ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

非ヒト動物に対するパターナリズムと安楽死(Regan 2004(1983))

Regan, T. (2004). The case for animal rights. Univ of California Press.
Chapter 3から一部要約

3.6 パターナリズムと動物

  • 〔これまでの章で述べたように〕私たちが利害関心を持っていることが必ずしも私たちの利益になるとは限らないし、また、何が私たちの利益になるかの最善の判断をするのは私たち自身であるとは限らない
    • この点は、有能な成人の場合に、干渉的なパターナリズムを正当化するものではない
      • 個人的自律性を持つことはそれ自体が利益(benefit)になる
    • では動物に対するパターナリズムはどうか?
      • 動物に好き勝手させることを許すことが、必ずしも動物のためにならないことは明らか
  • バーナード・ガートとチャールズ・M・カルバー(Bernard Gert and Charles M. Culver)は、人間が動物に対して文字通りにパターナリスティックに行為できることを否定している
    • カルバーとガートは、動物と乳児に対するそれは、パターナリスティックな行為の必要条件を満たしていないと主張している。彼らの考えでは、ある個人(S)に対してパターナリスティックに行為できるのは、Sが「自分の利益になることは大体わかっている」と、おそらく誤って信じていると信じる理由がある場合のみである。
      • カルバーとガートによれば、人間の乳幼児と同様に、動物もこの条件(信念要件)を満たすことができず、したがって私たちは動物に対してパターナリスティックに行為することができない
      • 他にも政治哲学者のアン・パルメリ(Ann Palmeri)も同様のことを述べ、動物や植物に対してパターナリスティックに行為できないと述べている
  • しかし、かれらは、乳幼児、動物、植物という非常に異なるクラスの存在を一緒にしてしまっている
    • 植物に対して文字通りパターナリスティックに行為できないが、動物に対して文字通りパターナリスティックに行為できる
  • パターナリスティックな行為という概念の中心は、ある種の動機の存在
    • パターナリスティックに行為するためには、自分(または他人)が利益を得るためではなく、Sの利益や福祉のために行為するという動機が必要(これは正当化とは別の話)
  • カルバーとガートによれば、信念要件も必要条件:何が自分の利益になるかを一般的に知っていると信じていなければならない
  • しかし〔Chapter 2で述べたように〕動物は、信念と、信念に対する信念も持つので、信念要件を満たす
    • 仮に満たさないように条件を設定すると、幼児なども満たさなくなり、パターナリスティック(父性的)という概念がゆがめられる〔パターナリスティックな行為の典型例は、そうした幼児を含む子どもに対する父性的な行為である〕
  • かれらの代わりとなるパターナリズムの図式を提示する
    • ある個人(A)による行為がパターナリスティックであるのは、Aが他の個人(S)の生に介入し、かつ以下の条件が満たされている場合である。
      • a)Aは、Sが特定の選好を持っていることを知っている。
      • b)Aは、Sが自分(Sの)選好の満足をもたらすと信じる方法で行為する能力を持っていることを知っている。
      • c)Aは、阻止されない限り、Sが自分の選好の満足をもたらすと信じる方法で行為することを知っている。
      • d)Aは、Sがこの方法で行為すると、Sの厚生(welfare)に有害な結果をもたらすことを知っている。
      • e)Aは、そのような介入がS自身の善(good)のためであり、Sの善を気遣ってのことであると信じて、Aに阻止されなければSが選択するであろう行為をSが阻止するために介入する。
  • 動物や幼児は選好をもつが、植物はもちそうにないので、動物や幼児に対するパターナリスティックな行為が可能になる
    • また信念要件を満たす存在に幼児を含めようとすれば、動物も含めることになるだろう

3.7 安楽死と動物

  • 選好の自律性、死、パターナリズムの分析の結果は、動物に適用される安楽死の考え方を示している
    • 現在〔当時〕行われている〔た〕安楽死の件数や目的を考えると、動物が「安楽死」されたと言われるケースのほとんどは、すべてではないが、正しく考えられた安楽死のケースではない
  • 安楽死は、その個人の「良い死」をもたらすことであり、直接的な殺害(積極的安楽死)または死なせること(消極的安楽死)によってもたらされる
  • 安楽死には、痛みを伴わずに、あるいは苦痛を最小限に抑えてその者を殺す以上のことが必要
    • 積極的に他者を安楽死させるためには、自分の利益のためだと信じて、また相手の利益を気遣って相手を殺すことが必要
    • 動機が自己目的ではなく他者目的であることが必要であり、自分の目的のために行動する相手は、殺される相手でなければならない
  • 積極的安楽死の許容条件
    1. 可能な限り苦痛の少ない方法で個人を殺すこと。
    2. 殺す者が、殺される者の死が後者の利益になると信じていること。
    3. 殺した者が、殺された者の利害、善、厚生に関心を持って、その命を終わらせる動機を持っていること。
    • これらは十分条件ではないが、「動物の安楽死」の多くのケースが真の安楽死に至らない理由を示すには十分
    • ここで、2の条件は弱すぎるので、その信念が真でなければならないと変更する。よって
      • 2. 殺す人は、殺される者の死がその者の利益になると信じていなければならず、それが真でなければならない。
  • 一般的に理解されている自発的安楽死の概念(自分の死を理解し、その生を終わらせたいという欲求を明確にする手段をもっている者に適用可能な概念)は、動物を安楽死させる場合には適用できない
    • したがって、動物を安楽死させる場合には、問題となっている安楽死の種類は非自発的安楽死でなければならないと考えてもいいだろう
  • 非自発的安楽死の典型的なケースは、その対象は心理学的には死んでいる(選好等をもはやもたない)。
    • しかし動物の場合は異なる〔生きており、選好をもつから〕
    • よって、自発的でも非自発的でもない、別の安楽死のカテゴリーが必要。以下に2つ述べる
選好尊重的安楽死
  • 時に動物は、治療不可能で強い苦しみを抱えていることがある
    • このような状況でその動物を殺すことは、明らかにかれらの利益になると思われる
    • このカテゴリーの安楽死を、選好尊重的安楽死(Preference-Respecting Euthanasia)とよぶことにする
    • もちろんかれらは死を欲求してない(死を理解できないから)のだが、このような安楽死は、かれらの選好を尊重することになる
  • これはパターナリスティックではない
    • かれらが自分でできないことをかれらのために行うとはいえ、「かれのために」と自分の意志を押し付けることはしない。
      • むしろ、かれらの選好を満足させるためにしなければならないことをするのだから、私たちは、私たちが知っているかれらの意志に従うのである
パターナリスティックな安楽死
  • しかし上記のケースは、あまりない
    • 最も一般的ケースは、野良犬やペットの「安楽死」(健康であるにもかかわらず!)
  • 選好尊重的安楽死以外のケースで、かれら自身の善(good)のために動物を殺すなら、それはパターナリスティックな行為になる
    • だが一般に、健康な動物は生きていた方が良い理由があるので、その場合は安楽死ですらない〔上記の積極的安楽死の許容条件をみよ〕

子どもとは何か? Schapiro (1999)

Schapiro, T. (1999). What is a Child?. Ethics, 109(4), 715-738.

https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/233943

 

 大人と子どもの違いに関して2つの直観がある。第一に、子どもの意見は、大人の意見と同じような権威や道徳的意味をもっていない。第二に、子どもは、大人と同じようには、自身の行為に責任を持たない。

 この大人と子どもの区別を説明するアプローチは2つある。第一に、生物学的区別によって説明するアプローチであり、これは経験的問題である。しかし、これでは法的・道徳的な意味での身分(status)概念としての「大人」と「子ども」を捉えられない(例:「成人」は何歳からか?)。本論文は後者の意味での「子どもとは何か?」を哲学的に検討する。

 

 子どもと大人の区別を、パターナリズムの正当化の観点から考える。これは帰結主義的な正当化がなされることがあるが、カント倫理学では別の方法で正当化しなければならない。ではカント倫理学でこの問題にどう答えればいいのか。

 カントによれば、子どもは受動的市民である。政治的共同体の構成員であるが、通常の市民権に付随する自由の全範囲を享受する権利(例:投票の権利)を持たない。このような身分が許されるのは、大人は政治的共同体の中で独立して自らの選択によって行為するが、子どもはそうではなく、独立の規範からの逸脱という意味で依存的だからである。

 自分の選択によって行為するには、反省する能力、自分の行為計画を考える能力が必要である。もちろんこれは程度問題であるため、子どもから大人への連続した経路があるという直観が支持される。

 だが、身分概念としての「子ども」は、どこかの段階で「大人」の資格を得る人のことである。これをカントの「子ども時代は苦境(predicament)である」という考えから検討する。

 

 カントにおける自然状態から国家になるまでの発達に関する議論(4節)から類推して、子どもの発達について考えると、未発達の人間とは、自分自身をまとまった形、つまり統合された形にできていない人間のことである。統合には反省が必要であり、未発達な人間は、社会が規範的な不安定さ(自然状態)から脱するのと同じように、反省によって統一されていくことで自分自身になる。

 カントの考えでは、行為するには様々な動機づけの衝動間の対立を解決しなければならない。対立の解決は熟慮の働きによってなされるものであり、これは(対立を調停して行為する)権威をもつことになる。これが自律性であり、義務の源泉である。

 先述したように、カントによれば、子ども時代は苦境である。それは、自身の動機づけの衝動間の対立を解決する能力が未熟だからである。それゆえに、その苦境に対処するために、大人から子どもへのパターナリズムが許されることになる。

 しかし「子ども」から「大人」への移行では、行為と〔単なる一方的な強制による〕プロセスとの間のどちらともつかない揺らぎがある。この揺らぎに焦点を当てる概念が「遊び」である。子どもたちは遊びの中で、なりたい自分を熟慮的に「試着」している。子どもの遊びとは、自分自身になることである。そしてそれは、子どもの遊びにおいて、行為できる人の役を演じることである。これは熟慮的に「試着」する、リハーサルのような状態である。このことは、幼児だけでなく、思春期の「自分探し」にも当てはまる(自分自身を誰かにしようとしている)。

 この発達の度合いは成長によって変化し、発達に応じて、自分が権威を持つ領域が変化する。国家が自身の権利の及ぶ範囲でのみ国権(the rights of nation)を適用できるように、子どもも自分の「裁量の領域」で権威を持つ。

 ここでの大人の義務は、消極的には、子どもが自身の熟慮する能力を高めるのを妨げるような行為を控えなければならず(例:子どもを管理してはならない)、積極的には、子どもの苦境(自己を統合できないこと)を取り除き、子どもが子ども時代から抜け出し、独立する手助けをしなければならない(例:教育)。

 そのためにも、大人自身が自律性のモデルとなり、子どもたちが優れたモデルを「選択」できるようにすることが必要である。また、子どもが自分でルールを決められる場合には積極的にそれを認めるべきである。

語「種差別」を巡って

  • 1 はじめに
  • 2 R・RyderとP・Singerの「種差別」
  • 3 RyderとSinger以後
  • 4 「種差別」をどう定義すべきか?
    • 4.1 記述的定義と評価的定義
    • 4.2 広い定義と狭い定義
    • 4.3 「差別」を含む定義と含まない定義
    • 4.4 「種差別」を定義する
  • 5 まとめ
  • 参考文献

1 はじめに

「種差別 speciesism」という単語が生まれて40年以上が経過した。英語圏ではそれなりの広がりを見せており、哲学や倫理学ではもちろん、社会科学においてもわれわれの種差別的偏見や種差別的バイアスの研究が徐々になされつつある(e.g. Everett 2019)。しかし、以下でみていくように、「種差別」という語や種差別概念が正確に理解されているとはいいがたい(Albersmeier 2021)。そうした中、Hortaの「種差別とは何か?」(Horta 2010)を皮切りに、「種差別」を定義しようという試みがいくつかなされている。本稿では「種差別」の歴史を簡単にみたあと(2、3節)、近年の「種差別」の定義を巡る論争を整理し、望ましい「種差別」の定義を提示する(4節)。

 本稿では種差別という語を表す場合に「種差別」という表記を用いる。また以下では「種差別」の使われ方、定義のされ方を概観していくが、本稿ではHortaとAlbersmeierによる区別を用いる(Horta and Albersmeier 2020)。かれらは「種差別」を2つの軸で分類する。

  • 記述的定義と評価的定義
  • 広い定義と狭い定義

ここで記述的定義では、「種差別」という語を、事実として動物種間での扱いが異なるということにのみ言及しその是非を含意しない語として定義する。一方評価的定義では、その異なる扱いが不当であるということも含意するように定義する。評価的定義であっても記述的な内容を含むため、純粋に評価的であるのはありえない。また広い定義では、種差別の根拠や理由を問わず動物種間で扱いが異なることを意味し、狭い定義では何らかの根拠(例:種が違う、能力に差があるなど)に基づく異なる扱いであることを要求する*1

*1:追記(2021-07-22):狭い定義は、いわゆる直接的差別であり、広い定義は直接的差別と間接的差別のどちらをも含むものとして理解されるかもしれない(Altman 2020)。しかし狭い定義の内実によっては直接的差別ではない可能性もあるため、完全に一致するわけではないだろうと考える。

続きを読む

語「犬笛」の暴力性

 政治に関する話題で、少し前から「犬笛」という単語が使われるようになった。

 「犬笛 dog whistle」には二種類の意味がある。Cambridge Dictionalyによれば

  1. 犬を訓練するために使用される笛で、人間には聞こえない非常に高い音がする
  2. 特定のグループ、特に人種差別やヘイトの感情を持つ人々に理解されることを意図して、しかし実際にはこれらの感情を表現することなく行われる、政治家による発言、スピーチ、広告など

https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/dog-whistle

 2の意味は1の意味をもとにして派生した意味である。犬笛の例、そして犬笛の悪さに関しては以下の動画が参考になるだろう。

政治家が使う秘密の「犬笛」 隠れた人種差別メッセージとは - BBCニュース

 

 私がここで問題にしたいのは、犬笛という現象ではない。その現象を指示する単語として「犬笛」を使うことである。

 「犬笛」の第一の意味をもう一度みてほしい。

  1. 犬を訓練するために使用される笛で、人間には聞こえない非常に高い音がする

犬笛は、原義的には、犬の訓練、しつけに使われる笛である。表現の意図するところが伝わってくれることを願うが、犬笛は、犬を飼い主に従属させるための道具である。

 

続きを読む

『差別の倫理学のラウトレッジハンドブック』の「イントロダクション」(Kasper Lippert-Rasmussen)

  • 書誌情報
  • 導入 Introduction
  • 概念的問題 Conceptual issues
  • 差別の不正さ The wrongness of discrimination
  • 被差別者のグループ Groups of discriminatees
  • 差別の現場 Sites of discrimination
  • 差別をなくすことと軽減すること Eliminating and neutralizing discrimination
  • 差別の歴史 History of discrimination
  • 結論 Conclusion

 

本記事は、英米圏の差別の哲学・倫理学に関するハンドブックの導入の要約である。この章はハンドブックの各章の紹介になっており、また差別の哲学の広さが分かるようになっている(種差別に一切触れてないのは驚きであるが)。

日本語で議論を紹介している論文としては、例えば堀田の論文がある。

堀田義太郎. (2014). 差別の規範理論: 差別の悪の根拠に関する検討. 社会と倫理, (29), 93-109.

 

書誌情報

Lippert-Rasmussen, K. (2018) The philosophy of discrimination: an introduction. In The Routledge Handbook of the Ethics of Discrimination, Routledge, 1-16

www.routledge.com

導入 Introduction

  • 差別は重要なテーマである
    • 個人が受ける不利益や無礼な扱いが、差別に起因するものもあれば、差別に相当するものもある
    • (少なくとも)アメリカの公民権運動以来、そうした差別が前面に出てきた
    • 差別を理解することは、社会的不平等や政治・歴史を理解する上で重要
  • 差別の本質を明らかにしようとする学問は様々にある
  • このハンドブックにはこれらすべてが含まれるが、主要なレンズは哲学
    • 因果関係や記述的問題ではなく、概念的、規範的な問題を中心とする
    • しかし哲学と他分野の区別は明確ではない
      • 哲学においても経験的知識を必要とするし、他分野においても概念的・規範的前提を必要とする
  • 最近まで差別の哲学の文献はほとんどなかったが、増えつつある
    • Alexander, L. (1992) “What makes wrongful discrimination wrong?”, University of Pennsylvania Law Review 141: 149–219.
    • Cavanagh, M. (2002) Against Equality of Opportunity (Oxford: Clarendon Press).
    • Edmonds, D. (2006) Caste Wars: A Philosophy of Discrimination (London: Routledge).
    • Eidelson, B. (2015) Discrimination and Disrespect (Oxford: Oxford University Press).
    • Gardner, S. (1996) “Discrimination as Injustice”, Oxford Journal of Legal Studies 16: 353–368.
    • Hellman, D. (2008) When Is Discrimination Wrong? (Harvard University Press).
    • Hellman, D. and Moreau, S. (2013) Philosophical Foundations of Discrimination Law (Oxford: Oxford University Press).
    • Khaitan, T. (2015) A Theory of Discrimination Law (Oxford: Oxford University Press).
    • Lippert-Rasmussen, K. (2013) Born Free and Equal? (Oxford: Oxford University Press).
続きを読む

2020年に読んだ本

  • 全体を通して
  • 読んでよかった本(特によかったのは太字)
  • 1月
  • 2月
  • 3月
  • 4月
  • 5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月

 

2020年の読書メーター
読んだ本の数:90
読んだページ数:27810 (76/day)

読書メーターに年単位のまとめ機能があるとは知らなかったので、どうせならと思ってまとめた。

全体を通して

月によって忙しさが異なり、今年は読めたり読めなかったりしていた気がする。ただ、必ず月に1冊は読めていたようで、自分をほめたい。

 大きなこととしては、洋書をそのまま読めたこと。今年の5月あたりはdeeplに頼りまくって読んでいたが、10月の*Metaethics*はほぼそのまま読めたので、これは成長したあかしだと思っている。

 また、一定期間に集中して読むテーマを決めているときがあり、1月~2月は現代思想、2月後半~3月は心の哲学、4月は動物学、5月は法哲学、12月はトランスジェンダーを中心にジェンダー論系を読んだ。このやり方は自分に結構あっている。集中して読むことで用語や考え方・議論のくせを学ぶことができ、分野に通じることが容易になった。とはいえ、ある程度読むと飽きるので、途中途中で軽めの本を挟みながら読むのがいいかもしれない。

 あとやっぱり現代思想(特にポストモダン)系は無理。(いくつかの例外を除いて)二度と読みたくない。

 今年は、本だけでなく自分の専門の論文も読みまくった。読めてない月は主に専門分野の論文を読んでおり、何も読んでない期間はほぼない気がする。

 結論としては、全体を通してほぼ満足のいく読書年だったと思う。

 

読んでよかった本(特によかったのは太字)

  • 統治と功利(再読)
  • フェミニズム政治学
  • 21世紀の啓蒙
  • シリーズ心の哲学全般(特にシリーズ 新の方)
  • [ケンブリッジ・コンパニオン]徳倫理学
  • Utilitarianism: A guide for the perplexed
  • 利己的な遺伝子
  • 意識の進化的起源
  • Consequentialism (new problems of philosophy)
  • Ideal Code, Real World: A Rule-Consequentialist Theory of Morality
  • 実践・倫理学
  • 知覚の哲学入門
  • 食物倫理(フード・エシックス)入門: 食べることの倫理学
  • Metaethics (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)
  • 現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで
  • 話し手の意味の心理性と公共性
  • 言語における意味
  • 釜ヶ崎から: 貧困と野宿の日本
  • 研究指導 (〈シリーズ 大学の教授法〉5)
  • ことばとジェンダー
続きを読む

行為功利主義と規則功利主義(シリーズ:功利主義を掘り下げる3)

  • 0 はじめに
  • 1 規則功利主義とは何か
  • 2 規則功利主義の問題点
    • 2.1 よくある批判
      • 2.1.1 崩壊問題
      • 2.1.2 ルール崇拝問題
      • 2.1.3 部分順守問題
    • 2.2 洗練された規則功利主義の問題点
      • 2.2.1 要求性の問題:規則功利主義の場合
      • 2.2.2 「災い」をどう判断するか*14
      • 2.2.3 規則功利主義の取りうる選択肢
    • 2.3 2節のまとめ
  • 3 行為功利主義の検討
    • 3.1 行為功利主義の問題点
      • 3.1.1 要求性の問題:行為功利主義の場合
      • 3.1.2 特別な関係にある人への義務の無視
      • 3.1.3 行為の過剰な許容性
      • 3.1.4 規則功利主義による回答
    • 3.2 行為功利主義による回答
      • 3.2.1 要求性の問題への回答
      • 3.2.2 特別な義務の無視への回答
      • 3.2.3 行為の過剰な許容性の問題への回答
    • 3.3 3節のまとめ
  • 4 まとめ
  • 参考文献

 

mtboru.hatenablog.com

 

行為功利主義と規則功利主義をめぐる簡潔な説明は以下で行っている。

mtboru.hatenablog.com

0 はじめに

功利主義の一般的な理解は「行為が正しいのは、その行為が他の行為と比べてより善い帰結を生み出すとき、そのときのみである」というものだろう。これは行為功利主義と呼ばれる形態の功利主義である。行為功利主義功利主義批判のやり玉にあげられることが多く、典型的な「功利主義批判」のほとんどは行為功利主義に対するものである。

 だが功利主義の取りうる立場は行為功利主義だけではない。その最も代表的な代替案が規則功利主義である。規則功利主義は次のように定式化される。(これは粗雑な定義であり、再度定式化する)

規則功利主義

  1. ある行為が正しいのは、最適規則体系に該当する行為であるとき、そのときのみである。 
  2. ある規則体系が最適規則体系であるのは、その規則体系が他のどの規則体系と比べても、少なくとも同等以上に善い帰結(より大きな福利[well-being])をもたらすとき、そのときのみである。

行為功利主義との最も大きな相違点は、行為の評価の仕方である。行為功利主義において、行為は「その行為が他の行為と比べてより善い帰結を生み出す」かどうかで評価される。つまり行為は、その行為の帰結の観点から直接的に評価される。一方で規則功利主義では、行為は「最適規則体系に該当する行為である」かどうかで評価される。つまり、行為は規則から評価され、規則が帰結の観点から直接的に評価されることになり、評価は二段階に分かれる。

 規則功利主義は行為功利主義によくある批判を回避できるという点で支持されることが多い。例えば「行為功利主義では、最大善を生み出すためなら、嘘をついたり約束を破ったりしてしまう」という批判があるが、規則功利主義では「最大善を生み出すことができるとしても、嘘をついたり約束を破ったりすることは最適規則体系で禁止されていることなので、してはならない」としてこの批判を回避できる。これは直観に適っているという点で非常に魅力的だと主張されることが多いし、実際、規則功利主義を取る動機として直観との整合性を第一にあげる哲学者もいる(Hooker 2000、ただし、Hookerは規則功利主義ではなく独自の規則帰結主義を採用している)。

 だが、規則功利主義は正しいのだろうか。そして行為功利主義は間違っているのだろうか。このことを検討することが本記事の目的である。

 本記事の構成について説明する。1節では、上で示された規則功利主義をより具体的に定式化し、規則功利主義の2つの形態を示す。また規則功利主義の魅力を説明する。1節の最後では、よく混同される間接功利主義と規則功利主義の違いについても説明する。2節では規則功利主義の検討を行い、規則功利主義は魅力的でないことを示す。3節では行為功利主義の検討を行う。よくある批判を回避できるかを中心に検討し、行為功利主義が規則功利主義と比べて魅力的であることを示す。4節で以上の内容をまとめる。

 なお、日本語で読める規則功利主義の説明や検討は、安藤(2007 第2章, 2017)や永石(2014)で読める。

続きを読む