ボール置き埸

読書メモと勉強したことのまとめ。

功利主義は個人を幸福の容器として扱わない(Chappell 2015)

philpapers.org

Chappell, Richard Yetter (2015). Value Receptacles. Noûs 49 (2):322-332.

 

功利主義は、人々を交換可能な幸福の容器として扱っているとか*1、人格を分離できてないだとかの理由で、誤った立場であると批判されてきた。この論文ではこの批判の四つの解釈を示し、あるタイプの功利主義はこれらすべての解釈で批判を回避できると論じる。四つの解釈は次の通り。

  1. 置き換え可能[replaceable]であるとする
  2. 個人間の厚生を比較可能であるとする
  3. 人々の利害を[個別に]気にするのではなく、[その総和である]功利性(効用)を気にしている*2
  4. 価値の容器として扱っている(個人の利害を、集約された善への交換可能な[fungible]手段として扱っている)

大まかに、1と2には価値論的応答を行う。3には理由の議論から応答する。4にはトークン価値という概念を導入して応答する。

 

第一に、置き換え可能批判は、人々の諸経験がどうパッケージ化されて別々の人生になるのかに意味を見出してないという批判である。特に死の悪さを、将来の善い経験が少なくなるという点で悪いとしか思っていないのが問題であるとされる。

だが功利主義は、人生の計画を価値論に組み込むことで、ある人の死の悪さを、将来の善の減少だけではなく、その計画の中断として積極的に負価値的なものとして扱える*3

 

第二に、厚生の比較可能性について検討する。これは、正確な[厚生の]値の割り当てができたあとに、完全に等しい二つの選択肢(二人が瀕死でどちらだけしか助けられないとか)があり、一方にわずかな価値を追加するだけで[それ以外のことを考慮せず]追加された方の選択肢を選択すべきだとしてしまう、という批判である。

功利主義からの応答の一つは、それらの比較を「大まかに等しい」(Parfit, 1984)や「同等[on a par]」(Chang, 2002)とすることで、多少の変化に対して反応しないようにすることである。だが、そもそも正確な値の割り当て[微小な追加的価値による選択肢ランキングの変化]がなぜ不道徳になるのかわからない。「比較可能[comparable]」であることは「交換可能[fungible or interchangeable]」であることを意味しない。

 

第三に、功利性だけを気にしているという批判について検討する。これは、誰かを助ける理由は、その個人の利害のためではなく、功利性[幸福総和]を理由として助けるという説明になってしまう、という批判である。

たしかに、これは一部の功利主義(功利性基本主義)には当てはまる。だが筆者は厚生主義的功利主義[welfarist utilitarianism]を採用する。これは、(例えば)ある快楽が善いのはまさに、それを経験する個人にとって善いからである、とする立場である。よってこの立場では、集約的善を第一に気にするのではなく、個人にとっての善を第一に気にする。そして、行為の理由の源泉・根拠は、個人の利害である[集約的善ではなく]。

 

第四に、個人を価値の容器として扱っているという批判を検討する。なぜこれが批判になるのかを明確にする。一つの理解は、交換可能であることは道具的価値しかもたない印であるからである(例:千円札5枚と五千円札1枚は交換可能である)。そのため、個人を内来的[intrinsic]価値をもつ対象として扱う必要があるが、功利主義にはそれができない、という批判として理解できる。適切な理論ならば、もし内来的価値をもつ個人のどちらかを選ばなければならない場合、ここでの適切な反応は選択肢の間でアンビバレントな感情を持つことである、ということを説明できるはずである。しかし、功利主義にはそれはできないとされる。

ここで、以下のような区別を認められるだろう。

  1. 等しく重い最終的価値を与える一対の選択肢
  2. 文字通り同じ最終的な価値を提供する一対の選択肢

1の例は、優れた絵画と、同じように優れた彫刻のどちらを保護するかという場合の選択である。2の例は、同じ絵画のどちらを保護するかという場合の選択である。ここでトークン価値という考えを導入してこれらの例を考えよう。その場合、2の場合では同じトークン芸術作品の一方を保護するので、どちらも同じトークン価値を持つ。しかし、1の場合は、同じ重みを持つが異なるトークン価値を持つといえる。

トークン価値を認めた場合、優れた絵画と優れた彫刻のどちらを保護するかという選択で、行為者がアンビバレントな感情を持つことを適切に説明できる。よって、優れた絵画と優れた彫刻を交換可能なものとしては扱ってない。諸個人もそれぞれ異なるトークン価値を持つと考えられるため、交換可能なものとして扱われないことになる。

よって、トークン価値というアイデアを認める功利主義、すなわちトークン多元的功利主義であれば、人々を交換可能なものとして扱わないため、価値の容器または交換可能なものとして個人を扱っているという批判は当てはまらない。

以上より、四つすべての解釈で、交換可能性の批判は成り立たないことが示された。*4

*1:このメタファーを有名にしたのはP・シンガーだろう。本論文でも言及されている。

*2:これは「人格の分離ができてない」という批判に対応する解釈だと思う。

*3:こんな応答が功利主義に許されるのか、功利主義は快楽説または選好充足説をとるのではなかったのだろうか、という疑問があるだろう。
功利主義は厚生主義[welfarism]をとっており、ある個人にとっての善(個人的善、福利[well-being])のみを非道具的価値として扱う。だが、この個人的善が快楽または選好充足であると限定する必要はない。客観的リスト説とよばれる立場を取っても、それが福利であるなら、功利主義に留まることができる。また、ローカルな福利と人生全体について評価する際の福利を区別できる。快楽説の中にも人生全体で福利を考える論者(Bramble 2016)が存在することを考えれば、功利主義がこうした立場を組み込むことは(難しいだろうが)可能である(Brambleが功利主義を取るかどうかは不明だが)。

Ben Bramble, A New Defense of Hedonism about Well-Being - PhilPapers

*4:このような理解をしても、功利主義が命じる行為は結局同じではないか、という批判は可能だろう。だが、そのような反論は問題を全く別のものにしている。この論文で扱われている「個人を幸福の容器として扱っている」という批判は、どのような選択をすべきかについての批判ではなく、「功利主義はそのように個人を扱うのだ」という功利主義の解釈の問題だからである。

種差別に対しても一貫した態度を取るべきか

注意事項が二つある。

  1. 筆者は一貫性を絶対に優先すべきだとは考えない。物事には文脈があり、ある点で一貫することはより悪い帰結をもたらす可能性があるからである。
  2. 本記事の主目的は、種差別を重要視してない・例外扱いする人々に再考を促すことである。倫理的ヴィーガンの溜飲が下がることを予想しているが、それは主目的ではない。

 

「すべての差別に反対する」といわれるとき、その「差別」には、ホモサピエンス内の差別が想定されていることがほとんどである。もしそうなら、それは欺瞞的だと私は思う。なぜなら、種差別をはじめとして、非ヒトに対する差別がありうるからである。非ヒトへの差別の中でも現状特に問題なのは種差別だと私は考えているので、以下ではこれを例に考える。

種差別とは、ある生物種のメンバーに対する差別である。例えば、工場畜産と呼ばれる農業形態は、そこにいる非ヒト動物たちに多大な苦痛を与えている。だが、もしホモサピエンスに対して同様のことが行われていたとしたら、それは全く許容できないだろう。もし一方を許容し他方を許容しないならば、それはホモサピエンスとそれ以外の動物とで差別しているため、これは種差別と言える。*1

なぜ種差別は不正なのか。ここでは二つの理由を考えよう。

第一に、ホモサピエンスだけが倫理的配慮に値し、非ヒト動物は配慮に値しないとする倫理的基準を設ける試みはどれも失敗する。例えば知的能力を基準としよう*2。その場合、一定の知的能力に満たないホモサピエンスを排除してしまう。一方、ホモサピエンスすべてを含めようとすれば、一部の非ヒト動物も含まれることになる。例えば苦しみを感じる能力を基準にすると、それには非ヒト動物も含まれることになる。苦しみではなく「尊厳」という基準を持ち出しても、なぜホモサピエンスにだけ尊厳があり、非ヒト動物には尊厳がないのかを説明することは難しい。こうしたことからも、ホモサピエンスと非ヒト動物を区別する倫理的基準を設けることは難しい*3

第二に、非ヒト動物も一定の倫理的配慮に値すると考えたとしても、ホモサピエンスの方がより倫理的配慮に値すると主張することもまた難しい。例えば、知的能力によって、倫理的配慮のヒエラルキーがあるとしよう*4。明らかに、ホモサピエンスの内部でも倫理的配慮のヒエラルキーが生まれる。ホモサピエンス内での差別に反対するのであれば、倫理的配慮のヒエラルキーを擁護するのは難しい*5

以上の理由から、ホモサピエンス内での差別が不正であるなら、種差別もまた不正であると考えるべきである*6

冒頭の言葉に戻ろう。「すべての差別に反対する」といわれるとき、私はそこに種差別も含めるべきだと考える。そこで、この言葉通りに一貫した行動を取ることを考えてみよう。

例えば、特定の企業の製品に対する不買運動を考えよう。ある企業が特定のSOGI*7の人々を不当に低い賃金で働かせていたとしよう。そして、それをやめる見込みもないとしよう。これは性差別であり、批判すべきことである。そこで、運動の一環として不買運動を行うとしよう*8

ここで、他の差別への一貫性を考えよう。あなたが一貫性を気にするなら、人種差別や障害者差別を行う差別的企業の製品に対しても不買運動を行うべきだと考えるだろう。だが、種差別的企業の製品はどうだろうか。ここで種差別的企業と言って意味するのは、例えば、不必要な動物実験を行なっていたり、動物性の原材料を含む製品を販売したりする企業のことである。あなたはこのような種差別的企業の製品について不買運動を行うだろうか。種差別について考えたことがないなら、これまで行なったことはないだろう。しかし、一部の倫理的ヴィーガンや種差別に反対する人々は、例えば動物実験を不必要に行なっている企業の商品を買わないようにしている。私も、例えば化粧品の商品開発のために動物実験をやめてない企業から化粧品を買わないことにしている。私はヴィーガンなので、動物性製品全般も購入していない。

別の例を考えよう。例えば、障害者差別に対して反対の態度を取らないSNSアカウントについて考えよう。このSNSアカウントは、障害者差別につながるような発言を行い、またそのような情報の共有を行い、肯定的な反応をしているとしよう。あなたはそのようなSNSアカウントをフォローしたり友達になったりすべきでなく、またそのようなアカウントの情報を(何のコメントもなく)共有すべきでないと考えるとしよう。

他の差別への一貫性を考えれば、あなたは、人種差別的、性差別的SNSアカウントについても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。では、種差別的SNSアカウントに対してはどうだろうか。種差別的SNSアカウントとは、例えば、非ヒト動物の死体を使った(つまり肉)料理の画像をアップしたり、種差別を助長するような記事を共有したりするようなアカウントである。一貫性を考えれば、このようなアカウントに対しても同様の態度を取り、同様の行動を取るべきだろう。

以上の議論から、次のような主張を導き出せる*9

もし「すべての差別に反対する」ならば、種差別に対しても反対すべきである。

また、一貫性を考えれば、他の差別に対する態度を、種差別に対しても同様に取るべきである。

以上が本記事の結論である。

 

もしあなたがこれまで種差別について全く知らなかったら、アニマルライツセンターやPEACEの記事をいくつか読むといいだろう。

arcj.org

animals-peace.net

 

特に、PEACEのツイッターアカウントは推奨できる。

twitter.com

 

*10

*1:工場畜産や動物実験の悲惨さについては、ピーター・シンガー『動物の解放』やゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』を参照されたい。

*2:私はこの基準は間違っていると思うが、ここでは例として検討している。

*3:注意して欲しいが、私は、事実として、ホモサピエンスとそれ以外の非ヒト動物が「同じである」とは言ってない。ホモサピエンスと非ヒト動物は異なる生物種に属する生物であり、当然、さまざまな違いがある。私がここで言いたいのは、倫理的にいって、原理的に重要な違いがあるのかないのか、という点である。そして、私はないと考える。

そのような違いを見つけることが不可能だとは言わない。だが、この試みはほぼ失敗する運命にあると思う。ホモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別するには、系統学的証拠を基準にするしかないだろう。しかし、なぜその系統学的関係が倫理的に重要なのか全くわからないので、倫理的に重要な違いを系統学的に決めるのは難しい。しかしそれ以外の方法でモサピエンスと非ヒト動物をちょうど区別することは非常に困難だと思う。

*4:もちろん、知的能力という基準は間違っていると私は思う。

*5:もちろん、ここで、ホモサピエンス内でのなんらかの「差別」を認めれば、非ヒト動物を倫理的配慮のヒエラルキーで下に位置付けることは可能だろう。しかし、ここでも、個別の事例では、一部のホモサピエンスは一部の非ヒト動物よりも下に位置付けられる可能性がある。例えば、知的能力を基準にすれば(もちろん、私はこの基準は間違っていると思うが)、生まれたばかりのホモサピエンスの赤子は、成長した一部の類人猿より知的能力の点で劣るだろう。

*6:こうした議論をおこなっているのが動物倫理である。動物倫理については以下の本が読みやすいだろう。ただし、私自身はどちらの本の立場に対しても同意していない。

*7:性指向と性同一性:Sexual Orientation and Gender Identity

*8:不買運動をすることが倫理的に正しいかどうかは議論の余地があると思う。いってしまえばケースバイケースであるが、さまざまな理由を考えながら行うべきことだろう。

*9:私は、一つ目の主張に関しては賛成している。二つ目の主張に関しては、「他のことが等しければ」という条件のもとで同意する。だが、無条件に擁護するのは難しいと思う。

*10:私自身も、動物倫理に関連するブログ記事をいくつか書いているので、参照されたい。

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

mtboru.hatenablog.com

非ヒト動物を民主主義に含める(Cochrane 2019, ch.6)

Cochrane, A. (2019). Should animals have political rights?. John Wiley & Sons.

Ch.6 Democratic Representation

本書は政治哲学で動物倫理的な仕事をしてきたCochraneによる、簡潔な入門書である。道徳的地位の話から始まり、動物福祉法における地位、憲法における地位、法的地位、政治的地位を扱い、非ヒト動物は一定の道徳的、法的、政治的地位を(ヒトと同様に)持っていることが論じられる。そして本章(第六章)ではそれまでの議論を踏まえ、政治的な領域において非ヒト動物を適切に扱うべきであることが前提とされる。よってこの章では、どうやって非ヒト動物を民主主義システムに適切に組み込むかが問題となる。

 

方法1:非ヒト動物に思いやりのある、同情的な人に投票し、その人たちを政策立案者にして、非ヒト動物の利害関心(interests)を政策立案プロセスに組み込む。これは現状のシステムの変更を必要としない。

この方法の問題点は、そういう人が議席獲得できるとは限らないので、非ヒト動物の利害関心が必ずしも保証されないことである。この問題を回避するために、選挙制度を変えて動物政党により公平にする、熟慮フォーラムなどを開き非ヒト動物の利害関心が政策立案に組み込まれるような状況を適切に設計することなどができる。だが、やはり保証されないままだろう。

ではどのように現状のシステムを変えるべきだろうか。

 

方法2:投票権を賦与する。だが、非ヒト動物は投票できず、立法者がかれらを直接代表することもできない。そこで、何らかの専門家委員会やオンブズマン制度を作り、これらが政策立案者に対して圧力をかけることができれば、かれらの利害関心を政策立案に組み込めるかもしれない。

この方法の問題点は、まず、政策立案者が非ヒト動物の利害関心(を代弁した専門家委員会の話)を聞き入れることを保証できないこと、また、専門家委員会が非ヒト動物の利害関心を効果的に反映できるか疑問であることである。通常、立法者が有権者の利害関心を最低限効果的に政策立案プロセスに反映させるのは、選挙による圧力があるからである。よって、何らかの形で、非ヒト動物たちの民主主義的代表権の行使を認めなければならない。

 

方法3:立法機関の議席の一部を非ヒト動物の利害関心の反映のためだけに用意する。そこに就いた人々の仕事は、非ヒト動物の利害関心を聞き入れ、政策に適切に考慮されてるかどうかを考えることだけにする。これは、うまく機能すれば、非ヒト動物の利害関心を保証するだろう。

問題点は、非ヒト動物は投票できず、自身を代表する代議士の質について理解も熟慮もできないので、人間と同じ様には、選挙の圧力によって議員に効果的に職務遂行させるということができないことである。

解決策の一つは、非ヒト動物の代理選挙を行うことである。だが普通に人々が投票するのでは、結局、非ヒト動物の利害関心を反映できることを保証できない。

二つの解決策がある。第一に、代理選挙での投票者を動物擁護組織に限定することで保証できるかもしれない。だが動物擁護組織を適切に選ぶのは難しい。そこで第二に、投票者ではなく候補者側を、司法によって適格だと認められた、非ヒト動物の利害関心にだけ焦点を当てた政党の者だけに限定することで保証できるかもしれない。

しかし、非ヒト動物の複雑な利害関心を適切に代表するにはまだ不十分かもしれない。

 

方法4:代議士を用意するだけでなく、参政権を賦与する。参政権が重要なのは、政策立案者が人々(と非ヒト動物)の利害関心を正しく理解、解釈するために、政策立案者と人々(と非ヒト動物)の間でのコミュニケーションが必要だからであり、この実現には参政権が必要になる。(ここで想定されている参政権は、市民が互いの意見を調整し、議論し、集団政治組織内で結集し、ロビー活動を行い、代表者を選ぶなどである。)

問題点は、そもそも非ヒト動物が政治に参加するなどということができるのかという点である。ドナルドソンとキムリッカ*1は、障害者の参政権の議論を非ヒト動物に援用している。かれらは、現在の政治参加の理解は「合理主義的」であるが、そうではなくて、政治参加を「身体化されたもの」として捉えるべきであると主張する。例えば、障害者が社会の中で生活することによってその存在感自体が政策決定に影響を与えるような事例があり、同様に非ヒト動物(特にコンパニオンアニマルや都市に住む非ヒト野生動物など)の存在感自体が政策決定に影響を与えることができ、その意味で政治に参加することができる。

存在感自体が政治に影響を与えるというのはそうだろう。だが、それを政治参加と全く同じ様に捉えることは疑わしい。例えば天候の存在感も政策決定に影響を与えるが、だからといって政治に参加できるとは思わないだろう。

では、参政権なしに非ヒト動物の利害関心を政策決定に反映するにはどうすればいいだろうか。重要なのは、代議士が非ヒト動物たちの声を聞くことである。良き代議士に必要なのが人々の複雑な利害関心を、人々の声をよく聞く技術であるように、非ヒト動物と面と向かってかれらの声をよく聞くことが、非ヒト動物を代表することにとって必要なことである。非ヒト動物たちは、参政なしの市民権(citizenship)、あるいは市民権なしのメンバーシップとでも呼ばれるものをもつことになる。

 

*1:

本書の読書メモを別の人がブログ記事にまとめているので参照されたい。

davitrice.hatenadiary.jp

状況主義的批判と徳倫理学からの再反論(van Zyl 2018, ch.9)

van Zyl, L. (2018). Virtue ethics: A contemporary introduction. Routledge.

第9章、状況主義的批判のざっとした要約です。*1

状況主義

  • 徳は、さまざまな文脈で時間的に信頼可能で安定してその行動を予測できるようなことが期待される
    • だが状況主義によればそんな特性は存在しない
  • 実験の例
    • ミルグラムの電気刺激の実験、善きサマリア人の研究、援助行動(10円玉が落ちてて拾ったかどうかで援助行動が高まった、という気分研究)、正直な行動をすることと窃盗などをすることとの相関のなさ(幼児を対象とした実験)
  • これらの(より多くの)実験から、性格特性に関する私たちの直観が間違ってる、というのが状況主義からの批判。
    • つまり、私たちの行動は性格より状況の方に影響される。
  • ではなぜ私たちは間違った直観を持つのか?
    • 根本的帰属エラーのバイアス:他人の行動の要因を外部要因ではなく内的特性に帰属しがちだが、自分は逆(自分の場合は状況要因に気づきやすい)
    • 別の説明:公平世界仮説
  • 状況主義的批判の仕方はいろいろある
    • Harman:そんな特性はない(消去主義)
      • 特性があると思って責任帰属とかすると寛容でないことになっていろいろ問題がある、など
    • Doris:グローバルな特性はないが、ローカルな(局所的)特性はある
      • 特定の文脈での特性なら予測できる程度にある

状況主義への反論

  • 反論1:希少性応答(The Rarity Response)
    • 徳は希少で難しいことを示したにすぎない
      • アリストテレス自身、完全な徳を持つ人は少ないことを論じており、状況的要因が行動の安定性に重要なことに同意してる
    • だがこの反論は、状況主義の二つの反論(ロバストな特性としての徳を持つ人はわずかしかいない、および、状況的特徴は個人的特徴より人の行動に影響を与える)の片方(つまり前者)にしか答えてない
  • 反論2:行動主義的応答
    • 状況主義的批判は粗雑な行動主義的モデルに基づいている
      • 性格を、特定の仕方で行為する傾向性の集合とみなしており、[他の]行動のパターンに還元できない内的傾向的要因(情動や感情の傾向性、目的、理由認識、知恵など)を無視している
    • Swantonは、性格特性が期待されるほど行動傾向に関してロバストではないことを認めるが、だからといって内的な要因がないわけではないし、その意味でその性格特性を示しているといえると主張
  • 反論3:道徳的ジレンマと誘惑(Temptation)
    • 状況主義での実験での参加者は道徳的ジレンマに陥っていた。かれらは異なる徳の要求にさらされていた
    • ジレンマにない場合には誘惑があり、有徳でない人がそれに耐えられるかどうかは誘惑の種類による
      • 有徳でないことを示してはいるが、性格特性に言及した行動の説明を排除できない
    • しかし、気分研究の説明がつかない
      • Mark Alfano (2013)は、そうした非理由である要因に行動が大きく影響されるというのが、状況主義の核だという
  • 反論4:気分影響の最小化
    • John Sabini and Maury Silver (2005):気分に左右されるのは認めるが、それによって影響される行動はそんなに重要な事柄ではないので、あまり深刻な問題ではない
    • Prinz (2009):気分は人の行動に大きな影響を与えるし、道徳的行動にも影響を与える
  • 反論5:人為的徳(factitious virtue)
    • Alfanoは、ほとんどの人がグローバルな性格特性をもってないことが徳倫理への問題であることを認め、状況要因の操作が重要だと言うことも認めた上で、その操作の方法の一つとして「徳ラベリング」を考えている
      • 例:「正直者だね」と言われると、正直者と一致するような行動をとりやすくなる
    • これを支持するためのさまざまな研究を引用している
      • 例:募金した人に寛大のレッテルを貼ると、二週間後に別の団体に寄附する可能性が高い(Kraut 1973)
    • この意味で、徳は有用なフィクションである
  • 反論6:徳を獲得するためにより努力する
    • MillerおよびBesser-Jonesはそれぞれ、ほとんどの人が伝統的な徳や悪徳を持ってないことを認めているが、それは徳倫理の完全否定の十分な理由にならないと考えている
    • 徳倫理が妥当な規範理論かどうかは、それを身につけることが可能かどうかにかかってる
      • 誘惑への対処、微妙で無意識的な要因の影響の調整などの方法を学ばなければならない。
    • 有望な戦略は以下の通り
      1. 有徳な性格と有徳な行為のモデルを利用する
        • 道徳教育では、実在・架空のロールモデルの物語を使って、子どもたちに有徳なあり方を教えるし、一定の効果を見込めることが経験的研究で示されてる
      2. 道徳的行動に影響を与える心理的プロセスにより気づきやすくする
      3. 自己規制理論(self-regulation theory)を参照した戦略
        • より具体的な計画や実行の意図を形成することで、目標追求をより効率的に行えるようになる

状況主義からの別の反論

  • 実践的合理性への反論
    • 性格の改善の戦略は全て、道徳的行動は合理的思考の結果である(少なくともありうる)という主張に依拠しているが、そうではないという批判を状況主義者は展開している
  • これに関する二重プロセス理論による説明がある(意識的プロセスと非意識的・自動的プロセス)
  • アリストテレス主義は意思決定での自動的プロセスの役割を認めているが、同時に、そうした自動的プロセスが批判的反省に利用可能であると仮定している
    • しかし、自動的プロセスは、その人の反省的に支持された価値観にほとんど影響されないことが示唆されてる
    • このことは、MillerやBesser-Jonesの戦略に望みがないことを示している
  • すると、一番の望みは、道徳的認知の望ましい側面を自動的に活性化させる可能性の高い状況に身を置くことであると思われる
    • 行動の一貫性は、性格の安定性ではなく、環境、特に他者からの期待の安定性の表れである

経験的根拠に基づく徳倫理

  • Snowの徳倫理
    • Snowは、以下の三つが経験的に支持されてると主張
      1. グローバルな性格特性が存在する。
      2. 伝統的に考えられてきた性格特性は、そのような特性の一部である。
      3. 私たちは徳を身につけることが可能である。
  • Snowは認知・感情処理システム(CAPS)としてのパーソナリティ理論を参照する
    • CAPSシステムの構成要素は、「認知-感情ユニット」と呼ばれ、信念、欲求、感情、期待、目標、価値観などの変数を含んでいる。これらの変数は、外的または状況的な特徴によって活性化されるだけでなく、内在的な刺激(例えば、思考、推論、想像)によっても活性化されることがある
      • MischelとShodaは、状況主義者がロバストな特性の証拠を見いだせないのは、被験者の状況に対する解釈を考慮せず、純粋に客観的な用語で状況を記述しているからではないか、と考えた
      • そして実験してみたら、子どもたちは安定した状況-行動プロファイルを示した*2
    • Snowは、これらの知見がCAPS特性の存在を支持していると考えている
      • 性格特性(美徳と悪徳)はCAPS特性のサブセットである。有徳な傾向性は、CAPS特性同様、「思考、動機、感情反応の特徴的なタイプの比較的安定した構成で、『待機』しており、適切な刺激に反応して起動する準備ができている」
  • Snowはさらに、Annas*3やRussellを参照し、徳の獲得と行使は非意識的プロセスに依存する、実践的スキルに似ていると考えているようである

*1:日本語で読める状況主義をめぐる状況に関して、立花(2016)「徳と状況 徳倫理学と状況主義の論争」In 太田編『モラル・サイコロジー』春秋社

、が参考になるだろう。また、関連するブログ記事として以下のようなものがある。emerose.hatenablog.comemerose.hatenablog.com

*2:これはDorisのローカルな特性と矛盾しないだろう(Doris 2002 ch.4)。もしSnowのような方向性で徳倫理学を発展させるならば、状況主義者と徳倫理学者の間の相違はかなり小さくなるかもしれない。

*3:

快楽主義の擁護(Moen 2016)

  • 快楽主義の定義
  • P1(快楽は内来的価値をもつ)の擁護
    • 道具的に価値的であるだけ
    • 欲求の方が内来的価値をもつ
    • 邪悪な快楽と高貴な苦痛
    • マゾヒストの存在など
  • P2(快楽だけが内来的に価値をもつ)の擁護

Moen, O.M. An Argument for Hedonism. J Value Inquiry 50, 267–281 (2016). https://doi.org/10.1007/s10790-015-9506-9

 

*1

 

快楽主義の定義

快楽主義[Hedonism]は二つの条件からなる。

  • P1:快楽[pleasure]は内来的に[intrinsically]価値的[valuable]であり、苦痛[pain]は内来的に負価値的である。
  • P2:快楽以外に内来的に価値的なものはなく、苦痛以外に内来的に負価値的なものはない

それぞれの条件に対する批判に答えることで快楽主義を擁護する。

続きを読む

書評:C. Woodard (2019) 『功利主義を真剣に考える(Taking Utilitarianism Seriously)』OUP

  • 忙しい人のために 
  • 本書の内容
    • 第一章:導入
    • 第二章:六つの批判
    • 第三章:理由と正しさの関係
    • 第四章:福利(well-being)
    • 第五章:二種類の理由
    • 第六章〜第九章:道徳的権利、正義と平等、正統性と民主主義、徳
    • 第十章:結論
  • コメント
    • 問題点1:超義務(supererogatory)に関する直観をうまく説明できない
    • 問題点2:パターンの適格性条件の一つをアドホックに説明している
    • 問題点3:保守的になる可能性が高い
    • 問題点4:倫理的諸概念を道具的にしか擁護できない
    • 問題点5:重要な批判のいくつかを検討してない

 

本記事は、Cristopher Woodard (2019) Taking Utilitarianism Seriously, OUPの書評である。

 

Woodardの本書は、2022年時点でおそらく最も新しい功利主義に関するモノグラフ*1であり、ここ最近までの研究蓄積をもとに功利主義を積極的に擁護している。功利主義の魅力の一つは道徳哲学と政治哲学の問題をどちらも単一の理論で論じることにあるが、本書も両方の問題を扱っている。

本書評の構成は以下のとおりである。本書評は全体で2万字を超えているので、まず最初に本書の最も重要なところをまとめる。次に、本書全体の構成を説明し、各章の内容をそれぞれ説明する。最後に、本書に対するコメントを述べる。以下、断りがなければページ数は本書のページ数を表す。

より細かな論点、および補足は注に逃しているので、気になる人は参照されたい。

以下は本書の目次である。

  1. Introduction
    1. What Is Utilitarianism?
    2. What Is to Come
  2. Six Objections
    1. Pig Philosophy
    2. Abhorrent Actions
    3. Demandingness
    4. Separateness of Persons
    5. Politics
    6. Psychology
    7. Conclusion
  3. Basic Ideas
    1. Reasons
    2. Rightness
    3. Two Ways to Avoid Fragmentation
    4. Three Ways to Accommodate Fragmentation
    5. Utilitarian Theories of Reasons
    6. Conclusion
  4. Well-Being
    1. Philosophical Theories of Well-Being
    2. What We Know about Well-Being
    3. Alienation as Evidence
    4. Changing Values
    5. Discovering What Is Good for You
    6. Promoting Well-Being
    7. Conclusion
  5. Two Kinds of Reasons
    1. Act Consequentialism
    2. Pluralism
    3. The Minimal Constraint on Eligibility
    4. Rule Consequentialism
    5. Accepting the Willingness Requirement
    6. Narrowing Eligibility
    7. Conclusion
  6. Moral Rights
    1. The Concept of Moral Rights
    2. Existing Utilitarian Theories of Moral Rights
    3. A Broader Indirect Theory
    4. The Benefits of Respect for Moral Rights
    5. The Contingency of Moral Rights
    6. Conclusion
  7. Justice and Equality
    1. Distributive Justice
    2. Justice for Utilitarians
    3. Kinds of Equality
    4. Utilitarianism and Substantive Equality
    5. Known Expensive Needs
    6. Conclusion
  8. Legitimacy and Democracy
    1. Government House Utilitarianism
    2. Democracy as Eliciting and Aggregating Preferences
    3. Legitimacy and its Political Importance
    4. Utilitarianism and Legitimacy
    5. Should Utilitarians Be Democrats?
    6. Conclusion
  9. Virtuous Agents
    1. Reasons and Rightness
    2. Cluelessness
    3. Good Decision Procedures
    4. Praiseworthiness
    5. Virtue
    6. Conclusion
  10. Conclusion

 

忙しい人のために 

本書の理論的に重要なところは第五章にまとまっている。Woodardは善から理由を、理由から正を説明するという説明関係を前提に、二つの規範理由が存在することを論じる。一つ目は行為に基づく理由であり、これは従来の行為功利主義が認めてきた理由である。二つ目は、これがWoodardの理論の特徴なのだが、パターンに基づく理由である。ここで「パターン」とは、任意のトークン行為の組み合わせから構成されるものである。行為者には、行為に基づく理由だけでなく、適格なパターンに参加することというパターンに基づく理由もある。

従来の行為功利主義への批判として、例えば「帰結を少し改善するためだけに約束を破るべきではない」ことを説明できないというものがある。もちろん行為功利主義側からも応答されてきたが、Woodardはパターンに基づく理由からこれを説明する。この例において、たしかに、帰結がさらに改善されるという意味で約束を破ることへのより強い理由があるが、それは行為に基づく理由である。一方、ここにはパターンに基づく理由もある。行為者は、<すべての人について、その人は約束を守る>というパターン(P)に参加することによって、パターンに基づく理由に基づいて行為することができる。P自体の善さは、その構成要素の各行為から生じる帰結の善さによって評価できる。功利主義においては、Pが生み出す福利によってPの善さが決まる。よって、このPに参加するパターンに基づく理由があるので、約束を守る理由があることを説明できる。

だが、パターンに何の制約もないならば、仮定より、あなたが約束を破れば帰結が改善されるので、ここでの最善のパターンは<あなた以外のすべての人についてその人は約束を守り、あなたは約束を破る>(P*)ということになってしまう*2。Woodardはこれを避けるために、パターンが適格(eligible)であるための制約を三つ設ける。ここで関係する制約は、そのパターンが「慣行(practice)」を構成している場合にのみパターンは適格である、という制約である。これによって、P*は慣行を構成しないので適格ではなく、このパターンに参加するパターンに基づく理由は存在しない。一方、<すべての人について、その人は約束を守る>というパターンPは、約束という慣行を構成するので、適格である。したがって、Pに参加するパターンに基づく理由があるといえる。

Woodardはパターンに基づく理由を用いて、道徳的権利、賞賛に値するという性質、徳などを説明する。パターンの適格性に関して大きな問題があると思うが(本記事の後ろの方で議論する)、少なくとも、今後の発展を期待できる功利主義ではあると思う。

また本書には、パターンに基づく理由にあまり言及しない議論がいくつもある。例えば、功利主義から実質的平等に関する直観をどのように説明するか、政治的正統性をどう説明するかなど、従来の功利主義的議論に新たな議論を追加しており、この辺りの議論はどういう功利主義構想でも利用できるだろう。またWoodardは反照的均衡を求める方法論を採用しているので、直観から大きく外れないように気をつけて議論しているのも、ほとんどの人にとって興味深い点だろう。

*1:一応、Mulganによる功利主義解説本もある。研究書としてはWoodardの本書が最も新しいと思われる。

www.cambridge.org

*2:功利主義を少し知っている人なら、この問題が規則功利主義の行為功利主義への崩壊問題と同型であるのがわかるだろう。Woodardも、自身の理論と規則功利主義の相違を気にしている(5.4節)。簡潔に言えば、規則功利主義はパターンを理想化するが、Woodardの功利主義はパターンを理想化しないため、規則功利主義とは異なる立場である。

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証言の認識論的問題(SEP 4-7節, Leonard 2021)

  • 4. Individualism and Anti-Individualism
  • 5. Authoritative Testimony
  • 6. Group Testimony
  • 7. The Nature of Testimony Itself

 

Leonard, Nick, "Epistemological Problems of Testimony", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2021 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/sum2021/entries/testimony-episprob/>.

 

前半はこちら

mtboru.hatenablog.com

 

今回の記事で扱うのは以下の4つの問題。

  1. 個人主義・反個人主義:証言の正当性は個人主義的に(聞き手に関する要因のみによって)理解されるべきか、それとも反個人主義的に(話し手にも関する要因も含めて)理解されるべきか
  2. 証言の権威性:専門家の証言と素人の証言の違いをどのように理解すべきか
  3. 集団の証言:集団は証言するのか。もしそうなら、私たちは集団の発言からどのように学ぶことができるのか
  4. 証言の本性:証言とはそもそも何か
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