Audi, Robert (1999). Self-evidence. Philosophical Perspectives 13:205-228.
https://philpapers.org/rec/AUDS
ざっとまとめていうと
- 自明な(self-evident)*2命題とは、その命題を適切に理解することが、それを信じることを正当化するような命題
- 適切な理解は、誤っておらず、不十分でなく、歪んでおらず、曇ってない、つまり欠陥のない理解
- 自明な命題は即時的に自明な場合と仲介的に自明な場合がある。この違いは反省を介するかどうか
- 即時的に自明な命題は明白な命題だが、明白で明確な命題が自明だとは限らない
- また自明性は説得力を必要としないので、理解したとしても、信じることを保留可能
- また直観的である必要はないし、公理から証明されるようなものでもない
- 自明な命題は阻却されうるが、それは難解化(理解が不十分になること)で阻却される
- 適切な理解が保持されていれば、他の命題によって阻却されないかもしれないし、正当化を疑う理由によって弱体化されることで阻却されないかもしれない
- また自明な命題はアプリオリな命題の基礎であり、狭義の意味でアプリオリだが、広義の意味でアプリオリである必要はない
- また分析的命題である必要はないし、分析的命題が自明である必要もない
以下は議論の詳細。
- 自明な命題とは、その真理が何らかの形でそれ自体として(in itself)明らか(evident)な命題である。もし命題pが自明なら、それを見るだけでその真理が明らかになる。真理を適切な仕方で見るには、その命題を適切に理解する必要がある。定式化すると
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自明な命題は、大まかには、その命題に対する適切な理解が以下の二つの条件を満たすような真理として解釈する
- (a)その理解によって、その命題を信じることが正当化される。
- (b)その理解に基づいて命題を信じるなら、それを知っている。
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- ここには三つの問題がある。
- 「理解」と、命題pを信じることの関係性
- 理解の適切さ、という概念
- 知識の条件の必要性
- まず1に関して、理解することは信じることにはならない。懐疑的ないし慎重であるために信じないことはある
- 2に関して、不適切な理解を以下のように特徴づける
- 誤った(mistaken)理解
- 例:「4世代の人々」というのを、4つの連続した30年のスパンで構成された集合である、と考えているならこれは誤っている
- 不十分な(insufficient)理解
- 例:「誰かが何かを知っているならそれは真である」を非様相的命題と同等と考えると、不十分
- 歪んだ(distorted)理解
- 例:「あることを知っているなら、知識者の確信に適した確率を割り当てなければならない」
- 命題と両立する理解だが、命題に内包されるものではない
- 例:「あることを知っているなら、知識者の確信に適した確率を割り当てなければならない」
- 曇った(clouded)理解
- 例:「知識は脳のパターン」
- 適用できないわけではないが概念的に無関係なの明確に理解できていない
- 要するに、適切な理解には欠陥がない(non-defective)(「欠陥」の特徴づけはここでは試みない)。
- 誤った(mistaken)理解
- また命題の適切な理解には、一般的な意味の把握以上のことが含まれている(命題を他のケースに適用できるとか)。しかし、そのすべての論理的含意がわかる必要はない。
- また理解の仕方を偶発的なそれと傾向的なそれにわけることができる。
- 偶発的なそれは命題を頭の中で意識している限りでの理解で、傾向的なそれは注意が他に移っても気おきに残っているような理解。これをもとに以下のような三種類に分類できる。
- Sが自明な命題pを偶発的に理解している
- Sはその命題に対する偶発的な正当化(Sの意識の要素に大きく基づいた正当化)を持っている
- Sがpを強く傾向的に理解している
- Sは適切な反省によって正当化要素を適切な方法で取り込むことができる
- Sがpを弱く傾向的に理解している
- Sは構造的正当化(アクセス可能な正当化材料からpに対する偶発的正当化へとつながる適切な経路)を持っている
- Sが自明な命題pを偶発的に理解している
- 偶発的なそれは命題を頭の中で意識している限りでの理解で、傾向的なそれは注意が他に移っても気おきに残っているような理解。これをもとに以下のような三種類に分類できる。
- 次に、自明な命題はその他の概念とどう関係しているのか。
- 自明性には即時的(immediately)自明性と仲介的(mediately)自明性がある。
- 反省を介するかどうかということで異なる。ここでの反省は、命題の内容を明らかにするためのものであって、命題の真理の正当化のための反省ではない。
- 即時的に自明な命題は、明白な(obvious)命題である
- これは、理解して考えればすぐにその真理が明らかになるということ。
- 明白性は、表現の性質である明確性(perspicuity)とは異なる。命題自体は明白でも難しく表現されているとか。
- しかし、明白で明確でも、自明である必要はない
- 「少なくともこの世に一人の人間が存在する」は明白で明確だが自明ではない
- よって自明性と明白性・明確性は異なる概念
- また、自明な命題に説得力(compelling)は必要はない
- つまり、理解された瞬間に信念を生み出すような命題である必要はない
- 説得力のない命題は、保留可能(withholdable)である
- また、保留可能であるからといって、不信可能(disbelievability)であるわけではない。
- 自明な命題が偽であると主張することは、不信可能性を示すのではなく、十分な理解ができていないことを示していると考えるのがもっともらしい
- 理解不足(deficiency)は、その表現している何らかの文章を理解してないということ
- しかし、ここでの自明性の説明においては、自明な命題全般に関する不信可能性を排除してない(仲介的に自明な命題はその例かも)
- また、保留可能であるからといって、不信可能(disbelievability)であるわけではない。
- 自明な命題は説得的である必要はないので、「直観的」である必要はないし、直感に基づいて信じられている命題が自明である必要もない
- また自明な命題は公理的(axiomatic)である必要はない
- 公理的とは、認識論的に先行するものから証明されるという意味
- 先行するものから証明されてもいいが、同時にそれを理解するだけで正当化されても問題はない(正当化基礎は複数あってもいい)
- 自明な命題は阻却されうる。
- 阻却を三つに分類すると
- 難解化(obfuscation)による阻却:pへの理解が不十分になることで信念の正当化が失われる
- 優越化(overriding)による阻却:明らかに相容れない命題に対してより強い正当化があることで阻却される
- 弱体化(undermining)による阻却:自分がpの正当化をもっていることを疑うのにふわさしい強い正当化を得た時に生じる
- 阻却要因によってpに対する十分な理解が失われなければ[難解化でなければ]、高度な正当性が残ったままである。阻却は消し去る(obliteration)必要はない
- 優越化や弱体化があるとしても、自明な命題の理解を保持できれば、それを信じることは正当化され、また知っていることになるかもしれない
- こう聞くと自明な命題は阻却不可能に正当化されていることと思われるかもしれないが、そうではない
- 根拠が阻却不可能に信念を正当化すること(a ground’s being indefeasibly a justifier of belief)と、信念が阻却不可能に正当化されること(a belief’s being indefeasibly justified)とを区別しなければならない
- 自明な命題の十分な理解は、その命題への正当化をもたらすことを妨げることができないという点で、阻却不可能に正当化する[つまり後者?]
- しかし理解が不十分なら正当化されない可能性があるし、不適切な根拠に基づいて信じているときも知ることができない可能性がある
- 阻却を三つに分類すると
- 上でも述べたが、自明な命題はアプリオリに知ることができる命題
- アプリオリな命題、分析的な命題、自明な命題の関係は次のとおり
*1:R. Shafer-Landau Moral Realism: A Defenceを読んでいて、自明な(self-evident)命題を認めて、そこから道徳的知識を認めようとする議論があったがよくわからなかったので自明な命題について参照されているAudiのこの論文を読んだが、やっぱりよくわからない。
*2:「自己証拠的」という訳し方もあるかもしれない。このように訳すことで、"self-evident"が専門的な用語であり、また証拠的だというニュアンスを含めることができるからである。一方で、専門的な用語にしすぎると、人々が「自明だ」と表現することとの対応ないし整合性が欠けてしまい、あまり嬉しくない。定訳があるならそれを採用したいが、私は知らないので、もしあれば教えていただきたい。