今日のヤフーの記事で次のようなトロッコ問題についての記事があり、ツイッターで少しバズっていた。(現在この記事は削除済み)
この授業の目的は
授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
とのことだ。
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ずっと以前から、どうやって道徳の実在を論証すればいいのか悩んでいた。昨年の3月頃に佐藤の『メタ倫理学入門』を読んで以降、道徳の実在性についてずっと悩んでいる。道徳は実在するのだろうか。実在するとしたらそれはどのような実体なのだろうか。
存在論における道徳的実在論はいくつかの諸理論に分かれるが、ここで佐藤(2017)の整理を参考にすると、次のように分かれる*2。
もう何がどうなっているのかわからないくらい錯綜としているが、本記事で検討したいのはこの内の自然主義である。自然主義一般は哲学の中の一つの立場であって、現代哲学の中で非常に大きな潮流を作っている。自然主義内部でも様々に分かれるが、一般的にこの立場は哲学と科学の連続性を重視する。
道徳や倫理学における存在論的自然主義は「道徳は実在し、それは自然的なものである」という立場である。「自然的な」が意味するところは曖昧で、自然主義者の中でも立場が別れている。
自然主義関連の日本語書籍はいくつかある*4。しかし、こと道徳的自然主義に関しては、専門・研究書は一冊*5、部分的に取り扱っているものとして、私が確認できているもので3冊だけである*6*7。一方で非自然主義の方はそれなりにある*8。*9。そこでまず、今ほとんど文献が揃っていないこの自然主義の立場を整理して、自分の中で固めたいと考え、記事を書くことにした。*10
五つの記事に分ける予定である。五つの記事で説明したいことはそれぞれ
である。
本記事では「なぜ数ある存在論(認識論)の中でも自然主義なのか?」を説明していく。1節で大雑把に自然主義とはいかなる立場なのかを説明する。2節で自然主義を大きく存在論的自然主義と方法論的自然主義とにわけ、それぞれどのように定式化されるかを説明し、3節でまとめる。
*1:タイトルはR・ボイドの論文「道徳的実在論者になる方法 How to Be a Moral Realist.」をもじっている。
*2:もちろんこの整理では位置づけにくい立場もあり、道徳的特殊主義や道徳的相対主義がそれにあたる。
*3:佐藤(2017)には載ってないが、可能だろうし、実際、スミス(2006)の提案(傾向性分析)がここに入ると考える。「佐藤(2017)でいうところの悪魔パターンか?」とも考えたが、伊勢田先生のブログの書評を見て、悪魔パターンは随伴現象説(エピフェノメナリズム)かもしれないと考えている(しかし随伴現象説を「自然主義」の元においておくのが果たして適切なのか不明である)。
*4:
など
*5:蝶名林亮(2016), 『倫理学は科学になれるのか』, 勁草書房
*6:
*7:しかも蝶名林(2016)は非還元主義的総合主義に焦点が当てられており、他の立場の擁護がなされているわけではない。
*8:
など
くらいである。これらの立場は非実在論の中でも特殊で、前者は準実在論といいほとんど実在論寄りで、後者は非実在論の原型を作った古典で、重要文献なのだが、それ以後の発展した立場を追うことができない。
*10:私の理論的立場の変遷は、改革的虚構主義→準実在論→手続的実在論→理由の実在論→自然主義的(還元ないし非還元主義的)総合的実在論、であるが、この変遷のほとんどは不勉強のせいである。そして今、自然主義的かつ総合的実在論という立場に一応たどり着き、還元主義か非還元主義か、それともやはり改革的虚構主義か、というところで迷っている(ループしそうである)。
また、非実在論は、実は自然主義の下位分類の物理主義かつ消去主義を極端にした場合にたどり着くことができる立場でもあるから(もちろん全く別の動機からたどり着くことも可能だが)、結局私は自然主義の内部で迷っていることになる。
タイトルが形容矛盾ではないかと思う人がいるかも知れない。おそらく、功利主義とは「最大多数の最大幸福になるような行為や規則が道徳的に正しい」というマジョリティのための考えのように思われているからだろう。現代のマイノリティは最大多数の最大幸福のために切り捨てられた人々である、ということがよく言われる。私はこれは誤りであると考える*1。功利主義はマジョリティのための道徳ではなく、マイノリティを含めた全ての有感存在のための道徳であるということを述べたい、これが本記事の目的である。
とはいえ、いきなりその説明に入らず、まず世間一般で理解されているような功利主義理解から改めて説明する。
ここで簡単にマジョリティと多数派の違いについて説明する。ジェンダー学やフェミニズムなどの文脈において、マジョリティは単に多数派を意味する言葉ではない。もちろん多数派という意味で使われることもあるが、基本的には社会的強者、権力関係的に強者であるような人々を指して使われることが多い。例えば、男性と女性の人口はほぼ同数だが、男性はマジョリティで女性はマイノリティである、というように使われる。本記事でもそのような意味で使う。単に多数派を意味するときは、多数派、多数などと明示的にわかるように使う。
続きを読む私はこのブログで、功利主義について入門的な記事を書いた。
本記事(およびこれ以降のシリーズの記事)はこれらの記事の発展的内容を扱う。*1
シリーズの予定は次の通りである。本記事はこの内一番上の記事である。
ただし、これらの記事の数、内容、順番、は今後変わる可能性が高い。
功利主義(utilitarianism)は三つの特徴を持つとされている。そのうちの一つが帰結主義(Consequentialism)である*3。帰結主義とは、結果のみを考慮する立場である。よく勘違いされるのだが、帰結主義=功利主義ではない。帰結主義には功利主義以外にも様々な立場があり、その中で功利主義が最も有名であるにすぎない。
帰結主義と聞いたとき、私たちはこれに対してどういうイメージを持つだろうか。結果のみを考慮する、と聞くと「結果さえよければなんでもいい」と私たちは考えがちである。しかしこれはほとんど誤りである。この誤解を解くこと、そして結果のみを考慮するといっても様々な立場があることを説明し、検討するのが本記事の目的である。1節で帰結主義内部の大きな2つの立場を分類し、それぞれ検討する。2節で時間軸上でいつが帰結になるのかについて説明する。3節では2節での説明を踏まえ、1節での帰結主義内部の立場をそれぞれ再考する。4節でまとめる。
*1:以前は以下のように書いていたが、冗長妥当と判断し削除した。
私は、功利主義について説明するのはこれで十分で、あとは最後に書かれている参考文献などを読んでいただければいいと考えていた。功利主義について興味がある人、誤解している人、よく知らない人などには、私の記事を紹介することで事が済むとも考えていた。
しかし、記事を書いてから半年以上経過し、これでは不十分だったと考えるに至った。私はTwitterでよく議論をするのだが、そのときに功利主義を持ち出すと、やれ「功利計算できない」だの「功利主義は検討するに値しない」だの「(功利主義者の)シンガーはナチス」だのと言われるし、Twitterで「功利主義」というワードで検索すれば、その誤解の多さといったらない。そしてそれらの一部は私のブログの記事でカバーできないことに気づいた。
「シリーズ:功利主義を掘り下げる」は、こうした私の経験に基づいて、功利主義についてより深く掘り下げ、功利主義に対する無理解・誤解を晴らすこと、またそれを通して私自身が功利主義についてより理解を深める事を目的としている。
*2:追記2020-06-12:いろいろと勉強を進めていく中で、本記事をもっとわかりやすい構成にできるような気がしているので、いずれ別の記事として「帰結」についての記事を書くかもしれない。構成としては次のようなものを想定している。本記事では客観主義と期待値主義とし、さらに期待値主義を客観的期待値主義、事実主義と分ける構成になっているが、ちゃんと主観主義、客観主義、予期主義prospectivismをそれぞれ区別し、それぞれを定式化し、それぞれの利点・欠点を述べ、検討するのがいいだろうと考える。
*3:ほかは、厚生主義(Welfarism)、総和主義