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読書メモと勉強したことのまとめ。

書評:和泉悠(2022)『悪い言語哲学入門』筑摩書房

※要注意:本記事には否定的な表現やセンシティブな表現が含まれます。

0 はじめに

本記事は、和泉悠(2022)『悪い言語哲学入門』筑摩書房、の書評である。

 

本書は「悪い言語」から入る言語哲学入門、そして「悪い言語」の哲学への入門となっている。本書の構成は以下のとおりである(本書には著者によるサポートページがあり、そこでより詳細な目次を見れる)。

第1章 悪口とは何か―「悪い」言語哲学入門を始める
第2章 悪口の分類―ことばについて語り出す
第3章 てめえどういう意味なんだこの野郎?―「意味」の意味
第4章 禿頭王と追手内洋一―指示表現の理論
第5章 それはあんたがしたことなんや―言語行為論
第6章 ウソつけ!―嘘・誤誘導・ブルシット
第7章 総称文はすごい
第8章 ヘイトスピーチ

筑摩書房 悪い言語哲学入門 / 和泉 悠 著

以下ではまず、本書の内容を簡単に説明し、また「悪口」がどのように論じられたのかをまとめる。次に、本書で主題的に扱われている「悪口」の分析について批判的に検討する。また最後に細かい点についていくつか述べる。

なお、評者は言語哲学には疎い。飯田の大全、ライカン、服部の入門書*1、Cappelen and Dever (2019) Bad Language*2 は読んだが、それ以上には深く学べておらず、テクニカルな議論ができない。
また評者はkindle版しかもっていないが、書籍版とページ数が一致してない。参照する場合は、注でkindle版のページ数と特定可能な情報を併記する。

 

1 内容

本書は「悪い言語」についてまとまった議論を知ることができる(おそらく)本邦初の本だろう。「あとがき」にあるように、本書は雑誌『フィルカル』で連載されていた「悪い言語哲学入門」が加筆修正されたものである。

和泉は「悪い言語」ということによって、まさに目次にあるような言語表現を意味している。その中でも中心的に扱われているのが「悪口」である。

悪口とは何か? すぐに思いつくのは「人を傷つける言葉」だろう。たしかにこれは中心的な特徴かもしれないが、これは悪口にとって必要でも十分でもないと和泉は論じる*3。まず必要でない理由として、例えば、非常にメンタルの強い人に対して酷い言葉を言っても、その人は全く傷付かず、むしろ心配される場合、その酷い言葉は傷つけていなくても悪口だろうという反例をあげている。また十分でない理由として、例えば、有徳な人の言葉に感化されて行動に移したが、要領が悪く自己破滅的になってしまう場合において、結果的に傷ついたとしても、その有徳な人の言葉は悪口にはならないだろうという反例をあげている。

では悪口とは何なのか? 実は、本書はこの問いに対して必要十分条件の形で答えておらず、次節で述べるようにこれには不満が残る。本書ではこの問いに加えて、以下の二つの問いについても検討している。

  • 謎1「なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか」
  • 謎2「どうしてあれがよくてこれがダメなのか」

本書では以上三つの問いに答えるために、「悪口」にまつわるさまざまなトピックを扱いながら議論が進んでいく。その流れは目次のとおりだが、以下でもう少し述べる。

第2章では悪口の分類が行われる。まず筒井康隆による悪口リストが紹介され、次に形による分類が行われる。例えば「この〇〇めが!」という表現は、〇〇にどのような名詞を入れても悪口のようにみえるだろうが、「この〇〇がめ!」という表現は何かおかしい感じがするだろう。また、本章では言語学の用語の紹介(品詞や、語・句などの区別)、そして言語行為が簡単に導入される(言語行為の詳述は第5章)。

第3章〜第5章は伝統的な言語哲学のトピックを、悪い言語を通して紹介される。具体的には意味の内在・外在主義、固有名、確定記述などである。この辺りは既存の言語哲学入門書*4でも扱われているが、悪い言語を通じて、ユーモアのある文体で説明されているのは類書には見られない点だろう。

対照的に、第6章〜第8章は最近の言語哲学のトピックが紹介されており、これも類書には見られないものである。もちろん、言語哲学ではない分野の類書は(特にヘイトスピーチは)あるだろうが、言語哲学的な議論を入門レベルで読めるのは嬉しい点である。

本書の最後では、悪口の謎に対する答えがまとめられる。目次からは一見わからないが、悪口の具体的な議論は第5章で行われているので、以下ではそこでの議論を説明する。

和泉によれば、悪口の中心的機能は「誰かを自らより低く位置づける、というランクづけ」*5である*6。例えば、誰かに「バカ」と言うことは二種類の形で低く位置づけることになる。一つ目は、「バカ」という言葉を相手に帰属させることで、「バカランキング」において相手を誰かより低く位置づけることである。二つ目は、相手との権力関係を示し、相手が自分より下にあることを示すことである。相手に対して「バカ」という言葉を帰属させてもよいのだという状況を作り出す、あるいはそういうルールを設定することができるのはその場で権力を持つ者であり、相手をバカにすることが成功しているならば、そのようなルールを設定することになるだろう。したがってここでは、相手との権力関係を示すことになり、相手が権力において自分より下にあることを示すことになる。

この中心的機能を用いて、上記の二つの謎に答えることができる*7。まず一つ目の謎、なぜ悪口は悪いのかといえば、「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」である。そして、ときどき悪くならず、また二つ目の謎「どうしてあれがよくてこれがダメなのか」といえば、「上下関係が実際にないということがはっきりしている場合」や、すでに存在する序列関係をあるべき姿に戻すために使われる場合*8には、それらは「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりする」ことにはならないので、悪くないのである。

以上で本書の概要と「悪口」に関する議論を説明した。次に、この「悪口」に関する議論について検討する。

 

2 結局、悪口とは何だったのか?なぜ悪いのか?

和泉の「悪口」に関する議論に関して、三つの疑問・問題点を指摘する。

第一に、上述したように、和泉は「悪口」の定義を本書で示していない。和泉は悪口の中心的機能(おそらく必要条件)を特定し、これによって二つの謎に対する答えを出しているが、本書の最初の問いは「悪口とは何か」だったはずである。そして「人を傷つけることば」という答えに対して必要でも十分でもないと批判しているのだから、当然、本書では悪口の必要十分条件が明らかにされるのだろうと期待される。しかし、残念ながら必要十分条件が与えられることはない。この点には非常に不満が残る。これを解決する一つの方針として、例えば必要十分条件を与えようとすることがそもそも誤りなのだという議論(Cappelen and Dever 2019, 3.2.1節)を受け入れることができるかもしれない。しかし、和泉自身はそれを明言していないし、上記のように「必要でも十分でもない」という観点で「人を傷つけることば」を批判しているので、本書で悪口の定義が与えられないことについて何らかの議論が必要だろう。

第二の問題は、和泉が「悪口」で想定していることに曖昧さがあると思われることである。評者が考えるに、少なくとも二種類の曖昧さがある。一つ目は、「悪口」は定義的に悪いのか、そうではないのかわからないという点である。謎1が示しているように、おそらく、和泉は定義的には悪くないと考えている。だが、「悪口」が悪くない時があるとはいったいどういうことなのだろうか。「悪口」という文字列からして、悪口が悪くないということはありえないように思われる。悪口が悪くなかったら、それは単に悪口ではないだろう。実際、和泉もそのように考えている箇所がある。

口が悪くても悪口とは限りません。本当に気のおけない親友を祝福するために、「てめえやりやがったな! この野郎! おめでとう!」とか「うらやましいなあ!死ね!」などと言うことがあるかもしれません。人を傷つける悪意どころか、親しみを込めてそういったことばづかいをするわけです。*9

「死ね!」と言う表現は、典型的には悪口だが、この例では悪口になっていないと和泉は考えているように評者にはみえる。しかし、謎1は「なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか」であるから、悪口が悪くないことがありえると和泉は想定している。もしそうなら、ここでの「死ね!」は悪くない悪口の代表例として扱われても良いはずだが、そのような説明はされていない。これには疑問が残る。

二つ目の曖昧さは、「悪口」は言葉自体なのか、言葉を使った行為なのかわからないことである。「悪口」が最初に現れたところでは「「悪い」ことばの代表として「悪口」があります」*10と述べているが、一方で、「悪口の言語行為」として「罵る、罵倒する」などをあげている*11(太字下線は引用者)。これでは「悪口」が「ことば」なのか「言語行為」なのかよくわからないだろう*12*13

最後の疑問点は、本書で提示された悪口の中心的機能についてである。上述したように、和泉は悪口の中心的機能を「誰かを自らより低く位置づける、というランクづけ」だとしている。しかしこれは正しいだろうか。和泉はランクづけを十分条件とは考えてないようなので、必要条件としてこの機能を考える。たしかに、バカにするというのは「バカランキング」において相手の地位を低く扱い、また発話者とその相手の権力上の序列関係を示すかもしれない。しかし、例えば、和泉自身が例としてあげている「お前の母ちゃんデベソ」*14という表現は、何をどうランクづけしているのだろうか。「母ちゃんのへそランキング」において下に位置づけるという説明は奇妙だろう。一方、もしかしたら権力関係上の序列関係を示すことになるかもしれないが、このタイプの悪口は互いに平等な関係にあり、またそれを崩すことを意図せず・実際にそうならずに(つまりランクづけなしに)使える悪口の例ではないだろうか(ただ、評者はこの例を現実にみたことがないため、この判断にあまり自信がない)。もしそうだとすれば、悪口の中心的機能が「ランクづけ」だとしても、それは必要条件ではない。

またこれに関する不満点として、和泉は謎1「なぜ悪口は悪いのか」に対する答えとして「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」だと述べているが、これは問題の先送りだろう。「なぜ悪いのか」に対して「あるべきでないことをしているから」と答えるのは、実質的に「悪いことをしているから悪い」と言っているようなものである。これでは答えになってない*15。実際、和泉は注54で、この「悪さ」についての問いは、「本書での議論とは独立に答えられる哲学・倫理学的問いだと思っています。」とし「ここでは答えることはできません」と述べているが、これは微妙な逃げ方だろうと思う。例えば、比較対象として、Cappelen and Dever (2019, ch.6)は中傷語の悪さを議論しており、直接答えようと試みている(評者は彼らの紹介するアプローチに全く同意できないが)。本書においても、できれば直接的に答えようとして欲しかったが、これは望みすぎだろうか。

これは半分愚痴のようなものだが、Cappelen and Dever (2019)同様、本書もまた、「悪さ」の議論をしているのに規範倫理学の議論をほとんど参照していない。これはかなり残念である。これまでの規範倫理学は言語現象に特化した分析をおこなっていなかったかもしれないが*16、規範倫理学のもつ一般性を考えれば、規範倫理学の議論を利用して議論することは大いに役立つはずである。ぜひもっと参照して議論してほしいと思う。

 

以上のような問題点・疑問点があるとはいえ、「悪口」を哲学的に分析した点で本書は価値があるだろう。特に「ランクづけ」という観点は、たとえそれが中心的機能ではないとしても、一部の悪口の記述としては当てはまっているだろうし、このような説明によって単なる「傷つけることば」以上の説明が得られたのは重要なことである。

 

3 細かい点について

以下では本書に関する細かい点について指摘する。いちゃもんに近いかもしれないが、一部は重要だと考える。

  • 第2章3節(p.38):「非難する」が悪口の例としてあげられているが、評者にはそう思われない
  • 第4章2節「二種類のあだ名」(p.76)「見た目の優れた一年生を「一年の姫」と呼んだりする」
    • これは「見た目の優れた」という表現が若干問題含みな感じがある。
    • また、「見た目の優れた一年生」という表現だけではジェンダー中立的なはずだが、「一年の姫」をあだ名の例としてあげているのは、ジェンダーステレオタイプ的であり、あまり好ましくない例だと考える。
  • 第4章3節「ラッセルの理論」(p.84f):「ところで、イギリスの哲学者ピーター・ストローソン(P. F. Strawson 1919-2006)は、ラッセルの理論を批判した論文において(Strawson 1950)、一貫して「ハゲだ」の代わりに「賢い」という形容詞を使っています。肖像写真を見る限り、ラッセルはほとんどどれもふさふさですが、ストローソンは若干頭皮が寂しいものが多いので、ひょっとしたら気にしていたのかもしれないと邪推してしまいます。」
    • これは悪質な邪推だろう。これについては別の人も指摘している。
  • 第7章2節「ステレオタイプや偏見の表現」(p.139):「生物学的女性と生物学的男性の典型例に関して、身体生理学的に〜(略)」
    • 「生物学的女性/男性」という表現は、トランス排除的な文脈で使用されている経緯があり、避けた方が無難だと考える。
    • また「身体生理学的に」という表現をわざわざ使っているのだから、「生物学」という広すぎるスコープの記述ではなく、もっと狭く言えばよいだろう。
      • 例えば、『キャンベル生物学 原書11版』では「性の区別はあいまいなところがあることがわかりつつある」とし、「解剖学的および生理学的な形質を同一にする集団に対しての分類」として「性(sex)」を用いている(p.343)。

*1:飯田『言語哲学大全』はシリーズ全4巻の、少し古い伝統的な言語哲学への最良の入門だろうと思う。ただ、2巻以降の難易度は高いので、本書や、服部の入門書から入ると良いだろう。

イカンの『言語哲学入門』も優れた入門書だが、これも難易度が高い。

その点、服部『言語哲学入門』は、簡潔かつ広いトピックについてまとめている。

ただ、いずれの本も硬派な入門書であり、本書のような記述スタイルを気に入った人には若干抵抗感があるかもしれない。その点でも本書『悪い言語哲学入門』の価値があるだろう。

*2:この本は翻訳企画が進行中のようである(ブックガイドを参照)。

*3:第1章2節

*4:本記事注1や本書巻末のブックガイドを参照

*5:p.105, 第5章2節「バカにする・ランクづける」

*6:和泉はこれが悪口の必要条件であると考えているかもしれないが(p.107,  第5章2節「いつ罵りが軽口になるのか」)、断定は避けている。

*7:p.158f, 「おわりに-悪口の謎を解く」

*8:p.108, 「いつ罵りが軽口になるのか」

*9:p.19, 第1章2節「謎1「なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか」」

*10:p.12, 第1章1節「言語について学ぶということ」

*11:p.38, 第2章3節「言語行為論にふれる」

*12:「ことば」が、実は"language"の訳語で、かなり広い言語現象を指しているかもしれない。その場合、「ことば」の中に「単語」や「言語行為」などが入っているかもしれない。そうだとすれば、本文中で説明が欲しかったところである。評者が見落としているだけだったら申し訳ない。

*13:Cappelen and Dever (2019)は、Slurs and Pejoratives(中傷語と蔑称語)という章で、単語自体に焦点を当てた「悪口」の分析をおこなっている。単語自体とその単語を使った行為の区別は重要だと思われる。

*14:p.37,  第2章3節「言語行為論に触れる」

*15:細かいことをいえば、べき性("ought"、oughtness)と善悪(good/bad)と正不正(right/wrong)はすべて違うので、すべきでないことをすることは悪いということに必然的にはならない。だがそうすると、今度はなぜ悪いのかの説明になってないということになりかねないだろう。

*16:有名な例として、カントは嘘について倫理学的な議論をしているが、言語哲学的な分析ではない。