ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

証言の認識論的問題(SEP 1-3節, Leonard 2021)

  • 1. Reductionism and Non-Reductionism
  • 2. Knowledge Transmission and Generation
  • 3. Testimony and Evidence

 

Leonard, Nick, "Epistemological Problems of Testimony", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2021 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/sum2021/entries/testimony-episprob/>.

 

元記事は7つの問題をあげ、各問題にそれぞれ1節を割いている。この記事では1-3節を扱う。

  1. 還元主義と非還元主義:証言は正当化の基本的源なのか、それとも他の認識論的源の組み合わせに還元できるのか
  2. 伝達:証言は知識を生み出すことができるのか、それとも単に伝達することができるだけなのか
  3. 証拠との関係:聞き手が話し手の証言に基づいてpと信じることが正当化される時、聞き手の信念は証拠によって正当化されているのか。そして、もしそうなら、その証拠はどこから来ているのか

(元の記事の事例から、名前などを変えている)

後半はこちら。

mtboru.hatenablog.com

*1

*1:認識論一般に関しては以下の本を参照(証言の話は二冊目の方に簡単な議論がある)。

また、還元主義と非還元主義の議論は以下の論文で読める。

Kyoto University Research Information Repository: 証言の認識論--還元主義と反還元主義

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道徳的助言と共同行為(Wiland 2018)

Wiland, E. (2018). Moral Advice and Joint Agency. In Oxford Studies in Normative Ethics Volume 8. : Oxford University Press.

https://oxford.universitypressscholarship.com/view/10.1093/oso/9780198828310.001.0001/oso-9780198828310-chapter-6

philpapers.org

 

  • 以下の事例を考えよう。
    • ある事例に際して、あなたは何をすべきか迷っている。完璧な道徳的証言者であるソフィーに助言を求めたところ、「Vすべき」だと言われた。ソフィーを信頼して、あなたはVをした。
  • 道徳的証言にまつわる問題の一つは、こうした事例で、あなたは正しいことをしているかもしれないが、正しい理由に基づいて行為してない、それゆえ、その行為に道徳的価値がない、というもの。
  • 筆者はこれに対して二つの議論を行う。*1
    • 1:道徳的証言と助言は異なる*2
    • 2:被助言者が助言者を信頼して行為しているなら、助言者と被助言者は共同行為者を構成し、一緒に行為している
    • そしてそれゆえ、被助言者が助言者を信頼して行為しているなら、構成される共同行為者は正しい理由で正しいことをしている、と言える。それゆえ上記の問題を回避できる。
  • 1を支持する議論
    • 道徳的証言と助言の違いは二つ
      • 第一の違いは、行っているコミュニケーションの違い
        • 証言は、物事がどのようであるかについてのコミュニケーションに関わる
        • 助言は、何をすべきかについてのコミュニケーションに関わる
      • 第二の違いは、信頼することにおける違い
        • 証言を信頼すると、その内容・命題を信じるようになる
        • 助言を信頼すると、助言されたことをする(行為する)ことになる
        • 助言を信頼すると実際の結果をもたらすが、証言を信頼してもそうなる必要はない
    • よって証言と助言は異なる*3
  • 2を支持する議論
    • まず、集合行為者でなくても、共同行為者でありうる
      • 例:一緒に歩いているときには共同行為者を構成している
    • だが、一緒に歩くことと助言のケースには以下の3つの大きな違いがある
      • 1:一緒に歩く場合、共同行為者の各メンバーはほぼ同じこと、つまり歩くこと、を行う
        • 反論:例えば、パーティを二人で一緒に開くとき、作業を分担している場合は別の行為をおこなっている。それでも、一緒にパーティを開いており、共同行為者を構成している。よって、同じ行為をする必要はない
      • 2:共同行為者の各メンバーは何かをする。一方、助言者自身は(助言以外には)実際には何もしないように見えるかもしれない
        • 反論1:オーケストラで、指揮者は指示しかしておらず楽器を演奏してないが、指揮者を演奏者の共同行為者から除外するのはおかしい
        • 反論2:チームのコーチや監督も指示しかしてないが、一緒に行為している
        • よって、指示をしていることで共同行為者の構成メンバーになりうる
      • 3:二人は同時に歩いている。一方、助言の場合は、被助言者が自分の役割を果たす前に、助言者が自分の助言を完了する
        • これは確かに問題。
        • ここでは、助言と実行、あるいは助言と被助言者の決意が時間的に離れている場合を除外し、すぐに何かをする場合を想定する
        • この想定のもとでは、3の違いはそれほど問題にならない
      • 以上から、これら3つの違いは問題ではない。
      • よってこうした違いは、一緒に歩く行為者らが共同行為者を構成するなら、助言者と被助言者が共同行為者を構成していることを否定する理由にならない。
    • また、あなたとソフィーの事例では、ソフィーの助言はあなたの行為に必要かつ重要な要素を与えている
      • あなたはソフィーの助言なしで最もなすべき理由を見つけられたかもしれないが、実際はそうではなかった(そもそも、行為の道徳的価値が問題になるのはそういう事例である)。
      • そしてその場合、ソフィーの助言はあなたの行為に必要かつ重要な要素である
  • 以上から、被助言者が助言者を信頼して行為する時、助言者と被助言者は一緒に行為しており、共同行為者を構成しているといえる。
    • 最初の問題:被助言者は正しい理由に基づいて正しい行為をしているわけではない、を考えよう。
    • 以上の議論から、助言者が正しい理由を認識しており、被助言者が助言者の助言を信頼しているなら、助言者と被助言者は一緒に行為しており、その共同行為者は正しい理由にもとづいて行為しているといえる。
    • よって、この問題は、助言者と被助言者を共同行為者として考えれば解消される。*4

*1:論文では2を支持する議論から始めている。

*2:論文では、命令と助言の類似点・相違点についても議論している。

*3:この理解はA. Hillsの証言・助言の理解と異なるようである(cf. Hills, Alison. “Moral Testimony and Moral Epistemology.” Ethics 120, no. 1 (2009): 94–127. https://doi.org/10.1086/648610. and “Moral Epistemology.” In New Waves in Metaethics, edited by Michael Brady. Palgrave-Macmillan, 2011.)。また道徳的助言を「Aをするのは正しい」という命題を信じることとして扱うこともできると思うので、ここでの助言と証言の区別はそこまでうまくいってないかもしれない。ただ、助言の場合は、道徳的命題を信じることに加えて行為することにつながる、というなら、区別に成功しているかもしれない。

*4:ある程度もっともらしい議論だとは思うが、助言者と被助言者を共同行為者として解釈するにあたって、意図の共有のようなものがあまり議論されてないので、そこが気になる。助言者は被助言者が助言の通り行為することを意図していないだろうし、被助言者もまた、これからする行為の意図を助言者に共有しようとすらしてないだろう。

動物製品の購入・消費の倫理(Fischer 2021 ch.7 後半)

  • 購入と消費の倫理(The Ethics of Purchasing and Consuming)
    • 功利主義(Utilitarianism)
    • 権利論(The Rights View )
    • 徳と自己吟味(Virtue and Self-Examination)

 

本記事は

Fischer, Bob. Animal ethics: A contemporary introduction. Routledge, 2021.

の「第七章:生産と消費の倫理」の消費の部分の読書メモである。

 

伝統的な動物倫理では工場畜産の生産面に関する問題が議論されてきた。非ヒト動物に直接関連した理論的検討はほぼ出尽くしており(Fischer自身、どうやって擁護できるのかわからないと述べている)、現実的にどのように実現していくかという問題に焦点が当たっているように思われる(工場畜産以外の畜産・水産養殖業や動物実験に関してはまだ検討されていると思われる)。

しかし、ここ10年くらいで、生産面に問題があるとしても、そこから生産された製品の消費行動にどのような問題があるかの検討が数多くなされてきた。Fischer自身、この問題について単著を書いている。

 

以下の読書メモを読めばわかるように、消費行動が悪いと主張することは非常に難しい。つまり、工場畜産が悪いとしても、そこから生産された製品の購買がなぜ悪いのかを説明するのは非常に困難である。これは、菜食主義者になる道徳的義務はないかもしれないことを意味する。

日本語でこの辺りの議論を紹介している文献を見たことがないため*1、この読書メモが何らかの参考になれば幸いである。

なお、私自身は功利主義に立つので、菜食主義を義務として決定的に擁護するには経験的証拠が不足していると思っている。

*1:私は別のブログサイトで、これに関する功利主義的議論を紹介している。

あなた1人だけがヴィーガンになっても無意味なのか?——菜食を巡る個人消費の影響と倫理的実践

上記の記事での議論の前提と、Fischerの功利主義的議論の前提の立て方が異なることに注意されたい。どちらが標準的なのかはあまり自信がないが、Fischerの方が標準的かもしれない。

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書評:和泉悠(2022)『悪い言語哲学入門』筑摩書房

  • 0 はじめに
  • 1 内容
  • 2 結局、悪口とは何だったのか?なぜ悪いのか?
  • 3 細かい点について

※要注意:本記事には否定的な表現やセンシティブな表現が含まれます。

0 はじめに

本記事は、和泉悠(2022)『悪い言語哲学入門』筑摩書房、の書評である。

 

本書は「悪い言語」から入る言語哲学入門、そして「悪い言語」の哲学への入門となっている。本書の構成は以下のとおりである(本書には著者によるサポートページがあり、そこでより詳細な目次を見れる)。

第1章 悪口とは何か―「悪い」言語哲学入門を始める
第2章 悪口の分類―ことばについて語り出す
第3章 てめえどういう意味なんだこの野郎?―「意味」の意味
第4章 禿頭王と追手内洋一―指示表現の理論
第5章 それはあんたがしたことなんや―言語行為論
第6章 ウソつけ!―嘘・誤誘導・ブルシット
第7章 総称文はすごい
第8章 ヘイトスピーチ

筑摩書房 悪い言語哲学入門 / 和泉 悠 著

以下ではまず、本書の内容を簡単に説明し、また「悪口」がどのように論じられたのかをまとめる。次に、本書で主題的に扱われている「悪口」の分析について批判的に検討する。また最後に細かい点についていくつか述べる。

なお、評者は言語哲学には疎い。飯田の大全、ライカン、服部の入門書*1、Cappelen and Dever (2019) Bad Language*2 は読んだが、それ以上には深く学べておらず、テクニカルな議論ができない。
また評者はkindle版しかもっていないが、書籍版とページ数が一致してない。参照する場合は、注でkindle版のページ数と特定可能な情報を併記する。

*1:飯田『言語哲学大全』はシリーズ全4巻の、少し古い伝統的な言語哲学への最良の入門だろうと思う。ただ、2巻以降の難易度は高いので、本書や、服部の入門書から入ると良いだろう。

イカンの『言語哲学入門』も優れた入門書だが、これも難易度が高い。

その点、服部『言語哲学入門』は、簡潔かつ広いトピックについてまとめている。

ただ、いずれの本も硬派な入門書であり、本書のような記述スタイルを気に入った人には若干抵抗感があるかもしれない。その点でも本書『悪い言語哲学入門』の価値があるだろう。

*2:この本は翻訳企画が進行中のようである(ブックガイドを参照)。

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書評:エリザベス・ブレイク(2019)[久保田裕之監訳]『最小の結婚』白澤社

  • 本書の内容
  • ブレイクの最小結婚は「最小」なのか?

本記事はエリザベス・ブレイク(2019、原著2012)[久保田裕之監訳]『最小の結婚』白澤社についてのコメント的なものである。以下、断りがなければページ数は翻訳された本書のページ数を表している。

 

 

本書は結婚について倫理学的・政治哲学的に詳細な議論を行なっている本である。訳者解説の通り、本書の中心的な問いは「結婚制度はリベラリズムと両立するのか」「両立するならば、いかなる条件においてか」(p.350f)というものである。

本記事ではまず、本書の内容を、本書の主眼である「最小結婚(minimal marriage)」を中心にして説明する。次に、この最小結婚の妥当性について簡単に議論する。なお、評者はリベラリズムに明るくないため、リベラリズムにおける最小結婚の位置付けが成功しているかどうかについてはあまり議論しない。また、本記事では以下のnoteの記事に賛同し、本書の重要な概念である「amatonormativity」の訳語として、本訳書で採用されている「性愛規範性」ではなく「恋愛伴侶規範性」を用いる。(一応、訳者らからこの訳語の採用の理由も明かされているのでそのURLを併記しておく)*1

note.com

hakutakusha.hatenablog.com

*1:訳語の選択には他にも違和感が多々あった。例えば"dispositionality"の定訳は「傾向性」だが、「気質」と訳されている(これは些細な問題である)。また"commitment"を「献身」と訳しているが、これは誤訳だろうと思う。訳注で、結婚という文脈を考慮して「献身」を選択したとあるが、それでも違和感がある。特に、日本語の「献身」には身を捧げるという強いニュアンスがあるが、本書の「コミットメント」にはそういうニュアンスはないと思われるため、結婚の文脈だからこそ「献身」という訳語を避けたほうがよかったと考える。

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自明な命題(Audi 1999)

Audi, Robert (1999). Self-evidence. Philosophical Perspectives 13:205-228.

https://philpapers.org/rec/AUDS

*1

ざっとまとめていうと

  • 自明な(self-evident)*2命題とは、その命題を適切に理解することが、それを信じることを正当化するような命題
    • 適切な理解は、誤っておらず、不十分でなく、歪んでおらず、曇ってない、つまり欠陥のない理解
    • 自明な命題は即時的に自明な場合と仲介的に自明な場合がある。この違いは反省を介するかどうか
      • 即時的に自明な命題は明白な命題だが、明白で明確な命題が自明だとは限らない
    • また自明性は説得力を必要としないので、理解したとしても、信じることを保留可能
    • また直観的である必要はないし、公理から証明されるようなものでもない
    • 自明な命題は阻却されうるが、それは難解化(理解が不十分になること)で阻却される
      • 適切な理解が保持されていれば、他の命題によって阻却されないかもしれないし、正当化を疑う理由によって弱体化されることで阻却されないかもしれない
    • また自明な命題はアプリオリな命題の基礎であり、狭義の意味でアプリオリだが、広義の意味でアプリオリである必要はない
      • また分析的命題である必要はないし、分析的命題が自明である必要もない

以下は議論の詳細。

*1:R. Shafer-Landau Moral Realism: A Defenceを読んでいて、自明な(self-evident)命題を認めて、そこから道徳的知識を認めようとする議論があったがよくわからなかったので自明な命題について参照されているAudiのこの論文を読んだが、やっぱりよくわからない。

*2:「自己証拠的」という訳し方もあるかもしれない。このように訳すことで、"self-evident"が専門的な用語であり、また証拠的だというニュアンスを含めることができるからである。一方で、専門的な用語にしすぎると、人々が「自明だ」と表現することとの対応ないし整合性が欠けてしまい、あまり嬉しくない。定訳があるならそれを採用したいが、私は知らないので、もしあれば教えていただきたい。

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奇跡論法の数式による定式化

奇跡論法とは「ある科学理論について,現在の科学の成功はその科学理論が経験的に妥当でなければ奇跡になってしまうから,その科学理論は経験的に妥当なはずだろう」という,科学理論の経験的妥当性(ないしは科学理論の指示対象の実在性)を擁護する議論である.以下ではこの議論の数式による定式化を試みる(cf. Sprenger (2016)).

なお,奇跡論法を含めた科学的実在論争については以下の戸田山の本に詳しい.


 

 S:科学(理論)の(予測や説明の)成功

 H:科学理論が経験的に妥当

として,奇跡論法を考える.奇跡論法の中心的前提は以下の前提1である.

前提1:理論が経験的に妥当という元での科学の成功の確率は,理論が妥当でないという元での科学の成功の確率より非常に大きい(理論が妥当でない世界での科学の成功は奇跡だから).数式で表すと

 p(S|H) \gg p(S|\neg H)

となる.ここで p()は確率を表し, p(S|H) Hの元での Sの条件付き確率である.どれくらい大きいかを表す係数 k \gg 1を導入すると,これは

 p(S|H) = k \times p(S|\neg H)

と表せる.ベイズの定理  p(S|H) = \frac{p(H|S)p(S)}{p(H)} より,前提1は

 \frac{p(H|S)p(S)}{p(H)} =k\times \frac{p(\neg H|S)p(S)}{p(\neg H)}

 \frac{p(H|S)}{p(H)} =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}

 p(H|S) =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} p(H)・・・・・・(1)

となる.奇跡論法が成り立つ(科学の成功の元で科学理論の妥当性を言いたい)ためには, p(H|S) >  p(H)であると言いたいから, k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}が1より大きくなければならない. k \gg 1だから,これは自明だと思われるかもしれないが,厳密にするために以下の前提2を追加する.

前提2*1:科学が一般に成功する確率は,科学理論が経験的に妥当でない元での科学の成功の確率より大きい(理論が妥当でない世界での科学の成功は奇跡だから,その成功確率は一般的な成功確率より小さいはずである).数式で表すと

 p(S) > p(S|\neg H)

となり,係数 m> 1を導入して

 p(S) = m\times p(S|\neg H)

と表すことができる.ここで式(1)中の  \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} について,ベイズの定理より

 p(\neg H|S) = \frac{p(S|\neg H)p(\neg H)}{p(S)}

 \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} = \frac{p(S|\neg H)}{p(S)}

である.前提2より  \frac{p(S|\neg H)}{p(S)}=\frac{1}{m} なので,

 \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)}=\frac{1}{m}

である.よって式(1)  p(H|S) =k\times \frac{p(\neg H|S)}{p(\neg H)} p(H) より

 p(H|S) = \frac{k}{m} p(H)

となる.いま, k\gg1 m >  1より,\frac{k}{m} >  1 であると考えられるので,

 p(H|S) >  p(H)・・・・・・(2)

といえる.これは,科学理論が経験的に妥当であるという仮説 Hの確率が,科学の成功の元で大きくなることを意味する.つまり,科学の成功は科学理論が経験的に妥当であるという仮説を確証(confirm)する.

以上が奇跡論法の数式による定式化である.適切な前提の元で奇跡論法が成立することが言えているように見える.しかし,ここでおいた前提2はそれほど自明ではない.

前提1と前提2を合わせると,以下の式が成り立つ.

 p(S|H) = \frac{k}{m}p(S) = kp(S|\neg H)

 p(S|H) >  p(S) >  p(S|\neg H)

奇跡論法は本来,前提1のみ,つまりこの不等式の両端の確率の大小関係にしか言及してない.前提1はたしかに論争の余地が小さいだろう.しかし,奇跡論法を厳密に成立させるには前提2,つまり真ん中と右の不等式とその大きさ  m に依存するが,特に  m の大きさに関してはいくらか論争的だと思われる.

また,式(2)から察する通り,そもそも p(H)がどれくらい大きいかによって p(H|S)の大きさも変わる.というのも,式(2)は

 p(H|S) = \frac{k}{m} p(H)

となっており, k m p(H)の組み合わせによっては, p(H|S)はそれほど大きくない.特に, p(H)を過大に見積ることを基準率の誤謬といい,批判がある(Howson (2013)).だとすると,仮に奇跡論法の前提1を認め,また前提2と科学の成功 Sを認めたとしても,奇跡論法の結論,つまり科学理論は経験的に妥当であるという結論 Hを受け入れる必要はないかもしれない.奇跡論法を成立させるには, p(H)がそもそも大きいか,\frac{k}{m}がかなり大きいことを言わなければならないが,どちらの選択肢も自明ではないだろう*2.そこで,問題設定を変えるという別の方針があり,例えばSprenger (2016)は前提を変えて,奇跡論法を文脈依存的な仕方で擁護している.こうした擁護の仕方がどれほど妥当なのかはまた別に検討される必要がある.

*1:ざっと調べた限り,この前提を置いている論文を見つけられなかった.この前提がなければ議論は成立しないはずだが,なぜ書かれてないのか疑問である.

*2:お気づきかもしれないが,実のところ,奇跡論法の結論を出すために前提1はほぼ必要ない.言う必要があるのは p(S|H) >  p(S)であり,そしてこの大きさの比率がどうであるかだけである.というのも,ベイズの定理を用いれば p(S|H) >  p(S)から p(H|S) >  p(H)を導出でき,さらにその比率は等しいということも言えるからである.したがって,科学の成功の確率が一般的な条件よりも理論が妥当な場合に非常に大きくなるということさえ言えれば十分である.だが,この方針が困難であることは間違い無いだろう.