ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

シェリー・ケーガンの種差別批判批判とシンガーのリプライ論文の要約

 

 本記事は

Kagan, S. (2016). What’s Wrong with Speciesism? (Society of Applied Philosophy Annual Lecture 2015). Journal of Applied Philosophy, 33(1), 1–21. https://doi.org/10.1111/japp.12164

Singer, P. (2016). Why Speciesism is Wrong: A Response to Kagan. Journal of Applied Philosophy, 33(1), 31–35. https://doi.org/10.1111/japp.12165

の二つの論文の要約と、それに対しての私の簡単なコメントを述べる記事である。(著作権周辺がよくわからないので、まずいようでしたら教えてください。)

 記事中で引用する際は原文と私の訳を載せるが、誤訳の可能性があるので、心配な場合は原文を読んでほしい。

 

What’s Wrong with Speciesism?(種差別の何が悪いのか) by S. Kegan

1. Singer’s Attack on Speciesism(シンガーの種差別への攻撃)

1.1.

 ケーガンの本節での目的は、シンガーの種差別批判は説得力を持たないということ、つまり、人間を動物より大切にすることが実際には単なる偏見ではないことの説明を試みることである。

 ここで注意したいのは、ケーガンは、私たちの動物に対する扱いは不当であると考えている点である。以下引用する。

But let me say at the outset that despite my philosophical change of heart, I still think our treatment of animals is unjustified. So I offer these remarks with some misgivings. I am worried about misleading you. My goal is not to tell you that it is morally ok to treat animals the way we do. Far from it. Nonetheless, I do want to question whether it is indeed mere prejudice — as Singer insists — to count humans more. (Kegan (2016), p.2)

しかし、先に言っておけば、私の心の哲学的変化にもかかわらず、私はいまだに私たちの動物に対する扱いは不当であると考える。それゆえ、私はいくつかの不安を覚えるこれらの主張を提供する。私はあなたを誤解させないか心配である。私の目標は、あなたたちに、私たちがしているような方法で動物を扱うことがOKであると言うことではない。そんなことは断じてない。それにもかかわらず、私は―シンガーが主張するように―人間をより大切にすることが実際に単なる偏見であるかどうかを問題にしたい。

 

1.2.

ケーガンはまず、種差別をいくつかの形態に分ける。

  • 人間のみが大切で、動物は全く大切ではない
  • 人間も動物も大切だが、どんな些細なことでも人間の方がより大切である
  • 人間も動物も大切だが、相互に対応する利益においては人間の方がより大切である

1つ目と2つ目を私たちが受け入れることはないだろうとケーガンは言う。これを説得力のあるものにするために、次のような思考実験を考える。もし私が、何の理由もなく、あるいは単に猫が苦しんで出す音を楽しむために、猫に火をつけるとしよう。1つ目と2つ目の種差別においては、これは何の問題もない。だが、これは私たちにとって受け入れられないだろう、とケーガンは主張する。

 そして最も控えめなバージョンとして、3つ目が考えられる。これは多くの人が持っている見解であるので、ケーガンはこれについて更に検討する。

 種差別(やおそらくほとんどすべての差別)には絶対的なものと相対的なものとある。絶対的なものは、あるグループは別のグループよりも重要であり、これは誰から見てもそうである。例えば、人間が犬より道徳的に重要であるなら、それは私が人間だろうが犬だろうが、そうである。一方で相対的なものは、自身の所属するグループがそうでないグループより自分にとって重要である、というものである。私が人間であるなら犬より人間のほうが重要であるし、私が犬なら人間より犬のほうが重要である。

 

1.3.

 ここから、シンガーの議論の検討に入る。ケーガンによれば、シンガーが種差別を不当だとするのは基本的な道徳原理である「利益に対する平等な配慮の原理」に違反しているからである。ケーガンはこの原理の説明をするが、これはシンガーの『実践の倫理』で詳しく説明されているため、そちらを読むのがいいだろう。簡単にいえば、「同様の利益には等しい配慮をせよ」という原理である。

 

1.4.

さて、ケーガンはシンガーのこの主張が妥当かどうかを検討する。ケーガンは、次のように問うべきだとする。

But that should lead us to ask: what does it take for two interests to be like each other? (Kegan(2016), p.5)

しかし私たちは次のように問うべきである。二つの利益が互いに同様であるためには何が必要なのか?

ケーガンはまず、痛みが何によって引き起こされたのかが道徳的に関係するかを検討する。腐った食べ物を食べることによる腹痛と、アレルギーによる腹痛は、原因が違うが、どちらもほとんど等しい重み付けをしなければならないだろう。それゆえ、これは道徳的に関連性がないとケーガンは主張する。

 次に痛みの強さと持続時間について検討するが、当然のことながら、これらは関連するだろうと述べる。そしてケーガンによれば、シンガーはこれだけだと述べている。つまり「痛みは痛みである」*1と主張しているという。ケーガンによれば、シンガーはこれについて何も議論を提供していない。

 

1.5.

 ケーガンはこれについて「利益に対する平等な配慮の原理」から考えることはできないという。なぜなら、この原理は単に同じような利益を平等に扱えとしか言わないからであって、何が関連している(relevant)利益なのかを示してないからであるという。そこでケーガンは、他の何らかの事実が関連しているかどうかを考察していくために、次のような思考実験を想定する。

Suppose, for example, that you and I are both suffering in jail. We are equally miserable, and for an equally long time. But you are innocent, while I am being justly punished for some horrible crime. Can’t the fact that I deserve to be punished, while you do not, give us reason to think that the pain you are suffering should be given more weight than the pain that I am suffering? (Suppose someone could free one of us. Shouldn’t your suffering count for more than mine?) (Kegan(2016), p.6)

例えば、あなたと私がふたりとも刑務所で苦しんでいることを想定してみよう。私たちは等しく惨めで、等しい時間そうである。しかし、貴方は無実で、一方私はいくつかの恐ろしい犯罪のために正当に罰を受けている。私は罰せられるに値するが、一方であなたはそうではないという事実は、私たちに、あなたの苦しみは私の苦しみの痛みより重み付けされるべきであると考える理由を与えることはできないだろうか? (誰かが私たちの1人を開放できると想定しよう。あなたの苦しみは私のものより重要であるとするべきではないのか?)

この当然の報い(賞罰)(desert)は、痛みの強さや持続時間に影響しないが、道徳的に関連のある違い(morally relevant difference)であると思われるとケーガンは主張する。ここから、強さや持続時間以外にも道徳的に関連する点があるだろうとし、その痛みが人間によるものなのか動物によるものなのかが重要ではないかと示唆する。

 そしてこれこそが、種差別主義者の主張であり、そしてシンガーはこれに対して反論する議論を提供してないという。

 

1.6.

 ケーガンによれば、シンガーは、種差別主義者の犯した根本的な過ちは利益の間に何らかの線を引くことであり、有感であることが重要であると主張しているという。

 ケーガンはここで、それに対して異議を唱える。ケーガンは、植物に水をまくことは、その植物にとって利益であると述べることは正しく完全に意味があるという。それゆえ、シンガーは間違っているとする。シンガーは実際に、先程の議論を補強するために石とマウスで対比させているが植物と比較させてない、とケーガンは言う(のちに明らかになるが、シンガーは議論しているので、これはケーガンの見落としである)。

 またさらにケーガンは、シンガーが有感存在と無感存在の間に線を引くのは、シンガーの直観以外の何物でもなく、シンガーはこの意味で有感主義者であるという。しかしケーガンは、直観だからということで有感主義を否定しようとしない。しかしながら、直観によって線を引くなら、他の直観に訴えて別の場所に線を引いてもいいだろうという。実際、直観以外に正当化の根拠を求めるのは困難であるとケーガンは言う。

 そして、結局のところシンガーの有感主義が単なる偏見ではないなら、種差別も単なる偏見ではなく、よってシンガーの議論は失敗しているという。

 

1.7.

 では性差別や人種差別のアナロジーはどう考えればよいだろうか。ケーガンは、いかなる場合に単なる偏見であるかを検討し、それは経験的証拠が不適切である場合だという。人種差別主義者や性差別主義者は、自身の直観を説得力のあるものにするために経験的証拠に訴えるが、それらはおよそ誤りであり、また誤りであると指摘されてもそれを認めようとしない。そのため、彼らの差別的信念は単なる偏見であるという。

 当然、この見方によれば、人種や性別が道徳的に重要であるという直観は単なる偏見ではないことになることをケーガンは認めるが、既に述べたように彼らの経験的主張は不適切であり、それゆえ彼らを単なる偏見であるとしても公平だろうという。

 

2. What Do We Believe?(私たちは何を信じているのか)

2.1.

 ケーガンの本節での目的は、私たちは種差別主義者ではなく別の立場であることを説明することである。その検討にあたって、次のような思考実験をする。

 スーパーマンやETがひどく苦しんでおり、死にかけであるとしよう。このとき、私たちは「彼らはホモ・サピエンスではないから、あまり重要ではない」と考えるだろうか(スーパーマンホモ・サピエンスではないらしい!)。ケーガンは、このように私たちは考えないだろうという。ゆえに、私たちが線を引いている場所は種ではないと主張する。ではどこに引いているのか。

 

2.2.

 まずケーガンは、我々は人格主義者(personists)であるする。つまり人格(person)であるかどうかが重要であると私たちは思っている、とケーガンは主張する。ここで人格(person)とは、哲学的に標準的な意味での人格、つまり、合理的で、自意識があり、他者のうちの1人であることを自覚している存在であるとする。そして、私たちがスーパーマンやETを気にかけるのは、彼らが人格だからだという。そこでケーガンはまず私たちを、種差別主義者ではなく人格主義者に近似する。

 

2.3.

 ここで検討する人格主義は、人格の利益が、他の人間(human)ではない動物の利益よりも重要である、という立場であるとする。ところで、ケーガンによれば、シンガーは動物を殺すよりも人格を殺すほうが悪いと述べているという。人格は自身を時間的存在だと認識しており、将来への欲求を持っており、それを不満足にさせることは誤りであり、その意味で動物を殺すのとは違う。それゆえシンガーは「死は死である」とはしない。それどころか人格と非人格の境界線は重要であるとしている。シンガーは「痛みは痛みである」とは言うが「死は死である」とは言わないのである。これはシンガーの直観でしかないだろう。では痛みはどうだろうか。ケーガンは、人格と非人格では痛みについても重要な違いがあるという。人格の生の中に痛みが組み込まれることによって、それ自体に道徳的意義が与えられるとする(ケーガンはたとえとして、赤い絵の具が油絵の中に組み込まれることで全体的な性質に依存するのと同様である、と述べている)。

 

2.4.

 ところで、私たちは実際には人格以外にも配慮しているだろう。ケーガンは非人格のパターンを3つに分けている。

  • 非常に幼い赤ん坊(これから人格になる存在)
  • 深刻な認知症などの人間(かつて人格だったがこれから人格になりえない存在)
  • 生まれたときから重度の知的障害を抱えている人間、および動物(過去現在未来のすべてにおいて人格ではない存在)

ケーガンはこのうち3つ目を検討する。ここで一つの例を考える。動物と生まれたときから深刻な知的障害のある人間に対して、大きな痛みを伴いまた死の恐れのある実験をする可能性を考える。私たちは人間にするほうがより悪いと考えるだろう。ケーガンはここで、これを種差別と呼ぶべきだろうかと問う。

 ケーガンによれば、私たちは、その人がホモ・サピエンスであることによって実験を行うことがより悪いと考えているわけではないという。ケーガンによれば、私たちは、重度の知的障害のある(本来は知的な)火星人にも人間と同程度の特別な配慮をするように思われるからである。(筆者(私)は、私たちがそのように思うとは全く思えない)

 ここでケーガンは以降の議論のために、典型的なメンバーが人格であるような種を「人格種 person species」と定義する。

 ケーガンによれば、私たちは種差別主義者なのではなく、種の典型的なメンバーが人格であるような種、すなわち「人格種」のメンバーの利益を重要だと考えているという。ケーガン自身もこの見解に魅力を感じている。ここから、ケーガンはこの立場における人格主義の検討を行う。

 

3. Evaluating Personism (人格主義の評価)

3.1.

 ここで次の思考実験を考えよう。ある化学的治療によって人格になった知性的な犬に対しての配慮を考える。すると犬は人格種ではないから、人格主義は知性的な犬を配慮しないことになるが、これは明らかに容認できないとケーガンはいう。そのためケーガンは人格主義を次の二つのどちらかの条件を満たすならば特別に重要だとすると改変する。

  • あるメンバーが属する種が人格種 person species であるなら、そのメンバーが人格でないとしても、特別に重要だとする
  • あるメンバーが属する種が人格種でないとしても、そのメンバーが人格であるなら、特別に重要だとする

ここで問題となるのは、ある者が人格種のメンバーであることが重要であるのは本当か、つまり前者の条件は本当なのかどうかであるとケーガンは言う。

 (※この段落は、私が誤読をしている可能性が非常に高い。確認してほしい。)そこでケーガンは、障害のある火星犬を考える。実は、犬はもともと火星では人格として生まれてくるが、地球では重力場の影響で人格として生まれず、人格になることもできないことが明らかになったとしよう。このとき犬は人格種であることになり、人格主義は彼らの利益をより重要だとするべきだが、これは不合理であるとケーガンは言う。

Consider the Impaired Martian Dogs objection: Suppose we discover that dogs were originally from another planet — Mars — where they are in fact persons, but that due to the different gravitational field here on Earth (which crucially affects brain develop- ment) dogs born here are not persons, and can no longer become ones. Still, it seems that Earth dogs are members of a person species, so according to personism their interests should count more, which is absurd. (Kegan(2016), p.13)

 

ここで、犬は火星では人格種だが、地球では人格種ではないとすることでこの問題を解決することができる。しかしここでは簡単のため、犬は地球でも人格種であるということが事実だとしよう。

 ケーガン自身はこの場合、犬はより重要であるとするべきである、と考えている。それを補強するために、今度は知的な火星人のケースをケーガンは持ち出す。地球人が知的な火星人(もちろん人格種である)と交流するようになり、彼らが地球にやってくるようになったとしよう。そこで火星人は地球で子どもを持つようになるが、その子どもは重力場の影響で人格ではなく、人格になることができない。このとき、この火星人の子どもに対して重度の知的障害の人間と同程度の配慮をすることは正しいと思われる、とケーガンは主張する。

 ケーガンは次に、人格種の定義の中に含まれている「典型的な typical」が何を意味するのかを検討する。この意味は普通は統計的な意味であるが、これはいくつかの問題を含んでいるとケーガンは言う。例えば人間のほとんどが人格になることがないような永続的な不治の病が世界的に流行したとしよう。するとホモ・サピエンスのほとんどが人格ではなくなるので、統計的な意味では典型的なホモ・サピエンスは人格ではないので、ホモ・サピエンスは人格種ではなくなる。これはもっともらしくないとケーガンは言う。

 そこでケーガンは、「典型的な」の意味を統計ではなく「一般的な generic」とする。こうすることで、ホモ・サピエンスにそのような病が流行したとしてもなお、一般的なメンバーは人格であるので、ホモ・サピエンスは人格種である、となる。(この「一般的な generic」が何を意味しているのか、筆者にはさっぱりわからない)

 

3.2.

(この節の前半では、以降の思考実験をするための必要な条件設定を考えているのだが、文の意味をよくつかめなかった。)

 ケーガンはさらに次のような思考実験を考える。ある哲学クラブのメンバー(もちろん哲学クラブというグループは人格種である)が冗談でうさぎをメンバーに加えたとしよう。するとそのうさぎは人格種のメンバーになるため、うさぎがより重要である、ということになる。しかしケーガンによれば、これは正しくないだろうという。その理由として、哲学クラブは人為的で、生物種は自然的だからである。しかしなぜ、自然的なグループでなければならないのか。

 

 

3.3.

 ケーガンによれば、自然的なグループは何らかの個々のメンバーの本質を教えてくれるが、人為的なグループはそうではないからである、という。(あとで述べるが、自然的なグループが重要であることは正しいだろうが、論証としては微妙ではないかと筆者は考える)

 ここでケーガンはさらに、なぜ種に焦点を当てて、属や目ではないのかを検討する。まず種より上位のグループ、例えば属では、属に一般的な特徴はその属に含まれる種にも一般的であり、それゆえ一般的なメンバーが人格であるような種を特定しさえすれば、属のレベルでは既にそれが考慮に入れられているという。それゆえ、属を考える必要はないし、さらに上位グループについてもそうであるので、種を考えるので十分である。

 一方下位グループでは、種のレベルで出現する特徴を考慮に入れることができない可能性があるので、やはり種に焦点を当てる理由がある。(あとで述べるが、この議論は正しくないと筆者は考える)

 では、一般的なメンバーが人格であるような属に含まれる種であるが、その種の一般的なメンバーが人格でない場合、つまり「人格属」であるが「非人格種」であるその種のメンバーは、重度の障害を持つ人格種 person species のメンバーと同程度に重要であるとするべきだろうか。ケーガンは、これは直観的には誤りであり、属は関係なく種が道徳的に関係があるように思われると主張する。動物が何であったかもしれないということを知るのは、属ではなく種であるからである、とケーガンは主張する。(後で述べるが、これは部分的に誤りであると筆者は考える)

 

3.4.

 ケーガンはここで驚きの主張をする。ケーガンは、実は、種への参加自体は道徳的に重要な特徴ではなく、本当に重要なのは様相性質 modal property :個人が何であったかもしれない事実であると主張する。つまり、ケーガンによれば、重要であるのは生物学的事実ではなく、様相という形而上学的事実であるという。これを説得的にするためにケーガンは次のような思考実験を行う。

 無脳症の子を考えてみよう。その子どもは人間 human だが人格 person ではない。しかし人格になりえない、というのは明確ではない。無脳症は環境要因によって生じるものであって、遺伝的なものではなく、それゆえその子が人格でありえたということは可能である。

 ではもし、無脳症が遺伝的なものに起因するとしたらどうだろうか。現在の形而上学の主要な見解は、遺伝的寄与はあなた(があなたであるため)に必要不可欠であるというものである。それゆえ、遺伝的な欠陥がもしなかったならば、という仮定は別の存在を想定することになるので、この場合、無脳症の子は人格になりえるということはありえない。それゆえ、その子は人格でありえたという様相性質を持たないとケーガンはいう。ケーガンによれば、その子は(非遺伝的な要因による)重度の知的障害者と同等に重要ではない。しかし、私たちはこれに同意しないだろうということをケーガンは認める。では私たちはなぜ同意しないのか。それはその子が人間であり私たちの種のメンバーであるからではないだろうか。もちろんケーガンはそれも考えられるとするが、ここで形而上学の主要な見解を退ければ(つまり遺伝的寄与はあなたにとって必要不可欠ではないとすると)、遺伝的要因による無脳症の子は人格でありえたかもしれないという仮定をおくことができると主張する。こうなってくると、何によって人格でありえたという様相性質を持つことになるのかを特定するのは困難であるとケーガンはいう。しかしこうして様々な例を最善を尽くして考え、そうして様相性質を持たない人間を想定できたら、彼らの利益はより重要ではないだろうとケーガンは考える。それゆえ、様相性質はたしかに道徳的に関連しているという見解に引き寄せられ、種の問題では全くなくなる。このような人格主義を、ケーガンは様相人格主義と呼ぶ。

 ケーガンは、この様相人格に似たものとして潜在的な人格の議論を紹介する。潜在的な人格とは、将来的に人格になりうるという性質をもっているような存在であり、これは様相性質とは異なる。ケーガンは、この潜在的な性質と様相性質の包含関係などを考えるのは重要であるとするが、ここでは検討しないと述べる。

 

3.5.

 ケーガンによれば、シンガーは時々、種差別主義者は個人を個人として扱うことの重要性を認識してないと主張しているという。つまり、あるグループのメンバーであるということをもってして、実際にはその人の持ってない性質を考えてしまっているのだという。だが、これは素直に読めば誤りであるとケーガンは言う。種のメンバーであるということも、様相性質を持つということも、シンガーが気にかけているような他の性質と同様に実際に持っている性質であるとケーガンは主張する。

  シンガーが「実質の質 actual qualities」と呼ぶものは定言的 categorical 性質:知性がある、有感である、人格であるなどを意味しているかもしれないとケーガンは述べる。その場合、シンガーは様相性質も定言的な性質と同じくらい現実的な性質であることを見逃しているし、仮にシンガーが見逃してないとしても、シンガーは様相性質が個人がどのように扱われるかに無関係であると議論なしに仮定しているとケーガンは主張する。

 こうした議論の上でなお、様相人格主義がもっともらしい立場であるかどうかは明白ではないとケーガンは述べる。ここでもう一度ケーガンは無脳症の子について考えている。一方は環境要因で、他方は遺伝要因だとしよう。つまり、一方は様相性質として人格になりうる性質を持っているが、他方はそうではない。この場合、前者は後者より重要であるとするのは、(ケーガン自身は正しいと考えているが)私たちはこれが正しいと思わないだろうとケーガンは述べる。しかし(ケーガンはここで開き直って)様相人格主義が他の立場より直観と一致しているなら、正しくないからといってこれをすぐに拒絶するということはほとんど示されないという。

 

3.6.

 様相人格主義を評価するのは難しいが、ケーガンはここで彼にとってもっともらしいと思われる主張を列挙する(Kegan(2016), p.19)。

  1. 様相人格性 modal personhood は重要である
  2. 実際の人格性 personhood も重要である
  3. 実際の人格性は様相人格性よりも重要である
  4. 人格 person の死は、様相人格 modal person の死よりも、単なる動物の死よりも重要である
  5. 実際の人格の痛みも同様に、より重要である
  6. しかし様相人格は重要であるため、様相人格の死は単なる動物の死よりも重要である
  7. 様相人格の痛みも同様に、より重要である
  8. 単なる動物の痛みと死は、道徳的に些細な事ではない
  9. 高い認知能力を持つ動物の痛みと死は様相人格の痛みと死よりも重要である可能性がある*2
  10. 人格への近さの程度、あるいはその量は、様相人格がより重要であることに関連しているかもしれない
  11. 様相人格が実際の人格から十分な「距離」があるなら、おそらくそのような様相人格の利益は重要であるべきではない

 

3.7.

 ここまでの議論で、シンガーの主張、つまり私たち全員が種差別主義者であり道徳的に容認できないものである、ということは(「種差別」の定義にもよるが)何にせよ間違いであるとケーガンは述べる。

 

3.8.

 ケーガンは、様相人格主義やある種の人格主義が正しいかどうか知らないので、もっと慎重な検討をするまで判断を控えると述べる。

 ケーガンのこの様相に関する考察は、道徳哲学の他の部分でも現れ、一般的に議論されており、そこの議論から様相人格主義が擁護されるかもしれないと述べる。

 

ケーガンの論文の要約は以上である。次にシンガーの論文の要約を行う。

 

 Why Speciesism is Wrong: A response to Kegan(なぜ種差別は悪いのか:ケーガンへの応答) by P. Singer

 ここではケーガンに対する批判・反論のみをまとめる。

  • ケーガンは「痛みは痛みである」という主張が種差別に対する批判の一部であることを見逃している、つまり、議論なしに出したわけではない。
  • ケーガンは人種差別主義者や性差別主義者らが誤った経験的信念に基づいて主張するから単なる偏見であるとしているが、私たちが最も不快に感じるのは、例えば、誤った経験的信念に基づいてアフリカ人の利益を気にかけてなかったということではなく、ただ just アフリカ人の利益を気にかけていなかったことであると考えるのはもっともらしいだろう
  • ケーガンは「利益に対する平等な配慮の原理」を誤解している。彼の言う「関係する利益 relevant interests」と私の「同様の利益 like interests」は異なる。私がここで想定しているのはベンサムやシジウィックのそれである。ケーガンが持ち出す思考実験では、違法であるという理由で一方より他方の利益を重要であるとするのはもっともらしいとケーガンは主張しているが、功利主義的なよく知られた罰に関する理論は、同様の利益には等しい重みを与えるという枠組みの中で当然の報い desert を考慮に入れる理由を説明している。
  • ケーガンは植物に関する議論を私が行ってないと述べているが、これは見落としている。『実践の倫理』で述べているが、簡単に言えば、植物は道徳的に意味のある利益を持たない。
  • ケーガンの、典型的なメンバーが人格であるような種のメンバーはそのメンバーが非人格であっても重要である、というような主張は何年も前に Stanley Benn によって述べられており、『動物の解放』でそれに対して議論している。この見解は新自然法理論の立場に似ている。
  • この見解に対して二つの疑問がある。1つ目に、私たちの背景には本当にこの見解があるのか。2つ目に、これは擁護可能な見解なのか。1つ目については、これは経験的に答えが出るものである。私は40年以上にわたって注意を払ってきたが、種差別的な偏見が大きな役割を果たしていると私は考え続けている。2つ目については『実践の倫理』で少し述べているが、より多くの議論を必要とする

 

筆者(私)のコメント

シンガーの論文について

 まず先にシンガーの論文の方に一つだけコメントする。

 ケーガンの「関連のある利益 relevant interests」とシンガーの「同様の利益 like interests」は違うのかもしれないが、その違いが私にはよくわからない。結局のところシンガーが想定している利益はケーガンが言うところの定言的性質 categorical property に関連するもの以外にはなく、ケーガンが想定するようにもっと広い意味での性質に関連するものとして利益を考えるなら、関連のある利益と同様の利益の違いは定言的性質に関連しているか否かに帰着する。そしてシンガーが定言的性質に関連する利益のみが重要であることの根拠を述べてない以上、ケーガンの批判に対してシンガーはちゃんと答えられてない。(もちろん私は、ケーガンの言うところの定言的性質のみが道徳的に(直接)関連している性質であると考える)

 

ケーガンの論文について

  • ケーガンは「人格種 person species」について「典型的な typical」をどのように定義するかを検討した結果、統計に基づくものではなく「一般的な generic」ものであるとしている。しかし、では「一般的な」とは何を意味するのか。ケーガンは例として、ライオンがハゲるような病が流行ってほとんどのライオンがハゲたとしても、なお一般的なライオンには毛があるだろうと述べる。しかしこれは「一般的な」の具体例であって、「一般的な」自体の説明にはなってない。結局「一般的な」の意味をケーガンはきちんと説明してないように思う。
  • ケーガンは、種が考慮すべき適切なグループかどうかの検討をしているが、いくつか誤りであると考える。
  1. ケーガンは人為的なグループではなく自然的なグループを考慮すべきであると述べている。その理由は、自然的なグループであればそのグループのメンバーの本質を教えてくれるからであるとする。しかし私自身は唯名論の立場に近いため(とはいえ勉強不足で、また立場もころころ変わっているのだが)*3、このような自然的グループを認めたくない。その場合、ケーガンとは前提からして異なることになる。唯名論を仮定しない場合でも、ケーガンのいう本質が何なのかよくわからない*4。一般的なメンバーが持っている性質のことだろうか。もしそうなら、これは人為的なグループでも一般的なメンバーを想定でき(例えば哲学クラブの一般的なメンバーは人格だろう)、それゆえ人為的なグループでも本質を持つことになってしまうので、ケーガンの議論は妥当ではなくなる。おそらくケーガンはこのような意味で本質を考えてないだろうが、だとすると本質とは一体何なのだろうか。
  2. 種より下位のグループについて、ケーガンは、種より下位では種のレベルで現れる特徴を見落としてしまうから種でなければダメだという。しかし、例えば属について考えたとき、属のレベルで現れる特徴を種のレベルで見落とすことはないといえるだろうか。もし種についての議論と同様の議論が属にも妥当であるなら、いえないだろう。その場合、種のレベルで考えることは属のレベルで現れる特徴を無視してしまうことになり、それゆえ属で考えるべきとなるのではないだろうか。
  3. 動物が何であったかを知るためには、属ではなく種が関係しているとケーガンは考えているようだが、これは部分的に間違いであると考える。ケーガンが後に述べるように、無脳症の子が何であったかを考える上で、遺伝的な要因なのか環境要因なのかで持っている様相性質が変化した。これはつまり、なにであったかという様相性質を特定するためには、その存在者がどのメンバーに属しているかではなく、その存在者自体を検討する必要があるということである。ケーガンは種についての議論の時点では様相性質という概念を提案していなかったが、提案した後から見れば、ケーガンの、動物が何であったかを知るには属ではなく種が関係しているという議論は妥当ではないように考える。(読み返して、この批判は的外れだと今は考えている。ケーガンは属ではなく種が重要である、としか述べておらず、他の要因について考慮することを排除していない。)
  • ケーガンは様相性質が道徳的に関連している性質であることを説得しようとしているが、私は全く説得的に思わない。やはり私は、ケーガンの言うところの定言的性質 categorical property のみが道徳的に関連していると思う。もちろん直観にすぎないと言われればそのとおりだが、極端な立場を取らない限りこの性質は普遍的に承認されている、一方で様相性質を道徳に関連する性質とすることには賛同者がそこまでいないのではないだろうか。賛同者がそこまでいないことそれ自体は関係ないだろうが、様相性質が道徳に関連しないという直観を持つ者に対する説明として、直観が弱い、というだけでは不十分ではないだろうか。

*1:『動物の解放』より、邦訳での該当ページが見つからなかったので、誰か教えてほしい。

*2:ケーガンがここで強調するには、8、9の2点によって、動物の扱いの大部分は虐待であり、道徳的な違反であり、言い訳になりえない。それでも、様相人格のほうが重要であると主張することは可能であるとケーガンは述べる。

*3:追記(2021/03/21):今では特に特定の立場に立つわけではない。

*4:追記(2021/03/21):本質とは、それなしではその存在であるとは言えないような性質である。もちろん「それなしでは」が何なのかは論争的だろう。