ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

道徳的助言と共同行為(Wiland 2018)

Wiland, E. (2018). Moral Advice and Joint Agency. In Oxford Studies in Normative Ethics Volume 8. : Oxford University Press.

https://oxford.universitypressscholarship.com/view/10.1093/oso/9780198828310.001.0001/oso-9780198828310-chapter-6

philpapers.org

 

  • 以下の事例を考えよう。
    • ある事例に際して、あなたは何をすべきか迷っている。完璧な道徳的証言者であるソフィーに助言を求めたところ、「Vすべき」だと言われた。ソフィーを信頼して、あなたはVをした。
  • 道徳的証言にまつわる問題の一つは、こうした事例で、あなたは正しいことをしているかもしれないが、正しい理由に基づいて行為してない、それゆえ、その行為に道徳的価値がない、というもの。
  • 筆者はこれに対して二つの議論を行う。*1
    • 1:道徳的証言と助言は異なる*2
    • 2:被助言者が助言者を信頼して行為しているなら、助言者と被助言者は共同行為者を構成し、一緒に行為している
    • そしてそれゆえ、被助言者が助言者を信頼して行為しているなら、構成される共同行為者は正しい理由で正しいことをしている、と言える。それゆえ上記の問題を回避できる。
  • 1を支持する議論
    • 道徳的証言と助言の違いは二つ
      • 第一の違いは、行っているコミュニケーションの違い
        • 証言は、物事がどのようであるかについてのコミュニケーションに関わる
        • 助言は、何をすべきかについてのコミュニケーションに関わる
      • 第二の違いは、信頼することにおける違い
        • 証言を信頼すると、その内容・命題を信じるようになる
        • 助言を信頼すると、助言されたことをする(行為する)ことになる
        • 助言を信頼すると実際の結果をもたらすが、証言を信頼してもそうなる必要はない
    • よって証言と助言は異なる*3
  • 2を支持する議論
    • まず、集合行為者でなくても、共同行為者でありうる
      • 例:一緒に歩いているときには共同行為者を構成している
    • だが、一緒に歩くことと助言のケースには以下の3つの大きな違いがある
      • 1:一緒に歩く場合、共同行為者の各メンバーはほぼ同じこと、つまり歩くこと、を行う
        • 反論:例えば、パーティを二人で一緒に開くとき、作業を分担している場合は別の行為をおこなっている。それでも、一緒にパーティを開いており、共同行為者を構成している。よって、同じ行為をする必要はない
      • 2:共同行為者の各メンバーは何かをする。一方、助言者自身は(助言以外には)実際には何もしないように見えるかもしれない
        • 反論1:オーケストラで、指揮者は指示しかしておらず楽器を演奏してないが、指揮者を演奏者の共同行為者から除外するのはおかしい
        • 反論2:チームのコーチや監督も指示しかしてないが、一緒に行為している
        • よって、指示をしていることで共同行為者の構成メンバーになりうる
      • 3:二人は同時に歩いている。一方、助言の場合は、被助言者が自分の役割を果たす前に、助言者が自分の助言を完了する
        • これは確かに問題。
        • ここでは、助言と実行、あるいは助言と被助言者の決意が時間的に離れている場合を除外し、すぐに何かをする場合を想定する
        • この想定のもとでは、3の違いはそれほど問題にならない
      • 以上から、これら3つの違いは問題ではない。
      • よってこうした違いは、一緒に歩く行為者らが共同行為者を構成するなら、助言者と被助言者が共同行為者を構成していることを否定する理由にならない。
    • また、あなたとソフィーの事例では、ソフィーの助言はあなたの行為に必要かつ重要な要素を与えている
      • あなたはソフィーの助言なしで最もなすべき理由を見つけられたかもしれないが、実際はそうではなかった(そもそも、行為の道徳的価値が問題になるのはそういう事例である)。
      • そしてその場合、ソフィーの助言はあなたの行為に必要かつ重要な要素である
  • 以上から、被助言者が助言者を信頼して行為する時、助言者と被助言者は一緒に行為しており、共同行為者を構成しているといえる。
    • 最初の問題:被助言者は正しい理由に基づいて正しい行為をしているわけではない、を考えよう。
    • 以上の議論から、助言者が正しい理由を認識しており、被助言者が助言者の助言を信頼しているなら、助言者と被助言者は一緒に行為しており、その共同行為者は正しい理由にもとづいて行為しているといえる。
    • よって、この問題は、助言者と被助言者を共同行為者として考えれば解消される。*4

*1:論文では2を支持する議論から始めている。

*2:論文では、命令と助言の類似点・相違点についても議論している。

*3:この理解はA. Hillsの証言・助言の理解と異なるようである(cf. Hills, Alison. “Moral Testimony and Moral Epistemology.” Ethics 120, no. 1 (2009): 94–127. https://doi.org/10.1086/648610. and “Moral Epistemology.” In New Waves in Metaethics, edited by Michael Brady. Palgrave-Macmillan, 2011.)。また道徳的助言を「Aをするのは正しい」という命題を信じることとして扱うこともできると思うので、ここでの助言と証言の区別はそこまでうまくいってないかもしれない。ただ、助言の場合は、道徳的命題を信じることに加えて行為することにつながる、というなら、区別に成功しているかもしれない。

*4:ある程度もっともらしい議論だとは思うが、助言者と被助言者を共同行為者として解釈するにあたって、意図の共有のようなものがあまり議論されてないので、そこが気になる。助言者は被助言者が助言の通り行為することを意図していないだろうし、被助言者もまた、これからする行為の意図を助言者に共有しようとすらしてないだろう。