を子どもがもっているということは適切であるだろう。しかしこの子は責任をもって自分の信念を形成しているわけではなく、自分の信念がいかに形成されているかを当の本人は理解していない。このように考えると、知識に義務論的認識的合理性は必要ないように思われる。
こうすると、知識と関係を持つ正当化を密接に結びつけるためには非義務論的認識的合理性に訴えるのがいいと思うかもしれない。しかしこれでは責任との関係性についての説明が困難である。また我々は、間違った認識論的規範に基づいて信念を形成したとしても、それは認識論的に合理的であるとみなすだろうし、先ほどの子どもは知識を持ってはいるが認識論的に合理的ではないように見える。
認識論的合理性、責任、正当化、知識などの概念間の関係を記述するのは困難である。ここでは二つの将来的なプロジェクトを確認して終える。一つ目は、責任とそれに密接に関連している認識論的概念を分析することである。二つ目は、知識の分析である。これらを進めていくことは以上に見たように重要である。
6 virtues and faculties
Reliabilism
一つはっきりしていることは、知識は、行為者が信用できる認知的性向を伴うことによって獲得されるものであるということである。コイントスによって偶然に真なる信念を獲得した人は、結局のところセレンディピティserendipityによるものでしかない。
知識を正当化された真なる信念であると定義するとゲティア問題の影響を受けてしまうことが分かっている。そこで定義を変えて、知識は「信頼できるreliable」方法で獲得された真なる信念でなければならないと定義する方法がある。ここで「信頼できる」は真理にたどり着く可能性が高いことを意味している。これは信頼性主義と呼ばれている。
例えばコイントスは信頼性が高くないが、天気予報によって獲得される信念は信頼性が高い。知識には信頼性が必要で、また信頼性を持って形成された真なる信念は、行為者に信用できる形で認知的成功cognitive successである。
A ‘Gettier’ problem for reliabilism
これはもっともらしい考えだが、いくつかの深刻な問題の影響を受ける。というのも、信頼性の高い方法で獲得した真なる信念であっても、それは運の問題に過ぎない場合が考えられるからである。
例えば今、ある部屋の壁に温度計がかかっているとする。この温度計は実はランダムに温度を表示しているのだが、その部屋に隠れている人が温度計が常に正しい温度を表示しているように部屋の温度を調整しているとする(したがって、この温度計は信頼性が高い)。さて、いま私が温度計を見て温度についての信頼できる真なる信念を形成したとしても、これは知識ではないように思われる。なぜなら、ランダムに表示している温度計を見て獲得した真なる信念は知識ではないように思われるからである。もし部屋の温度を調整する人がいなければ、あなたは誤った信念を形成するだろうという意味で、これは運の問題に過ぎない。
これはゲティア問題と似たような形式の批判である。通常であれば正当化された(信頼できる)偽なる信念になるはずだが、偶然にも真なる信念になるからである。
信頼性主義は通常のゲティア問題に対しては対処できる(例えば、止まった時計を見ることは時刻に関する真なる信念の形成に関して信頼性の低い方法だろうから)。しかし問題は、結局、単純な信頼性主義では問題があるということである。
Virtue epistemology
それにもかかわらず、知識は真理に向かうプロセスによって得られなければならないという信頼性主義の考えには正しいところがある。真理に向かうプロセスでない場合は知識は得られない。
ではどのように修正すればいいだろうか。
一つの方法は、知識とは信頼できる認識的徳epistemic virtueまたは認知的能力cognitive facultiesの働きによって獲得された真なる信念である、と要求するものである。認識的徳とは真理を獲得するのに適した性格特性である。例えば誤りを避けるように注意し、全ての利用可能な証拠を考慮に入れるなどの良心conscientiousをもっていれば、その人は両親を持ってない人より真なる信念を形成する可能性が高いだろう。また認識的徳が後天的なもんであるのに対し、認知的能力は自然で生得的なもので、これもまた真なる信念の形成に貢献するものである。
この議論のポイントは、信頼性は単なるプロセスの信頼性ではなく、行為者の具体的な信頼性(つまり行為者の認知的特性)であるということである。これは知識を認識的徳や認知的能力の観点から定義する者で、徳認識論virtue epistemologyと呼ばれ、古くはアリストテレスにまでさかのぼる。
ここでもう一度ランダム表示する温度計の例について考える。温度計を見る人が温度に関する知識をもっていないのは、それは、真なる信念の形成が、その部屋の温度を操作する人によってもたらされたもので、それゆえ行為者の認識的徳や認知的能力によるものではないから、と説明される。もし温度計が壊れていなければ、あなたの(温度を正しく見ることができるという)認識的徳や認知能力によって真なる信念を形成できただろうし、これは実際に知識である。
Virtue epistemology and the externalism/internalism distinction
それにもかかわらず、修正版の信頼性主義(徳認識論)でも、知識が簡単に獲得されることを許容してしまうという問題がある。
ある人たち(chicken-sexer)はひよこのオスとメスを区別することができる信頼性の高い特性をもっているとする。
しかしこの人たちは彼らがなすことをどのようにするのかについて誤った信念を持つ傾向にある、なぜなら、彼らは次のように思う傾向にあるからである、彼らは、彼らが見て触ることができるものに基づいてひよこの性別を区別していると思っているからである。しかし実際には、彼らは見て触ることができる者によってではなく、彼らのにおいによって区別している。さらに、彼らは自身が信頼できる方法で区別しているかどうかまだ決定できていないとしよう。果たして彼らは、目の前に2匹の異なる性別のひよこがいることを知っていると本当に言えるだろうか。
結局のところ、ひよこ性別判定者は実際に真なる信念を得ているし、彼女の認知的成功は、彼女自身の信頼できる認知的特性の一つを適切に使用しているという点で、信用できるように思われる。これは運の問題ではない。
それにもかかわらず、認識論者のなかにはひよこ性別判定者に知識を帰属させることに不安を覚える人もいる。彼女の視点からは、彼女はこの信念が真であると考えるための良い理由good reasonsを全くもっていない。*5
ここで問題となっているのは、彼女のするを信じる良い理由を所持しているような「内在的なinternal」要因がいつも必要不可欠かどうかである。彼女の真なる信念の形成に関して、それが信頼できるといえるのは「外在的なextarnal」視点からみて信頼できることを意味するものである。彼女はそれが信頼できると信じる良い理由をもっていないにもかかわらず、それが信頼できる(方法で知識を獲得できている)のは彼女の「外部extarnal」の話である。彼女はそれが信頼できることを知っている必要がある、つまり知識には「内在的なinternal」要因が必要だと考える人々は認識論的内在主義者epistemic internalistsと呼ばれ、知識の獲得には「外在的なextarnal」要因だけで十分だと考える人々は認識論的外在主義者epistemic externalistsと呼ばれる。
これは第五章で表れた認識論的内在主義と認識論的外在主義の話に通ずる。そこでは、認識論的内在主義者は認識論的外在主義者より、認識論的合理性と認識論的責任との間に密接なつながりを要求する傾向にあったことを説明した。
外在主義者(つまり信頼性主義者)はひよこ性別判定者は知識をもっているとみなすが、しかし彼女の信念が責任あるもので形成されたとはみなさない。彼女はいわば「盲目にblindly」信念を形成したのである。対照的に内在主義者は、ひよこ性別判定者は知識を持ってないとする傾向にある。信頼できるだけでは十分ではなく、信頼できると考えるための良い根拠good groundsをもっていなければならない。しかしそうすることで、自身の信念に認識論的責任を持つ傾向にもある。それゆえ、認識論的責任と認識論的内在主義は密接に結びついている。
典型的には、良心性conscientiousnessのような認識論的徳は、彼女に利用可能な正当な根拠によって裏付けられていることが彼女に要求されると理解されるので、これを考えれば、例えばひよこ性別判定者はが信頼性の高い認知的能力を介して信念を形成しているというだけでは不十分(つまり認識論的徳を行使していない)とすることによって、徳認識論を提供しつつ認識論的内在主義にとどまることもできる。
こうして、徳認識論の認識論的外在主義と、徳認識論の認識論的内在主義とが区別される。前者は知識の獲得に信頼できる認知的能力の行使で十分だと主張し(つまりひよこ性別判定者は知識を持っている)、後者はそれだけでは不十分で、それを裏付ける根拠によってのみ知識の獲得が可能だと主張する。
これは重要な違いだが、ひよこ性別判定者のような特殊なケースを除き、知識を持っているかどうかに関して同じような判断をする傾向にある。しかしこの違いは、本書の第4部で検討するように、重要である。
ここまでの感想
例も比較的わかりやすく(ゲティア問題は、元になった2つの例はいまいちわかりにくかったのだが、ここでの「止まった時計を見る男」の例は非常にわかりやすかった)、また戸田山『知識の哲学』とは違った観点からみれてよかった。特に認識論的内在主義/外在主義は今までよくわかっていなかったのだが、認識論的合理性、責任、信頼性主義などとの関連性が見えてきてよかった。しかし、どうも(義務論的)認識論的合理性と責任と正当化の関係がいまいち理解できていない。この辺りはこれから読んでいく中で、あるいは他の文献を読むなどして詰めていきたい。
徳認識論についても理解できたように思うが、(徳倫理学を勉強していても思うが)そもそもどういう徳があり、その徳はなぜ(認識論的に)望ましい性格特性なのかが疑問である。直観的には納得できるが、厳密に考えたら意外とぬけがあるような気がするし、あるいは認知科学などの知見を利用すれば、どのような性格特性が望ましいか否かを経験的に調べることができるような気がするのだが、少なくとも読んでいる範囲では触れられていなかったと思う(本書の後半で出てくる?)。信頼性主義の「信頼性」にも同様の疑問を持った。
一章あたりの長さが短く読んでいて飽きないので、ぜひ読み終えたい。